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『クロノージュ年代記 零(ゼロ)』

作者: 星村 流星
掲載日:2026/03/23

第一章 忘れられた蹄音


**一、帝都の狂乱**


アウストラリス(南の)アルビオン(白き大地)

大陸の春は、帝都イスフェリアの競馬場から始まると言われていた。


グランド・ヴェリタス競馬場——連合王国の権威と富と欲望が、石灰岩と錬鉄(れんてつ)で固められた、この地上における最も華やかな祭壇。

三万の観衆を収める大観覧席は、その日も上等な毛織物と香水の霧に満たされていた。

紳士たちはシルクハットを傾け、燕尾服の(すそ)(ひるがえ)しながら馬券を握りしめ、淑女たちはレースフィールドに煌めく馬体を追って扇子を打ち鳴らす。


競馬場の向こう、帝都の摩天楼(まてんろう)が西日を受けて金色に燃え、その威容(いよう)はまるで、人類の勝利を謳い上げる記念碑のようであった。


「アルブレッドの時代が来た!」


どこからか声が上がった。

観衆がどっと沸き、帽子が宙を舞う。

発走の鐘が鳴り渡ったその瞬間、十二頭のアルブレッドが馬房(ばぼう)扉を蹴破るように飛び出した。


アルブレッド——究極の人工種。

連合王国が二百年の歳月と莫大な国費を投じ、最速という一点のみを追求して作り上げた競走馬の頂点。

その馬体は芸術品と呼ぶほかなかった。

際立って長い四肢、薄絹のような皮膚の下に透けて見える青い血管の網目、燃えるように輝く鹿毛(かげ)の毛並み。

首はしなやかに弧を描き、耳は音を拾う繊細な貝殻のように小刻みに震えている。


(ひづめ)の音が、轟音へと変じた。


芝を削り、大地を叩き、空気を切り裂きながら、十二の生き物が直線路を疾駆する。

一頭が抜け出た。

黒鹿毛の牡馬(ぼば)——連合王国第一の牧場が送り込んだ今季の王者候補——その脚がほとんど地面に触れぬかのような錯覚をもたらすほどの目にも留まらぬ高回転で芝を掻き込み、後続を瞬く間に三馬身、五馬身と突き放していく。


観衆の歓声が臨界点を超えた。

名も知らぬ紳士が隣人の肩を揺さぶり、老齢の伯爵夫人が涙をぬぐい、若い商人が馬券を天に向けて突き上げる。


速い。ただ、速い。

その速さは美しく、残酷で、そして——(もろ)かった。



◇ ◇ ◇



レースが終わったのち、人々が散り始めた頃合いに、帝都の競馬場の裏通りへと足を踏み入れる者は少ない。

そこは表の絢爛とは切り結ばれた、別の世界であった。


石畳の隙間から雑草が顔を出す厩舎(きゅうしゃ)裏の小路に、男たちが三人、ひそひそと声を潜めて歩いていた。

彼らが引くのは一頭のアルブレッド。

先ほどまで美しく飾られていたはずの鹿毛の牡馬であったが、今は様子が違っていた。

右前脚をかばうように歩き、息が異様に荒い。

その眼には、先ほどの圧勝の興奮はなく、白目が多く浮かび出ており、何かに怯えているような、あるいは何かをひたすら耐えているような、そのような光があった。


「静かにしろ。聞こえる」


男のひとりが低く(つぶや)き、馬の口元に布を当てた。


翌朝、その馬が姿を消したことを知る者は少なかった。

帝都の競馬新聞には「腱の炎症により引退」の一行が記されるのみで、三万の観衆の誰ひとりとして、あの美しい鹿毛の馬がどこへ消えたかを問う者はいなかった。


それがアルブレッドの宿命であった。


燃え尽きるまで走り、折れたなら捨てられる。

鍛え上げた筋肉も、磨き抜いた蹄も、最後には荒れた野原か地の底に帰してゆく。

競馬場の芝に残った蹄の跡が、次の雨で消えるように、彼らの記憶もまたすみやかに消えてゆく。


人々は次の星を求め、また歓声を上げる。

帝都の春は、その繰り返しの上に咲いていた。


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**二、東部山岳のたもと**


イスフェリア帝都から東へ、鉄道で二日、馬車でさらに三日。

大陸の背骨とも呼ばれる巨大な山脈の裾野(すその)に、クロノージュ領は広がっていた。


連合王国において、クロノージュの名を知らぬ者はいない。

しかしそれは帝都の社交界における華やかな意味においてではなく、もっと古い、あるいは重い意味においてであった。


東部の山岳を治めるクロノージュ公爵家は、連合王国建国以前から、この大地に根を張り続けた名門の中の名門。

その家紋は六枚の花弁を持つ紫百合——連合王国の赤百合でも、帝都商人の金百合でもなく、山の雪解け水の際に静かに咲く、高貴にして孤高な紫。


帝都の流行とは無縁に、クロノージュの当主は代々、着物をまとう。


それは単なる習慣ではなかった。

大陸の新世界に連合王国が版図(はんと)を広げる遥か以前から、山岳民族の衣文化を守り伝えてきた、公爵家の矜持(きょうじ)の表明であった。


そして、クロノージュ家が何よりも重んじる絶対の家訓にして最重要の理念——それが王家と国に対する「御恩」であった。

建国の祖たる王家への忠義と、この大地への果てなき感謝。

その「御恩」に報いるため、公爵家はかつて共にこの国を切り拓いた軍馬である『東嶺馬系』を、時代遅れと嘲笑されようとも代々手厚く保護し、自らの領地で厳格に維持し続けてきたのである。


絹の帯を締め、袖を重ねた姿で山の風を受けて立つ者——それがクロノージュの当主というものであった。

現在の当主、すなわち「創世の令嬢」と後世に呼ばれることとなる女性も、その例に漏れなかった。


その日の朝、令嬢は夜明けとともに厩舎へ向かっていた。


領地の草原に朝(もや)がたなびき、遠くの山頂はまだ藍色の闇の中に沈んでいる。

彼女は紫紺の着物に白い(えり)を合わせ、草履で湿った草を踏みながら、一人で厩舎へ続く小道を歩む。

侍女が傘を差しかけようとするのを、手で制した。


「要らぬ」


短く、しかし温かみのある声であった。


令嬢は年のころ、二十代の半ばを迎えたばかりであったろう。

切れ長の眼、高い鼻筋、口元には知性と意志の強さが同居している。

美しいというよりも、(りん)としていた。

山の峰に咲く岩桜のように、華やかさよりも、風雨に揺れながらも折れぬ強さが際立つ美しさ。


厩舎の扉を押し開けると、藁と土と馬の体臭が混ざった、この上なく正直な空気が彼女を包んだ。

令嬢はそれを深く吸い込み、かすかに目を細めた。


厩舎の中に、彼らはいた。


山岳重戦馬——かつては「東嶺馬系(とうれいばけい)」と呼ばれ、連合王国建国の時代には軍馬として山岳戦に欠かせなかった馬たちの末裔。

しかし今や、その名を口にする者は少ない。

帝都の競馬新聞に「東嶺馬系」が登場するとすれば、それは嘲笑(ちょうしょう)の文脈においてのみであった。

「足が遅い」「毛並みが悪い」「気品に欠ける」。

批評家たちはそのような言葉でこの馬たちを切り捨て、良識ある牧場主たちは絶滅寸前のこの種を見向きもしなかった。


だが、令嬢の目には、別のものが見えていた。


一頭の栗毛の牡馬が、令嬢が入ってくるのを感じて頭を上げた。

アルブレッドのような繊細な首ではない。

太く、筋肉の塊のような(くび)が、ゆっくりと動く。

馬体は分厚く、肩から背中にかけての線が鉄橋のように力強く張っており、胴が深く、腹がどっしりと落ち着いている。

四肢は太く短め、しかしその末端——蹄——が、他の馬とは明らかに違った。


鋼鉄色の蹄。


アルブレッドの蹄が薄く繊細であるのに対し、山岳重戦馬の蹄は厚く、硬く、岩を割る斧のような頑強(がんきょう)さを持っていた。

雪山の岩肌を踏み、凍結した川床を渡り、崩れかけた山道を行くために、何百年もの歳月が磨き上げた、自然の(よろい)


晴斗(はると)


令嬢は静かに名を呼んだ。

栗毛の牡馬は鼻を鳴らし、大きな鼻面(はなづら)を彼女の肩へと寄せてきた。

令嬢はその太い首筋を、着物の袖をまくることもせず、ゆっくりと撫でた。


「よく生きていてくれた」


それは馬への言葉であると同時に、自分自身へ言い聞かせる言葉でもあったかもしれない。


クロノージュ公爵家が山岳重戦馬(東嶺馬系)の保護と維持を続けているのは、一代の思いつきではない。

連合王国の軍が近代化を旗印にアルブレッドへの完全移行を宣言し、東嶺馬系の軍馬登録を廃止した時も、他の牧場が採算が取れぬとして次々に処分を行った時も、クロノージュ家だけは決してこの血を手放さなかった。


かつて王家と共にこの大地を平定した軍馬の血を絶やすことは、建国の歴史と王家からの「御恩」に背く最大の忘恩である——それが公爵家代々の揺るぎない信念であった。


現在、令嬢の厩舎には百頭以上の山岳重戦馬が暮らしていた。

連合王国に残存する個体のほぼすべてと言って過言ではない。

そしてその維持費は、クロノージュ公爵家の年間収入の三分の一近くを飲み込んでいた。


しかし、令嬢を含め一族の誰一人として、それを無駄と考える者はいなかった。


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**三、蹄が語るもの**


令嬢は厩舎を一頭一頭、丁寧に巡った。


朝の世話をする馬丁たちが頭を下げるのへ軽く頷き返しながら、令嬢は各馬の状態を確認していく。

蹄の状態、被毛の艶、眼の清澄さ、息の深さ——帝都の競馬新聞が「鑑賞価値なし」と切り捨てるこれらの馬たちの一頭一頭に、令嬢は名前をつけ、その性格を把握し、体調の微妙な変化を記録していた。


