白痴
幼い頃、東名高速道路は道路や壁が透明だから速く走れるんだと思っていた。波浪警報は外国人に気を付ける警報だと思っていた。台風一過はサザエさんのエンディングみたいに常に慌ただしい一家なのだと思っていた。
加齢臭はインド人から漂ってくるのだと思っていたし、職権乱用は近所のカレー屋さんでできる不正だと思っていた。
極めつけは、音楽の授業で「カントリーロード」を歌う度に「心なしかほ蝶」とはどんな蝶だろうかと考え込んだ。
私は純粋な人間だった。人の言うことを素直に信じて、真面目に生活していた。
小学生の頃はそれで良かった。しかし中学校に上がってからそうはいかない。それに気付くのに半年かかった。
人間の口から出ている言葉が全てではない。心の奥底に秘めている悪い事やずるい事がたくさんある。
それに気付いた私は、私自身も悪くならなければいけないと思った。このままでは学校にいるのが嫌になるような気がした。
しかし私にはできなかった。悪い事は良くない。真面目なのが一番良い。人の言う事を素直に信じてそれに従う。悔しいけれど、それしか私にできることはなかった。
たとえ悪い人間になろうとしても、自分の純粋さが勝ってしまうだろう。だから悪い人間になるのは諦めた。
しかし「いい人」は人生で損をする。それに気付くのに十年かかった。
理不尽な事を言われても言い返せない。それに従うしかない。「はい」と言うしかない。間違っていても「はい」。明らかな嫌がらせでも「はい」。大丈夫かと聞かれても「はい」。
結局私は仕事前に飲酒をする事で脳を麻痺させられることに気が付いた。そうすれば何もかも楽しくなる。嫌な人間は気にならないし、言っている事は耳が遠くなり聞こえない。「はい」だけ言っていれば良いから苦しくなかった。
しかし、これが真面目か?
これが誠実か。
仕事の朝礼で、責任者が「ヒヤリハット」という言葉を使ったため、私は「ヒヤリハットってどんな帽子ですか」とおどけて聞くと、責任者はつっけんどんに「事故防止だよ」と言った。
私はそれがおもしろくて声を上げて笑った。笑っているのは私だけだった。
ドストエフスキーのパクリです。