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遊園都市

作者: 御宝候 ねむ

久しぶりの書き下ろしです。


昔から、恋愛物語を書くのは苦手で。知人に頼まれても、深い描写を避けながら、抽象的に描いてきました。ですから、私は恋愛をテーマにした物語は書かないようにしています。

しかしながら、「恋」とは文学の根源です。避けては通れぬ道。この作品は約一ヶ月、悶々としながら書きました。その中で、改めて「恋」というものと「文学」の切っても切り離せぬ感覚を感じました。


この物語は、「恋愛物語」でも「恋愛をテーマにした物語」でもありませんが、「愛」を題材としたものだと自負しております。


それではどうぞ、お楽しみ下さい。

新月の夜。空が綺麗な夜に街中を歩いてみる。

目に映る景色は、星空というより人々による光。

建物の窓から漏れる光や街灯。

都会で輝く星を見ることは難しい。

大通りから脇の道に入ってみると閑散とした細い道を歩く事になる。

先ほどまでの、夜でも明るい道とは対照的に、数十メートルごとに立つ外灯では暗闇が多い。

こんな道を歩いていると、演劇舞台に一人、立っているにも関わらず、スポットライトで照らされない光景を想像してしまう。

演劇舞台は、小学生の頃の学芸会以来立っていないが。

憧れはあった。

舞台に立って、皆の前で何かを表現、演技をする。

学生時代は演劇部に入部するか迷った。

だが、困った事に、始める一歩を踏み出せなかった。

必死に台本を覚え、記憶した事をそのまま話せば良かった小学校の学芸会では、上手いと誉められていたが、演劇を専門として扱う演劇部では、覚えた事のアウトプットでは不十分である。

演劇を始める前から自らの可能性に蓋をして、出発点に立つ事もしなかった。

それでも何かを表現することへの憧れは止まず、文芸部に入部し、学生時代は文章を書いて、書いて、たくさん書いた覚えがある。

昔から文章を書くのが好きだった。

小学校低学年の頃、学校の課題で書いた作文を母親に誉められたのがきっかけだったと思う。

嬉しかった私は、日記なようなものを書き始めた。

初めて物語を書いたのは小学六年生の頃。

学校の更衣室にあるロッカーがタイムマシンになっており、偶然その中に入って、過去へ時間旅行をしまった少年が歴史を改変してしまい、元の時代に戻ると核戦争が起こっていた。事態を重く捉えた少年は、再び過去へ戻り、改変を修正して戻ると、以前までとは微妙に違った世界へ帰ってきた。その後、少年は歴史を修正した功績により、時間旅行を管理する管理局員になる。