厩舎の端、少し離れた区画に、一頭の黒鹿毛の牝馬(ひんば)がいた。


星灯(ほしあかり)」と令嬢が名付けた雌馬は、山岳重戦馬の中では最も若く、また最も気性が激しかった。

厩務員(きゅうむいん)が近づくと耳を伏せ、飼い桶を蹴ることも珍しくない。

しかし令嬢が来ると、その牝馬は別の顔を見せた。

耳をゆっくりと前へ向け、大きな目で令嬢を見つめ、やがて長い首を伸ばして彼女の着物の袖口をそっと嗅いだ。


「今日も機嫌が悪いか」

令嬢は苦笑しながら、牝馬の額を撫でた。

「無理もない。お前たちは本来、この檻のような場所にいる馬ではない」


言葉は静かだったが、その奥に何かがあった。

怒りとも悲しみとも取れる、(おり)のような感情。


令嬢は星灯の蹄元にしゃがみ込み、蹄の状態を確かめた。

分厚い角質、深い縦溝、岩に噛みつくような形状——帝都の職人が削り、磨き、薄く仕立て上げるアルブレッドの蹄とは、あらゆる点において対極にある。

しかしこの蹄の前では、帝都の細工師の技など意味をなさない。

この蹄は人が作ったものではなく、山が作ったものだ。

百年、二百年の歳月が、この蹄に刻み込んだ。


令嬢は立ち上がり、窓から山を見た。


朝靄が晴れ、東の山脈が白い冠をかぶって姿を現しつつあった。

雪をまとったその稜線は、荒々しくも厳かで、まるで何千年も前から変わらぬ問いを、この大地へ投げかけ続けているかのようだった。


近侍の老人、志郎(しろう)が彼女のそばへ静かに近づいた。

「姫様。帝都からの新聞が届いております」


令嬢は振り返ることなく、手を差し出した。

志郎が折り畳まれた大判の新聞紙を手渡す。

「連合王国競馬日報」——帝都最大の競馬専門紙であった。

一面を飾るのは、昨日のグランド・ヴェリタス競馬場のレース結果。

見出しには大きな活字が踊っていた。


『アルブレッドの夜明け、再び——黄金の血統、新記録を更新』


令嬢はその見出しを一瞥し、ゆっくりと紙面を繰った。

三面に小さな囲み記事があった。

「今季引退馬の報告」。

今季だけで、アルブレッドの引退が百件以上報告されている。

理由の大半は「脚部腱の損傷」か「骨折による安楽死」。


百件余り。

令嬢の厩舎にいる山岳重戦馬の頭数とほぼ同じ数だ、と彼女はふと気づいた。


「……志郎」

「はい」

「帝都の競馬場で今季、レースに出走したアルブレッドは何頭か」

「確認しておりませんが……恐らく二百頭は超えましょう」

「その百頭以上が、今季だけで消えた」


令嬢は新聞を折り畳み、志郎に返した。

その動作は静かで、しかし指先が一瞬だけ、白く緊張したように見えた。


「帝都の人々は、気づいていない。あるいは、気づかぬふりをしている」


志郎は何も言わなかった。

長年この令嬢に仕えてきた老人には、彼女が独り言のように語る時、返答を求めていないことがわかっていた。


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**四、危機の予感**


令嬢がクロノージュの馬産に本格的な危機感を覚えたのは、今から五年ほど前のことであった。


当時、彼女はある学術論文を読んだ。

連合王国王立馬政局が発表した「アルブレッドの競技能力と健康指標の長期的推移に関する考察」——難解な表題の下に、驚くべき数字が隠れていた。


アルブレッドの平均競走寿命が、過去五十年で三分の一に短縮されていた。


かつてアルブレッドは、七歳、八歳まで現役を続ける馬も珍しくなかった。

しかし今や、四歳を過ぎると脚部のトラブルが急増し、五歳以降に主要競走を勝てる馬はほぼ皆無となっている。

繁殖に回った牝馬の受胎率も低下傾向にあり、生まれてくる仔馬の骨格がより繊細に、より軽くなっている——すなわち、より速く、より壊れやすくなっているということだ。


論文はそれを「競馬の発展に伴う自然な変化」と締め括っていた。


令嬢は論文を読み終えたあと、長い時間、窓の外を見ていた。

「発展」。その言葉が、彼女の胸の中で小石のように引っかかっていた。

これは発展なのか。

毎年より速くなり、毎年より早く壊れ、毎年より多くが消えていく——それは進化なのか、それとも壮大な衰退の序章なのか。


彼女は立ち上がり、馬産の記録帳を取り出した。

クロノージュ家が代々書き継いできた、馬の系譜と体格と健康の記録。

最も古いものは建国から百年以上遡る。


令嬢はその記録を、夜明けから日没まで読み続けた。

そして確信した。


アルブレッドは、速さという一点において完成に近づきながら、生命体としての本来の強健さを失いつつある。

この傾向が続けば、あと百年を待たずして、連合王国の競馬は根底から揺らぐことになる。

速い馬は生まれ続けるだろう。しかしそれらは、ますます(はかな)く、ますます脆く、ますます短命になっていく。


必要なのは、強健な土台だ。


令嬢はその夜、蝋燭の灯の下で、長い覚書を書いた。

「速さと強健さの統合について——クロノージュ改良計画、序論」と表題をつけたその覚書は、のちに馬産史上もっとも重要な文書のひとつと評価されることになるが、書かれた当時、それを読んだ者は令嬢ただひとりであった。



◇ ◇ ◇



山の朝は早い。

厩舎の巡回を終えた令嬢は、厩舎の前の草原に立ち、一頭の若い牡馬が放牧地を歩くのを眺めた。


山岳重戦馬の二歳馬——まだ幼く、馬体もアンバランスで、耳だけが大きく立っている。

それが緩やかな傾斜の草原を横切る時、令嬢は立ち止まった。

見ていた。ただ、見ていた。

その二歳馬の歩き方が、普通の馬と違っていた。


多くの馬が「斜対歩(しゃたいほ)」——右前と左後、左前と右後を交互に動かす歩き方をするのに対し、この若い牡馬は「側対歩(そくたいほ)」と呼ばれる歩法を自然に使っていた。

右前と右後を同時に、左前と左後を同時に動かす——その歩き方は独特の、波打つような横揺れを生み、上下動を極限まで抑える。

馬にとっては体力を温存できる効率的な動き。

そして騎乗者にとっては、驚くほど揺れの少ない、安定した乗り心地をもたらす。


令嬢は着物の袖の中で、拳を小さく握った。

「側対歩……」


呟きが、朝の空気に溶けた。

この歩法を持つ馬が、険しい雪山を行く。

岩を踏み、氷を砕き、腰の定まったその足取りで、深い雪の中を着実に前へ進む。

アルブレッドの細い脚では耐えられない大地を。


しかし——それだけではいけない。


令嬢は草原の向こうを見た。

山脈の稜線が、まだ雲の陰にある。

この大陸の覇権は、最終的に競馬場で決まる。

どれほど強健な土台を持つ馬を作ったとしても、それが競馬場の直線を制することができなければ、帝都の貴族たちは振り向かない。

王家は動かない。世界は変わらない。


必要なのは、両方だ。

強健な骨格と、圧倒的なスタミナと——そして、誰の目にも明らかな、輝かしい勝利。


令嬢は遠い山を見つめながら、ゆっくりと息を吐いた。

その吐息は白く、朝の空気の中で淡く広がり、消えた。


やがて日が高くなり、厩舎の若い馬丁たちが次々と仕事を始める音が聞こえてきた。

令嬢は(きびす)を返し、屋敷へと戻ろうとして——ふと立ち止まった。


遠くから、馬の嘶きが聞こえた。

厩舎の中の山岳重戦馬たちが、それぞれに応えるように低く声を上げた。

まるで古い言葉で呼びかけ合うように。

人間には解せぬ、山と馬だけが知る言葉で。


令嬢はその声を、しばらく聞いていた。


帝都の競馬場では今日も、細く美しいアルブレッドたちが限界の速度で芝を蹴り、三万の観衆が熱狂し、そして夜には使い捨てられた馬たちが静かに消えていく。

その喧騒はここまでは届かない。

山岳のたもとのクロノージュ領には、ただ風と、鳥の声と、馬の息遣いだけがあった。


それは今はまだ、忘れられた蹄音であった。

しかしその蹄が、やがてこの大陸の歴史を塗り替えることを——令嬢は、確信していた。



第二章 猛吹雪の御恩


一、王家の来訪


冬の東部山岳地帯は、別の大陸のようであった。


帝都イスフェリアの冬が、あくまで洗練された哀愁を帯びるものだとすれば——石畳に積もる薄雪、ガス灯の黄色い滲み、毛皮のコートをまとった紳士淑女の吐息——クロノージュ領の冬は、まったく別の語法で語られる必要があった。


それは「哀愁」などという繊細な感傷を許さない、剥き出しの暴力であった。

山脈から吹き下ろす北風は、建物の壁を削り、木々の枝を折り、人間の肌を容赦なく切りつける。空は鉛色の雲に覆われ、日中でも光は薄く、夜が来る前に夜の気配が忍び寄ってくる。


それでも令嬢は、毎朝夜明けとともに厩舎(きゅうしゃ)へ向かった。


着込んだ防寒の着物に綿入れの羽織を重ね、足元には革底の草鞋を履き、息を白く吐きながら踏み固められた雪道を行く。侍女の慌てた足音が背後に続く。志郎(しろう)の老いた声が「お待ちください」と遠くから聞こえる。令嬢は振り返らない。


東嶺馬系(とうれいばけい)の馬たちは、寒さに強い。しかし寒さに強い馬ほど、飼い主の怠慢(たいまん)を敏感に察する、と令嬢は信じていた。



◇ ◇ ◇



その日——初冬のある朝——屋敷に早飛脚が届いたのは、令嬢が厩舎の巡回を終えて戻ったばかりの頃であった。


「姫様」


志郎が普段より半音高い声で呼んだ。それだけで令嬢には、事が尋常でないとわかった。


「何事か」

「王家の御一行が、一ヶ月後、東部山岳の視察においでになります。御御所の山荘を拠点に、三日間の予定にて」


令嬢は羽織の紐を解く手を止めた。


「一ヶ月後といえば、真冬ではないか」

「はい。王太子殿下御自ら率いる御一行とのことです。軍の精鋭と、最新鋭のアルブレッド十二頭を率いて山道を視察されるご予定とのこと。東部山岳の軍事的活用について調査されたいとのことで……」


令嬢は窓の外を見た。遠くの山の頂上が、白い雲に飲まれ始めていた。

山を知る者には、あの雲の形がわかる。あれは吹雪の前兆だ。しかも、並の吹雪ではない。


「志郎」

「はい」

「王家へ、延期を進言することはできるか」


志郎は一瞬の間を置いた。


「……難しゅうございます。すでに王太子殿下の御意(ぎょい)が固まっておられるとのことで。それに、帝都の方々には、この季節の山の危うさは……」

「わかるまい、か」


令嬢は小さく息をついた。

帝都の人間には、わからない。冬の山は、冬の平野とはまったく別の生き物なのだということが。春から秋にかけて穏やかに見えるあの峰々が、冬には豹変(ひょうへん)し、人と馬の命など木の葉ほどにも重んじぬ暴君に変じることが。


「わかった。万全の受け入れ準備を整えよ。そして——」


令嬢は振り返り、厩舎のある方角を見た。


晴斗(はると)たちを、いつでも動かせるようにしておけ」



二、アルブレッドの敗北


王太子殿下の御一行が到着したのは、予定通り、一ヶ月後の厳冬期であった。


十二頭のアルブレッドは、それぞれが帝都でも名の知られた良血の馬たちであった。軍の精鋭騎馬隊が選んだ最新鋭の戦力——毛並みは艶やかに手入れされ、馬具は金具まで磨き上げられ、その姿は確かに壮麗であった。


引率の将軍が誇らしげに令嬢へ告げた。


「このアルブレッドたちは、昨季のイスフェリア大競走の出走馬の直仔(ちょくし)も含まれております。スピードにおいては、この大陸で指折りの血統を揃えました」


令嬢は馬たちを一頭一頭見た。

美しかった。疑いなく、美しかった。しかしその美しさの中に、令嬢は別のものを読み取っていた。


細すぎる蹄。神経質に動く耳。すでに見慣れぬ風景と寒さに怯え、鼻孔を広げて息を荒らげている。


——これは山には向かぬ。


令嬢は思ったが、口には出さなかった。将軍はすでに自信に満ちており、王太子殿下は視察への意欲に燃えておられる。今ここで反論することは、礼を失するのみならず、政治的な軋轢(あつれき)を生む。

令嬢は静かに頭を下げ、歓迎の言葉を述べた。



◇ ◇ ◇



翌朝、一行は山へ向かった。


最初の二(とき)(約四時間)は、問題がなかった。山の低い部分は、まだ整備された道が続いており、アルブレッドたちもその能力を発揮して軽やかに歩を進めた。


将軍が令嬢の隣で満足げに言った。

「どうです、令嬢。これが連合王国の誇る最新鋭の軍馬というものです」


令嬢は空を見た。

雲が、速く動いていた。


嵐は、昼を過ぎた頃に来た。

最初は風が強まった。次に気温が急落した。そして空から、白いものが降り始めた——雪ではなく、氷の粒であった。それが数刻のうちに、視界を奪う猛吹雪へと変じた。



◇ ◇ ◇



令嬢はクロノージュ領の屋敷で、それを知った。山を下りてきた斥候(せっこう)の顔が青ざめていた。


「申し上げます! 御一行が、山の中腹で立ち往生されております! 雪崩が道を塞ぎ、引き返すことも、前進することも……!」

「怪我人は」

「まだ確認できておりませんが——馬が、複数頭が、脚を痛めたと……」


令嬢はすでに立ち上がっていた。


「晴斗を出せ。それと、里桜(さとざくら)岩鷹(いわたか)雪音(ゆきね)——四頭を今すぐ準備しろ。防寒具と食料と薬箱を積める鞍をつけろ。案内は私が行く」

「しかし姫様、この吹雪では……!」

「だからこそ、東嶺馬系でなければならない」


令嬢の声は静かであったが、それ以上の反論を許さない重さを持っていた。

志郎が深く頭を下げた。


「御意」



三、側対歩、氷雪を征く


令嬢は晴斗の背に(またが)った。


着物の上に分厚い毛皮の外套を重ねた姿であったが、それでもなお彼女の装いの根幹には着物があった。紫百合の家紋が染め抜かれた帯が、外套の隙間から覗いている。山の女は山の装いで——それがクロノージュ家の不文律であった。


晴斗が鼻を鳴らし、蹄を鳴らした。

その音からして、すでにアルブレッドのものとは違う。厚い蹄が地面を叩く音は、鉄槌のように重く、確実で、揺るぎなかった。


一行は山道へ入った。

最初の急坂で、令嬢は晴斗の動きが変わるのを感じた。


側対歩(そくたいほ)——右前と右後が同時に、左前と左後が同時に動く、あの独特の歩法。

平地では少々奇妙に見えるその動きが、急坂にかかった瞬間、まるで本来の意味を取り戻したかのように変貌した。


上下動が極限まで抑えられ、馬体が水平に、まるで巨大な船が波間を滑るように前進する。騎乗する令嬢の体がほとんど揺れない。それに反して、左右の重心移動だけが淡々と繰り返され、その一歩一歩が着実に、深い雪を踏み固め、凍りついた山道を噛んで、前へ、また前へと進んでゆく。


