第96話:獣の国の熱風と、腹ペコのレジスタンス 〜燃える薪は風を拒み、乾いた土は雨を待つ〜
季節は晩秋から初冬へと移ろい、世界は冷たい灰色に染まりつつあった。
だが、瞬たち一行が足を踏み入れたその土地は、季節の理を無視した、まとわりつくような熱気に包まれていた。
「……暑い。なんだこの不快な風は」
騎士ゼイクが、額に滲む汗を白銀の甲冑の籠手で拭いながら、呻くように言った。
彼らがやってきたのは、エルフの森の南方に位置する「獣人の国」。
そこは活火山帯に近い巨大な盆地であり、地熱と独特の気候のせいで、冬であっても生温かい湿った風が吹き荒れる過酷な土地だった。
空は、煤けたような灰色に覆われている。太陽の光は分厚い雲と火山灰に遮られ、ぼんやりとした病的なオレンジ色の光斑となって地上を照らしていた。
大地は赤茶色に乾ききり、ひび割れた地面からは、腐った卵のような硫黄の臭いが混じった白煙が、あちこちから立ち上っている。
つい先日までいたエルフの森の、あの清浄で凛とした空気とは対極にある、煮詰まったような澱み。
「……最悪だわ。喉が渇くし、お肌も乾燥するし」
深紅の旅装束に身を包んだアリスが、不機嫌そうに扇子で顔をあおぐ。
彼女の自慢の金髪は砂埃で少し色がくすみ、完璧だったメイクも熱気と汗で崩れかけているようだった。
一行は現在、徒歩で移動していた。
あまりにも目立ちすぎる巨大魔導キャンピングカー「クイーン・アリス号」は、国境近くの岩陰に認識阻害の結界を張って隠してある。ここからは、目立たぬよう隠密行動が必要だからだ。
案内役のエルフの青年、ルカが申し訳なさそうに頭を下げた。
彼はエルフ特有の緑色の服ではなく、現地の風土に合わせた茶色のマントを羽織っている。
「すみません。獣人の国は今、非常に警戒が厳しくて……。あのような目立つ乗り物では、すぐに見つかってしまいます」
「気にするなよ、ルカ。たまには運動も悪くねぇ」
瞬は、乾いた赤土を踏みしめながら、ニカっと笑った。
彼は相変わらずの軽装で、この異様な熱気の中でも涼しい顔をしている。環境適応能力が高すぎるのか、単に暑さ寒さに鈍感なのか。
その隣で、アリアがフードを目深に被り、周囲を警戒していた。
エルフである彼女にとって、獣人の国は敵地だ。かつて故郷の森を焼き、仲間を奪った憎き相手の領土。
だが、彼女の翠玉の瞳に宿っているのは、憎悪だけではなかった。
「……変ね」
アリアがポツリと呟く。
「私の記憶にある獣人の国は、もっと……活気があったはずよ。荒々しいけれど、生命力に溢れていて、太鼓の音や笑い声が絶えない場所だった」
しかし今、彼らの目の前に広がる光景は、巨大な墓場のように静まり返っていた。
街道沿いの木々は枯れ、葉を落とした枝が骨のように空を刺している。
風がヒュオオと吹き抜けるたびに、舞い上がった砂塵が視界を遮る。
そこにあるのは、燃え盛るような生命力ではなく、緩やかな衰退と腐敗の気配だった。
「行ってみようぜ。……王様が変われば国も変わるって言うけど、こりゃあ相当『悪いほう』に変わっちまったみたいだな」
瞬の言葉に、全員が重く頷いた。
彼らは砂嵐の中、獣人国の首都を目指して歩を進めた。
***
数時間後。王都の城門をくぐると、そこは色彩を失った世界だった。
建物は石と赤土で作られているが、どれも手入れがされておらず、壁は崩れかけている。
通りを行き交う獣人たち――犬や猫、熊などの特徴を持つ人々――は、皆一様に痩せ細り、うつむいて歩いていた。
