11話 赤ずきんと女の子
「何が、起こってるの……?」
教室の空気が、昨日から一変していた。
昨日までは刺すようだった空気が、今朝は不自然なほどに穏やかだった。
周囲を見渡そうとすると、一斉に視線が逸らされた。クラスメイトの挙動が、明らかに怪しい。
しかし、変化した空気の中にあっても、一つだけ変わらない空気が、微風のように近づいてきた。
「朱音ちゃん、おっはよー!」
「稲穂ちゃん……おはよう」
稲穂ちゃんだ。いつもと同じ愛らしい笑顔で、ぶんぶんと大きく手を振っている。その笑顔を見ると、ざわめいた心が少しだけ溶けていくような気がした。
「んー? どしたの、朱音ちゃん?」
その可愛らしい声に、思わず心臓が跳ねる。
「え……な、何が?」
「何か、気になることでもあるの?」
……この子は少し、鈍感なのだろうか。
あのオオカミ先輩も鈍感なところがあるし、きっと大上家の遺伝なのだろう。
「ちょっと、ね……」
「ふーん? ……あ、もしかしてさ」
ちょいちょい、と小さく手招きをして「耳ぷりーず」と囁き、わたしに耳を近づけるように促した。わたしも手掛かりを得られるなら、と耳を近づける。
「ーーお兄ちゃんと何かあった?」
鈍な言葉のナイフが胸を刺す。
まったく別方向からの口撃が、わたしの心を抉り取った。
「な、な、なにを……?」
「あー! その反応、何かあったんでしょ昨日ー! 二人で一緒にいたもんねー!」
「ち、違うかりゃ!」
「かりゃ? 朱音ちゃんかわいいー!」
噛んだ。顔と耳が熱くなり、恥ずかしさで心臓が飛び出しそうになる。
口から言葉の毒が出そうになったところを、慌てて手で口元を押さえる。
危ない。毒を許してくれるのは、あの先輩だけだ。間違っても、稲穂ちゃんに向けて使ってはいけない。
「うぅ……本当に、何もないからぁ」
「それは嘘だよー。朱音ちゃん、嘘下手だねー」
嘘が下手そうな子に、嘘が下手とか言われた。
「稲穂は十六年も嘘つきさんと付き合ってるプロですから! その程度じゃ見抜けますとも!」
「……十六年?」
「うん。稲穂が生まれてから十六年」
その嘘つきは……家族の誰か……いや、思い当たるのは一人しかいない。心臓が高鳴るのを感じながら、わたしは顔を上げる。
「……まさか、先輩?」
「うん、お兄ちゃんだよ」
大上真が……あの、オオカミ先輩が?
なにを、なんで、なんのために?
わたしの問いに答えるように、稲穂ちゃんは淡々と語る。
「ずっと。ずぅっと、稲穂のために自分を押し殺してね。稲穂を守ってくれてるんだ。いいでしょ〜?」
楽しそうに自慢している稲穂ちゃんを見て、わたしは目を合わせられず、俯いて目を逸らしてしまった。
しかし興味は尽きない。惹かれている人のことだから、なのだろうか。恋をした代償は、自らに重くのしかかった。
「押し殺す、って……?」
「……それは、」
ここで稲穂ちゃんの言葉が詰まる。何か言いにくい事でもあるのだろうか。
わたしが焦って、「嫌なら言わなくても」と言いかけると稲穂ちゃんは笑顔を止め、ふと遠くを見るような目をして、その場の空気を静謐に塗り替えた。
「昔々の話をするねーー」
ーーー
昔々、とある森の中で、女の子がオオカミさんと一緒に住んでいました。
女の子は才色兼備で、運動も勉強も出来て、異性を問わず憧れの的でした。
当然、女の子に好意を寄せる男の子もいて、女の子は告白をされました。
しかし男の子が好きではなかった女の子は、この告白を断りました。
それに怒ったのが、男の子が好きだった蛙さんでした。
蛙さんは女の子を妬み、仲間と一緒に女の子をイジメ始めました。
それに気付いたのが、オオカミさんでした。オオカミさんは女の子と蛙さんの間に割って入り、蛙さんの顔を殴り飛ばしました。
『女の子を傷つけるなら、これ以上に痛い目を見るぞ』
オオカミさんは怒り心頭。
普段は言わないような罵倒を口にして、女の子を守りました。
しかしそれを見ていた他の動物さんたちは、オオカミさんを悪者にして怖がり、森の中から追放しました。
女の子は別のところで、オオカミさんと幸せに暮らしました。
ーーー
「めでたし、めでたし」
「童話……?」
「うん。昔々の話だよ」
聞いたことがない物語……何の物語だろうか?
そう疑問に感じていると、稲穂ちゃんは静かに語った。
「これはね。稲穂とお兄ちゃんの話なんだ」
そう言われ、内容を思い出す。
まさに、衝撃の出来事だった。
「じゃあ、追放って……殴り飛ばすって?」
「昔、稲穂はイジメられててね。それを知ったお兄ちゃんが、そのイジメていた人に手をあげたことがあるんだ」
「先輩が、本当に?」
「うん、びっくりだよね。稲穂もびっくりしたもん。それがキッカケで、その地域では『大上真は危険』ってレッテルが貼られてね。居心地が悪くなった大上家は、今いる地域で幸せに暮らしているの」
だからパパもママも仕事場が遠くてね。毎日大変そうなんだ。
そう言葉を続けた稲穂ちゃんの顔を、わたしは見られなくなっていた。
言葉が出ない。こんな明るい笑顔で、紡がれる過去話ではない。
「でも、お兄ちゃんには感謝してるんだ」
「感謝?」
「うん! だってさ――稲穂を守ってくれた、庇ってくれた、稲穂を笑顔のままでいさせてくれた。それだけで、稲穂は救われたんだよ」
透き通るような瞳で語る稲穂ちゃんの顔を、わたしはどうしても見れなかった。
「だから稲穂は、いつも笑顔でいるんだよ。お兄ちゃんが守ってくれたこの笑顔を、みんなに自慢して見せたいもん!」
そうか。彼女は――大上稲穂は、彼に救われているんだ。
過去には囚われず、今だけを見て、大上真を自慢の兄だと見せているんだ。
――わたしは、どうだ?
わたしには、何があるだろうか。
「だからね。稲穂はずっとお兄ちゃんと一緒にいたいの。兄妹だからね。一緒に家でダラダラしたいし、ワガママだって言いたいし、この前のデートもそう。稲穂は、お兄ちゃんの前では可愛く在りたいからね」
この前のデート。弱りきったわたしを、先輩が介抱してくれた時、わたしは何を思った?
「お兄ちゃんには幸せになってほしい。だから稲穂なりに……ううん、わたしなりに、お兄ちゃんを幸せにしてきた」
すると、わたしの肩がガシッと稲穂ちゃんに掴まれた。少し力が入っていて痛いが、そんなことを気にする暇もなく言葉を投げ掛けられる。
「わたしね、朱音ちゃんがお兄ちゃんを幸せにしてくれるって思ってるの。だって、一番お兄ちゃんを知ろうとしてくれてるのは、知る限りでは朱音ちゃんが一番なんだもん」
過大評価だ、と思う。稲穂ちゃんの期待に応えられる気がしない。
――始業のチャイムが鳴る。
「また後でね」と去っていく稲穂ちゃんを見送りながら、わたしは胸に手を当てて息を吐き、心の奥底に灯った熱のありかを確かめた。