そんなお話だった。

小学生がよく考えそうな、それでいて時間旅行モノをしっかりと考えた上で書いてあると、後に読み返して思った。

文章自体は稚拙極まりない駄文であったが、それは今なお変わらない。

文章を、物語を書くのが単純に楽しかった時代は何本も物語を書いていた。

百まではいかないものの、数十作品は書いた。

しかし、ある時。突然、物語を書く事を辞めた。

高校二年。当時は文芸部に所属していた為、文章自体は書いていた。

学内の作文コンクールで、教員を始めとした選考委員が選ぶ最優秀賞と、生徒が選ぶ特別賞を獲得し、二冠を達成するなど実績も残している。

だが、物語は書かなくなった。

確かに、勉強が忙しくなってくる時期であり、物語なんて書いている場合ではなかったのかも知れない。

当時、心にあったのは、自分が書く物語への絶望であった。

私は文章が、物語が「書ける」訳ではない。「書いている」に過ぎない。

学校で隣の席に座る凡人でも、書けば同等の物語が完成してしまう。

表現者たる者たちと私の書く物語は雲泥の差、天と地ほどの違いがあった。

そんな絶望であった。

そもそも、私は文学的な人生を歩んでいない。

生活は決して裕福じゃない暮らしだった訳ではない。

好きなものを買えたし、好きなものを食べる生活が出来ていた。

旅行へも適度に出掛け、日常生活でお金を気にした事は人並みにしかない。

小学校を卒業して入学した中学校は男子校。

高校も同様で、中高の学生時代に恋はなかった。

友人も適度に。側から見て仲間はずれではない程度に。

学友とのくだらない会話なんてほとんどなかった。

私のこれまでの人生でそばにいたのは、私の書く文章を誉めてくれた人。

母親くらいしか浮かばないものだ。母は優しかった。

それくらいだろうか。文学的な人生ではない、平凡な人生。

ただ一つ、言えることがある。

幸せだった。

物語は現実に対する不平不満から生まれ出てきて描かれる別世界だと、ある時から考えるようになった。

幸せを感じていた私は物語を書く必要がなかった、書かなかった。

いや、書けなかった。

幸せだった。

私は高校を卒業すると同時に、再び物語を書き始めた。

母が亡くなった。

幸せだと思っていたのに、突如となく襲いかかってきた大切だと思っていた母の早死に。

どうして大切なものばかりが消えていくのだろうか。大切だからそう感じてしまうだけなのだろうか。

私は運命を呪った。その時、再び筆を取った訳だ。

文系大学の文学部國文学科に入学した私は、文芸サークルに所属した。

わざわざサークルに入らなくても文章は書ける。

物語は勝手に一人で書けば良いのだ。

孤独は好きである。だが、孤独に耐えられる自信がなかった。

隣で私を誉めてくれる人が欲しかった。母の代わりに。

母に代わる、大切な人が。

六年間、同性に囲まれた環境に身を置いていた私にとって、文系大学のしかも文学部。その中でも國文学科は女子の割合が多かった。文芸サークルは更に。

女難を恐れた私は、当初うまく人間関係を築けなかった。

だが、大学という環境の特殊性も相まって、人間関係に苦労する事はなかった。

昔から表面上の付き合いは得意だった。

それでも、心の奥では孤独を埋めたいと私は願っていた。

一人でいたい。隣で私を誉めて欲しい。

二律背反。

周りから私はどのように写っていたのか、知る由もなし。

そんな時に彼女に出逢い、恋に落ちた。

人生で初めての経験だった。

彼女と関わっていくうちに愛を知った。

親子の間にあるものとは異なった愛の形。

彼女の名前は「鏡花」。

名字は「いずみ」だが「泉」ではない「和泉」。

因みに、名付けの両親は文学好きだった訳ではなく、偶然らしい。

本人は名前が原因か定かではないが、本を好きになり、文学部、そして文芸サークルに所属する事になったという。私と同学年であった。

きっかけは七月上旬。サークルで文芸誌を制作した時であった。

新入生が書いた作品をまとめて一冊にしたものを作った。

新入生は三人。短編を一作ずつ書いて、先輩たちと校正しながら仕上げた。

印刷を終え、完成した冊子を部室に取りに行ったところ、鏡花が先客としていた。

もちろん、同学年だったので知ってはいたが、当時は顔見知り程度だった。

「お疲れ様です」

定型的な挨拶に対して、彼女は視線を変える事なく会釈で答えた。

その手にあったのは完成した文芸誌。熱心に読んでいる。

私も机に積んであるところから一冊手にとって、鞄に仕舞い、部室を後にしようとしたが、後ろから声をかけられた。

「読んで……いかないの?」

部室で読んでいかない理由はあったが、部室で読む理由はなかった。

だが、呼び止められてしまっては読んでいかない理由より読んでいく理由が優ってしまうと心の中で思ってしまった。

「いえ……。はい」

どちらとも取れる回答をした私は、彼女の斜め向かいのソファーに腰掛け、鞄から文芸誌を取り出し、中を開いた。

短編三作。それほど厚みはない。

掲載順は名前五十音順。

最初は彼女、鏡花が書いた作品。次にもう一人の新入生、最後が私だった。

彼女は文芸誌の中間部分を読んでいる。

私は、彼女が書いた作品から読み始めた。

題名は『その女の子』。

ふと立ち寄った喫茶店で出会った女の子と男の物語だった。

題名や話の内容はさておき、その文章の美しさ、言葉選びに私は鳥肌がたった。

感動してしまった。

商業作家の書く小説とは、残念ながら比べられない出来だと感じたが、私はこの物語が好きになってしまった。

『その女の子』を読み終え、文芸誌から視線を上げると斜め前から視線を感じた。

彼女が何か言いたげにこちらを見つめている。

「えっと。何か?」

「あ。あぁ、すみません。……あのぉ、『ふみあき』さんですよね」

「あ、はい」

「ふみあき」は私の名前であり、筆名である。

「作品、読ませて頂き。感動しました。特に言葉の使い方。同じ意味の言葉を重ねて用いらず、変えて表現する点。日本語の言葉の豊かさを表現するようで。それと、危うさと力強さの両立と言いましょうか、悲しい結末でもしっかりしているんです。読後の不安がないというか」

総括する言葉を探すように、彼女は一拍置く。

「えっと、好きです」

それは私の文章に対する感想であった。実際、そう捉えた。

しかし、私の心が別のベクトルに動いた事を否定しない。

嬉しかった。あまりの嬉しさに沈黙してしまうほどに。

「あの、大丈夫ですか」

「あ、あぁ。ありがとうございます」

「はい。……えっと、私の作品は読まれました?」

「あ、はい。読ませて頂きました。……私も、感動しました。文章の美しさ、言葉選び。この作品に出会えて良かったです」

感想を締めくくるべく、言葉を探したが、浮かんだ言葉は一つしかなかった。

考える前に口にしてしまった。

「私も好きです」

微笑み返した彼女は、私の言葉を私と違った捉え方をしたのか、それとも。

この一件から二人の仲は一気に深まった。


夏休み。希望制の合宿を経て、サークルにも馴染んできた。

先輩との関係は一定の距離感を上手く取りつつ仲良くなり、前期はあまり親交のなかった同学年のもう一人、「まさき」とも仲良くなる事が出来た。

女子の多いこのサークルで同学年に同姓がいるのは心強い。

同じ名前の俳優同様、見てくれが良い。俳優やアイドルをやっていると言われても信じる。そんなオーラを身に纏っている。名前の漢字が「將輝」の分、俳優より「輝」いているかも知れない。