吹雪の中で、晴斗は怯えなかった。


アルブレッドが神経質な気性を持つのは、速さのために繊細に作られた感覚器官を持つがゆえでもある。すべての刺激に反応し、すべての変化に過敏な彼らは、見慣れぬ嵐の中で制御を失う。

しかし晴斗は、風が吹いても、雪が顔を叩いても、ただ耳をわずかに伏せ、鼻孔を広げ、前を向いた。


何百年もの歳月が、この馬の血の中に刻み込んだ記憶があった。山を知っている。嵐を知っている。これは乗り越えられる——その確信が、晴斗の動きにはあった。


「いいぞ、晴斗」


令嬢は首筋を撫でた。吹きつける風の中で、声はすぐに消えた。しかし晴斗は確かに、耳をわずかに後ろへ傾け、主の言葉を受け取った。



◇ ◇ ◇



凍りついた斜面に差し掛かったとき、事が起きた。


里桜の前脚が、表面だけ凍った雪の下の窪みに踏み込み、瞬間的にバランスを崩した。馬丁が「危ない!」と叫んだ。


しかし里桜は、倒れなかった。


東嶺馬系の蹄が、凍った地面を素早く捉えた。薄く繊細なアルブレッドの蹄では、この氷の表面に食いつくことができない。しかし鋼鉄色の厚い蹄は、それ自体がアイゼンのように、氷の中に爪を立てた。

蹄の縁が、凍った地面を削り、噛み、引っかかった。里桜は瞬く間に態勢を立て直し、何事もなかったように側対歩を再開した。


「——」


令嬢は無言のまま、しかしその光景を目に焼き付けていた。


これだ。これこそが、自分が数年かけて言葉で記録しようとしてきたものの、肉体の答えだ。鋼の蹄は、単なる「丈夫さ」ではない。それは悪条件の大地を掌握する能力そのものだ。



◇ ◇ ◇



道の半ばを過ぎた頃、令嬢の一行は最初の惨状に出会った。


雪道の脇に、一頭のアルブレッドが倒れていた。栗毛の牡馬——軍の騎馬隊が連れてきた最良の一頭であったはずの——その馬は、右前脚を異常な角度に曲げて横たわっていた。

近くに立つ若い騎兵が、顔を歪めて立ち尽くしている。令嬢は一瞥しただけで全てを理解した。


「腱を切ったか」

「は……はい。凍った道で、滑って……それ以前から、寒さで脚が強張っておりまして」


令嬢は目を閉じた。一瞬だけ。


「他の馬たちは」

「上の方で、残り九頭が……脚を痛めたものや、寒さで立てなくなったものが……王太子殿下は岩の陰で御待機中ですが、このままでは……」


令嬢はすでに晴斗を進めていた。



四、救出


王太子殿下の一行が立てこもっていたのは、山の中腹にある巨岩の群れの陰であった。


軍の将兵たちが殿下を囲んで風よけを作り、毛皮と布を積み重ねていたが、それでも全員の顔が冷えと恐怖で青ざめていた。アルブレッドたちは、残っているものも半数以上が蹄を痛め、震えながら立っており、中には横たわって起き上がれないものもあった。


令嬢が晴斗とともに岩陰へ踏み込んだ時、将軍が信じられないものを見る目で彼女を見た。


「令嬢……どうやって、この吹雪の中を……」

「後で聞かせましょう」


令嬢は馬から降り、王太子殿下の前に進んだ。着物の(すそ)を少し持ち上げ、雪の中に片膝をついて礼をする。


「殿下、御無事でございましたこと、安堵申し上げます。しかしながら、猶予がございません。今より荷を最小限に絞り、一頭につき一名を乗せ、私の案内でここを脱してください」


王太子殿下——二十代半ばの、精悍な顔立ちをした青年——は、令嬢をじっと見た。そして頷いた。


「頼む」



◇ ◇ ◇



帰路は、来た道の三倍の時間がかかった。


令嬢は常に先頭に立ち、晴斗の背から道を確認しながら、後続の東嶺馬系三頭と人員の間隔を調整した。一頭に一人ずつ、重要度の高い人物から順に乗せ、残りの将兵たちは馬の脇を歩かせた。歩けなくなった者が出れば、令嬢は馬の鞍から荷物を下ろし、代わりに人を乗せた。


晴斗は、一度も止まらなかった。

里桜も、岩鷹も、雪音も——止まらなかった。


側対歩で、淡々と。一歩また一歩。

蹄が雪を踏み固め、氷を砕き、道を作り続けた。その蹄の音が、吹きすさぶ嵐の音の中で、不思議なほど落ち着いた律動(りつどう)を刻んでいた。

タン、タン、タン——右、右、左、左。

その繰り返しが、まるで巨大な心臓の鼓動のように、一行の進む道を刻んでゆく。


夜の(とばり)が降り始めた頃、ようやく低い木々の影が見えた。山の下が近い。

将兵の誰かが、かすれた声で「見えた」と呟いた。それが連鎖して、小さな安堵のさざ波が人の列を伝わっていった。


令嬢は振り返らなかった。まだだ。まだ、油断はできない。


クロノージュ領の屋敷の灯が、遠くに滲んで見えた。



五、御前の言葉


屋敷に戻った一行を、志郎をはじめとする使用人たちが総出で迎えた。


凍えた将兵たちへ熱い湯と食事が振る舞われ、怪我人には令嬢が予め用意させていた薬師が当たった。傷ついたアルブレッドたちのために馬丁が走り、東嶺馬系の四頭のためには、普段より多めの飼い葉と温かい藁床が用意されていた。


令嬢が晴斗の手入れを終えて客間へ入ると、王太子殿下がそこにおられた。


すでに温かい食事をとり、幾分か血色の戻った顔で、しかし殿下はまだ何かを考えておられるような、重たい眼をしていた。

令嬢は部屋に入り、礼をした。


「殿下、ご体調はいかがですか」

「おかげで命拾いをした」


殿下の声は、思ったより低く、静かであった。


「あの馬たちは——東嶺馬系というものか」

「はい。かつて建国の折に王家と共にこの大地を平定し、我がクロノージュ家が『御恩』に報いるために代々保護してまいりました軍馬の末裔にございます。帝都では時代遅れと嘲笑されておりますが」

「なぜ、あれほどの力を持つ馬が、時代遅れなのだ」


令嬢はわずかに眼を細めた。殿下の問いは、単なる驚きではなかった。そこには、今日の出来事によって揺らいだ何かがあった。


「速さの時代に、速くないからでございます」

令嬢は静かに答えた。


「アルブレッドは確かに速い。帝都の競馬場で、三万の観衆を熱狂させる速さを持っている。しかしその速さは、山には通じませんでした。嵐には通じませんでした。凍った道には通じませんでした。速さとは、あくまで条件が整った世界でのみ意味を持つ能力です。しかし強健さは——どのような条件においても、失われることがない」


王太子殿下は令嬢を見た。長い沈黙があった。


「……私は今日、連合王国の最新鋭の軍馬が、この山に勝てなかったことを見た。しかし、そなたの馬は——あの重くて、足の遅い馬たちは——嵐を貫いてきた。私と将兵の命を、運んできた」

「建国より代々王家から賜りし『御恩』に、わずかばかりでも報いることができましたこと——クロノージュ家最大の誉れにございます」


殿下は立ち上がり、窓の外を見た。嵐はまだ続いており、風が窓枠を震わせている。しかしその向こうに、厩舎の灯りがあった。東嶺馬系の四頭が、今も温かい藁の上で息をしているはずの、その灯りが。


「令嬢」

「はい」

「そなたは何を目指している。東嶺馬系の保護だけが目的ではなかろう」


令嬢は一瞬の間を置いた。これは問いだろうか。あるいは試みだろうか。


「——私は」


令嬢は顔を上げた。


「速さと強健さを、共に持つ馬を作りたい。アルブレッドの瞬発力と、東嶺馬系の底力を。帝都の競馬場で勝てる脚と、雪山を貫ける蹄を。どのような条件にも崩れない、真の意味での最強を」

「それには」

「時間と、血統と——始まりとなる牝馬たちが必要でございます」


殿下はゆっくりと振り返った。その表情に、何かが決まったような、静かな確かさがあった。



六、下賜(かし)


三日後、王太子殿下一行がクロノージュ領を発つ朝であった。


空は嘘のように晴れ、東の山脈が青白い雪をまとって燦然と輝いていた。令嬢は屋敷の前で見送りに立っていた。着物は深い藍色に染められた冬のもの、帯には金糸で紫百合が刺繍されている。朝の日差しがその刺繍を照らし、百合の花が今にも香りを放ちそうなほど鮮やかに浮かび上がった。


殿下が令嬢の前に立った。


「令嬢、世話になった」

「もったいないお言葉でございます」

「一つ、聞いてよいか」

「なんなりと」

「あの吹雪の中、そなたは怖くなかったか」


令嬢は少し考えた。そして答えた。


「晴斗が怖れなかった。だから私も怖れませんでした」


殿下は小さく笑った。それは帝都の社交界で見せる公式の笑みではなく、もっと内側から来る、静かな笑みであった。


「そなたへの礼は、後日、正式に届けさせる。しかし——今ここで、一つだけ伝えておきたい」


殿下が手を挙げると、後方に控えていた侍従長(じじゅうちょう)が進み出た。


「王室直轄の育成場から、牝馬を六頭、クロノージュ家へ下賜する。王統の血を引く、我が国が誇る最高の牝馬群だ。その名は——星渚(ほしなぎさ)星蕾(ほしつぼみ)星陣(ほしじん)星霜(ほしそう)星暁(ほしあかつき)星煌(ほしきら)。いずれも特別育成場にて、比類なき瞬発力と良血を受け継いで育てられた牝馬たちだ」


令嬢は静止した。


王統の星牝馬——それが何であるか、馬産を志す者ならば誰もが知っている。連合王国の王室が、建国以来二百年かけて磨き上げてきた最高の牝系。その瞬発力は、いかなるアルブレッドの直仔にも引けを取らない。そしてその血は、王家の厩舎の外へ出たことが、歴史上ただの一度もなかった。


「殿下……それは、あまりにも」

「あまりにも、相応しい礼だと思っている」


殿下は令嬢をまっすぐに見た。


「この大陸で最も強健な馬を作ると言った。その言葉に、私は賭けてみたい。王統の血がそなたの手に渡ることで、何が生まれるか——それを見届けることが、今の私には最も興味深いことだ」


令嬢はゆっくりと、深く頭を下げた。

着物の裾が雪の上に触れるほどに。紫百合の刺繍が、朝日の中で静かに輝きながら。


「——必ず、お見せいたします」


その声は低かったが、確固とした岩のような強さを持っていた。


「血が何を生み出せるか。強健な土台の上に、いかなる速さが咲くか。それを、この大陸の歴史に刻むことを、クロノージュ家の名にかけて誓います」



七、六つの星


一行が去った後、令嬢はしばらく屋敷の前に立っていた。


志郎が隣に来て、静かに言った。

「姫様。これで、道が開けましたな」

「まだ始まりにも達していない」


令嬢は山を見た。昨日の嵐が嘘のように、山は静かに白く輝いている。


「星牝馬たちが来れば、次の段階に入れる。しかしそれだけでは足りない。王統の血は瞬発力をもたらす。東嶺の血は強健さをもたらす。しかし、その二つをつなぐ活力——生命としての力強さそのものが、まだ足りていない」

「それは……」

「私が自ら育てる。山の淘汰(とうた)の中で、どの条件でも揺るがぬ牝馬たちを。それには時間がかかる。五年か、十年か、あるいはもっとか」


令嬢はそう言って、ふと柔らかく笑んだ。

それは珍しい表情であった。普段は凜とした意志の強さばかりが前に出る彼女の顔に、一瞬だけ、若い女性の素顔が覗いた。


「でも——晴斗が見せてくれた。あの雪の中で、一度も立ち止まらなかった。どんな嵐でも、側対歩は止まらなかった。ならば私も、止まらなければいい」


志郎は深く頭を下げた。その老いた目に、光るものがあった。



◇ ◇ ◇



一ヶ月後、王室の輸送隊がクロノージュ領に到着した。


六頭の牝馬が、一頭ずつ馬房から引き出されたとき、令嬢は息を飲んだ。


星渚ほしなぎさ——葦毛(あしげ)の長身の牝馬。首の長い、どこか夢想するような瞳を持つ。

星蕾ほしつぼみ——黒鹿毛(くろかげ)の、小柄だが筋肉の密度が際立つ牝馬。

星陣ほしじん——青鹿毛(あおかげ)の、眼光が鋭く、近づく者を吟味するような気性の牝馬。


そして星霜、星暁、星煌——それぞれに異なる毛色と気性と体型を持ちながら、しかしその全員に共通する何かがあった。動きの優雅さ、あるいはもっと根源的な何か——血の輝きとでも呼ぶべきもの。


