雨の日と、私-b
雨が降っていた。雨粒は、そのひと粒ひと粒がよく見えるほど大きくて、絶え間なく地面を打ちつけている。あたり一面は、草原。雨雲に覆われているおかげで、鮮やかなはずの緑はくすんで見える。そこを横切るひとすじの道には、車の通った跡がうっすらと見える。それを取り囲んでつかみそうなのは、背の高い草たち。いずれも、ひとしく雨に洗われていた。
道沿いのとある場所に、小さな建物があった。所々が錆びている、青いアーチ状の屋根。その下のベンチには、人影が佇んでいる。上半身を黄色のパーカーで覆っていて、可愛らしい目のついたフードを深く被っている。また、頭頂部と肩を、雨粒で染めている。彼は、ちっとも青くない空を見上げて、項垂れるように、ブリキの壁に頭を寄りかけていた。
風が吹く。彼の右頬と腕を少し濡らすと、ぎっ、ぎっ、とベンチが歪む音を立てる。小屋が軋む音がする。バラバラと、屋根が耳障りな音を鳴らす。また風が吹く。今度は正面。顔全体に水滴がまばらに打ち付ける。彼は軽くため息をつくと、もう限界まで延ばされたフードをさらに深く被ろうとする。
「いたたたたっ!これ以上は無理だよ!」
声が若干、響く。少年のような、しかし少し高めの声だった。
「えー、こういう時のフードなんだけど」
「だからってこんなことしないでよ。暴力反対!」
また、声が響く。さっきよりは低い、しかしまだ高めの、別の声がする。一瞬、フードの眼が、ぎょろっと動いた気がする。
「君は今こそボクのために役立つべきだよ。ほらほら、ご主人様の顔が濡れてしまいますよ?」
「かってに濡らしとけばいいじゃない」
彼は、フードのおでこの部分を、思いきりぐいーっと引っ張る。
「ぎゃーーーっ!」
悲痛な声が響く。彼はフードからぱっと手を離す。
「妥当だね」
「いいや、明らかに過剰!」
雨は止む気配を見せない。依然として、眼下に広がる自然に水滴を打ちつけている。草木の中には、雨粒に押し潰されそうなものもあった。それは無情だった。だけど、救済でもあった。そして、平等であった。
彼は、そんな自然をぼーっと眺めている。ひとりだけ、平等でない小屋に守られながら。
「ねえ、ボクは誰だと思う?」
パーカーを着た彼が、誰かに向かって話しかける。
「ん?誰って……エノに決まってるじゃないか」
「そうなんだけど…言い方を変えるね。ボクは、何者だと思う?」
「何者、か。少なくとも、僕の相棒。そして、尊敬すべき保護者でもある。僕は、君のことを信頼している。君は少なくとも、ひとりからは信頼されてる身ってことだ」
「続けて」
「あとは誰かに聞いてみなきゃ分からないさ。もし僕が他の誰かにとっての君をでたらめに話すなら、それは君じゃなくて、僕の中にいる君だ」
「へー、意外といい感性してるんだね」
「意外とってなんだ、意外とって…。で、なんで僕にそんなことを聞いたの?」
「いやぁ、ボクが何者なのかを知りたくてさ」
「そんなの、君自身がいちばん分かってる事じゃない?」
「いいや。確かに、ボクしか知り得ないボクの情報は沢山あるし、感情は特に、まだ誰かに完璧に伝える手段を知らない。だけど、ボク自身が何者なのかは、ボクには知り得ないんだ。それはボクの心ではなくて、みんなの中にあるボクだから」
「僕たちは、君を映し出す鏡ってわけだ」
「そう。だけど……」
「だけど?」
「……いいや、なんでもない。」
エノと呼ばれたその人は、しきりに降りそそぐ雨を視界の下に追いやりながら、遥か上に聳える雲を眺めていた。少し眠くなってきたのか、ベンチで寝転ぼうとする。肘にひんやりとした感覚が走って、やめた。
仕方なく、またブリキの壁に頭を打ち付けて、雲が逃げていくのを待つ。いつまでたっても彩色を取り戻さない空に、心底うんざりしているようだった。
「……冷たい」
「ごめんって」
新しく作った染みをちらっと見て、言葉を返す。
「さっき、ボクは何者なのかを聞いたよね」
「そうだね」
「ボクはね、何者かになりたかったんだよ。世界のみんなの中で、良い印象でも、悪い印象でもいいから、誰かの心に残りたかった。できれば、良い印象の方がいいけどね……。ボクにはライバルが沢山いる。ボク以外の人間全員がライバルさ。そしてその人たちは同時にターゲットでもあり、オーディエンスでもある。さらに言えば、それがモチベーションでもあり、デモチベーションでもあったんだよ」
「横文字が多いね」
「うん……誰かの心に残るには、ボクは発信者である必要があった。色んなことをやったよ。だけどある日、ひとりのライバルはボクにこういう言葉をかけた。ボクの言葉はたまらなく滑稽で、恥ずべきものだと。とても幼稚で、馬鹿馬鹿しいものだと。そのライバルが、どういうつもりでボクに言葉をかけたのかは分からないけど、それはボクを呪うのに十分なものだった」
「呪い、ね」
「そのとき、ボクは発信者であることを諦めかけた。発信者として死んでいたと言ってもいい。今でも心に残っているよ……。それが今ではいい経験になったと言えるのは、ボクが成長した証かもね。あの死体だった期間は、進化の待機だった」
「その真意は仇、と」
「そうかもしれない。ボクはいつか、ライバルたちを見返してやりたいと思っているのかもしれない。でも、それは僕の目的じゃない。ボクがやるべきことは、ボクの知り得る全てを知って、それをこねくり回して、どこかに吐き出すことだ。鏡の中のボクを、なりたいボクに変えるためにね」
「それは、達成出来たのかい?」
「いいや、まだだと思う。でも、少しずつ頑張ってみているところだよ」
「ふーん」
「あとそうだ。ボクが発信者でいる上で、ひとつ気をつけていることがあるんだ」
「何?」
「鏡も、たまには嘘をつくってことさ」
さんざん降り注いでいた雨はいつの間にか上がっていて、雲の晴れた空には虹がかかっていた。空の青はどこまでも続いていくようで、世界が広くなった気がした。草木は色を取り戻して、きらきらと雨雫を輝かせている。少し眩しくて、だけど、ずっと眺めたくなるような景色だった。
「さて、行こうか」
エノは立ち上がると、少し身なりを整えて、東のほうへ歩き始めた。
あとがき:
「エノは、なんで発信者であることを諦められなかったの?」
「んー……そういうものは、些細なきっかけで終わって、些細なきっかけでまた始まるものだよ」
この小説は、時雨沢恵一さんの「キノの旅」にインスパイアされて制作しました。素敵な作品をありがとうございます。