見た目のおかげなのか、本人の性格も相まって、周りに人が絶えない人気者だ。

部室にいれば先輩たちに囲まれていて、大学構内で偶然すれ違う時も誰かと共にいる。

こんな言葉で人を表すのは気がひけるが、分かりやすく、敢えて表現すると、彼は間違いなく「陽キャ」である。

何故、文芸サークルといった現実世界と向き合うことを厭う人も多いサークルに所属しているのか不思議だ。

彼の学部は、経営学部。一応、文系だが文学からは離れたものを専門としている。

同じサークルでなければ、仲良くなるどころか知り合うことすらなかっただろう。

ピースが一つ違えば、全く異なったものになる。

「運命」という名のパズルは面白いものだ。

將輝とは世間話のような、時事的な話をする事が多く、互いの書いた作品について批評しあった事はない。もっと言えば、「本」に関する話題自体、二人の間にはない。

これは、將輝に対して私が無意識のうちに引け目を感じているからかも知れない。

それでも上手くやっていた。

昔から表面上の付き合いは得意だった。

鏡花との関係も前進していった。

初めてお互いの書いた物語を読み、批評した時のように書く物語全てを読み合って意見を交わした。

下の名前で呼び合う仲になり、部室で会った時には一緒に本を読んだり、休日には図書館や本屋へ一緒に行って、カフェで好きな本について語り合ったり。

中高時代には体験し得なかった経験をたくさんした。

大学一年生の生活は、講義やサークル、その他の時間など幸せといえるものだった。


絶望への跫音きょうおんが聞こえ始めたのは新年度。

文芸サークルは、新たな仲間である女子二人を迎えて動き出した。

一人は私と同じ文学部の國文学科。もう一人は將輝と同じ経営学部。

サークルの代表に就任した三年生女子の先輩は、私と將輝にそれぞれの後輩の面倒を見るように言いつけた。同じ学部、私に関しては同じ学部学科だからといった理由だけで。

人選ミスだと感じる。鏡花の方が絶対に向いている。

思えば。昨年、この代表とは違う先輩に色々と教えてもらった気がする。

確か、代表は將輝を担当していた。

私を担当していた先輩は四年生となり、就活や卒論の為にサークルを抜けてしまって、今はいないが。先輩たちの中では一番仲良くなれた人だった。残念に思うが致し方なし。

後輩と仲良くなろうと努力はしようと思った。

だが、昔から後輩は苦手だった。

中高で所属していた文芸部でも後輩はいた。

しかしながら、その関係は師弟に近く、私の書く文章や物語を後輩が尊敬、尊重しているからこその付き合い。実力で従わせていたようなもので、仲が良かったとは言えない。

努力虚しく、まるでビジネスの付き合いのような、必要最低限の説明と会話のみ交わす関係から発展する事はなかった。

対して、將輝は出会った初日で意気投合。あれだけの仲になる為には、私なら何十年と必要になってしまうだろう。

私が担当する後輩も、私との距離より將輝との距離が近くなり、後輩と仲良しになった將輝と私の距離も次第に離れていった。

それでも鏡花は一年生の時と同様に、私と仲良くし続けてくれた。

鏡花は、私と比べれば「人間関係のプロ」と表現してしまいたくなるほど、先輩、同輩、後輩と上手く付き合っている。

そんな鏡花に異変を感じたのは初夏だった。

新入生の文芸誌デビューを終え、後輩の面倒を見る期間が一応の終わりを告げ、講義が試験やレポートなど終わりに向かう頃。

講義を受けていた教室で鏡花を見かけた。

担当の後輩が書いた原稿と睨めっこする日々が続いており、鏡花を見かけるのは久しぶりだった。

百人は入れるほどの教室の奥、端の席。一人ポツンと座っていた。

珍しい事ではない。

鏡花は友人と講義を受けている時もあるが、大学構内では大抵一人で行動している。

將輝と違って、偶然すれ違う時はいつも一人。

だが、様子が違って見えた。感覚的なものだ。どこがいつもと違うという事は出来ない。

何となく、様子がおかしい。

「鏡花ちゃん、お疲れ様」

声を掛けても気づかない様子だった。

「おーい、鏡花ちゃーん」

目に入るように手を振って声を掛けてようやく鏡花は反応した。

「あぁ。ふみあき君、お疲れ。久しぶり」

いつも通りの声音だろうか。少し、元気がないように思える。

「大丈夫かい、元気?」

「うん、大丈夫。元気」

聞いてから気がついた。

「大丈夫?」と尋ねて「大丈夫じゃない」と答える人を私は見た事がない。

多くの人が疲れていて、少し無理をしていても、この程度で弱音は吐けないと本音を押し殺して答えるのだ。

「大丈夫」だと。

この場合は「どうしたの?」や「何かあった?」と具体的に聞く必要があった。

ここまで頭では分かっていたが、いざ行動に移し、口に出来る私じゃない。

鏡花は大丈夫ではない、元気ではない。何かあったのだ。

しかし、本人が「大丈夫。元気」だといっている以上、私はそれ以上踏み込めなかった。

「そう。じゃ、またね」

「うん、またね」

後ろ髪引かれる思いで教室を後にした。


鏡花の様子がおかしかった理由は後に部室で後輩がしていた会話で分かった。

それは私が知りたくもなかった事実であった。

その日、私は部室で本を読んでいた。

入口と入ってすぐにあるソファーからは本棚が陰になって隠れるお気に入りの書斎席で。

部室に入ってきた後輩二人は、入口近くのソファーに座って噂話を始めた。

提供主は將輝が面倒を見ていた経営学部の後輩だった。

「聞いて、聞いて。事件だよ、事件」

「ん、何なに?」

私に盗み聞きしようなどといった気はなかったが、挨拶をするタイミングを逃してしまった。

何より「事件」と言われて話を聞かぬ訳にはいかない。いま挨拶をしてしまえば、この話は中断されてしまうだろう。結果として盗み聞いてしまったに過ぎないのだ。

「將輝先輩、この前、和泉先輩に告白したんだって」

「え……」

「去年から代表と付き合ってたらしいんだけど、ついこの間、和泉先輩に告白したの。代表と別れる事なく」

「え……」

「それで、和泉先輩も將輝先輩を愛していて。その告白を喜んで了承したんだけど、その後、この部室で代表と將輝先輩がイチャイチャ、ラブラブしているのを和泉先輩に見られちゃったんだって」

「え……」

「んで。代表は將輝先輩の二股?浮気を知ってたんだけど、和泉先輩は当然知らなくて修羅場。大変だったんだってさ。ね、事件でしょ?」

「え……待って……」

話を聞いていた文学部の後輩の子同様、本棚の裏で私は動揺を隠せなかった。

知らなかった。何もかも。何もかも。

將輝と代表が付き合っている?しかも、去年から。さらには、將輝が鏡花に告白した?それで、鏡花は將輝を愛していた?

何もかも知らなかった。そして、話はまだ終わっていなかった。

「その話……誰から?」

「え?將輝先輩本人から」

「そう……なんだ……」

噂話の聞き手である文学部の後輩の子は沈黙する。その様子を語り手も黙って見ている。私はどうにか盗み聞いた情報を必死に咀嚼した。

「実は……私も將輝先輩と付き合ってるの」

衝撃の一言。私の思考回路は停止した。真っ白の景色が頭の中と目の前に広がる。

「え……。えぇ!」

話は続く。

「こないだの文芸誌に載せる作品、ふみあき先輩と相談して完成させたんだけど、將輝先輩にも途中経過を読ませて欲しいって頼まれて……」

「うん、うん。それで」

意気消沈で気力を振り絞りながら話す文学部後輩に対し、経営学部後輩は興味津々に話を聞き出そうと相槌を打つ。

「ゴールデンウィーク明けくらいから、ある程度書けたら見せるようにして。週二、三回は会ってたんだけど。六月の初めに好きだって告白されて。担当でもないのに、ふみあき先輩と同じくらい親身に相談に乗ってくれて。私も少し……いや、結構好きになっちゃって。付き合う事になったの」