令嬢は六頭の前に立ち、一頭一頭の目を見た。

そして振り返り、遠くの厩舎——晴斗たち東嶺馬系が暮らす厩舎——を見た。


二つの世界が、今ここで出会った。


山の強健さと、平野の輝き。鋼の蹄と、金の血。忘れられた蹄音と、王統の星。


令嬢の胸の中で、何かが大きく動いた。まだ形を持たぬ、しかし確かな予感——この交差から生まれるものが、やがてこの大陸の血統地図を塗り替える、と。


それはまだ、夢の中の声ほどに微かな予感であった。

しかしクロノージュの紫百合は、確かに、その根を深く大地へ伸ばし始めていた。




第三章 宣戦布告と創山


**一、春の使者**


雪解けの水が山を下り、クロノージュ領の草原を潤し始める頃、帝都からの来訪者がある。


それは毎年のことであった。春の訪れとともに、イスフェリアの競馬界の人間たちがこぞって産地を巡る。牧場主への挨拶、種付けの交渉、幼駒(ようく)の視察——東部の山岳地帯は本来、彼らの巡回ルートに含まれることの少ない辺境(へんきょう)であったが、今年の春は違った。

王太子殿下の御訪問と、王統の星牝馬の下賜(かし)という前代未聞の出来事が、帝都の競馬界全体に電流のように伝わっていたからだ。


クロノージュの令嬢が、王家から最高級の牝馬群を賜った。


その一報は、ある者には驚きをもたらし、ある者には羨望をもたらし、ある者には——警戒をもたらした。


令嬢がその来訪者を知らせる報せを受けたのは、星渚(ほしなぎさ)の様子を見に厩舎(きゅうしゃ)へ向かう途中のことであった。


「アッシュ・モア・シンジケートの代表が、面談を求めております」


志郎(しろう)の言葉に、令嬢の足が止まった。


「……いつ着いた」

「昨夕、領内の宿に入ったとのことです。今朝、使者が来まして」

「一人か」

「いいえ。供を十数名、それと——馬を二頭、連れているとのことです」


令嬢はしばらく黙っていた。山の向こうに白い雲が浮かんでいる。穏やかな春の空だ。

しかしこの名前を聞いて、令嬢の胸の内に穏やかな気持ちは微塵も残らなかった。


「アッシュ・モア」


その名を、令嬢はゆっくりと口の中で転がした。


アッシュ・モア・シンジケート——連合王国の競馬界において、今や無視できぬ力を持つ馬産と馬主の連合体。表向きは優れた血統の生産と競走馬の育成を標榜(ひょうぼう)しているが、その実態を競馬界の内側で知らぬ者はない。

極限まで追い詰めた近親交配、禁じられた薬物による能力増強、そして使えなくなった馬の徹底的な切り捨て。彼らが送り込む馬は確かに速かった。しかしその速さは、生命を前借りすることで得られる速さであった。


「会おう」

「……よろしいのですか」

「敵の顔を知らずして、戦えるものか」


令嬢は再び歩き始めた。今度は厩舎ではなく、屋敷の正面玄関へ向かって。


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**二、毒の蜜**


アッシュ・モア・シンジケートの総帥——ウォルター・グレイン——は、令嬢が想像していたよりも若かった。


四十代の初め、長身で痩躯(そうく)、燕尾服の仕立ては帝都一流の職人のものであろう。シルクハットを脇に抱え、細い口髭をたくわえたその顔は、整っていると言えば整っているが、どこか鋭利すぎて、触れると血が出そうな感じがした。

目の色は薄い灰色で、笑みを浮かべる時もその目だけは笑っていない。


彼は令嬢が応接間に入るのを見て、立ち上がり、優雅に頭を垂れた。


「ご拝顔の栄に浴しまして、光栄の至りです、クロノージュ令嬢。ウォルター・グレインと申します」


完璧な礼儀作法であった。帝都の社交界で磨き上げられた、傷一つない表面。


令嬢は着物の(すそ)を揃えて座した。今日の装いは深緑の地に白い紫百合を染め抜いた一枚で、帯には金の組紐を締めている。どこまでも和装の——どこまでもクロノージュ家の——装いで、彼女は正面から客を見た。


「グレイン総帥。遠路、ようこそおいでくださいました」

「いえいえ。このような素晴らしい領地を、もっと早くに訪れるべきでございました」


世辞の応酬が数言あり、茶が運ばれ、それからグレインは本題に入った。


「令嬢、単刀直入(たんとうちょくにゅう)に申し上げます。我々アッシュ・モアは、クロノージュ家との提携を望んでおります」

「提携」

「はい。王統の星牝馬を賜ったことは、既に存じております。あの牝馬群に、我々の誇る最高の種牡馬を配合させていただければ——連合王国の競馬史上、最速の血統が生まれます。令嬢の名声と、我々の資本と技術が組み合わされば、それはもう……想像するだけで胸が躍る」


グレインは白い歯を見せた。その笑みは滑らかで、練習された均整(きんせい)を持っていた。


令嬢はひと口、茶をすすった。


「技術、と(おっしゃ)いましたが——具体的には、どのような技術でしょうか」

「ああ」グレインは手を振った。「細かい話は追って専門家からご説明させますが、要するに——あるべき配合の最適化と、競走能力の引き出しについての……各種のノウハウでございます」


「各種のノウハウ」。

令嬢は相手の目を見た。薄灰色の目が、少しだけ動いた。


——薬物のことだ、と令嬢は確信した。


「グレイン総帥」

「はい」

「一つ伺っても」

「なんなりと」

「貴方の生産馬は、なぜ競走寿命が短いのですか」


応接間の空気が、わずかに変わった。

グレインの笑みが一瞬だけ硬直し、すぐに戻った。しかしその一瞬を、令嬢は見逃さなかった。


「……激しい訓練の結果、どうしても脚に負担が……これは連合王国全体の課題でもあり——」

「三歳の秋に骨折する馬が、昨季だけで貴陣営から七頭出たと聞いています。内五頭は安楽死でした」


沈黙。


「それは残念な事故で——」

「事故ではないでしょう」


令嬢の声に、初めて刃のような鋭さが混じった。表情は変わらない。しかし言葉の一つ一つが、確信を持って相手の肉に食い込んでいた。


「速さを前借りした馬は、その代償を後から支払います。薬物で引き出した力は、馬の体の何処かを削ることで得られる。それは私の目には、馬産ではなく——消費です」


グレインは笑みを保ったまま、しかし目の色が変わっていた。温度が下がっていた。


「……令嬢は、夢想家でいらっしゃる」

「現実主義者のつもりです」

東嶺馬系(とうれいばけい)などという時代遅れの農耕馬にご執心なのも、その現実主義から?」


農耕馬——その言葉が、石のように応接間に転がった。


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**三、軽蔑と怒り**


面談が終わったのは昼前であった。


グレインは去り際に「ぜひご検討を」と繰り返し、しかしその目には検討など期待していない光があった。

令嬢は玄関で見送り、馬車が遠ざかるのを見届け、それから厩舎へ向かった。


志郎が心配そうについてきた。


「姫様……」

「東嶺馬系を農耕馬と言った」


令嬢の声は低く、静かだった。しかし志郎は長年のつきあいで知っていた。この静かさは、嵐の前の静けさだ。


晴斗(はると)を出してくれ」

「え? 今から放牧を?」

「乗りたい」


志郎はそれ以上何も言わず、馬丁へ指示を出した。


晴斗の背に乗り、令嬢はクロノージュ領の草原を走った。

目的地もなく、ただ風を切って走った。晴斗は主の気持ちを察するように、いつもより少し速く、しかし側対歩(そくたいほ)律動(りつどう)は乱さずに、野原を駆けた。蹄の音が草の上で弾み、風が令嬢の着物の袖を(ひるがえ)す。山から下りてきた春の風は冷たく、しかし確かに命の温かさを含んでいた。


農耕馬——。

その言葉が、頭の中に繰り返された。


グレインの言った「農耕馬」は単なる侮辱ではなかった。それは帝都の競馬界全体が共有する価値観の表明であった。速くなければ意味がない。競馬場で勝てなければ存在価値がない。そのような論理の中では、東嶺馬系の強健さも、鋼の蹄も、側対歩も——すべて無意味なものとして切り捨てられる。


令嬢は晴斗の首筋に手を当てた。走りながら、その太い筋肉の動きを感じた。

側対歩の規則正しい重心移動。一歩一歩が大地を確かに掴む感触。これは農耕馬の動きではない。これは、山を越えてきた命の動きだ。


「晴斗」

令嬢は呟いた。

「お前が農耕馬なら、雪崩の山を越えた馬は、何と呼べばいいのだ」


晴斗は答えない。ただ鼻を鳴らし、蹄を鳴らし、走り続ける。


令嬢は高台に上がり、馬を止めた。

眼下にクロノージュの放牧地が広がり、その向こうに屋敷が見える。そしてさらに遠くに——東の山脈が、夕日を受けて紫がかった影を落としていた。


あの山が、この馬たちを作った。

あの岩が、あの雪が、あの嵐が——東嶺馬系の蹄を鋼にし、東嶺馬系の脚を鉄にし、東嶺馬系の心を山のように揺るぎなくした。

そして今、グレインはその山ごと、農耕馬と呼んだ。


令嬢の中で、何かが音を立てて決まった。

それは激情ではなかった。激情は燃え上がり、やがて消える。決まったものはもっと冷たく、深く、消えることのない種火のようなものであった。


「——戦う」


呟きは風に消えた。しかしその言葉は、クロノージュ公爵家の新たな歴史の第一音として、この山岳の空気に刻まれた。


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**四、圧力の爪**


グレインの真の意図が明らかになったのは、それから半月後のことであった。


連合王国の農政局から、一通の公文書が届いた。内容は「東部山岳地帯の放牧許可区域の再評価および縮小案」について。専門的な法律用語で包まれた長文の文書を読み解けば、要するにこういうことだった——クロノージュ家が現在使用している放牧地の三分の一を、「国土有効活用計画」の名目で国有化する、という案が議会に提出された。


令嬢は文書を読み終え、窓の外を見た。


「農政局の委員の中に、アッシュ・モアと資本関係のある者は何名いる」


かたわらに立つ家令の壮年の男——御子柴(みこしば)——が答えた。

「確認できているものだけで、四名です。委員会の三分の一を占めます」

「そうか」


令嬢は文書を机の上に置いた。


「他には」

「帝都の競馬新聞のうち二紙が、近日中に東嶺馬系に関する批判的な記事を掲載する予定と……情報筋から入っております。『血統的な価値の低い土着馬の保護に公爵家が私財を濫費している』という論調のものと、もう一つは王統の星牝馬の配合先として東嶺馬系の血を用いることへの批判……」

「世論を動かそうとしている」

「はい」


令嬢は立ち上がり、部屋の中を歩いた。着物の裾が畳の上を滑る。窓から差し込む春の光が、紫百合の家紋を白く輝かせた。


「三方から来る」

令嬢は整理するように言った。

「政治的圧力で放牧地を奪う。世論で評判を落とす。そして提携という名目で星牝馬の運用に口を出す。——グレインはこの三つを同時に仕掛けてきた」

「いかがなさいますか」


令嬢は立ち止まり、御子柴を見た。


「王家に書状を送れ。殿下への正式な報告として——農政局の動きが、先日の御恩に対する礼を妨げるのみならず、我がクロノージュ家が建国の折に王家と交わした『誓約』に違える恐れがある、と」


御子柴の目がわずかに見開かれた。

「建国時の誓約、でございますか」

「そうだ。我が家は建国以前からの名家。連合王国成立の際、王家との間には、いざという時のために交わされた不可侵の特権や約定が幾つも存在する。その具体的な中身を、今ここで全て明かす必要はない。ただ『約定を忘れたわけではあるまいな』と匂わせれば、殿下も、そして王家の中枢も必ず動く」


御子柴は深く頷いた。

「かしこまりました。他には」

「帝都の競馬新聞への対応は——対応しない」

「……よろしいのですか」

「言葉で戦うよりも、馬で戦う。それが我が家の流儀だ」


数日後、王室から農政局へ、建国時の誓約を盾とした非公式な、しかし絶対的な横槍が入った。

放牧地縮小案は議会の審議にかけられることすらなく、即座に廃案となった。最初の激突は、クロノージュ家が一手で圧力を粉砕する形で幕を閉じた。


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**五、創山(そうざん)の誓い**


その年の夏、令嬢は一つの決断を下した。


政治的圧力を退けたとはいえ、アッシュ・モアは必ず次の手を打ってくる。東嶺馬系と王統の星牝馬の掛け合わせを始めるより先に、もう一本の柱を作る。速さと強健さをつなぐ、生命そのものの活力——それを持つ牝馬群を、自らの手で育て上げる。


