2話 オオカミ少年は妹に甘い
「ただまー」
「おかりー」
家に帰って短く帰宅の挨拶をすると、同じく短い挨拶が返ってくる。
声の主はリビングにいるようだ。
靴を脱いだその足でリビングに入ると、ラッコのようにお菓子を腹に乗っけて、ファッション雑誌を読み耽る妹の姿がそこにはあった。
「まただらしない格好して……ポテチ床に落ちてんぞ」
「え、まじ? 食べる?」
「食べねえよ、捨てろ。床に落ちたもんをこっちに渡すな」
「いいよあげるよ、稲穂はもう食べないから」
「当たり前だろ食うんじゃない。床に落ちたポテチはもうゴミだ。ゴミ箱にポイしなさい」
「えー、もったいないよー」
「腹壊しても知らんぞ」
このもったいないオバケは大上稲穂。
ずっとソファに寝転がって、ぐだ〜、としているこの女の子こそが俺の妹である。
家では本当にだらしないが、一歩外に出ると背筋を伸ばし、御仏像のような笑顔で町内会の人たちには親しまれている。家では涅槃仏の癖に……
「ねぇお兄ちゃん。ちょっとお願いがあるんだけど〜」
「コーヒーと麦茶、どっちがいい?」
「やりぃ! 稲穂、ココア! お兄ちゃん愛してる!」
「我が家にココアはありません。……買ってこいってか?」
ナチュラルに兄をパシろうとすんな。
自分用のコップに麦茶を注ぎながら、未だにポテチを貪っている妹に問う。
「父さんと母さんは? まだ帰ってきてないの?」
「知らなーい。LANEも来てないし……また遅くなるんじゃない?」
「またか……米くらいは研いどくか」
「じゃあ稲穂、お風呂洗ってくる!」
「そうか。じゃあ頼む」
はーい! と元気な声を聞いて、俺は米袋を取り出す。コップ二杯分のお米をザルに入れていると、バタバタと慌ただしく稲穂が戻ってきた。
「ねぇ! お兄ちゃん!」
「なんだどうした。床に水溜りを作るより大変なことか?」
「え? あ、やべ……いや、そんなことより!」
ほう。そんなことより。
大変な後片付けよりも、大事と言うか妹よ。
「――また朱音ちゃんをイジメたって!?」
おっと。またとんでもないことを言い出したぞ、この妹。
「妹よ、誰から何を聞いたか知らんが、ネットで得た情報を鵜呑みにするのは感心しないぞ」
「うわぁ、序盤から強烈なジャブを打ってくるなこの愚兄……安心してよ、ソースは朱音ちゃん本人だから」
「一切信用できない情報媒体でウケる」
「朱音ちゃんのこと何だと思ってるの?」
「狂犬」
今日の一件で見せた狂犬っぷり、あれには恐れ入った。さしものオオカミ先輩でもビビったよ。間違いなく狂犬病を発症してるね。
知ってるか? 狂犬病って感染症なんだぜ?
つまり森ノ宮もネットミームみたいなもんだ。SMS越しでもチピチャパしてんだよ。
「狂犬って……あんなにお淑やかな子だよ?」
「何処がだよ。バイオレンスの間違いだろ」
「強気な子だけどバイオレンスじゃないでしょ」
「今日、人の股ぐら蹴ろうとしてたぞ」
ついでとばかりに俺は罵倒された。お淑やかさの欠片も感じなかったぞ。
「やめて、朱音ちゃんを酷く言わないで」
「事実なんですけど……」
「稲穂は夢を見たいの。大天使アカネエルの慈悲を得たいの。そのために一日三回の祈祷も欠かさずやってるんだから……」
「お前、友達のこと御神体として見てんの?」
稲穂は質問に答えず、LANEを開いたスマホ画面に向かって拝んでいる。絵面が完全にカルト宗教である。
そもそもアカネエルってなんだよ。邪神か何か?
「俺はお前が将来、変な宗教にハマらないか心配だよ」
「大丈夫、アカネエルが護ってくれる」
「既に手遅れだったか……」
バカは死ぬまで治らない、と言う。俺は一生涯を通して、このバカと付き合わなければならないのか。誰かこの子を貰ってくれ。変な虫じゃなければ、俺は歓迎するぞ。
「で? 森ノ宮がなんだって?」
「……あ、そうだ。稲穂、イジメは良くないと思う」
「してねぇよ……俺がすると思うか?」
「いじるくらいは……しそうかな?」
「それは……まぁ、するかも」
俺が言うと、ここぞとばかりに稲穂の声が張り上がる。
「するんじゃん。お兄ちゃん、有罪!」
「残念、裁判は検事と弁護士がいて成り立つものだ。そして俺に弁護士はいないから、裁判にすらならない。つまり俺は無罪だ」
「これは私刑だから裁判じゃないよ」
「ここに悪魔がいます! 助けてください!」
「小悪魔だよ。ところでお兄ちゃん、ココアまだ?」
「今から買ってこいと? コーヒーで勘弁してくれ」
そう言うと稲穂はうぇ、と舌を出した。
「苦いから嫌だ」
「ミルク入れるから」
「じゃあ許す」
はいはい、とコーヒーの豆を小匙一杯掬い、俺はソファに座ろうとする稲穂に向けて言う。
「風呂掃除はどうした?」
「……あ、忘れてた!」
「床も拭いとけよ、びっちゃびちゃだからな」
「はーい」
元気のいい返事を聞き、俺は視線をザルの中のコメに戻した。
「ねぇお兄ちゃん、一応明日、朱音ちゃんと話しておきなよ」
「……わかってるよ。面倒事はごめんだけどな」
「確かに! 自分第一にね、お兄ちゃん!」
視界外から聞こえた声は、今日も快活に笑っていた。