かつてアリアが語ったような、誇り高く強靭な獣人の姿はどこにもない。
彼らの瞳は、魚市場の売れ残りのように白く濁っている。
希望も、怒りさえもなく、ただ「今日という苦痛をやり過ごす」ためだけに足を動かしているような、虚無の目。
「……ひどい」
メイが口元を押さえる。
道端には、物乞いをする老人や、虚ろな目で空を見上げる若者たちが座り込んでいた。
彼らの首や手首には、見えない鎖が巻き付いているようだった。重税、強制労働、そして恐怖政治という名の鎖が。
「おい、見ろよあいつら。人間か?」
「エルフもいるぞ……。奴隷商人か?」
「関わるな。目を合わせたら殺されるぞ」
獣人たちが、瞬たちを見てひそひそと囁き合う。
その視線には、異種族への敵意よりも、何かに怯えるような色が濃かった。
「お腹……すいたぁ……」
路地裏の暗がりから、か細い声が聞こえた。
見ると、犬の耳を持つ小さな男の子が、泥だらけの地面に座り込んでいた。あばら骨が浮き出るほど痩せている。
その手には、泥のついた石ころが握られていた。食べ物に見立てて、空腹を紛らわせようとしていたのだろうか。
瞬の足が止まった。
彼は無言で懐を探り、保存食の干し肉を取り出した。
「瞬、待て。ここで目立つ行動は……」
ゼイクが制止しようとするが、瞬は聞かなかった。
彼は少年の前にしゃがみ込み、干し肉を差し出した。
「ほら、食えよ。硬いけど、噛めば味が出るぞ」
少年はビクリと震え、信じられないものを見る目で干し肉を見つめた。
そして、震える手でそれを受け取ろうとした――その時だった。
「貴様ら! そこで何をしている!」
鋭い怒号と共に、槍を持った兵士たちが現れた。
鎧には、現国王の紋章である「血塗られた牙」が刻まれている。
彼らは瞬たちを取り囲み、殺気立った槍先を向けた。
「人間とエルフだと? 怪しい連中め。スパイか? それとも密輸業者か?」
兵士の一人、ハイエナのような顔をした男が、下卑た笑みを浮かべて近づいてくる。
「その干し肉……配給を横流しした物じゃないだろうな? 没収だ」
男が少年の手から干し肉をひったくろうとした。
少年が「あ……」と声を上げ、絶望的な顔をする。
バシッ。
乾いた音がした。
瞬が、兵士の手首を掴んでいた。
「……子供の飯を奪うのが、お前らの仕事か?」
瞬の声は低く、地を這うような重圧を帯びていた。
彼の黒い瞳が、静かに、しかし強烈な怒りで燃えている。
「なっ……! 貴様、離せ!」
兵士が顔を赤くして振りほどこうとするが、瞬の手は万力のように動かない。
「公務執行妨害だぞ! 捕らえろ! 牢獄にぶち込んでやる!」
周囲の兵士たちも一斉に武器を構える。
ゼイクが剣に手をかけ、エリーゼが杖を握る。アリアもマントの下で短剣に触れた。
一触即発。
騒ぎを聞きつけて、街の人々が遠巻きに集まってくる。彼らの目には「またか」という諦めと、「馬鹿な奴らだ、逆らえば殺されるのに」という憐れみが浮かんでいた。
「あらあら、困りましたわねぇ」
その張り詰めた空気を、パンパンと手を叩く軽快な音が破った。
アリスだった。
彼女は、瞬と兵士の間に割って入ると、優雅に扇子を開いて顔を隠し、にっこりと――商売人特有の、胡散臭いほど愛想の良い笑みを浮かべた。
「兵隊さん、誤解ですわ。私たちは怪しい者ではありませんのよ」
「ああん? 何だこの女は」
「わたくしは、遠方より参りました行商人でございます」
アリスは流暢に嘘を並べ始めた。その口調は、王都で貴族たちを相手にしていた時とは違う、したたかで腰の低い商人のそれだった。