令嬢はクロノージュ領の中でも最も過酷な区域——山の中腹、冬は深雪に覆われ夏は強烈な日差しが照りつける高原の放牧地——を、新たな育成場として整備した。

名付けて「創山のそうざんのち」。


ここで行われたのは、ある意味において残酷なまでに厳格な淘汰(とうた)であった。


令嬢は領内および近隣の農家から、様々な背景を持つ牝馬を集めた。血統の良いものも、雑多な出自のものも、東嶺馬系の血を引くものも、アルブレッドの傍系も——ただし選定の基準は一つのみ。

「この環境で生きられるか」。


高原の放牧地は、補助をしない。必要以上の飼い葉も、過度な薬治も、人手による介助も行わない。馬自身の免疫と体力と生命力で、この場所を生き抜いた者のみを次世代の母とする。


志郎が何度か懸念を示した。


「姫様、あまりにも……手を貸さなければ、弱い馬は——」

「死ぬかもしれない」


令嬢は静かに答えた。その言葉は冷酷に聞こえたかもしれないが、その目には痛みがあった。


「しかし志郎。薬物で作られたガラスの馬が死ぬのと、淘汰の中で生き残れなかった馬が死ぬのと——どちらが、その馬の命に誠実か。私が作りたいのは、人工的に強化された虚偽の強さではない。本物の生命力だ。それは過酷な環境の中でしか、証明できない」


志郎は何も言わなかった。深く頭を下げ、それ以上の異議を唱えなかった。


三年が過ぎた。


創山の地で生き延びた牝馬たちは、当初の三分の一であった。しかし残ったその三分の一は——まったく別の生き物のようであった。

毛並みは野性的で、帝都の競馬場で見るような艶やかさはない。体型も、アルブレッドの洗練された美しさとは無縁の、どこか土くさい頑健さがある。しかし令嬢が一頭一頭の目を見た時、そこにあるものは——炎であった。


試練を越えた者の目の光。これ以上のものは奪えない、という確信の輝き。


最初に名をつけた一頭は、焦げ茶の毛並みを持つ小柄な牝馬であった。体格だけ見れば、帝都の目利きはまず見向きもしないだろう。しかし令嬢がその牝馬の歩き方を見た時、胸の中で何かが震えた。

この牝馬は——側対歩を、使っていた。


東嶺馬系の血は引いていないはずだった。しかしこの高原の岩と傾斜と悪天候の中で三年を生き延びた結果、この牝馬は自ら、最も効率的な歩法を身につけていた。自然が、選んだのだ。


焦心(しょうしん)

令嬢は名付けた。焦がれる心——結果を急ぐのではなく、しかし一刻も立ち止まらず、じりじりと燃え続ける心。


次に名付けたのは、深い黒みがかった鹿毛の牝馬。この馬は創山の地の中で最も問題を起こした馬であった。柵を壊し、他の馬を蹴り、人間を噛もうとした。令嬢は三度、この牝馬を追い出そうとした。しかし三度とも、放牧地の入り口でこの馬は立ち止まり、令嬢を見た。そのたびに令嬢は、追い出す手を下ろした。


花杯(はなさかずき)

荒々しく、しかし溢れ出るほどの生命力を持つ——そのような名を与えた。


そして幻夢(げんむ)——この牝馬だけは、最初から不思議なほど穏やかだった。嵐の夜も、凍える朝も、どこか遠くを見るような目で、静かに存在していた。しかし令嬢が観察し続けるうちに気づいたことがある。幻夢は、他の馬が諦めた場所を、諦めなかった。凍った泥炭の下に草の根があると信じて、他の馬が別の場所へ移った後も、ひとり同じ場所を掘り続けた。そして必ず、見つけた。


これら三頭を中心に、令嬢は残った牝馬群に一頭ずつ名を与えた。

創山の二十名牝——それが、後に歴史にその名を刻む牝馬群の始まりであった。


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**六、三つの血の出会い**


創山の二十名牝が揃い、さらに数年の歳月が流れた時、令嬢はついに次の段階へ進む決断をした。


三つの血を交わらせる。


【王統の星牝馬】が持つ、比類なき瞬発力と絶対的なスピードの血。

【創山の二十名牝】が持つ、試練の中で磨かれた爆発的な活力と生命力。

そして【東嶺馬系】が持つ、鋼の蹄と側対歩という、悪条件に屈しない骨格の強靭さ。


交配の設計に、令嬢は半年を費やした。

夜毎、蝋燭の下で血統書と記録帳を広げ、相性を計算し、系統の深さを確かめ、どの牝馬とどの牡馬を組み合わせるかを考え続けた。


御子柴が帝都から招いた血統研究の専門家も参加したが、彼は第一回の協議の後、令嬢に率直に言った。


「令嬢、私の知識の範囲では……東嶺馬系と王統の配合は、前例がありません。しかもそこに、創山の血まで加えるとなれば——学術的には、いまだ議論の余地が」

「議論より先に、馬が答えを出す」


令嬢は顔を上げずに答えた。


「学術は過去を整理する。私は未来を作っている。協力していただけるなら歓迎します。しかし前例がないことを理由に止まるつもりはない」


専門家は押し黙り、しかしそれ以後は誠実に協力した。


三つの血を完璧に融合させるため、令嬢は緻密な世代交配を設計した。

最初の結実として選ばれたのは、創山の地を生き抜いた牝馬と東嶺馬系の精鋭・晴斗との間に生まれた『創山と東嶺の血を引く若き牡馬』と、王統の血を引く青鹿毛の気高き牝馬・星陣(ほしじん)との配合であった。


それは令嬢にとっても、ある種の祈りであった。

晴斗の強健さと創山の活力を受け継ぐ牡馬と、王家の絶対的なスピードを宿す星陣。この二頭の間に生まれるものが、新しい血の始まりとなる。


受胎は無事に確認された。

その年の冬を、令嬢は星陣の傍で過ごした。

帝都ではアッシュ・モアが手を変え品を変え不穏な動きを続けていたが、令嬢の心を占めていたのは、星陣の腹の中にある新しい命のことであった。


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**七、黒き産声**


春の初め、まだ山に雪が残る朝、星陣が産気づいた。


令嬢は夜通し厩舎にいた。着物の上に綿入れを羽織り、藁の上にじかに座って、星陣の呼吸を見守った。馬丁が交代で介助につき、志郎が何度も温かい茶を持ってきたが、令嬢はほとんど飲まなかった。


夜明け前が最も暗い時刻に、仔馬は生まれた。


最初に目に飛び込んできたのは、その色だった。

黒——純粋な、光を吸い込むような漆黒の毛色。東嶺馬系の厚みと、王統の血の洗練が混ざり合った馬体は、小さかったが、どこか既に完成した何かを持っていた。細すぎず、しかし重すぎず。分厚い四肢の末端に——すでに、東嶺馬系の形質を持つ、灰みがかった強靭な蹄が見えた。


仔馬は生まれてすぐ、震える脚で立とうとした。

一度、二度、倒れた。しかし三度目に、立った。


そして——立った瞬間、仔馬は一歩踏み出した。その一歩が、側対歩であった。


令嬢は息を飲んだ。

側対歩は、東嶺馬系が長い歴史の中で獲得した歩法だ。星陣の子は、確かに血の奥底に山を持っていた。


令嬢は仔馬の前にしゃがみ込み、その鼻面に手を当てた。温かかった。どこまでも、確かな温かさがあった。


黒鉄(くろがね)


令嬢は静かに名付けた。

黒く、鉄のような——創山の活力と東嶺の鋼の蹄、そして王統の星を宿した、最初の異端のアルブレッド。


窓の外で、夜明けの光が山の稜線を白く縁取り始めていた。志郎が厩舎の入り口に来て、その光景を見て、何も言わずに頭を下げた。


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**八、宣戦**


黒鉄が生まれて半月後、令嬢はグレインへ宛てて書状を書いた。

数年前の提携の申し出に対する、時を超えた正式な拒絶の返答であった。


短い文書であった。しかし令嬢は一語一語を選び、三日かけて書いた。

その最後の一文をここに記す。


『貴組合の御申し出、有難く拝察いたしました。しかしながら、クロノージュ家はいかなる提携をも求めておりません。我が家は単独で、この大陸の馬産の礎を作ります。御理解のほど、よろしくお願い申し上げます。クロノージュ公爵家当主、謹言』


グレインがその返書を読んだとき、どのような顔をしたか——令嬢には知る由もなかった。しかし令嬢は、それを気にしなかった。


黒鉄は今日も厩舎で育っている。

その黒い馬体が日を追うごとに大きくなり、側対歩の律動が着実に力を帯びていく。鋼の蹄が藁の上を叩く音が、厩舎に反響する。それはまだ小さな音だ。しかしいつかこの蹄が、帝都の競馬場の芝を踏みならす日が来る。


令嬢はその日を、確信していた。


創山の二十名牝が大地に根を張り、王統の六つの星が天に輝き、東嶺の鋼が山を越えてきた——三つの血が完璧に交わった黒き重戦馬は、やがてアッシュ・モアの薬物漬けの馬の前に立つことになる。


その日まで、令嬢は待つ。

紫百合の家紋を纏い、山の風を受けながら——静かに、しかし決して止まることなく。




第四章 誓いのレース


一、帝都、再び


帝都イスフェリアの春は、いつも競馬場から始まると言われていた。


しかし、この年の春は違った。

グランド・ヴェリタス競馬場に集まった三万の観衆(かんしゅう)が、普段の熱狂の中にどこか異質な緊張を帯びていたのは、今日のレースが単なる競走ではないと、誰もが本能的に察していたからかもしれない。

シルクハットの紳士も、レースプログラムを握る商人も、望遠鏡を持ち上げる貴婦人(きふじん)も——その目に、ざわめきに似た何かを宿しながら、馬場へと視線を向けていた。


今日行われるのは「連合盾長距離戦」——のちに帝国盾賞の原型と呼ばれることになる、この大陸において最も過酷な長距離競走であった。

三千二百メートル、クロノージュ領の山道のような起伏を模した坂道コースを含む特設コース。純然たるスピードよりも、底をつかぬスタミナと、最後の最後まで崩れぬ骨格の強度が問われる。

帝都の一流調教師たちが口を揃えて言う——「この距離を正攻法で勝てる馬は、この大陸に存在しない」と。


それが今日、変わるかもしれない。

そのような噂が、帝都の競馬界に流れていた。


貴賓席(きひんせき)は、一つの戦場であった。

西側の中央に陣取るのは、アッシュ・モア・シンジケートの一団である。ウォルター・グレインを中心に、連合王国の主要な馬主と資本家が十数名、いずれも磨き上げた燕尾服(えんびふく)とシルクハットで身を固めている。彼らの外套には勲章が光り、指には宝石の指環(ゆびわ)()まり、その存在そのものが帝都の資本と権力の象徴であった。


グレインは今日も口元に笑みを浮かべ、手袋をはめた指でシャンパングラスの脚を軽く叩いていた。


その斜向かい——東側の席に、一人の女性が座っていた。


着物は深紫(ふかむらさき)。連合王国の公式の場に、着物で現れる者は、この大陸広しといえどもただ一人しかいない。帯には金糸の刺繍が走り、その文様が六枚花弁の紫百合であることを、貴賓席の全員が知っていた。

クロノージュ公爵家の家紋——建国以前からこの大陸に根を張る、最も古い名門の印。


令嬢は馬場を見ていた。

望遠鏡も持たず、プログラムも開かず、シャンパンも手にせず——ただ、静かに馬場を見ていた。その眼差しは、遠くの山を見る目に似ていた。あるいは、長い年月をかけて育てた種が、ついに芽吹く瞬間を前にした農夫の目に。


「令嬢」

隣に座る志郎(しろう)が、低く(ささや)いた。

黒鉄(くろがね)は準備ができております」


令嬢は頷いた。それだけであった。



二、漆黒の入場


出走馬が馬場へ引き出されたとき、観衆の目がある一頭に引き寄せられた。


黒鉄——。

その馬体は、他の出走馬とは根本的に何かが違っていた。


隣に並ぶアルブレッドたちは、いずれも帝都の一流牧場が誇る良血の競走馬であった。長く美しい四肢(しし)、薄い皮膚の下に青く透ける血管、鏡のように磨かれた蹄——それらはすべて、速さという一点に向けて極限まで洗練された肉体の形であった。


