原型を留めていない
ティサーナ・ドルガンテ・ユグルド
この名の少女が物語の主人公として動き出したのは、自身の預かり知らぬところで婚約者が決められようとしていることに反発するからだ。
そう、婚約者。
公爵家という情報だけでティサーナは他の一切を知らされていなかった。相手を認識するのは物語の中盤からクライマックスにかけてで、読者側にも確定を避けさせるような言い回しを用いていたと記憶している。
今はもう遠い昔のように感じる“菫のカップケーキ”の一件も、本来であれば主人公に『私の婚約者は誰なの?』と思わせる場面としてクライマックスにある描写だったはずなのだ。
あの一件で、私は一つの仮説を立てていたではないか。
「リリルフィア、どうかした?」
「いえ、私もアニスと同じ年にデビュタントであればと思っただけですわ。十四ということは、私は一足先にデビュタントを終えることになりますもの。」
思考とは別の内容で言い訳し、父の慰めるような抱擁を受け入れながら頭では小説の内容と現在を照らし合わせる。
立てた仮説は間違ってはいない筈だ。けれど、そうなると小説の根本から崩れている。
小説の鍵となる部分はやはり“主人公の婚約者”であり、クライマックスの見せ場のみならず実を言うと色んな場面で登場するのだ。主人公の気付かぬところで登場する婚約者は、小説を読み終えた後に読み返すと2度楽しいという仕掛けのようなものだったように思うが、現実で同じことをされたら頭を抱えたくなるだろう。
ーー目の前に現れた人物にティサーナは目を見開き、辛いときにも傍に居てくれた仲間がティサーナの対面で膝を付くのを見ていた。
「騙していて悪かった。けれどどうしても、君の側に居たかったんだ。」
容姿も話し方もティサーナの知る彼そのもの。丁寧な所作も平民には珍しいと思っていたがティサーナは疑いもしなかった。上質な服を纏った今、疑わなかったことを恥じる程にティサーナの目の前に居る人物は貴公子然としているではないか。
「カール、なのよね?」
彼はティサーナに呼ばれたことを本当に嬉しく思ったようで、頬を緩めて頷いた。ーー
主人公の婚約者、その名が全て明かされることはなかったからこそ私は現状に頭を抱えているのだ。毒を煽った一件も、彼と出会うキッカケとなったその前の年の一件も、主人公の婚約者の名が明かされていれば関わることの無いように動いたのにと。
頭ではそう考えつつも、本当にそれが出来たか断言出来ないところが悔しいが、主人公の婚約者に求婚されている現在にはならなかった筈だ。たぶん。
そういえば、と私は未だ抱き締めてくれていた父から離れ、問いかける。
「そういえばお父様、メイベルやカルタム様のデビュタントはまだですの?」
「残念ながらまだだね。二人共、親から許可が下りないみたい。」
2年の月日でどれだけ変わったか、公私共に頻繁に会うメイベルの現状は知っている。彼女の場合、ガーライル伯爵の判断が厳しいのだろう。
一方でカルタムとはこの2年…いや、実を言うと『いつか絶対!!お前のその皮を剥ぎ取ってやる!!』という宣言から会っていない。当時12だったと記憶しているので、今は14か15だ。視線を前に戻すとアルジェントが緊張した面持ちで茶を口にしていた。
成長期というのは人それぞれだとは思うけれど、前の人生では13から16辺りが一番著しい変化が見込めていた気がする。弟に避けられる程に急成長を遂げたアルジェントを目の前にすると、カルタムも同様だろうか。
「2年も会っていないのですから、私なんて放っておけばよろしいのに。」
「それは…なんというか、本人には言わないであげてね。」
溢れた本音は父に優しく掬われ、やんわりと止められた。
だが、小説と違う部分の最たる例がこの婚約者の問題なのだ。今現在ティサーナに婚約の話が出ているのか私には分からないが、仮説通りであれば主人公の婚約者は現在ティサーナの婚約話には加わっていない。
であれば、未来はどう変わるのだろうか。
少し変わるかもと思っていただけだった以前から3年近く。当時の自分に“どの口が言っているんだ”と白い目を向けてしまうほどに、私の居る国は戦争も無く平穏だ。
良い点だけに目を向けて自身を正当化していたい気持ちの反面、小説の通りにティサーナが行動することで変わる者や救われる者たちが居たのだろうことが、私の心に蟠る。
「誰もが自身で決めた選択の上を歩いているんだ。それを自分の感情だけで否定するのはいけないことだよ。」
父の言葉は私の考える内容とは別の話に向けた言葉だろう。
「何か申し訳無さを感じても、リリルフィアが思い悩むことじゃない。公爵子息や釣書を送ってくれる人たちが、自分で行動している結果なんだから。」
「…はい。」
けれどそれらは、今の私の中にある現状に対しての考え方を変えてくれるには十分だった。