「この男は、わたくしの護衛兼荷物持ち。少々、頭のネジが緩んでおりまして……。お腹を空かせたワンちゃんを見ると、つい餌をあげたくなってしまうのですわ。躾が行き届いておらず、申し訳ありません」
アリスは瞬の頭をバシッと叩き(結構痛い)、無理やり頭を下げさせた。
「い、痛っ! なにすんだよ!」
「黙ってなさい、この駄犬!」
アリスは懐から、ジャラリと重そうな音を立てる革袋を取り出した。
そして、ハイエナ男の手に、こっそりと、しかし周囲の兵士にも分かるように握らせた。
「これは、ほんの気持ちですわ。……通行税と、あと、この粗相の詫び代として」
兵士の手の中で、金貨の感触が伝わる。
ハイエナ男の表情が、怒りから下卑た喜悦へと変わった。
この国では、正義よりも金が物を言う。腐敗しきった組織の典型だ。
「へっ、へへ……。まあ、そういうことなら仕方あるまい」
兵士は袋を懐にしまい込み、わざとらしく咳払いをした。
「今回は見逃してやる。だが、次はないぞ! 行け!」
兵士たちは、少年から奪おうとした干し肉のことなど忘れ、金袋の中身を確認しながら去っていった。
残されたのは、呆然とする少年と、深いため息をつく一行。
「……助かったわ、アリス」
アリアが小声で言う。
「別に。必要経費よ」
アリスは扇子で顔を仰ぎながら、冷めた目で兵士たちの背中を睨んだ。
「あいつら、後で倍にして取り立ててやるから覚悟しなさいよ……。私の金を巻き上げるなんて、百年早いわ」
瞬は、少年に改めて干し肉を渡した。
「ほら、食え。隠れて食うんだぞ」
少年は、こくこくと頷き、干し肉を抱きしめて路地裏へと走っていった。
「……ひでぇ国だな」
瞬が呟く。
「ああ。……人々が死んでいる」
ゼイクが周囲を見渡して言った。
肉体的に死んでいるのではない。心が、希望が、死んでいるのだ。
自分の意思を持たず、ただ環境に流されるだけの生き方。
「……行きましょう」
アリアが先を促した。
「こんな場所に長居は無用よ。……レジスタンスを探さないと」
***
「不満があるところには、必ず反乱分子がいる。これは世の常よ」
アリスの言葉通り、彼らは情報の糸口を探した。
表通りでは誰も口を開かない。恐怖が彼らの口を縫い合わせているからだ。
だが、裏通り、酒場、賭博場……光の届かない場所には、必ず本音が沈殿している。
日が暮れ、街がどす黒い闇に沈む頃。
一行は、路地裏のさらに奥深くにある、看板もない怪しげな酒場にたどり着いていた。
腐った木の扉を開けると、紫煙と安酒の酸っぱい臭いが鼻をつく。
ガヤガヤとした喧騒。
しかし、瞬たちが入った瞬間、客たちの視線が一斉に突き刺さった。
鋭い、値踏みするような視線。
「……いらっしゃい。何にする?」
カウンターの中にいた隻眼の熊の獣人が、汚れた布でグラスを拭きながら低い声で尋ねた。
アリスが前に出て、カウンターに銀貨を一枚、カツンと置いた。
「強いお酒を。……それと、『肉球』について詳しい人がいるって聞いたんだけど?」
店内が、水を打ったように静まり返る。
バーテンダーの手が止まる。
彼はゆっくりと顔を上げ、アリスを睨んだ。
「……合言葉は?」
アリスは、後ろに控えていた瞬の背中をバシッと叩いた。
「ほら瞬、出番よ!」
「え、俺!? なんで!?」
「アンタのキャラに合ってるからよ! さあ、大きな声で!」
瞬は渋々、前に出た。
全員の注目が集まる中、彼は死んだ魚のような目をして、事前にアリスから教え込まれた言葉を口にした。
「……『肉球は正義』」
プッ。
誰かが吹き出す音がした。