黒鉄は違った。

漆黒の馬体は確かに美しかったが、その美しさは洗練の美しさではなく、完成の美しさであった。


(くび)東嶺馬系(とうれいばけい)の力強さを受け継いで太く、しかし王統の血が与えた高貴な弧を描いている。肩から背中にかけての線は分厚く、腹が深く、腰の張りが他の馬と比べて際立っていた。四肢は適度な長さと太さを持ち——そしてその末端に、他のどの馬とも異なる蹄があった。


灰がかった、鋼鉄色の蹄。

帝都の蹄鉄職人が見れば首を傾げるだろう。薄く、軽く、削り上げられた競走馬の蹄とは異なる、その厚みと重みは、どう見ても競馬場仕様ではない。


しかしその蹄が今、緑の芝の上を叩いた瞬間——タン、という音が、周囲の馬の蹄音とは一音違っていた。


重く、確実で、揺るぎない音。

スタンドの観衆の一部が、その音に気づいて顔を見合わせた。帝都の競馬新聞の記者の一人が、手帳に素早く何かを書いた。グレインが馬場を見る目を細め、口の端の笑みが一瞬だけ消えた。


令嬢は立ち上がらなかった。座ったまま、深紫の着物の袖の中で、静かに両手を重ねていた。



三、狂気の逃げ


発走の鐘が鳴り響いた。

十六頭の馬が一斉に飛び出した瞬間、観衆の声が嵐のように渦巻いた。


最初の百メートルで、すでに一頭が頭抜けていた。

アッシュ・モアが送り込んだ馬——芦毛(あしげ)牡馬(ぼば)、「白雷(はくらい)」の異名を持つ今季最速の刺客——がハナを奪い、先頭へと飛び出した。

その逃げ脚は、観衆が息を飲むほど速かった。まるで何かに追われているかのような、あるいは何かから逃げているかのような、狂気じみた速度で直線を駆け抜ける。


ペースが、異常であった。

最初の四百メートルのラップタイムを、スタンドの計時係が告げた瞬間、帝都の一流調教師たちの顔が青ざめた。このペースで行けば、後半は完全に崩壊する。


いや、それは人間の論理だ——令嬢はそれを聞いて、胸の奥で冷たく悟った。

アッシュ・モアは、馬の崩壊を織り込んでいる。前半に誰もついていけない速度で引っ張り、後続の力を奪い、そして——たとえ白雷が自滅しても、後続もまた死に体となっているはずだ、という計算で。


これは競馬ではない。

令嬢は静かに思った。これは消耗戦だ。全馬を道連れに沈めることで、最後に一頭だけを残す——そのための、薬物で作られた使い捨ての時限爆弾だ。


後続の有力馬たちが、白雷のペースに飲み込まれていった。

帝都の名門牧場の大型鹿毛馬が、前半から仕掛けざるを得なくなり、三番手で白雷を追いかけ始めた。その後ろで二頭、三頭が動き、集団が縦長に引き伸ばされていく。

騎手たちの焦りが、馬の動きに滲み出ていた。このペースで行かれると、差し届かなくなる——その恐怖が、彼らに早めの追走を強いていた。


その中に、一頭だけ、動かない馬がいた。



四、静かな追走


黒鉄は、集団の最後方にいた。

十四番手。十六頭中の最後尾に近い位置で、黒鉄はただ走っていた。


走っている、というよりも——歩いていた、という形容の方が正確かもしれない。もちろん速度はある。他の馬の流れから大きく離れているわけではない。しかしその動きは、他の馬たちの必死の追走とは、まるで別の次元にあった。


側対歩(そくたいほ)——。

右前と右後が同時に、左前と左後が同時に動く。その独特のリズムが、芝の上に刻まれていた。

上下動が極限まで抑えられ、黒鉄の馬体が水平に、滑るように前進する。騎乗する若い騎手——令嬢がクロノージュ領から連れてきた、東嶺馬系の扱いを幼少から叩き込まれた二十二歳の若者——は、ほとんど手綱を動かしていなかった。馬の自然な動きの中に乗り、ただそこにいた。


スタンドの観衆が、その奇妙な光景に気づき始めた。

「あの黒い馬、何をしている」

「歩法が変だぞ。あれでは追いつけんではないか」

「クロノージュの馬か。やはり農耕馬では——」


グレインは双眼鏡を目に当て、黒鉄を見た。その表情から、初めて笑みが消えた。



◇ ◇ ◇



千六百メートルの標識を過ぎた。


白雷は先頭を走り続けていた。そのペースは衰えていない。いや——衰えていないのではなく、衰えを薬物で抑え込んでいた。

その証拠に、白雷の鼻孔から出る息が、常軌を逸した量の白煙を上げ始めていた。呼吸が荒れている。しかし脚は動く。薬が脳の疲労信号を遮断し、限界を超えた肉体を強制的に稼働させている。


後続の有力馬たちが、次々と脱落し始めた。


三番手を走っていた大型鹿毛馬が、坂道の手前でがくんと速度を落とした。騎手が懸命に促すが、馬は応えない。前脚が、震えている。千六百メートルで使い果たした——限界を超えた速度で走った代償が、坂道の入り口で一気に噴き出してきた。

五番手の青鹿毛の牡馬が、坂道で内ラチへヨレた。騎手が立て直そうとするが、間に合わない。その馬は最後方まで沈み、やがて歩くような速度になった。


八番手、九番手と、次々に馬が脱落する。

レースが始まって二千メートル——まだ千二百メートルが残っているというのに、先頭集団は白雷一頭と、それに必死にしがみつく二頭だけになっていた。


黒鉄は、まだ後方にいた。

しかしその動きが、わずかに変わっていた。


側対歩の律動は変わらない。しかし一歩一歩の踏み込みが、少しずつ、確実に深くなっていた。鋼鉄色の蹄が芝を噛む角度が変わり、推進力が増している。馬体の水平移動の速度が、気づけば上がっていた。

騎手が何も指示していないのに——黒鉄自身が、時機を測っていた。


令嬢はそれを、貴賓席から見ていた。

着物の袖の中の両手が、ひそかに重なり合った。



五、鋼の蹄が語る


二千四百メートルの標識を過ぎ、最後の直線入り口が近づいてきた頃——白雷に異変が起きた。


最初の兆候は、走り方の微妙な乱れであった。

それまで一定の高回転を刻んでいた脚のリズムが、ほんの一瞬、乱れた。次の瞬間、持ち直した。しかしまた、乱れた。


薬が、切れ始めていた。

薬物で強制的に遮断されていた疲労の信号が、少しずつ、細い(ほころ)びから漏れ出してきた。白雷の脳が、今まで握りつぶしてきた悲鳴を、初めて受け取り始めた——この肉体は、もう終わりだ。脚が、止まろうとしている。


しかし薬はまだ、完全には切れていない。

白雷は走り続けた。走るしかなかった。体が限界だと叫んでいるのに、遮断された回路がそれを脚に伝えない。異常な力で、異常な速度で、異常な苦痛の中を、白雷は走り続けた。


その脚から、ついに乾いた音が響いた。


スタンドの前列にいた者たちが聞いた。白雷の右前脚の骨が、限界を超えて軋む音を。

白雷は速度を落とさなかった。落とせなかった。しかし明らかに、走り方が変わった。右前脚をかばうような、不規則なリズムで、それでも白雷は前進し続けた。


そこへ——黒鉄が来た。



六、漆黒の疾走


最後の直線に入った瞬間、黒鉄の様相が一変した。


側対歩の律動が、加速した。

右右、左左——その規則的なリズムが、嵐の太鼓のように速くなっていく。しかし上下動は増えない。馬体の水平移動だけが、加速する。

鋼鉄色の蹄が芝を叩く音が、他の何もかもを塗り替える轟音へと変わっていった。


タン、タン、タン——。


それは太鼓の音に似ていた。いや、太鼓ではない。もっと大きく、もっと根源的な何かの音。山が歩く音、あるいは大地そのものが動く音——そのような言いようのない力が、黒鉄の蹄から発せられていた。


千六百メートルを走った後も、黒鉄の脚には力が残っていた。二千メートルを走った後も。二千四百メートルを走った後も——側対歩が体力を温存し続けたことで、他の馬が使い果たしたものを、黒鉄はまだ蓄えていた。

東嶺馬系が百年かけて山で磨き上げたスタミナが、ここで解放されていた。


三頭を、一気に抜いた。

五頭を、抜いた。


白雷の背中が、見えてきた。


スタンドが沸き始めた。いや、沸くという表現では足りない——凍りついていた空気が、一気に爆発した。三万の人間が、自分でも理解できない衝動に駆られて立ち上がり、叫んだ。何を叫んでいるのか、自分でもわからないまま、ただ叫んだ。


黒鉄が、白雷に並んだ。

その瞬間を、令嬢は貴賓席で見た。着物の袖の中で重ねていた両手が、膝の上でゆっくりと開いた。


黒鉄が並びかけたその時、白雷の脚が、ついに限界を迎えた。


骨が軋む音は、高く鋭い悲鳴へと変わった。正確には、骨ではなく白雷自身が悲鳴を上げたのだ。苦痛に満ちた馬の叫び声が、グランド・ヴェリタス競馬場に響き渡った。

三万の観衆が、その声に一瞬だけ、静止した。


白雷は倒れなかった。脚を折らずに、かろうじて走り続けた。しかしそれはもはや走ることではなかった。三本の脚で引きずるように、一本をかばいながら、それでも前へ進もうとする——その凄惨な姿に、スタンドの一部から悲鳴が漏れた。


黒鉄は、その横をすり抜けた。


すり抜ける、という表現が最も近い。大きく外を回ることもなく、無理に押しのけることもなく——黒鉄は白雷の右側をすり抜けながら、鋼鉄色の蹄でもう一段加速した。

分厚い蹄が芝を力強く削り取り、緑の飛沫が舞い上がる。その一歩一歩が、芝コースに深い蹄の跡を刻んでいった。


あとは——独走であった。


残り二百メートル。黒鉄は先頭に立ち、もはや追ってくる者がいないにもかかわらず、速度を緩めなかった。

側対歩が芝を叩き続ける。鋼の蹄が大地を踏み固める。その馬体が、春の日差しの中で漆黒の光を放ちながら、一人残された白雷との距離を引き離していく。


五馬身。七馬身。十馬身——。

ゴール板を越えた時、黒鉄は後続から十二馬身の差をつけていた。



七、静寂の後


グランド・ヴェリタス競馬場が、一瞬、静まり返った。


三万の人間が、今自分たちが目撃したものを処理しきれず、ただ呆然と馬場を見ていた。この距離を、この圧倒的な内容で制した馬が、この大陸に存在するとは——誰も、思っていなかった。


それからゆっくりと、拍手が起きた。

最初は一人、二人。やがてそれが連鎖し、波のように広がり、三万の拍手がグランド・ヴェリタス競馬場を満たした。

帽子が宙を舞い、女性たちがハンカチを振り、老紳士が目頭を押さえた。何のために、誰のために拍手するのか——それを全員が言葉にできるわけではなかったが、しかし全員が感じていた。


今日、何かが変わった、と。


グレインは、拍手をしていなかった。

燕尾服の胸の前で腕を組み、シルクハットのつばを指で弾きながら、グレインは馬場を見ていた。その薄灰色の目から、笑みは完全に消えていた。


白雷が引き上げられていく。右前脚をかばいながら、三本脚で歩く白雷を、厩務員が必死に支えている。その光景を、グレインはひと目見て、視線を馬場に戻した。


彼の表情に、何があったか——後に立ち会った者たちはそれを様々に語った。怒りだった、と言う者もあった。恐怖だった、と言う者もあった。

しかし令嬢が一瞥した時、彼女には別のものが見えた。


——認識だ、と令嬢は思った。

彼はようやく、理解した。これは、勝てない、と。



八、紫百合、進み出る


表彰が行われることになった。


令嬢が貴賓席から立ち上がった時、周囲の目がその姿に集まった。

深紫の着物が、春の日差しの中に静かに浮かぶ。帯に刻まれた六枚花弁の紫百合が、光を受けて息をするように輝く。着物を纏いながら競馬場の表彰台へ向かう人物など、連合王国の長い競馬の歴史において、かつて一人も存在しなかった。

燕尾服とシルクハットの間を、紫百合が歩いていく。


道が、自然に開いた。

人々が左右に引いたのは、令嬢に圧力をかけられたからではなかった。その歩き方に、その目に、その着物の裾の揺れ方に——何か、人間が本能的に道を開かずにはいられない重さがあったのだ。


令嬢は表彰台の前に立ち、黒鉄の首に手を当てた。

漆黒の馬体は汗で濡れていたが、荒れた息を整えながら、それでも騒ぐことなく令嬢の傍らに立っていた。令嬢の指が首筋に触れた瞬間、黒鉄はわずかに頭を下げた。まるで、主に対する礼のように。


