Karte 0:初通話の夜
はじめまして。
「ゼロ恋」シリーズの第一話になります。
SNSで出会ったふたりが、初めて“声”を交わす夜の物語です。
恋と呼ぶにはまだ早く、けれど、
ほんの少しだけ心が動く――そんな瞬間を描きました。
静かな夜に、そっと読んでもらえたら嬉しいです。
深夜二時。
蛍光灯の白が、冷たく部屋を満たしていた。
凛はノートPCを閉じ、机に腕を預ける。
わずかに開いたカーテンの隙間から、街灯の光が細い線になって床を照らしていた。
静まり返った空気の中、自分の呼吸だけが壁に跳ね返ってくるようで、落ち着かない。
通話アプリを開く。
履歴の中に、ひとつだけ残った名前。
――ナツ。
小さなアイコンを見つめながら、彼女と最初に言葉を交わした夜を思い出す。
---
深夜のチャット欄。
「おつかれさま」から始まる短い会話が、いつの間にか習慣になっていた。
スタンプひとつで終わる夜もあれば、何気ない愚痴や音楽の話で盛り上がる夜もあった。
“声で話したらどんな感じなんだろうね”
その一文を送ってきたのは、ナツだった。
凛は返信の文を何度も消して、結局、「いいかもね」とだけ打った。
あの頃は、画面の向こうの人がどんな声をしているのか、本気で想像したことなんてなかった。
---
呼び出し音が三度、ゆっくりと鳴る。
画面の光が頬を淡く照らす。
スマホを握る指先が、少しだけ震えた。
「……あ、聞こえる?」
ナツの高めの声が響いた。
思っていたより近く、けれどどこか遠くの風が混ざっている。
凛は息を整えて答えた。
「うん、聞こえてる。こんばんは」
「こんばんは。なんか、変な感じするね」
ナツが少し笑う。
「うん。ずっと文字だけだったから」
「ね。こうして話してるの、少し不思議」
イヤホンの奥で、笑い声が弾けた。
それだけで、部屋の空気が少し柔らかくなる。
凛のいる街は、冷たい光と静けさに包まれていた。
どこか遠く、見えない場所で別の夜が、別の音を奏でている気がした。
一方でナツはベランダに出ていた。
スマホを片手に、夜風に髪を遊ばせる。
洗濯物の影が揺れ、遠くの車の音が風に溶けていく。
そのすべてが、彼の声と一緒に耳へ流れ込んだ。
「今、どこ?」とナツが尋ねる。
「部屋。ノートPCの前。いつも通り」と凛。
「ふふ、そんな気がした」
「どうして?」
「声が静かで、夜の中に沈んでる感じ。なんか……光の少ない場所で話してそう」
凛は少し笑って尋ね返した。
「そっちは?」
「外。風が気持ちよくて」
「寒くない?」
「大丈夫。……でも、ちょっと寂しい音がする」
一瞬、風がマイクを撫でた。
ざらついたノイズの中に、二人の距離が静かに浮かんで消える。
「ナツってさ、どうしてその名前にしたの?」
「え?」
「SNSで。最初、ハンドルネーム見たときから気になってた」
ナツは少し考えてから答えた。
「……うーん、特に意味ないけど。夏って、終わるの早いでしょ? だから、好きなのに少しだけ寂しい」
風が止まる。
そのあとに落ちた沈黙が、なぜか心地よかった。
「凛は?」
「響きが好きで。なんか、芯がある感じがして」
「うん、そんな感じする」
ナツが笑う。
「どんな感じ?」
「んー……静かで、優しい」
ナツの声が少し照れているように聞こえた。
それだけで、凛の胸の奥が小さく跳ねた。
「ねぇ」
ナツが囁く。
「ん?」
「こうして話してると、ずっと前から知ってた気がするね」
凛は返事を探したけれど、言葉にならなかった。
ただ、「うん」とだけ、息を吐いた。
夜風の向こうと、蛍光灯の下。
違う空気の中で、同じ時間が流れていた。
---
通話時間は、一時間を越えていた。
「そろそろ寝ようか」
と言い合って、静かな電子音が夜に溶けていく。
凛はイヤホンを外し、窓の外を見上げた。
街灯の明かりが、声の残り香のように滲んでいた。
――ほんの少しだけ、心が変わった夜。
---
ナツはスマホを胸に置き、ベランダの手すりにもたれた。
夜風が頬を撫で、遠くの街の灯が静かに瞬いている。
「……いい声だったな」
呟いた声は、風に溶けて消えた。
けれど胸の奥では、まだその響きが続いている。
彼の笑い声、呼吸、間の取り方――その一つ一つを思い出すたび、鼓動がひと拍遅れて鳴る。
恋だとは言えない。
けれど、もし次の夜も声を聞けたなら、その答えが少しだけわかる気がした。
ナツは目を閉じた。
風の音の中に、もう一度だけ、小さな呼び出し音が響いた気がした。
その音は、確かに遠くの空とつながっていた。
けれど心だけは――ゼロメートルの距離で、寄り添っていた。
2025年11月10日 誤字修正しました。
最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
「声を聞く」という、それだけの出来事に、
どうしようもなく心が揺れる瞬間があります。
この物語が、あなたの夜にそっと寄り添えたなら嬉しいです。
ふたりの関係は、まだ始まったばかり。
これから少しずつ、言葉と沈黙のあいだを描いていきます。
・次回予告(Karte 1:夜明けのメッセージ)
――通話が終わった夜のあと、
凛のもとに、ひとつのメッセージが届く。
「昨日、眠れなかった」
その短い言葉から、ふたりの距離はもう一度動き出す。
次回:Karte 1「夜明けのメッセージ」
朝と夜のあいだで交わされる、二人の静かな往復書簡。




