おねだり
「あら?」
頬に当てられている父の手をやんわり落として、じっくり進行方向の端に見える路地に目を凝らす。
ユラユラと振っている雪があそこにだけ溜まっている気がしたのだけれど、よくよく見れば毛皮のような…
いえ、違うわ。
「お父様、人が倒れていますわ。」
「…え!?」
私の言葉を聞いてすぐさま父はコンコンと御者へ停止の合図を送る。素早くかつ安全に停止した馬車から父が出て路地へ向かう前に、私は父の横をすり抜けて路地へ駆け寄った。
割と鮮明に影が見えたので大きな人かと思ったのだが、近づいて改めて見たそれは酷く華奢でボロボロな子供のようだった。
「こら!勝手に行くなんて危ない!!」
「お父様、そんなことよりこの子…」
しゃがんでよくよく見れば肩が動いているので息はある。けれどそれ以外の動きは無いのでかなり衰弱しているようで、何故こんなところにという思いで眉が寄る。
そして全身を確かめたところで目についたのが足。
雪が降るほど寒いのにボロボロの服は私の寝間着のようなワンピースで、膝まであるそれから伸びる足には黒ずんで何かを“嵌められていた”ような跡があった。
それを見て、私は一つの結論を出す。
「奴隷、ですわ。いえ…だった、でしょうか?」
見るのは初めてではない。
招かれた邸宅、他の領地の後ろ暗い場所、隠されるようにして、けれどそこにはこの子供のように黒ずんだ足首に鎖の付いた者たちが居た。
「お父様、保護を。」
「駄目だ。もしもこの子が奴隷なら、所有物に数えられる、他者がいくら正義を振りかざして匿ってもそれは盗難でしかない。」
父は優しい人だ。だから奴隷に限らず理不尽に虐げられる人々を見るたびに怖い顔をして、『リリルフィアにはまだ早いね』と何時も私の目から遠ざけがっていた。
けれど、どれだけ父が彼らという存在を私の目に触れないようにしても『生きることを諦めない人々』『死ぬことを許されない人々』という矛盾した説明を“読んだ”ので、私は彼らがどういう扱いなのかを知っている。
それを今ほど読んでいてよかったと思った瞬間はない。
「お願いします、この子を助けて。」
「リリルフィア…」
「この子は“所有物”ではありません!」
推定子供の奴隷の足を指差す。そこには鉄の輪が嵌っていただろうことに変わりないが、私はそこに“所有物”となっている奴隷との決定的な違いがあることを知っている。
ーー所有の証として家紋やサインを彫った鉄輪は厚く、それは奴隷である彼の自由を奪っていることを、残酷に証明していた。ーー
「何も無いなら、まだ誰のモノでも無いはずですわ。ただの哀れな人の子よ。」
鉄輪が嵌っていたであろう跡がある限りは、奴隷を売り買いする者の手に渡っていることを表しているのだろうが、敢えて言わなかった。
父は素早く奴隷の足を見て、私が何故詳しく知っているのか驚いた様子だったが、今そんな事を話している場合ではないことくらい父なら分かっている。
だから私の肩に手を置いて、お揃いの瞳を合わせて口を開いた。
「見る限り逃げ出した子だろう。奴隷を売る奴らが探しているなら、ハルバーティア伯爵家としてそれを保護することはできない。そいつらに保護していることが知られたら、きっと盗難だと騒ぐからね。それはこの子を、奴隷たちを守ることにはならないよ。」
敢えて言わなかったことを引き合いにして、父は真剣に私に言い聞かせる。私の願いは誰も救わないのだと。ハルバーティア伯爵家の娘がその願いを口にするのは、一族を罪人にしてしまいかねないのだということを。
肩に置かれた手に痛いほど力が入っている。
それだけで父が目の前の救える存在を救いたいと願っているのは明らかだった。願っても、父は伯爵として守るべきものを多く抱えているから。小さな奴隷一人を救うには、その一歩はあまりにも大きすぎた。
「わかってくれ、リリルフィア。」
何も見なかった。そう言うのだと父は目で告げる。
私は推定子供と父を見比べて、ある小説の一頁を思い出していた。
ーー黒い奴隷の輪は外されていた。黒ずんだ足首は奴隷であった証明であり、同時に解放された証明でもある。多くの“人”に戻れた民たちは歓喜に、そして今までの辛い毎日に涙した。
「よかった。これで数日すれば、誰もこの人たちが虐げられる存在だと思わないわ。黒い跡が消えれば、痩せているけど皆同じ“領民”よ。」
穏やかに笑うティサーナの言葉に一人の青年は自身の足首に、もう無い黒い跡を思い出していた。そして一言、「そうだな」とだけ呟いた。ーー
黒い跡…
「これが、なければ…」
黒い跡が奴隷の枷を連想させるなら、その跡が無ければ良い。
文字で読んだときは黒い跡というのがピンとこなかったが、実際に目にすればそれは私も経験のあるものだと分かった。
となるとこの黒い跡を消すことは可能だ。しかしそれにはまずこの子を一度、安全で“あるもの”が揃った場所に移す必要がある。
「お父様、今から私は“証拠隠滅”を試みようかと。」
「えーっと、リリルフィア?」
保護は駄目だと告げた矢先の私の発言に、父はかなり困惑したようで肩に置かれた手に入っていた力が緩んだ。
それを見計らって私は父の顔を目だけ上げて見つめ、父の肘あたりの服を摘み、表情筋と知りうるテクニックを総動員して、私は“困ってます”という表情をした。
「お父様、リリーを助けて?」
これを“おねだり顔”と言った人は、的確だと思う。