「よくやった」

令嬢は小さく言った。

黒鉄は鼻を鳴らした。


スタンドの一部が、その光景を見て、また拍手を送った。



◇ ◇ ◇



表彰が終わり、令嬢が競馬場の大広間へ向かった時、グレインが待っていた。

笑みはない。燕尾服の両手を背に組み、シルクハットを脇に抱えたその姿は、先日令嬢の屋敷を訪ねてきた時の余裕と自信を、きれいに欠いていた。


「見事でした、令嬢」

その言葉は、称賛の形をしていたが、賛辞ではなかった。


「ありがとうございます、総帥」

令嬢は立ち止まり、グレインを正面から見た。


「白雷の脚は、いかがですか」

グレインの目が、わずかに動いた。

「……治療中です。おそらく——」

「おそらく、競走馬としては終わりでしょう」


令嬢の声は穏やかだった。しかし穏やかなまま、刃のように的確であった。


「一度で良いので、お教えください、総帥。白雷があの速度で逃げ続けた時——貴方は、この馬が勝ったあと何年生きられるかを、考えましたか」


沈黙。


「馬は道具ではない」

令嬢は言った。


「それは感傷ではありません。現実の話です。道具として使い潰した馬から、次の世代は生まれない。今日の速さのために明日の血を捨てることは、馬産の衰退を自らの手で早めることと同義です。その事実は、どれほどの資本をもってしても、変えることができません」


グレインは何も言わなかった。

令嬢は頭を下げ、その場を立ち去った。



九、蹄の跡


レースが終わった後、整備員が芝の状態を確認しに入った。


ゴール前の直線に、深い蹄の跡が残っていた。黒鉄の側対歩が刻んだ跡は、他の馬のものとは明らかに違っていた。薄い蹄が芝の表面を削った跡ではなく——厚い鋼鉄色の蹄が、芝ごと大地に食い込んだ跡。


整備員の一人が、その跡を見て呟いた。

「何だこれは。まるで岩が歩いた跡みたいだ」

それを聞いた別の整備員が笑ったが、笑いながら、もう一度その跡を見た。


笑いが、止まった。


確かに——岩が歩いた跡のように、深く、確実に、大地に刻まれていた。



◇ ◇ ◇



令嬢がクロノージュ領へ向かう馬車の中で、志郎が静かに言った。

「姫様。帝都の新聞各紙が、明日の朝刊に黒鉄の記事を載せると申しております。何社かは、一面で」

「そうか」

「加えて、本日のレースの凄惨な事実と、それを打ち破った黒鉄の証明は、王政と農政局にも決定的な衝撃を与えたようです。王太子殿下の強いご意向もあり、アッシュ・モアの手法——競走馬への薬物投与ドーピングを法的に全面禁止とする勅令の準備が、早くも始動したとのこと」


令嬢は窓の外を見た。


「当然の帰結だ。血の継承を無視した劇薬は、競馬そのものを滅ぼす。彼らの時代は、ここで終わる」

「はい。黒鉄が、それを証明いたしました」


帝都の灯りが遠ざかり、やがて山の影が近づいてくる。クロノージュ領の山々が、夜の空に黒い稜線を描いていた。


「それでよい」

令嬢は窓に映る自分の顔を見た。着物の衿、帯の紫百合。それから視線を上げ、遠い山を見た。

「これは始まりだ」


呟きは、馬車の車輪の音に混じって消えた。


「黒鉄が今日作った跡の上に、次の世代が歩む。その次の世代が作った跡の上に、また次が歩む。百年後、二百年後——この大陸の血統地図に、東嶺の蹄の跡が刻まれ続ける。それが、今日の本当の意味だ」


志郎は目を閉じ、深く頷いた。


馬車が山道へ入り、車窓から帝都の灯りが完全に消えた。

代わりに、星が現れた。


令嬢はその星を見上げた。星渚、星蕾、星陣——王統の星牝馬に与えた名前が、夜空と重なった。

彼女たちが産んだ仔が、また仔を産む。星陣が産んだ黒鉄が、また仔を産む。その連鎖が、この大陸の未来へと続いていく。


今日の勝利は、一頭の馬の勝利ではなかった。

それは——一つの思想の、最初の証明であった。




エピローグ 至高の血統譜の幕開け


**一、春のサロン**


帝都イスフェリアに、再び春が巡ってきた。


昨年の**春**、グランド・ヴェリタス競馬場で起きたことは、この大陸の競馬界に深い亀裂を刻んだ。黒鉄(くろがね)の圧倒的な勝利は、ただ一頭の馬の勝負を超えていた。それは一つの思想の証明であり、一つの時代の終わりの宣告であった。


アッシュ・モアの薬物馬が悲鳴を上げながら崩れ落ちる光景は、帝都の競馬場を訪れた三万の目に焼き付き、翌朝の新聞各紙を席巻し、やがて王城の奥まで届いた。

王太子殿下が動いた。


翌月には、競走馬への薬物投与を法的に全面禁止とする勅令(ちょくれい)が下された。連合王国の競馬法制史において最も急速な立法のひとつとして後世に記録されることになるその勅令は、アッシュ・モア・シンジケートの根幹(こんかん)を一夜にして抉り取った。


グレインは帝都を去り、その傘下にあった資本家たちは次々と手を引いた。燕尾服とシルクハットで飾り立てた権力の城が、薬物の土台の上に建っていたがゆえに、禁令一つで砂上(さじょう)楼閣(ろうかく)と化した。


しかし——令嬢は知っていた。


敵が去れば終わりではない。むしろ、本当の仕事はここから始まる。壊すことよりも、作ることの方が、はるかに長い時間を要する。



◇ ◇ ◇



誓いのレースから**一年の時が過ぎた春の午後**、帝都の東区にある旧侯爵邸の広間に、女たちが集まっていた。


主催はセリア・ローゼン侯爵令嬢——連合王国の中でも古い馬産の家柄を持つローゼン家の若き当主であり、クロノージュ家との友誼(ゆうぎ)をいち早く深めた一人である。

今日の集まりは表向き「馬産の未来を語る私的な茶会」とされていたが、招待状を受け取った面々の顔触れを見れば、それが単なる茶の席でないことは明白であった。


広間には、帝都の春を映したような明るさがあった。

大きな窓から午後の光が差し込み、白いカーテンを揺らしている。長卓の上には磁器のティーセットと、季節の花が活けられた花瓶。

招かれた令嬢たちはそれぞれに着席し、ドレスの(すそ)を整え、扇子を手にしながら、和やかな、しかし何か大事なことを控えた前夜のような緊張を帯びた空気の中に座っていた。


帝都の流行を体現する薔薇色のドレスを纏ったリリス・クレイドル公爵令嬢が、向かいに座るマリアンヌ・グランディス伯爵令嬢へと声をかけた。


「マリアンヌ。アッシュ・モアの馬たちの処遇が決まったと聞きましたわ」

マリアンヌは薄青のドレスの胸元に手を当て、少し沈んだ顔で頷いた。

「ええ。競走に耐えられなくなったものは……引退馬の療養地に送られたものもあるようですが、一部は」

「使い捨てられた、ということね」


リリスは短く言い、窓の外を見た。その目に、何かを(いた)むような(かげ)りがあった。


リリス・クレイドルは帝都でも指折りの資本家の家系に生まれ、これまでアッシュ・モアとも一定の距離を保ちながら、最速のアルブレッドへの投資を続けてきた令嬢であった。

しかし昨年の**春**、グランド・ヴェリタスのスタンドで目撃した白雷(はくらい)の崩壊は、彼女の胸の中で静かに、しかし着実に何かを変えていた。


「白雷は」

マリアンヌが問いかけた。

「右前脚の腱と骨が……もう走れないそうです。まだ四歳なのに」


沈黙が落ちた。それはただの馬の話ではなかった。四歳。ようやく馬としての体が完成を迎える年齢。それが、寿命を前借りして走らされた結果として、もう走れない体になっている。


「あれほどのレースを走りながら、あれほど惨めな終わり方をしなければならない理由が、私にはわかりませんでした」

リリスは静かに言った。

「最速であることに意味があると思っていた。でも——最速であるために使い潰された馬たちの末路を、私は一度も直視しようとしなかった。それは怠慢(たいまん)だったと、今は思います」


マリアンヌが頷いた。

「クロノージュの令嬢が言っていたことが、今になってわかります。強健な土台なくして、真の血の発展はない——あの言葉は、批判ではなかった。予言だったのだわ」



**二、紫百合、帝都に咲く**


広間の扉が開いたのは、それからほどなくのことであった。


最初に入ってきたのはエルサ・ウィンダミア伯爵令嬢——背が高く、麦色の髪を持つ快活な令嬢で、淡いクリーム色のドレスが春の陽光を受けて明るく輝いている。その後ろからセリア・ローゼンが入り、最後に——。


深紫の着物が、広間の光の中に現れた。


リリスが思わず立ち上がったのは、礼儀からだけではなかった。反射的に、立たずにはいられなかった。その着物の、その帯の、その足取りのすべてが持つ重さが、広間の空気を一変させた。


創世の令嬢——クロノージュ公爵家の当主——が、帝都のサロンに来ていた。


今日の着物は深みのある紫に、裾へ向かうにつれて夜空の色へと染め落された、特別な一枚であった。帯は白銀の地に金糸で紫百合が刺繍され、その六枚の花弁が今にも香りを放ちそうなほど鮮やかに浮き上がっている。

草履の音が大理石の床に静かに響き、着物の袖が空気を優雅に払いながら、令嬢は広間の中央へと進んだ。


西洋のドレスをまとった令嬢たちの間に、ただ一人の着物姿。そのコントラストは、ただの衣装の違いではなかった。東と西、山と都、古い名誉と新しい資本——それら一切が、この瞬間、広間の中に凝縮されていた。

しかし令嬢は、そのコントラストを意識するでもなく、かといって無視するでもなく、ただ自然に、自分であるままで立っていた。


リリスが深く礼をした。

「令嬢、ようこそおいでくださいました。このような私的な席に足をお運びいただき、恐縮でございます」

「いいえ」


令嬢は穏やかに微笑んだ。普段の(りん)とした表情の中に、今日はどこか柔らかいものがある。

「セリアに誘ってもらわなければ、なかなか帝都へ来る機会もありませんでしたから。こうして皆さんとお目にかかれたことを、嬉しく思います」


令嬢が席に着いた。

着物の裾を整え、帯に手を当て——その仕草の一つ一つが、帝都の淑女たちが磨いてきた礼儀作法とは異なる美しさを持っていた。山の家の作法。伝統の作法。何百年も変わることなく守り伝えられてきた、クロノージュの作法。



**三、語らい**


茶が運ばれ、最初の静けさが解けるとともに、会話が始まった。


リリスが切り出した。それが彼女の今日の役割だと、自分で決めていたかのように。

「令嬢。先ほどマリアンヌと話しておりましたが——私たちは、これまで多くのことを見落としてきたと、ようやく気づきました」


令嬢は茶碗を持ったまま、リリスを見た。

「見落とし、ですか」

「速さだけを追いかけていた。最新の血統が、今季の最高値が、レコードタイムが——それだけが判断の基準だった。馬が、何年生きられるかを考えなかった。次の世代の母になれるかどうかを、考えなかった」


リリスはそこで一息ついた。

「白雷が走るのを見た時、確かに美しいと思いました。あの速さは本物だと。でも今は、あの美しさが何を代償にしていたかが、わかります。あの速さは、未来を削って作ったものだった」

「そうです」


令嬢は静かに言った。

「白雷は間違いなく、速かった。その速さを否定するつもりは、私にもありません。しかし速さは目的ではない。速さは、生命力の表れの一つに過ぎない。強健な体と旺盛な活力を持つ馬が、最大限に力を解放した時——その結果として速さが生まれる。その順序を逆にしてしまったのが、アッシュ・モアの誤りでした」


マリアンヌが頷きながら、少し躊躇(ためら)うように言った。

「令嬢、お訊きしてよろしいですか。創山(そうざん)の地で、淘汰(とうた)を行ったと聞きました。過酷な環境に置き、生き残った牝馬だけを次世代の母にしたと。それは……辛くはなかったのですか」


広間がわずかに静まった。

令嬢は茶碗を卓に置き、しばらく自分の手を見た。


「辛かった」


短く、しかし揺るぎなく言った。


「三年間で、多くの馬が創山の地を去りました。死んだものもあります。あの子たちの一頭一頭に、私は名前をつけていました。だからこそ——辛かった」

「では、なぜ」

「やめなかったのか、ですか」


令嬢は顔を上げた。


「人間が温室で守りながら育てた馬は、温室がなくなった時に生きていけない。薬物で強化された馬は、薬がなくなった時に走れない。それと同じです。人間の都合で与えられた強さは、人間の都合が変われば消えます。しかし——自然の中で勝ち取った強さは、その馬の血の中に刻まれる。子へ、孫へ、百年後の子孫へと受け継がれていく。私が作りたかったのは、今日の勝者ではなく、百年後も走り続けられる命の土台だったのです」


