慈の囁き
抱かれて移動した廊下を、帰りは自分の足で進む。ゆっくりとした足取りに父は何を言うでもなく、ラングも固く口を閉ざして、私がなにか言うのを待っているようだった。
ガーライル伯爵親子は傍にいない。用があるからと言ったメイベルに、伯爵が付き添う形で先に退室していった。
『次に会ったとき、私の秘密を聞いて?』
退室する前、両手で私の手を包んでメイベルはそう言った。既に半分以上を知っているようなものではあったけれど、彼女の口から全てを聞きたかった私は頷いて返し、メイベルと別れた。
次に会うのはいつだろう。今日のことを考えると、これからメイベルは忙しくなる筈で。私と会う時間なんて取れるのだろうか。
それに、未だ私は気持ちの整理がつけられていない。国王が念を押すように“確定ではない”と言っていたけれど、来る日が来れば実行に移される案件だ。
私はそれに物申せる権利などない。物申すつもりもない。
それなのに、自分の中には確かに淀みのようなものが残っている。どうすれば晴れるのかもわからない、そんな厄介な拒否感。
「リリルフィア!」
ハッと声のした方を見れば、眉を垂らして心配そうな父の顔があった。廊下の途中で止まり、私と目を合わせるように膝をついた父が私の肩を掴んでいる。
完全に意識が思考によって埋め尽くされていたらしい。焦点があったからか、父は表情を緩めて私の頬を撫でた。
「前を見ていないと、危ないよ?」
「…申し訳ありません。」
暖かな父の手が顔から離れ、代わりに私の手を握った。伝わる父の体温は私の意識をそちらに向けさせ、まるでこれ以上思考に呑まれないようにしてくれているようだった。
父が私の横で再び歩き始め、私は手を引かれる形で進んでいく。ことあるごとに抱かれて、撫でられた私も、いつの間にか背が父の肩に届きそうなくらい成長していた。
ぼんやりとそんなどうでもいいことを考えていれば、少し前で私の手を引く父が言葉を紡ぐ。
「リリルフィアが言うなら、我が家から兵を出さないようにすることもできるよ。」
「…そんなこと、」
私の否定の言葉を遮るように、父は「できるよ、やろうと思えば。」ともう一度言った。
ただの拒絶では、当然国や王との関係に角が立つ。しかし、我が家には必要最低限の兵力しかなく全ての者たちを屋敷の護衛に充てても、他の貴族と比べて手薄と感じられるほどしか居ないのだとか。
それを理由に、私兵を提供することを遅らせることは可能だ、と。
「相手国の領土と人口を考えても我が国に劣る。奴隷や武力を我が国から手にしていたとしても、所詮は平民の奴隷と大事にならない程度の武器。我が家の兵たちを提供しなかったところで、勝敗が揺らぐことはないよ。」
私の心を肯定し、私の望みを叶えようとしてくれ、私がどんな選択をしても悪いことにはならないと示してくれている。
父の言った方法ならば、我が家の者たちを危険から遠ざけることができるだろう。私が憂いている事態になることは無いのだ。
父の言葉に、涙が出た。
私は父に、私が苦しまないような言葉を言わせてしまっているのだ、ということに。
溢れる涙は父に拭われ、それでも止まらず次々に溢れ出る。私はすでに崩れきった化粧もお構いなしに、父に抱きついた。
「…申し訳、ありません。」
「どうして謝るの?」
優しく撫でてくれる手が、普段は執務のためにペンを握っているその手が、今ばかりは私を守る盾を手にしているように見えた。
私の視界を覆い、嫌なものから遠ざけ、心の安寧だけを願っているかのような盾。
私はそれに、縋ってはいけない。
一度だけ強く父に抱きついて、私は体を離した。それを父も止めることはせず、私は持っているハンカチで涙だけ拭き取ってから父と目を合わせる。父は優しく私が何を言うのかを聞こうと待ってくれていた。
「お父様に国の意志に反する行いをさせるなんて、娘として申し訳が立ちません。」
「そんなの、リリルフィアが一番大事だから気にしなくても良いんだよ。」
またしても私を甘やかそうとする父に、首を横に振る。もう十分。十分だ。
国王の意志も、父の意志も、私は変えることができない。変える気がないのだから当然だ。
大切な人たちが傷ついてほしくない。それは今でも私の中にあって、戦争が起きなければいいのにと今でも思う。“確定ではない”という国王の言葉が、そのまま“戦争は起きない”というものに変わればいいのにと思っている。
けれど、それで周りから置いていかれては、私が手を伸ばしても届かなくなってしまう。届かないところで、失うなんて、絶対に嫌。
「私はお父様が大切ですわ。お父様が大切にしている皆が大切で、その中には国王陛下も含まれていますでしょう?国王陛下に協力するという意志を、お父様に曲げて欲しくはありませんわ。」
笑えているだろうか。化粧は崩れているだろうが、父の穏やかな表情を見るに大丈夫だと思っておく。
私の感情は、もう二の次。置いていかれる前に、立って歩き出さなければ。
「私は、我が家の者たちが戦線で活躍し、無事に帰還することを願います。」
心にある、カタカタと開こうとしていた箱の蓋が、静かになった気がした。もう開いてしまうことはないその箱を、再び奥の奥に仕舞って。
私は今度こそ、父に心からの笑顔を向けた。




