思い出すだけで、壊れてしまう
腕の中で小さく息を漏らす彼女を見つめながら、俺はどうしようもない違和感を抱えていた。
真っ暗な部屋で、ただ互いの体温だけを求め合う──そんな夜は、もう何度目だろう。
彼女の名前は、宇和島亜美。
同じ大学に通うクラスメイト。誰もが振り返るほど美しいのに、なぜかいつも一人だった。
群れず、笑わず、誰ともつながらず。
同じ空間にいても、まるで彼女だけが別世界にいるような、そんな存在感だった。
近づけば壊れてしまいそうで、誰も深く踏み込もうとしなかった。
俺もそのひとりだった。……最初は。
あまりに綺麗で、つい目で追ってしまった。
ただそれだけの始まりだった。
だけど気づけば、彼女と俺は体を重ねる関係になっていた。
付き合っているわけじゃない。
いわゆる、都合のいい関係──セフレってやつだ。
最初のきっかけは、家が近所だったこと。
大学の最寄り駅から少し離れた住宅街。
俺のボロアパートの向かいに、彼女の住む綺麗なマンションがあった。
彼女は、決して自分の部屋に俺を呼ばなかった。
いつも俺の部屋にだけ来て、そして帰っていった。
まるで、自分のことは何も明かさずに、俺のことだけを少しずつ消費していくように。
「……何考えてたの? 黒瀬」
ベッドの上、布団にくるまりながら、彼女がぽつりと尋ねてくる。
こういう時の勘だけは、やけに鋭い。
俺が、行為の最中にぼんやりしてると、すぐに気づく。
「いや、大したことじゃないよ」
「気持ちよくなかった?」
「気持ちよくなかったら、イってないだろ……」
「なら、いいけど」
***
「……貴方、ストーカー?」
それが、彼女と俺が交わした最初のまともな会話だった。
まだお互いの家を知らなかった頃。大学からの帰り道、何度も顔を合わせる俺を見て、彼女はそう言ったのだ。
正直、失礼な話だとは思ったが──たぶん、彼女にはそういう経験があったのだろう。
「もし俺が本当にストーカーだったら、襲われてたかもよ?」
「うーん……でも、黒瀬はそういうタイプじゃないって分かってたから」
妙に自信ありげに言うその様子に、俺は言葉を失った。
そして彼女は、いつもの無表情を緩めて、少し笑った。
「だからこそ、こういう関係になってるんだけどね」
その時、俺は思った。
この人には、きっと勝てない、と。
いや、勝ち負けじゃない。
俺は彼女に、何一つ勝るものを持っていなかった。
彼女は成績優秀で、実験のレポートは常に最高評価。同期の中でもトップだった。
試験も、全科目で上位十位以内に入っていた。
「私、一浪してるの」
そんな風に、ある日ぽつりと彼女は言った。
なぜ急に打ち明けてきたのかは分からない。
だけど、俺も実は一浪だったから、妙に親近感を覚えた。
彼女は不器用なくらい律儀だった。
だから、自分だけ何も話していないのが気になったのかもしれない。
俺は、試験前になると友人から過去問をもらってしのいでいた。
でも彼女は、そういうことは一切しなかった。
「過去問? 見ないよ」
あっさりそう言われて、驚いた俺が理由を尋ねると──
「だって、答えが分かるなら、見ても見なくても同じでしょ?」
その一言に、俺は言葉を失った。
この人はきっと、俺と違う次元で生きてる。
もしかすると、人間じゃないのかもしれない。
そう思ったくらいだった。
でも、体を重ねる時の彼女は、紛れもなく血の通った生身の人間だった。
そのギャップが、俺を惹きつけて離さなかった。
唯一、彼女が人間らしくなれるのが、ベッドの中だけだった。
声を漏らし、息を荒げて、俺にしがみつくその姿が、彼女が確かにこの世界にいる証のように思えた。
彼女は、まるで幽霊みたいだった。
俺は、そんな幽霊に、取り憑かれていたのかもしれない。
***
それからしばらくして、俺は彼女に言ってはいけないことを言いかけた。
逢瀬の夜。何度も体を重ねたあと、朦朧とした頭で、俺はつい言葉をこぼしかけた。
「なあ、亜美……俺たち……」
そこまで言いかけた瞬間、彼女はキスでその言葉を塞いだ。
強く、深く、一方的に。
わかっていたのだ。
この言葉の続きを、彼女は望んでいなかった。
関係に名前をつけることを、拒絶したのだ。
「それはダメだよ、黒瀬」
少し困ったように微笑んだ彼女は、そう言って俺の腕の中で目を閉じた。
その夜が、最後だった。
翌朝、彼女はいなかった。
