無知には恐ろしき桃源郷
深く、深く息を吸う。
紙なのかホコリなのか判別のつかない独特の匂いを感じ、棚に埋め尽くされたそれらを見て、私は思わず恍惚とした息を吐いた。
「…何度来ても、素敵。」
呟いた声は静まり返る館内に、響きはしないがそれなりに届いたようで、近くにいた受付の殿方がチラリとこちらを一瞥した。
確か彼は準男爵の地位にある家柄の子息、そしてこの場を利用する者の多くが爵位を有する家、若しくは一代貴族とされる者達だ。あとは商人や学者か。
そんな権力者が利用することを許される場所。
誰でも出入りできていた環境を知っている私としては信じられないが、それがこの国…書物というものが貴重視される世界での常識。
「お嬢様、本当に宜しいのですか?こんな…」
私の後ろで不安そうにしているアルジェントに「大丈夫よ」と笑う。その隣ではネルヴもソワソワしていた。
身分の低い者にとっては入ることも許されない場所だろう。だから彼らの反応も理解できる。しかしそれは杞憂だと何度も教えているのに、一向に信じてくれないのだ。
「入館禁止なら、とっくに止められているわ。まあ、使用人を連れて入ることが処罰対象ならば話は別だけれど。それなら捕まるのは私ね。」
「ただの書庫が大きくなった場所じゃん、そんなに怯えるほどじゃ無いって。」
ラングの言葉に目を剥くアルジェント。
今日はジャニアは勿論リンダも同行しておらず、4人だけでの行動なのだ。嫌だわ、ラングに常識を教える人が居ない。私は思わず額に手をやった。
爵位は有れど生まれは平民であるラングがどうしてこんな認識の齟齬を起こしているかというと、原因の一端は我が家の寛容さにある。
「…ラングとの遊び場として、領地の書庫を使ったことが数え切れないほどあるのよ。」
「ええええぇ…」
今ばかりはアルジェントも、ラングと我が家の非常識さに表情を引きつらせた。
時に本を読み、時に昼寝をし、時に父に読み聞かせをしてもらった思い出の場。家が一つ買えるだろう高額なものを詰めた場所で、私達は遊んでいた。
ラングにとって書庫とはそういう場で、図書館とは書庫を大きくしたもの、ということらしい。
無知とは恐ろしい。
「…その辺りには触れないほうがいいわ。今更知っても面倒よ。」
ハルバーティア領には図書館など無く、騎士団では使用する機会もない。価値を知らずとも本の扱いは厳重に教えていたので、ラングも阿呆な行動はしないだろう。
本とは高額なもので、領にある書庫の総額は凡そ城が建つくらいだと知ったときのラングを思うと、そっとしておく事にした。
「リリ様、ここの本はどうして鎖が?」
「誰かが持ち去ってしまわない為よ。ここの本は皆の物であって、個人の所有物ではないもの。」
“高額だから”という部分はには触れず、持ち去られないようにしてある理由を説明すれば「へえ。皆の物…」とズレた感心の仕方をしているラングをそのままに、私はいよいよ一歩踏み出した。
王宮が管理する王立図書館。
広大な土地には他にも薬草園や研究所なども併設されている。学者の聖地とも言えよう。
「私はあっちへ行くけれど、貴方達は自由にしていていいわよ?」
振り向いて自由行動を勧めれば、ブンブンと横に首を振るアルジェント。反対にネルヴは興味ありげな背表紙でも見つけたのだろうか、別の場所に視線を向けた。
「置いて、行かないでください…!」
「兄さん、俺あっち…」
「だめ!」
しっかり者の兄と自由な弟、まさにそんな光景に笑いが漏れる。ネルヴがソワソワしていたのは、不安からでは無かったらしい。
「…ネルヴが興味のある本はどれ?それをまず見てみようかしら。」
ネルヴが視線を向けた方へ足を向け直す。ラングは護衛の為私に追従することは決定しているので、自然と私の後ろにはラングが付く。
ネルヴは戸惑うように兄を見て、そんな弟にアルジェントは更に情けない表情。
「そんな、お嬢様が私達にお付き合い頂くなんて…」
「あら、付き合うだなんて誰が言ったの?興味があるから見るだけよ。ネルヴ、どれなのか早く教えてちょうだい。」
ネルヴの見ていた方向は植物に関する分野が納められている場所。
さっさと足を進めてしまう私に、着いてくるか迷っているアルジェント達が可笑しくて、私は振り向きざまに言ってやる。
「来ないなら、貴方達は自由にしていていいわよ?」
先程と同じ言葉だと気づいてか、ネルヴは不機嫌そうに顔を潜めて「…優しすぎます。」と呟いた。
優しいだなんてとんでもない、私は興味があるから見に行くだけだ。
私の興味で“たまたま”彼らの利害が一致しようとも、それは私の気まぐれな行動の結果であって優しさなどではない。
偶然の産物よ。