次の瞬間、酒場中が爆笑の渦に包まれた。
「ぶわはははは!! なんだそりゃ!」
「人間が真顔で肉球とか言ってやがる!」
「最高だ! 合格だ!」
バーテンダーも、肩を震わせて笑った。
「……くくっ。いい度胸だ。気に入った」
彼はカウンターの下にある隠しスイッチを押した。
ゴゴゴ……と重い音を立てて、酒場の床の一部がスライドし、地下へと続く暗い階段が現れた。
「降りな。……『牙』を研いでる連中が待ってるぜ」
***
地下のアジトは、地上の荒廃とは打って変わって、むせ返るような熱気に満ちていた。
湿っぽいカビの臭いと、汗と鉄の臭い。そして何より、抑圧された怒りが発酵したような、濃厚な殺気。
たいまつに照らされた広間には、数十人の獣人たちが集まっていた。
武器を手入れする者、地図を囲んで議論する者、傷の手当てをする者。
彼らの目には、地上の住民たちのような濁りはなかった。
ギラギラと燃える、反逆の炎が宿っていた。
「……誰だ、テメェらは」
広間の中央。
一段高くなった木箱の上に座っていた男が、低い声で唸った。
虎の獣人だ。
身の丈は二メートルを優に超え、丸太のような腕には無数の傷跡が刻まれている。
黄金色の体毛、鋭い牙、そして王者のような威圧感。
レジスタンスのリーダー、ガウ。
瞬たちは、彼を見上げた。
「俺たちは……」
瞬が名乗ろうとした瞬間、ガウが吠えた。
「人間!? しかもエルフ連れだと!?」
ガウが立ち上がる。その巨体が落とす影が、瞬たちを覆い隠す。
「ふざけるな! ここは誇り高き獣人の砦だ!
薄汚い他種族が入ってきていい場所じゃねぇ!」
彼の怒りは、単なる排他主義ではなかった。
長年、他国から干渉され、利用され、裏切られてきた歴史が、彼を頑な(かたく)にさせていたのだ。
自分たちの国は自分たちで守る。他者の介入など許さない。
それは誇り高いがゆえの、孤独な決意だった。
「俺たちは、俺たちの力で国を取り戻す!
ひ弱な人間や、すかしたエルフの力など借りん!」
ガウは、「力こそすべて」「強い者が正しい」という色眼鏡(固定観念)をかけて世界を見ていた。
彼にとって、強さとは筋肉であり、爪であり、牙だ。
魔法や知恵、そして「連携」といったものは、弱者の言い訳に過ぎないと思い込んでいる。
瞬は、
「あーあ。……お前もかよ」
「あぁ?」
「どいつもこいつも、頭が固いな。……お前らが勝てないのは、筋肉が足りないからじゃなくて、頭が固いからじゃねぇの?」
挑発。
いや、瞬にとってはただの感想だった。
だが、それは火薬庫に松明を投げ込むようなものだった。
「……テメェ、今なんつった?」
ガウのこめかみに青筋が浮かぶ。
全身の毛が逆立ち、殺気が膨れ上がる。
周囲のレジスタンスたちも、一斉に武器を構えた。
ゼイクが剣に手をかけ、エリーゼが杖を構える。
一触即発。
瞬は、一歩前に出た。
彼は武器を抜かなかった。ポケットに手を突っ込んだまま、ニヤリと笑った。
「聞こえなかったか?
『石頭の筋肉ダルマ』って言ったんだよ」
「ぶっ殺す!!」
ガウが地面を蹴った。
砲弾のような突進。大気が悲鳴を上げるような拳が、瞬の顔面へと迫る。
「瞬!」
アリアが叫ぶ。
だが、瞬は避けなかった。
彼は、迫りくる巨大な拳を見据えながら、静かに言った。
「勝ったら、晩飯奢れよ」
衝突の瞬間。
物語は、言葉ではなく「拳」による対話へと移行する。
力に固執する獣と、力を知るが故に力を抜く英雄。
二つの異なる「強さ」が、地下の暗闇で火花を散らそうとしていた。