リリスが、茶碗を持つ手をゆっくりとテーブルに戻した。

その目に、何かがあった。決意、とも、目覚め、とも呼べるような、澄んだ光が。


「……令嬢。私の牧場に、一頭の牝馬がおります」

リリスは言った。

「血統は平凡です。帝都の競馬場で活躍できるような馬ではないと、調教師には言われています。でも——その馬が、子馬を産むたびに、どの仔も丈夫で、骨格がしっかりしていて、滅多に病気をしない。地味な馬ですが、あの馬が生んだ子を私は大切に育ててきました。名は、白鳥と申します」


「白鳥」

令嬢は繰り返した。


「ええ。白い毛並みの、飛び立つ前の白鳥のような、静かな品を持つ牝馬です。帝都の競馬新聞には一行も載ったことがありませんが——私には、あの馬の何かが大切なものに思えて、手放せずにいた」


令嬢の口元に、微笑みが浮かんだ。

「その感覚は、正しい」


リリスが顔を上げた。


「馬産において、直感は重要な道具です。血統書には写らない何かを、馬の傍に立つ人間は時として正確に感じ取ります。白鳥がなぜ丈夫な子を産むのか——その理由が血統書で説明できなくても、事実として丈夫な子を産み続けているなら、その牝馬の中に、まだ誰も名前をつけていない何かがある。それを大切にしてください」



**四、春風と白鳥**


エルサ・ウィンダミアが、温かい声で口を開いた。

「私の春風(ハルカゼ)も、似たような話ですわ」


エルサの愛馬「春風」——鹿毛の小柄な牝馬で、競走馬としてのキャリアは平凡だったが、繁殖に回ってからの仔馬たちが異様に気性明朗で、どの子もよく食べ、よく眠り、よく動くのだという。


「先生に診ていただいたら、骨密度が通常のアルブレッドより相当高いと言われました。体が小さいのに、骨の作りは大型馬に引けを取らないと。どこでこの性質を持ったのか、血統をいくら遡っても出てこないのです」

「それは——」


令嬢は少し考えてから言った。


「案外、遠い昔に東嶺馬系(とうれいばけい)の血が混じっているかもしれません。帝都の競馬場が東嶺馬系を排除するより以前、この大陸に東嶺の血が広く流れていた時代があったはずですから。記録に残っていなくても、血の中に眠っていることは十分にありえます」


エルサが目を丸くした。

「では、春風の骨の強さは——東嶺馬系の遺産ということですか?」


「証明はできません。でも、あり得ることです。大陸の馬産の歴史の中で、東嶺馬系の血は軽んじられ続けてきた。しかしその血は、消えたわけではない。どこかに残っていた。東嶺の蹄の記憶が、誰かの馬の骨の中に、ひっそりと生き続けていた——それが今になって、春風の中に顔を出した、とするならば」


令嬢の目が、遠いものを見た。


「血は、消えない。どれほど忘れられても、どれほど軽んじられても、確かに生きた命の記憶は、子孫の体の中に刻まれ続ける」


広間が静かになった。

春の光が、窓から長く差し込んでいた。



**五、誓いの手**


しばらく後、リリスが令嬢に向き直り、正式な申し出をした。


「令嬢。私は——クロノージュ家の馬産の理念から、学ばせていただきたいと思っています。提携や援助などという大きなことを申し上げるつもりはありません。ただ、同じ方向を向いて、それぞれの馬を大切に育てていく仲間として——」

「リリス様」


令嬢は彼女の言葉を、静かに、しかし確かに引き取った。

「その申し出を、心から嬉しく思います」


リリスの目に、光るものがあった。マリアンヌが小さく息をついた。


「私一人では、この大陸の馬産を変えることはできません」

令嬢は続けた。

「黒鉄が一つの証明を示した。しかしそれは証明の始まりに過ぎない。一頭の馬の勝利が世界を変えるわけではない。変えるのは——同じ信念を持つ人間たちが、それぞれの場所で、それぞれの馬を丁寧に育て続けることです。強健な牝馬が子を産み、その子がまた子を産み、何世代も経た後に初めて——血統地図に本当の変化が現れる」


令嬢は立ち上がった。

着物の裾を整え、帯に手を当て、窓の方へ一歩進んだ。春の光の中に、深紫が静かに浮かぶ。


「ともに、大陸の馬の未来を創りましょう」


その言葉は宣言ではなかった。約束でもなかった。それはもっと静かで、もっと深いものだった——長い時間をかけてゆっくりと育つ種を、今ここで、共に地に埋めようという、大地への誓いのような言葉であった。


エルサが立ち上がり、令嬢の前に進んだ。

西洋のドレスをまとった手が、差し出された。令嬢の着物の袖から、白い手が伸びた。

二つの手が、重なった。


次いでセリアが立ち、手を重ねた。リリスが続いた。マリアンヌが最後に加わった。

深紫の着物と、クリーム色のドレスと、薔薇色のドレスと、薄青のドレスと、淡緑のドレスが——春の光の中で、一つの円を作った。



**六、血統譜の序章**


その後、茶会は続いた。

馬産の話、牝馬の性質の話、来季の種付けの話——それらは専門的で具体的な、実務の話であったが、どこか芯に詩のようなものを含んでいた。

令嬢が語る時、彼女の言葉には数字や理論だけでなく、馬への眼差し、山への敬意、命への(おそ)れが混じり込んでいた。それが聞く者の心に触れた。


やがて夕暮れが近づき、令嬢が席を立つ時が来た。

玄関まで見送りに来たリリスが、令嬢の着物の紫百合を見ながら言った。


「令嬢。一つだけ聞かせてください」

「なんでしょう」

「この先——どれほどの時間がかかると思っておいでですか。私たちが今日誓ったことが、本当に実を結ぶまでに」


令嬢は少し考え、それから答えた。


「私の代では、見届けられないかもしれません」


リリスが息を飲んだ。


「黒鉄の孫の世代、あるいは曾孫(ひまご)の世代——もっと先かもしれない。血統地図というものは、一人の人間の生涯より遥かに長い時間の上に描かれるものですから」

「それでも——やるのですか」

「やるから、意味があるのです」


令嬢は穏やかに、しかし迷いなく言った。


「今日私たちが埋める種は、私たちには花を見せてくれないかもしれない。しかしその種は必ず芽吹く。百年後の誰かが、その花を見る。それで十分です。むしろ——百年後の誰かのために今日種を埋めること、それこそが私たちに与えられた仕事だと思っています」


リリスは長い間、令嬢を見ていた。

そして深く、深く、頭を下げた。



**七、牝馬たちの名**


令嬢の馬車が帝都を出て、山道へ入る頃には、夜の(とばり)が落ち始めていた。

志郎が静かに問うた。


「よい集まりでございましたか」

「ええ」


令嬢は窓から夜空を見た。

「種を埋めてきた。いくつも」


志郎は頷き、それ以上は問わなかった。


令嬢は目を閉じた。まぶたの裏に、今日出会った令嬢たちの顔が浮かぶ。リリスの薔薇色のドレス。マリアンヌの薄青。エルサの麦色の髪。セリアの穏やかな目。

そして——彼女たちが語った牝馬たちの名が、静かに浮かんでくる。


白鳥。春風。


クロノージュ領では今夜も、焦心(しょうしん)が仔馬と並んで眠っているだろう。星渚が夜の星を見上げているかもしれない。花杯(はなさかずき)が柵を蹴って馬丁を困らせているかもしれない。星蕾(ほしつぼみ)が静かに飼い葉を食んでいるかもしれない。幻夢(げんむ)が誰も気づかない場所で、ひっそりと何かを探しているかもしれない。星陣(ほしじん)が——黒鉄の母として、厩舎の一番奥で、誇らかに眠っているかもしれない。


令嬢はその一頭一頭を、脳裏に思い描いた。

彼女たちは今は、この大陸の片隅に静かに暮らす牝馬に過ぎない。帝都の競馬新聞に名が載ることもなく、大観衆の歓声を浴びることもなく、ただ山の風を受けながら、草を食み、子を産み、大地に根を下ろしている。


しかしその命は——。



**八、血統地図へ**


ここで語り手は一歩、物語の外へ出る。時は流れる。


令嬢が帝都のサロンで手を取り合ったあの春の日から、十年が経ち、二十年が経ち、やがて一世紀が積み重なった。


クロノージュ公爵家は「至高の牝系の守護者」と呼ばれるようになった。その称号は、令嬢の存命中から始まり、代を重ねるごとに揺るぎないものとなっていった。

連合王国の競馬界が東嶺馬系の強健さの価値を公式に認めたのは令嬢の没後三十年のことであり、側対歩の遺伝的価値が学術的に証明されたのはさらに五十年後のことであったが——その頃にはすでに、東嶺の蹄の血は、大陸全土の競走馬の体の中に静かに、しかし確実に広がっていた。


焦心の血筋は、第一牝族の始祖となった。

星渚の血筋は、第二牝族の始祖となった。

花杯の血筋は、第三牝族の始祖となった。

白鳥の血筋は、第四牝族の始祖となった。

春風の血筋は、第八牝族の始祖となった。

星蕾の血筋は、第九牝族の始祖となった。

幻夢の血筋は、第十二牝族の始祖となった。

星陣の血筋は、第十六牝族の始祖となった。


それらの牝族は、やがてこの大陸で生産されるアルブレッドの、圧倒的大多数の血統書に名を刻むこととなった。第一、二、三、四、八、九、十二、十六——八つの主要牝族の始祖牝馬たちは、それぞれに歴史の彼方へと名を残し、彼女たちの血を引かぬアルブレッドを探すことは、やがて不可能に近いほど稀なことになっていった。


しかし、それは遠い未来の話だ。

今はまだ、令嬢がクロノージュ領への帰路につく、一つの夜に過ぎない。



**結び——紫百合は永く**


馬車の中で、令嬢は目を開けた。


窓の外に、クロノージュの山が見えてきた。夜空を背景に、黒い稜線がのびやかに続いている。あの山を知っている。あの山が作った馬を知っている。あの山の雪の中を、晴斗と共に歩いたことを知っている。


令嬢はそっと、窓に手を当てた。指先が冷たいガラスに触れる。その向こうに、山の夜の空気がある。


「志郎」

「はい」

「今夜、厩舎を一度回ってから眠ろうと思う」


志郎が柔らかく笑った。

「いつものことでございますな」

「いつものことだ」


令嬢も、かすかに笑んだ。

馬車が山道を登っていく。蹄の音が石畳に響き、夜の山に吸い込まれていく。車窓に映る令嬢の顔に、帯の紫百合が白く重なって見えた。


——馬は使い捨ての道具ではない。強健な土台なくして、真の血の発展はない。


その言葉は、今夜のサロンでも語られた。明日もどこかで語られるだろう。百年後にも語られるだろう。令嬢が最初にその言葉を口にした日のことを覚えている者が、やがて一人もいなくなった後でさえ——その言葉が示した思想は、大陸の馬たちの血の中に生き続けるだろう。


血は、消えない。

命は、繋がる。

種は、芽吹く。


今はまだ誰も知らない。帝都のサロンで手を取り合った令嬢たちが、この夜、大陸の未来の全てを決定づける種を埋めたことを。山の厩舎で眠る牝馬たちが、数百年後の血統地図を支配することを。東嶺の鋼の蹄の記憶が、何千何万の後裔(こうえい)の体の中に刻まれ続けることを。


クロノージュの紫百合は、今宵も静かに、大地に根を張っている。

春の夜の山風の中に、その香りは微かに、しかし確かに漂っていた。


〔完〕


###### 『クロノージュの紫百合 ゼロ~血と御恩の黎明~』


**【八大牝族始祖一覧】**


* 第一牝族:焦心(しょうしん) (創山の二十名牝筆頭)

* 第二牝族:星渚(ほしなぎさ) (王統の星牝馬)

* 第三牝族:花杯(はなさかずき) (創山の二十名牝)

* 第四牝族:白鳥(シラトリ) (クレイドル家の牝馬)

* 第八牝族:春風(ハルカゼ) (ウィンダミア家の牝馬)

* 第九牝族:星蕾(ほしつぼみ) (王統の星牝馬)

* 第十二牝族:幻夢(げんむ) (創山の二十名牝)

* 第十六牝族:星陣(ほしじん) (王統の星牝馬・黒鉄の母)

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