「あー、あらら」

「將輝先輩が代表と付き合ってて、和泉先輩の事も好きで、和泉先輩も將輝先輩を愛してて。私……知らなかった……」

部室には文学部の後輩の子が大泣きする声だけが響く。経営学部後輩はどう声を掛けたら良いか、どうしたら良いか、ただ背中をさすってあげる事しか出来なかった。

自分の話がきっかけで大泣きさせてしまったのだ。経営学部後輩も今にも泣きそうな表情であった。

私は文学部後輩の告白を聞きながら、やや正気を取り戻し、状況を把握出来た。

結論をいえば、將輝は三股していたという事だ。

なんて奴だ。

しかしながら、止水のように落ち着いた私の心にある感情は怒りではなかった。

部室には一連の話の登場人物である代表がいつの間にか現れていた。

代表の突然の登場に経営学部後輩も泣き出してしまい、代表は二人を慰めながら状況を把握しようと二人の話を聞こうとしたが、二人は泣き叫ぶばかりで言葉にならず。

代表もどうしたら良いか分からず、困っている時に本棚裏の書斎席から出てきた私を呼び止めて状況を確認しようとするが、私も代表と話せる状態になかった。

精神的に。


私は、霊峰の麓にいた。

電車とバスを乗り継いでここまでやって来た。

何故、霊峰の麓に広がる樹海なのか。

鏡花とカフェで語り合ったある日を思い出す。

「私、もし自殺したくなったら……」

「おいおい、怖い話をしないでおくれ、鏡花ちゃん」

「もしも!だって。もし自殺したくなったら、私は霊峰の樹海に行くんだ」

脈絡もなく告げられて驚いた覚えがある。

あぁ、私もここへやって来たんだな。

遊歩道を外れ、立ち入り禁止に構う事なく木々に導かれていく。

歩いているうちにすっかり夜になってしまった。

霊峰の樹海。森の中でただひとり。

夜空には満月が浮かんでいる。

星の光を邪魔する醜き人工光は存在しないというのに、皮肉にも月明かりで星空は望めない。

星光は届かずとも、望月が私たちを照らす。

気付けば、見渡す限りの木。そして、既に亡きものも。

着の身、着のままここまでやって来てしまったが問題はない。

幹を足場にして、枝にぶら下がる古いロープに手を掛け、首を通す。

この世界から旅立つ前にこれまでの日々を思い浮かべた。

厳しい社会情勢の中で私は生まれた。だが、極東の島国の田舎町で生まれ育った私は、世界の動きに大きな影響を受ける事なく育った。

私が影響を受けたものは、両親であり、周辺の数少ない大人や友人であり、自分自身であった。

いくつかの選択もした。「健全」という太い道を蛇行しながら、世間一般的には優秀とされる結果や実績、経歴を残してきた。

だが、やはり私の人生は文学的ではなかった。

特出した事が無い、ありふれた人生。で、ありながら私一人だけのもの。

この世界に、人間が千億人生まれていようが、「私の人生」は私だけのものだ。

その人生が、今。終わりを告げようとしている。

片脚を幹から離す。この世界との繋がりは、ロープ一本と脚一本。

さぁ。この世界とさよならしよう。

私の全体重がロープへ。そして、首へと掛かる。

薄暗い視界が真っ暗になっていく過程で想う。

会いに行く。今すぐそこへ。私のそばにいてくれたあなたがいるところまで。

あぁ、そして。愛している、ごめんね。私は、先に逝く。

視界に残るは、一縷の光。

終わる。

その時、君の声が聞こえた。自暴自棄な私を諭すような、そんな声。

「ねぇ。そうやって自分で全てを終わりにしてしまえば、もう、一生誰にも会えないんだよ、ずっと。この満月の夜に縛られて」

私の目に再び燦々とした望月が映る。

私の身体は暴れ、もがいていた。


私の首元には、黒ずんだロープが巻かれている。

終わらせることが出来ず、私は樹海の地面に落ちて、座り込んでいた。

いつの間にか月の位置が大きく変わり、照らされた景色が全くの別物に見えた。

何か、書きたい。

突然、私は執筆欲に駆られた。

しかし、ここには紙も筆もない。

だが、ここには巨大な原稿用紙が広がっており、文字を刻める筆が転がっている。

私は、落ち葉を退けて、真っ直ぐな小枝を手に取る。

書きたい。書きたい、書きたい。

心ばかりが先行して、頭には何の文章も浮かんでこない。

ふと、木の根元にある空洞にいる小動物が目に入った。

リスだ。

眠っている、いや。体温や脈拍を感じられない。

これは、今まさに生を終えようとしているのだ。

そうだ、このリスを描こう。

私は地面に膝をつき、黙々と手にした枝でリスの物語を書き始めた。

彼ないし彼女は、この雄大な樹海で生まれ、育ち、生きたのだ。

今まで。そしてこれからは、この物語の中で生きていく。

物語を書き終えた時には陽が昇っていた。

木々の隙間から陽が差し込む樹海に立ち、自らが書き上げた物語を眺める。

あのリスは往生しただろうか。私の物語がせめてもの餞になっただろうか。

リスの物語の始まり、私が終わろうとした木の根元に戻り、空洞を覗き込む。

そこにいたのは元気に動き回るリスだった。

自分の勘違いだったのだろうか。いいや、あのリスは瀕死だった。

これは、どういう事だろうか。

生を終えようとしていたリスが、まるで私の描いた物語の中のリスのように元気ではないか。

刹那。私の心臓に激痛が走る。

未だかつて経験した事が無い痛み。声を出す余裕もないまま、私は地面に倒れ込んだ。


視界に広がる白い景色。

ここは、死後の世界だろうか。地獄ではなく、天国にやってこられたのだろうか。

そんな妄想はすぐに終わった。すぐ近くに見覚えのある人たちが座っていたから。

「代表、將輝。……鏡花」

意識を取り戻した私に気が付くと、三人はそれぞれの反応をした。

代表は、冷静に私の寝そべる枕元のボタンを押した。

將輝は、私にのしかかる様に喜びを露わにし、鏡花は涙目で私を叱った。

「……ばか」

しばらくして白衣の集団がやってくると、私の様子をライトや聴診器などを使って確認し、代表に小声で何かを伝えると去っていった。

ここが病院である事はバカでも分かるが、私は状況を掴めずにいた。

「あの、代表。ご迷惑をお掛けした様で。迷惑ついでに、今の状況を教えて欲しいのですが」

私の言葉にため息を吐きながらも、代表はちゃんと説明してくれた。

まず、私が病院にいる理由は、樹海で倒れているところを巡回していたレンジャーが発見したからだという。病院に救急搬送され、私が学生証を持っていた為、病院から大学に連絡が行き、大学から代表の元に連絡が来たのだと。

次に、代表たち三人がここにいる理由だが、大学から代表の元に連絡が来る前に、鏡花が私と連絡が取れないことを代表と將輝に伝えていたのだ。そして、その際に最悪の想定として、私が霊峰の樹海へ向かった可能性も示唆していたという。

私と鏡花は毎日というほどではないが、頻繁に連絡を取り合う仲ではある。そして、互いに返信は早い。私も鏡花と数時間連絡が取れなければ、將輝には相談したかも知れない。そして、鏡花と同じくカフェで語り合ったある日を思い出し、最悪の想定をしたのかも知れない。

大学からの連絡を受けて、代表は私の元へ向かう事となり、その旨を二人に伝えたところ、同行することになったという訳だ。

最後に、私の身体の具合だが、先ほどの診察によると、気絶の原因は過労。特に体に問題はなく、早ければ明日には退院出来るそうだ。

「今の状況は以上。で、君は何があったの?」

一通りの状況説明を聞き終えると、こちらの事情を代表に聞かれ、他二人も興味津々だったが、私は「よく分からない」とお茶を濁した。

本当のことは言っていないが、嘘も言っていない。私は、自分でもよく分からないまま霊峰の樹海にやって来て、よく分からないまま気を失い、よく分からないままここにいるのだから。

実際、よく分からないのだ。

その後、將輝は小言を言って代表と共に病室を出ていった。

「代表。本当にご迷惑をお掛けしました」

「はい、はい。この借りはいつか返してくださいね、精神的で構いませんから」

大学から霊峰の麓近辺までは急いでも二時間以上掛かる。

その距離、時間をかけて来てくれた代表、將輝には迷惑をかけてしまったと心から思った。

一人、病室に残った鏡花と私は二人きりになった。先ほどまで大泣きしていた鏡花の目にはまだ泣き跡が残っている。鏡花には心配と迷惑をかけてしまったと本当に申し訳なく思っている。そして、それだけではなく感謝も。

