泡沫
これは少し前に私の仕事中に起こった事件です。
私は青森県深浦町の交番に勤める20代の警察官です。
深浦町は日本海を望む長閑な町で、これといった大きな事件とは無縁の町でした。
この町に赴任してきてこれまで事件はおろか、事故さえ珍しいくらいだったのです。
しかし突然事件は起こりました。
夏も終わりかけの、2020年8月27日の深夜2時過ぎです。
普段でさえ深夜に外出する人はいませんでしたが、新型コロナの影響で深夜2時ともなると誰も見かける事はありません。しかしその日、夜勤中だった私の元へ一人の中年男性がやって来ました。
その男性は顔もまっ青で、ひどく動揺している感じでした。ただならぬ気配を感じ、私と上司の二人で、ゆっくり話を聞くことにしました。
「ご主人、どうされました?」
上司の宮川巡査が優しく男性に声をかけました。
男性は無言でしたが、暫くすると驚く事を口にしました。
「すみません、実は妻を殺しました」
「なんですって?」
私と上司は耳を疑いました。
この町で殺人事件など聞いたことありませんでした。
「ついさっき、自宅で寝ている妻の首を手で絞めて、殺してしまったんです」
男性は詳細を語り始めましたが、警察としてはとりあえず被害者の状態を確認しなければなりません。
私と上司は、パトカーに男性を乗せて自宅へと向かいました。そして事件を起こしたという寝室に向かいました。
「あの布団です」
男性がボソッと呟きました。
それを聞き、上司が静かに掛け布団を捲りました。
しかしそこには遺体はおろか、被害者である男性の奥さんの姿はありませんでした。
「ご主人、本当にこちらですか?奥さんはいらっしゃらないですよ?」
「そんなバカな。私は確かにここで妻の首を絞めて殺害しました」
「もしかしたら、奥さんはまだ生きていらっしゃって、どこかへ助けを求めたのかもしれません。ちょっと本部の方へ問い合わせてみますよ」
上司はそう言うと、一人パトカーへと戻りました。
男性は訳が分からぬといった表情で、その場に腰を下ろしてしまいました。
私はなんと声をかければ良いか分からず、ただただ男性と誰もいなかった布団とを交互に見るばかりでした。
数分で上司が戻ってきて男性に言いました。
「ご主人、今夜奥さんらしき人からの緊急通報などはなかったらしいです」
「そんな。それじゃあ妻は一体何処へ?」
「一旦、交番に戻りましょう。そこで事情を更に詳しくお聞かせ下さい」
私たちはパトカーで交番へと戻り、男性から事情を聞く事にしました。
椅子に腰かけた男性は、放心状態で宙を見上げています。
「ご主人、今夜の出来事をお話しください」
上司が男性に話しかけましたが、暫く何も喋らないままでした。
「奥さんと結婚されてどれ位ですか?」
私が男性に話しかけると、男性は私の方を向き喋り始めました。
「妻とは結婚して30年になります。ただ数年前に妻は事故で足腰が悪くなり、ここ最近は私がずっと介護をしておりました。満足に歩く事も出来ず、妻はいつも迷惑をかけてすまないねと謝るばかりでした。しかし私は妻のことを愛しておりました。ですが、今夜、妻からもう楽にしてほしいと泣いて言われ、可哀想になり妻の首を絞めて殺してしまったのです。なんであんな事をしてしまったのか」
そう言い終わると、男性はまた黙ってしまいました。
正直、私と上司は半信半疑でした。犯行の証拠が何も無かったからです。
ひとまず男性が落ち着くのをじっくり待つことにしました。
すると男性はトイレを使わせてほしいと訴えてきたので、私は交番の奥のトイレへと男性を案内しました。
男性がトイレに入っている間、私は上司に尋ねました。
「この事件、どう思いますか?あの人の言っている事は本当なんでしょうか?」
「分からんな。証拠が何もないしな」
「でもあの人が嘘を言っているとも思えませんね」
「とりあえずもう少し話しを聞いてみよう。結論はそれからだ」
「そうですね」
そんな会話をしている内に、男性がトイレに入ってからもう既に5分以上経過しているのに気が付きました。
「あの人、ちょっと遅くないですか?」
私は腕時計を眺めながら、上司に言いました。
「ちょっと様子を見に行こう」
私と上司は急いで交番の奥へと向かいました。
そしてトイレの扉をノックし、男性に話しかけました。
「ご主人、大丈夫ですか?」
しかし返事はありません。
「ご主人?」
私がトイレのドアノブをゆっくり回すと、鍵はかかっておらず、開ける事が出来たのです。
そこで私と上司は面食らいました。
そこに居るはずの男性が見当たらなかったのです。
「そんな馬鹿な。何処に行っちまったんだ?」
「自分、外を見てきます」
私は急いで外を確認しに行きました。
交番の近辺をくまなく捜しましたが、男性はおろか人影さえ見つけられませんでした。
仕方なく交番へと戻ると、上司は交番内に設置されている防犯カメラの映像を確認している所でした。
「この近辺、何処にも居ませんでした」
私が報告すると、上司は蒼白な顔をこちらに向けました。
「なあ、俺たちは一体誰と話しをしていたんだ?」
「え?妻を殺したという男性と・・・」
「この映像を見てくれ。今夜、俺たち2人以外の人間は、このカメラには誰も映ってないんだ」
「まさか?!」
「本当だ。あの男性の姿は、カメラに映っていない。男性が座っていた椅子の向かいで、俺たちが恰も誰かと話している様子は記録されているんだが」
「彼は幽霊だったのでしょうか?」
「分からん。だがこんな報告、部長には出来ないしな。とりあえず今夜は何も事件などは無かったんだ。そう思うようにしよう」