それ以降、彼女からの連絡は途絶え、姿も見かけなくなった。
──終わってしまった。
大学でも近所でも、彼女の姿は二度と現れなかった。
まるで最初から、彼女なんて存在しなかったかのように。
それから三日後。
講義が始まる直前、教授に名前を呼ばれた。
「黒瀬くん、ちょっと来てくれ」
講義室の前で、スーツ姿の男が二人待っていた。
警察手帳を見せながら、彼らは言った。
「宇和島亜美さんの件で、少し話を聞かせてほしい」
頭が真っ白になった。
何が起きているのか分からないまま、俺は頷いていた。
「彼女がここ数日、行方不明になっていたのは知っているね?」
その言葉に、俺はようやく気づいた。
「……だったって、どういう意味ですか? 見つかったんですか!?」
彼らは少しだけ沈黙し、そして頷いた。
「昨日、自宅の浴室で遺体が発見された。死因は失血性ショック。
手首を切り、水を張った風呂に身を沈めたらしい。
部屋からは遺書のようなものも見つかっている」
俺は、何も言えなかった。
***
安置所で、静かに横たわる彼女と対面した。
綺麗な顔だった。
初めて彼女を見たときと、同じ感想が浮かんだ。
でも、そこにいたのはもう、触れることも話すこともできない「亡骸」だった。
青白い肌。蝋細工のように硬い表情。
現実味がなかった。まるで夢の中の光景みたいだった。
「亜美!」
扉が開いて、男女が飛び込んできた。彼女の両親だろう。
俺はその場をそっと離れ、廊下に腰を下ろした。
「黒瀬くん、話せるかい?」
刑事がひとり、俺の隣に腰を下ろした。
優しい声だった。俺を責めるでも、詮索するでもなく、静かに言葉を重ねてくれる。
「君の知っている範囲で構わない。……少しだけ話を聞かせて」
俺は、機械のように質問に答えた。
彼女の生活。いつも通りだったこと。
特別変わった様子はなかった──と。
やがて、安置室の扉が開き、彼女の父親が出てきた。
目は腫れあがっていたけれど、どこか毅然としていた。
「……君が、黒瀬くんか」
俺は頭を下げた。何も言えなかった。
「付き合い始めたのは……1年前くらいかな?」
「……はい」
「その頃からね、娘は少し元気になったんだ。君のおかげだよ」
「……え?」
信じられなかった。
罵られると思っていた。責められるべきだと覚悟していた。
でも、彼はそう言ってくれた。
そして、隣の刑事が重く口を開いた。
「君は、自分を責めているかもしれない。でも──君は少し、勘違いをしている」
刑事は、静かに、丁寧に、語ってくれた。
彼女の死の、真の理由を。
彼女は妊娠していた。
──でも、その子は俺の子じゃなかった。
相手は、大学の准教授だった。
彼女が入ろうとしていたゼミの、指導担当者。
残されたラップトップに、日記のようなものがあったという。
ただし、それは「日記」とは呼べない。
そこに記されていたのは──
いつ、どこで、何をされたか。
ただ、それだけだった。
最初に襲われたのは、入学してまもない頃。
質問のために研究室を訪ねたときに、無理やり……。
その後も、脅され、支配され、彼女は一人でそれに耐え続けた。
経口避妊薬を飲んでも、防げなかった。
妊娠が発覚したのは、俺との最後の夜の前日だった。
中絶には入院が必要だった。周囲に知られるのも、身体にも負担がかかる。
彼女は、それに絶望し、命を絶った。
俺は、全てを理解した。
なぜ、彼女が俺に頼らなかったのか。
なぜ、関係に名前をつけさせてくれなかったのか。
彼女は、自分の心を守るために、俺という「逃げ場」を持っていた。
でも、俺は彼女の全部を救えなかった。
彼女は、優しかった。優しすぎた。
誰も責めなかった。両親も、俺も、加害者すらも。
誰も巻き込まず、自分だけを終わらせた。
それを「強さ」と呼べるだろうか?
そんな優しさが、そんな自己犠牲が、俺には許せなかった。
「……ごめんなさい。俺、何もできなかった……ごめんなさい……!」
その場に崩れ落ちて、声をあげて泣いた。
彼女の父親が、俺を抱き締めてくれた。
「君のせいじゃない。君のせいじゃないんだよ」
──きっと、そうなのだろう。
でも俺は、彼女以上に誰かを愛することなんて、もうできない。
これは、ただひとりの女に取り憑かれた男の話。
くだらなくて、どうしようもない、たったひとつの恋の話。
でも、それは俺の人生を壊すには十分だった。