烈風
ドレスや髪を整えなければならないだろうから、と父は名残惜しげに「後で」と私に言って、部屋を出た。
入れ替わるように入ってきたのは数名の女性たち。乱れてしまった夫人の仕度を整えていく彼女たちはこの度の夜会に助力するよう雇い入れられたこの夜会限りの使用人たちらしく、愛想はいいもののどこか硬い印象で動いてくれていた。
僅かだがドレスに付いてしまった血に一時場が騒がしくなったものの、幸い目立たぬ場所であったことや使用人の中の一人に染み抜きの心得のある者がいたことで、事なきを得て。涙に濡れ落ちてしまった化粧は全て丁寧に拭き取られた上で新たに施されていく。
臨時の割に手際の良い彼女たちに身を任せるように、元いたソファに戻ってそれを眺めていた私は、気が付いたら自分の化粧までもが整えられていた。
「リリ様大丈夫ですか?」
上の空であることがラングにも分かったらしい。
使用人の一人に手鏡を頼んだ私が、それに自分を映しているのを後ろで、心配そうに見ている彼が鏡に映り込んだ。
「今からでも、旦那様にお休みさせていただくよう言いますか?」
「いいえ。大丈夫よ。」
ラングの気遣いを断っておきながら、曖昧に口角を上げるだけしかできなかったのは、実際大丈夫ではないからだろう。けれど、気丈であらねばならない。それは私が主催者の側であるかどうかが一番の問題ではない。
「ラング、思い出してみて。お父様が射られた時のことを。」
夜会の只中で、人の目があるにも関わらず射られた父。私を庇ってのものだったそれを思い出すと、今でも胸が重く息苦しくなる。あの日は、夜会の出席者の中に射手を紛れ込ませた協力者がいた。
「貴族は自分の手を汚すことは殆ど無いわ。あるとすれば、それはよほどの実力を持った者か、必ず成功する策がある場合に限られる。それでも直接手に掛けることなどせず、あの日のように、協力するに留まるでしょうね。」
今回コルストン公爵家が夜会へ向かう道中に襲われたのは、夜会へ行かせない目的の他に、彼らにとっての機会がその一時しか無かったのではないだろうか。
「今夜の招待客は、お父様と懇意にして居られる方々ばかり。それに加えて、リオンお兄様の叙爵という祝の場に出席する方々ということも含めると、我が家の身内が多くなるわ。」
祖母に加えて母方の祖父母であるフルフェッタ侯爵夫妻、叔父と従姉妹であるトルロイ子爵家。家族ぐるみで仲のいいガーライル伯爵家。身内だけでも国を支える一角と言える面々が揃っているが、私の友人としてデビュタントを共にした公爵家や侯爵家の方々もそれぞれパートナーと共に出席してくれている。
当然警備に穴の無いよう父が尽くしている上に、会場として使用している屋敷は王族も使用することのあるこれ以上なく安心安全と言える場所。
「そして、コルストン公爵が夫人の住まう場所を護らぬはずがないもの。」
私の言葉に、夫人は化粧を終えて髪を整えられつつ頷いて見せていた。他者への説明としては疑わしく聞こえるだろうが、私や夫人にとっては警備が万全であるという根拠としてこれ以上は無い。
仲睦まじく、愛妻家として社交界で羨望を集める公爵が、警備に不安の残る体制の屋敷に夫人と暮らすわけがないのだ。
私の言葉にラングは数度頷いた。
「あ、それは騎士団に居たときに聞いたことがあります!夫人を狙う者だけでなく、不審な男は徹底的に排除される、って!…あれ、俺ヤバくないですか…?」
私の護衛としてこの場にいるラングだが、急を要するとはいえ女性が化粧直しをしている場。本来であればラングは扉の外で待っていなければならない。
今更それに気がついたラングだけれど、彼の言葉に私も思わず夫人に意見を求めるように顔を向けてしまった。他に気を取られて配慮に欠けてしまっていた。ラングがこの場にいることに、全く違和感を抱いていなかったのだ。
真っ先に考えねばならなかったことだったのに、私としたことが。
「良いのよ。我が家へお招きするほどイエニスト子爵を旦那様は気に入っておられるし、リリルフィアさんへの忠誠は疑いようがないわ。着替えているわけでもありませんしね。」
寧ろ化粧直しなんてはしたない場を殿方に見せていいものかしら、と上品に夫人は笑っていた。
ラングが女性の機微に疎いことは今に始まったことではないので、夫人の懸念は私が「お気になさらず、ラングですので。」と宥めておく。ラングも頷いていることを確認してか、夫人は「ふふっ」と愛らしく笑っておられた。暫く柔らかな空気が続いてから、夫人が私達へ会話を促す。
「さあ、話を戻しましょう。我が家とハルバーティア伯爵家の警備が万全である中で、問題が起きたことを夜会の場で知られてしまったらどうなるか。」
夫人の言葉にラングは唸った。
「…騒ぎが、大きくなります。あの日みたいに。」
夜会の場で射られた父を見て、人々は騒ぐ方々と警戒に動く方々で二分した。射手を追う警備の者たちで会場は慌ただしく、不安や恐怖で悲鳴を上げる女性で騒々しく。
今になって思い出せるそれらが、今夜起きてしまったらどうなるか。ラングは教えを請う側のように私や夫人へ言葉を向けた。
「騒げば、襲った奴らの上に居る人たちに状況を知られることになります、よね。でも、夫人が無事って知ったら…」
危険なのでは、と言葉を匂わせたラングに夫人は首を横に振る。
「相手は慌てるけれど、それが目的よ。馬車を襲ったのは夜会へ行かせないことも策の内だからでしょう。それに反して私が平然と姿を表していた、夜会が終わらないと気がつけば、相手は慌てるわね。確かめたくなるものよ。」
ラングは夫人を見て、姿勢を正した。そうするほど、夫人の表情には迫力があって。
「簡単に、逃げさせはしないわ。」
今まで見ていた柔らかな印象の彼女とは別人のように勇ましく、使用人たち含め周囲を魅了するほど美しい人が、そこにいた。