しかし、その気持ちを素直に言葉にして伝える事は出来なかった。

廊下を歩く患者や看護師の足音や話し声が聞こえるほど静かな病室が続く。

「ホントに……ばか」

沈黙を破った鏡花に返す言葉もない。

「……ごめん」

「本当に、本当に心配したんだから」

再び泣き出しそうな教科を目の前にして、私はどうしたら良いのか分からなかった。

「ふみあき君が『よく分からない』って言うなら、私はそれ以上深く聞かない。だから、私の話を聞いてくれるかな」

断る理由がない。私は黙って頷いた。

「あんまり、私の話って、してこなかった気がするから。……私ね、年齢の割には葬式と縁があるの。小学生の頃に父方と母方の祖父母を亡くしていて。中学と高校では仲が良かった同級生が亡くなっていて。……それと。両親を亡くしているの。中学三年生の時に」

鏡花が話し出した事は衝撃的だった。今、一人暮らしをしている事は知っている。大学近くの部屋に、將輝と二人でお邪魔した事があったから。だが、まさか両親を亡くしていたとは。

「幸い、親戚の人が親切で、大学までは面倒を見るって言ってくれたから、何の問題もなく生活してこられたんだけど。でも、でも……」

言葉に詰まる鏡花を私はただ見つめ、次の言葉を待つ。

「これ以上、周りの人を失いたくないっ……」

それは、切実な言葉だった。無情に、不平等に、理不尽に襲いかかってくる「終わり」と彼女は何度も戦った。そして、ボロボロになりながら、今まで生きてきたのだ。

私は、なんて事をしてしまったのだ。

「ふみあき君。地獄と天国があるかは分からない。でも、人間は日々、いろいろなものを抱えながら頑張っている。頑張りながら続いていく。その、続いていくもの全てを自分で終わらせてしまったら、もう、きっと天国へはいけない。導かれる先は地獄。そうなると、君の近くで頑張ってきた人たちにはずっと会えなくなっちゃうんだよ、きっと」

鏡花が口にする言葉一つひとつは核心を突くまいと抽象的なものだった。だが、その一言一言を咀嚼しながら、既に心に刻まれていた言葉と共に刻んだ。そして、もう二度と同じ過ちは犯さぬと決意した。

それは私の表情にも浮かんだのだろうか。鏡花は、安心した表情でベッド脇の椅子から立ち上がった。

「じゃあ、私もそろそろ行くね。そういえば、今日は十六夜。輝く望月のもとでなら、地獄に連れていかれるんじゃなくて、その夜に縛られてしまいそうだね」

その言葉もまた、私の頭には既に刻まれていた。

代表が言っていた通り、身体に問題はなく、翌日には退院出来た。

見舞いに来てくれた三人には、一応退院の連絡と見舞いのお礼をした。

照らす太陽光は久しぶりに浴びる感じがした。急いで向かえば午後の講義には間に合うが、今朝退院したばかりの病み上がりで無理は禁物。大学に戻るのは明日からにした。

などと考えながら私が向かった先は、文芸サークルの部室だった。甘いものは別腹であるように、サークルは大学講義と別もの扱い。

部室の中には文学部後輩と顔だけ覚えている先輩1、2がいた。

「お、迷い子くん。お疲れー」

私が樹海で倒れているところを発見され、今朝まで入院していた話は、当然の如く広まっており、それは誰が広めたのかおおよそ検討がつく範囲で誇張されており、誇張に誇張を重ねて、本体より尾びれが長い話へと変わっていた。

「おはようございます」

元々仲が良かった人ではない。関わらないのが最良だ。

部室の書棚から適当に一冊取り、空いている席に座って本を広げる。

それ以上の無駄話の拒絶を示す為で、本の内容に興味はない。

私のその様子を見て、これ以上の追求は難しいと判断した先輩たちは退出していき、部室には後輩一人が残った。

「あ、あの。ふみあき先輩……」

呼ばれて本から視線を上げると、少し離れたところに座っていた後輩が立ち上がっていた。

「体調は、大丈夫でしょうか」

「うん、平気だよ。心配ありがと」

当たり障りのない会話。この後、本題の言葉が続く可能性が高い。私は必要もないのに少し身構えた。

「えっと……私たちのせいでしょうか」

予想から大きく外れた言葉に疑問符が浮かぶ。

「ん、えぇ?どういう事かな」

後輩曰く、私の音信不通は一部のサークルメンバーの間で大きな騒ぎになったらしい。その一部というのが、代表と將輝、鏡花、そして後輩二人の間である。

私を最後に目撃したのは代表と後輩二人。場所は部室。

代表とすれ違うように私は部室を出ていった為、代表は私を目撃しただけに過ぎない。

対して、後輩二人は代表よりも長い時間、私と一緒にいた。実際、二人は気づかぬままずっと一緒にいたのだが、代表目線だと、私と後輩二人は「部室に一緒にいた」ことになっている。

しかも、私が部屋を出ていく時、部室は混乱の状況にあり、私の様子もおかしく、私が失踪した理由が後輩二人にあると仮定されてもおかしくない。

どうやら、代表からあらぬ疑いのようなものをかけられて、質問攻めにあったらしい。だが、私がいた事には気づいておらず、二人で話していた内容を代表に伝えられる訳もなく、何も話せなかった。

後輩二人にも悪い事をした。

何故、私は霊峰の樹海へ失踪したのか、その理由は本人の中ですら明確でない以上、後輩二人の「せい」とするのは適当でない。だが、一つ言えることは、後輩二人の会話を聴かなければ、私があのタイミングで部室を出ていく事はなかっただろう。

そんな事を伝えても意味がないことは承知である。

「うーん。質問の意図がよく分からないかな。私は多分、自然を味わいたくて樹海に行ったんじゃないかな、うん」

質問の答えになっているとは言えない、曖昧な回答に、後輩は釈然としない様子で部室を出ていった。

後輩の退出後、私の対応は適切だったのか急に不安になった。

そもそも、何故後輩は私の失踪が自分たちのせいだと思ったのか。それがもし仮に、代表の質問攻めにあって、もしかして自分達に何か非があったのではないかと訳の分からぬまま罪の意識に苛まれていたならば良い。だが、もし私が後輩達の話を盗み聞いていて、その内容に衝撃を受けて失踪したと思い込み、罪の意識に苛まれていたならば、それは問題である。

つまり、將輝が代表と付き合っており、鏡花とも関係があり、さらには文学部後輩とも付き合っているという事実が私を樹海に走らせた、と後輩二人が考えているのならば、それは考えを改めさせなければならない。話の内容に衝撃を受けての失踪と考えられてしまったら、それはまるで私が代表、または鏡花、もしくは文学部後輩が誰かとお付き合いしている事が失踪するほどの衝撃だったと考えられていることではないか。それは断じて認められない。

私は、対応を間違えたかも知れない。しかし、時既に遅し。

今から追いかけて訂正などしてしまえば、それは後輩たちの話が失踪の原因としてしまうも同義。私は部室に座して、湧き上がる後悔の念と闘った。


悔いの感情が治まってきた頃、疑問があった事を思い出した。

樹海でリスの物語を辺りの地面に書き記したところまでは覚えている。もっと正確な記憶の最終地点は元気なリスと痛む心臓。続く記憶が白い景色。

医者や代表には「過労」と伝えられたが、すんなりとは受け入れられない。

過労による気絶をした経験がない為、確かな事は言えないが、あの心臓の痛みは尋常ではなかった。過労といった日常の延長線上による事象ではなく、非日常の何かの介在があったと直感的に思った。

そこで、気絶に関する仮説を三つ立てた。

一つは、医者が言う通りの「過労」。あの日は大学の部室から霊峰の樹海まで二時間以上かけて向かい、樹海の中を歩き回り、その後は首まで吊っている。それでは飽き足らず、広大な原稿用紙に枝の筆で一作、徹夜で書き上げた。過労になったとしても何ら不思議ではない。

一つは、何かしらの「疾患」。心臓や肺などの内臓系に不調があり、痛みと共に気を失った。あり得ない話ではないが、ちゃんと入院して検査をしている以上、この疑いは医者への挑戦であり冒涜だ。

一つは、命を削られた。比喩的な表現ではなく、神のみぞ知る天命の総量を減らされたという意味だ。ドラマや漫画ではあるまいし、馬鹿な話だ。

しかしながら、私を襲った胸の痛みは、命を削られたと感じるほどの痛みだった。

この三つの仮説を軸に、私は自分自身で気絶の原因を探る事にした。

「過労」の線は検証不要。診断する上で十分なされたと判断出来る。

「疾患」については、入院した病院の診断と、入院した病院とは別の病院でセカンドオピニオンを受けて、その結果で判断する事とした。

結論としては、何かの疾患である可能性は極めて低い。若干の内臓機能低下が見られるが、許容範囲であり、気絶に至る原因とは認められなかった。

命を削られたのではないかという夢物語を検証する為に、私はとりあえず散歩をする事にした。かちで生活圏内の景色を出来る限り眺めた。その中で、心惹かれるものを書く事にした。あの時はリスを書いた。今度、私の目に留まったものは大学のほど近くにある寺に聳え立つ本殿、ではなく銀杏の木だった。

私が大学に入学する数年前の夏。列島を直撃した台風の雨風によって大きく損傷し、まるで朽木くちきのようになってしまった。樹齢は七百年と伝えられている歴史ある木。この木は、今を生きる人々が知らない、人間の営みの歴史を眺めてきた。そんな木が、再び銀杏の葉で輝く事を願って、大銀杏の物語を描く事にした。

数時間で書き上がった。ノートサイズのレポート用紙約十枚分の短編物語。

これで、何か起こるだろうか。いや、起こるはずがない。

自分自身の仮説ながら、馬鹿らしいと思い、書き上げた大銀杏の物語に目を落とすと、ひらひらと黄色い銀杏の葉が一枚、また一枚と舞い落ちてきた。

あり得ない、そんな事が起こるはずがない。

目の前に立つ大銀杏を見上げると、私が物語の中で描いた、黄色い銀杏の葉で輝く大銀杏がそこにはあった。

刹那。私の胸を激痛が襲う。

樹海での痛みと同様。しかし、二度目であった事と決して意識を失わぬように努めた事で、何とか失神は免れた。

二度の胸の痛み。ある物語を書いた直後の異変。

偶然と片づけることもまだ出来るが、私は認める事にした。

物語として描いたものに命を分け与える、そんな不思議な力を。


 大銀杏を囲みように置かれたベンチに腰掛け、薄れゆく意識の中で、私はあの夜を思い出した。

今までの記憶の最終地点から目覚めるまでの間。霊峰の樹海の中で意識を失う直前の事。

私は天上から声のようなものを確かに聴いた。それはまるで、夜空に浮かんでいた満月が私に話しかけてきたかのような体験。そして、その声が私に不思議な力を与えてくれたのだ。

その力は、私が物語に描いたものに命を分け与える力。

例えば、枯れかけた草木をテーマや主人公にして私が物語を書いたとしよう。その物語の中で元気な草木を描けば、枯れかけていた草木も息を吹き返す。

私の残りの時間、残された命と引き換えに。

思い出し、自らに与えられた能力を確信した瞬間、込み上げてきた想いは恐怖ではなく喜びであった。

嬉しいと思ったのだ。

一度は自らの手で終わらせようとした命が何かの、誰かの為になるなんて、嬉しい事だったのだ。

それから私は、自らのこの命を元にして物語を描いていった。物語を通じて、この世から朽ち果て、消えようとするものに少しずつ私の残りの時間を分け与えていく。

あの日終わっていたかも知れないこの私に生きる意味ができたのだ。

私の時間を分け与えるために物語を書く日々は、まさに命を掛けたものである。物語を書き上げる度に襲われる胸の激痛。何度経験しても慣れるものではない。

物語を書いていない間の日常生活の中でも、動悸や息切れが起こり、就寝時には咳が止まらなくなったり息苦しくて眠れなくなったり、確実に自らに残された時間が少なくなっている事を実感する。

なかなかサークルに顔を出す事が難しくなり、そもそも大学に通う事自体が困難になってきていた。大学やサークルに顔を出す頻度が減っていくと同時に、サークルとの距離が離れていき、先輩や後輩のみならず、同輩との繋がりも薄くなり始めた。

そんな時、久々に訪れたサークルの部室であなたと出会った。

大切なものを失った私と同じように、悲しみの中で生きて、生き続けている人。

そして、あの日。霊峰の樹海で自ら旅立とうとした私を真正面から怒ってくれた人。和泉鏡花。

彼女は、部室の席に一人座って、小説に没頭していた。

本に視線を落とす横顔を見つめながら、これまでの二人の日々を思い出した。

文芸誌で互いの物語を批評し合ったことをきっかけに、サークルで物語について意見を交わすようになり、それ以外の時間も共に過ごすようになり、段々と仲を深めていった。

私はいつの間にか、彼女に惹かれていた。彼女のおかげで愛を知った。伝えたくても伝えることが出来なかった気持ち。

私は彼女を愛している。

だけど、和泉鏡花は私を愛してはいない。愛してくれる事もない。絶対に。

何故ならば、あなたには愛する人がいるから。

それは鏡花を、あなたを裏切ったひどい人だが。

告白をしてくれた人なのかもしれない。だが、その告白の言葉は三人に告げられたもの。いや、一人に対して真実として告げられ、二人に対しては、嘘偽りの言葉として告げられたもの。

「三方良顔」と言い表せる態度を知った私は、怒りを孕んだ心を押し殺して、本人に問うてみた。

本命は一人、代表。

後の二人、鏡花と文学部後輩は都合の良い女。

悪びれもなく、それが当たり前であり、おかしな所は一つも無いかのように話されるその言葉を聞いた時、私は絶句した。

ひどい人である。

それでも、そんな人でもあなたが愛してしまう人。

私は、今から鏡花に悪い知らせを言わなければならない。

鏡花が愛してしまう人がひどい人であること以上に悪いこと。

酷いこと。

「久しぶり、鏡花ちゃん……」

「お、ふみあき君。って、大丈夫?顔色悪いよ。ちゃんとご飯―」

「病院からの連絡。將輝が危篤だって」

鏡花が愛してしまう、そんな彼の命が今、まさに消えかけている。


 久しぶりに文芸サークルの部室で何か読もうと、頑張って大学にやってきた私は、息切れと動悸を感じながら部室の扉前で電話を受けた。

「こちら、――將輝さんのお電話から掛けています。お知り合いの方でしょうか」

「え、あ、はい。大学の同輩の――ふみあき、と申します」

誰からの連絡か、状況も分からぬまま相手からの説明を待った。

「將輝さんのご家族に連絡が取れませんので、あなたにお伝えします。先ほど、大学付近の交差点で將輝さんが大型のトラックに撥ねられ、下敷きとなりました。現在は病院に救急搬送され、治療を受けています。状況は芳しくなく、一刻を争います。こちらへお越し下さい。また、將輝さんのご家族に連絡を取れるようでしたらよろしくお願いします」

「は、はぁ」

詐欺の電話かドッキリか何か、か。最初はそう考えたが、電話は將輝の携帯から掛かってきている。ソーシャルメディアで検索すると、近くの交差点で大規模な事故があり、被害者が出たといった投稿を見つけた。

これは詐欺でも、ドッキリでもない。

現実だ。

現実に事故は起こっており、將輝は重体で病院に救急搬送された。状況は芳しくなく、一刻を争う。

つまりは、危篤状態。

いつ、その命が尽き果てたとしてもおかしくない。

私は無意識に部室の扉に手を掛けていた。

根拠のない予感は的中しており、扉の奥には一人、本を読んでいる人がいた。

私と將輝の同輩、鏡花。

他に人はいない。伝えなくては。早く、伝えなくては。

刹那。

様々なことが私の頭に浮かんだ。しかし、全てを振り払って、私は口を開いた。

「久しぶり、鏡花ちゃん……」

「お、ふみあき君。って、大丈夫?顔色悪いよ。ちゃんとご飯―」

「病院からの連絡。將輝が危篤だって」

「ん、え?冗談、だよね。嘘、だよね……」

私の表情と沈黙は、彼女の言葉を否定した。

「將輝はどこにっ」

私が病院名を伝えると、すぐに彼女は部室を飛び出していった。

大学から將輝のいる病院までは徒歩約二十分。走れば十五分ほど。

しかし、私たちにとっては大した時間ではなくとも、今の將輝にとっては永遠より長い時間かもしれない。

全速で駆ける鏡花を追いかけていた私は、大学の正門前でタクシーを拾うことに成功した。

「鏡花ちゃん、こっちの方が早い。乗って」

少し先を走っていた鏡花をドア窓から叫んで呼び止める。彼女の判断は素早く、彼女に横付けされたタクシーに飛び乗ると、二人で病院へ急いだ。

車内の鏡花は落ち着きがない様子で、手で顔を覆い、ずっとうつむいている。

そんな彼女に掛ける言葉を、私は持ち合わせていない。

ほんの数分の空白時間。將輝の為に何も出来ない時間、私は鏡花に將輝の危篤を告げる直前、頭に浮かんだ事を思い出していた。

今の彼女には絶対に伝えられない。傷口に塩を塗るだけでは止まらず、さらに上から刃物で傷を広げる事態になりかねない。

私は沈黙の中、將輝への怒りと心配の気持ちを募らせた。

「精算は任せて、行って!」

「うん、ありがと」

お礼の言葉だけ置いていって、鏡花は病院内へ飛び込んでいった。

私はタクシーに一銭の釣りもなく料金を支払ってから、病院内へ入り、受付で將輝の名前を告げ、案内された集中治療室へ足を向けた。

集中治療室が近づくにつれて、聞き覚えのある悲痛な声がうっすらと聞こえるようになり、段々と大きくなる。

集中治療室に限界まで近づき、中の様子が見えとれる窓に張り付いて、鏡花は泣きながら彼の名前を叫んでいた。

「將輝ぃ!將輝ぃぃ……」

絶叫にも近い鏡花の声と苦しむ姿に、私は耳を閉ざして目を逸らしたくなった。

聞きたくない、見たくないと思うほどに、私は世界に耳を傾け、広がる光景に目を凝らした。

現状を余す事なく観測しても、私が鏡花と將輝にしてあげられる事はない。

神に祈る事だけか。

否。

私は、彼の名を泣き叫ぶあなたを見て決めた。

決心したのだ。

今、ここに、この私が生きる意味、生き残った意味がある。

物語を描こう。

幸い、ペンも紙もここにある。それさえあれば、私は世界を創造出来る。

世界に生きる、命を描く事が出来る。

地に這いつくばり、床に紙を広げ、ペンを掲げると周りの音が遠ざかる。

今から私は、世界を、命を描く。

筆は一瞬たりとも止まらず動く。広げた紙が文章で埋め尽くされていき、世界が出来上がっていく。命が描かれていく。

物語が完成した時、私に残された時間は一日だけ。

残りの命を全て捧げて、人生最期の物語を描いた。

書き終えた私が顔を上げて、辺りを見回すと、隣に床に座り込んだまま眠っている鏡花がいた。

「鏡花ちゃん、おはよう」

声を掛けると、閉じた瞳がゆっくりと開く。

「んん。おはよ」

「將輝は?どうなった……」

「ふみあきが集中して何か書いている間に峠は越えたみたい。でも、予断を許さない状況で、いつ急変するか分からないって夜中に言われたけど」

陽が上がったばかりの早朝なので、外はまだ薄暗く、私と鏡花が着いた時に比べ、廊下は閑散としていた。

集中治療室も比較的落ち着いている様子である。

「そう。取り敢えず、良かった」

物語を書いている途中に事切れてしまっていたら、私の手元にある物語は意味をなさないものとなる。

「はい、これ」

「え?」

手にしていた紙の束、私が書き上げた物語を鏡花に手渡すと、鏡花は一瞬戸惑いつつも受け取った。

鏡花が受け取った紙束の一枚目、一行目に目を落とし、読み始めようとすると、集中治療室に続く扉が開き、中から出てきた看護師が廊下に声をかけた。

「――將輝さんのご家族、または関係者の方っ!」

声に反応して、私と鏡花は看護師に駆け寄った。

「はい。將輝の大学の友人です。家族は……来ていないみたいで」

そう言えば、私は將輝の家族に連絡をしていない。しようともしていない。

直接は出来ないが、代表はサークルメンバーの緊急連絡先を把握している為、代表経由で家族に連絡出来るはず。しかし、私は代表にすら將輝の件を連絡していない。

鏡花に伝える事しか考えておらず、失念していた。

だが、今はそんな事どうでも良い。

將輝に何かあったのか。状態が悪化したのか。

「將輝に……何かありましたか」

「ひとまず、ついてきて下さい」

防護服のようなビニールを上から羽織って、窓の外から眺めていた集中治療室の中へ踏み入る。

案内されたのは將輝が眠るベッド。

「安心して下さい、状態は安定しています。いつ目を覚ましても不思議ではありません。是非、声を掛けてあげて下さい」

ベッド脇に立っていた医者の言葉に安堵し、鏡花の瞳に涙が滲む。

「良かった……。良かったよ、将輝。将輝ぃー」

心なしか、將輝の表情が変わったように感じる。

「将輝。良かったよ、良かった」

私が声を掛けると、さらにその表情が変わる。

「将輝ぃ……」

鏡花の声に反応するかのように、瞼が痙攣し、瞳が露わになる。

そして彼は目を覚ました。

「嗚呼……將輝ぃ!」

將輝が目覚めた事を確認した私と鏡花は、集中治療室を出て廊下のベンチに腰掛けた。

鏡花の瞳に滲んでいた涙が溢れ出す。

將輝が助かった。

先ほど目の前に広がった感動の光景は、私にとってはデジャヴだった。

先ほど鏡花に手渡した紙束の物語。序盤の光景。

私は、將輝の命を描く事が出来た。

この事実に、私は喜びと深い絶望を感じた。

だが、悔いている時間も、恨んでいる時間も、悩んでいる時間もない。

残された時間を有意義なものにしなくては。

私が起こした奇跡に涙を流して喜ぶ鏡花、あなたに、私はどうしても伝えたい事があった。

「鏡花。私の想いを最期に聞いてくれないかな」

「ん?」

「ごめん、私は嘘をついていたんだ。少し前。私は、霊峰の樹海に向かって、そこで首を吊って、自分で全てを終わりにしてしまおうとした事がある。だけど、その時、鏡花が、鏡花の言葉が私を救ってくれた。そして、終わる事が出来ず戻って来た、そんな自分勝手な私を、あなたは叱ってくれた。それから私は、生きようって思ったんだ。楽しかった。楽しかったんだ、人生。將輝や先輩後輩たち、そして鏡花。みんなと過ごした人生の終末。こんな私に生きる喜びを与えてくれた和泉鏡花、あなたが本当に大好きでした」

「え、ちょっと。待って。ねぇ。文章ふみあきくん!」

私が最期に、あなたに告げたい言葉はたった一つ。

「さよなら」


覚束ない足取りで前へと進む。

今、自分がどこへ向かっているのか。何をしているのか分からない。

それでも、足が動くままに進み続ける。辺りの人は、いつの間にか見えなくなった。

そして、私はひとり、鏡花、あなたのことや、かつて最も愛した母のこと、私の命を捧げた將輝、君のことを想い、目を瞑った。

私が愛し、私を愛し、私が想った人々に悠遠が訪れん事を。

これが長い、長い、私の人生という名の旅の終わり。

やっと、また、逢えたね。


お読みいただいた方々。または、これからお読みになろうとしてくださっている方。

以前に私の作品を読んでくれた方。もしくは、今作が初めての方々。


どうも、御宝候 ねむ と申します。


昨年の8月以来、半年ほど投稿していない状態で放置してしまい、反省です。

今回は短編の書き下ろし。

しかも、初めての二次創作。まずは、その話から。


私は、前々から考え、論文でも書こうかと思っていたほどの考えとして

「歌は、文学である」というものがあります。

厳密に言えば、歌詞ですね。

2016年。ボブディランがノーベル文学賞を受賞する以前から考えていたものですから、当時は「ようやく世界が私の考えに追いついた!」などと傲慢な考えを持っていたものです。

現代において、歌と文学の繋がりは以前より強まったと感じます。

一つのグループの登場によって、ですね。


小説を歌にする行為自体は、ずっと前からボーカロイドの歌を中心に行われてきたと思います。

ただ、大衆の波には乗っていなかった。

大衆が認知すると、それは「常識」へと姿を変えます。


今回、私はその一歩先を行ってみようかと思いまして。

大した物書きではありませんが、試みてみました。

それが、今回の作品が二次創作である所以です。

利用規約には……触れないように気をつけたつもりです。


それでは、本編の話に入ります。(まだお読みになっていない方は、作品の方へ)


今作の主人公は、作家。

私同様、趣味で物を書いている人ですね。

自らに近いキャラクターを描くと、自然と感情移入しやすくなりますので、主人公を描くのは苦ではありませんでした。問題は、周囲の人々。その他登場人物です。

ここ二年、まともに他人と会話していないので、「人間とは、他人とは何ぞや!?」みたいな、哲学的な事を考え始めてしまった気がします。

そこに、私が描く事を苦手としている「恋愛」要素と「青春」要素が浮かんできてしまい。

制作期間は一ヶ月超。

書こうと思った時に、5,000字ほどの短編を二、三時間で書く私にとっては長い。

ん……。あ。

連載をめちゃくちゃ放置していますが、それは単に「書いていない」「考えていない」だけなので、放置の期間は制作期間に入りません、ということで。


時間はかかりましたが、書いている時間はとても楽しいものでした。

基本的に、私の書く物語は「自分が読み返して楽しいもの」であり、「他人が読んで楽しいもの」という認識はありません。もちろん、読んでいただき、楽しんで頂きたく投稿している訳ですから、読んで楽しんで頂ければ、それはこの上なく嬉しいものです。


ここ最近の作品の後書きには、次回作品への心構え的なものを書いている気もしますが

今回は嘘偽りなく。

今後、連載・短編含む全ての作品の投稿が、恐らく滞ります。

現状、投稿されていないにも関わらず、このような事を申すのはおかしな事ではありますが

新年度を機に、生活環境が一変しますのでご容赦下さい。


最後に。

本編、そしてこの後書きを読んで頂き、ありがとうございました。

本編はともかく、後書きは一切の推敲をせずに書き上げておりますので、駄文悪しからず。

その他の作品も是非、お読み下さい。


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