姐さんお怒りの理由
どうしようリリ様、俺もう無理です。
ワゴンを押して、後ろからついてくるリンダさんの存在を確認しながら厨房へリンダさんを送っているんだけど、ずっと無言。
リンダさんは思いの外足取りが重くて、リンダさんを送り届けることをリリ様から指示されたからには置いていくわけにはいかないんですけど、お陰で無言の時間は延びて。そろそろ俺は気になりすぎて堪えられません。
「リンダさぁん…」
「…」
「何があったんですか…?」
リリ様達の居たサンルームの扉を開けたとき、一番に見えたのは音の原因である割れた茶器。それからネルヴの真正面に立ったリンダさんと不自然に顔を横に向けたネルヴ、座るリリ様。
リリ様に怪我は無く、後で説明するって言われたけど気にはなる。欲に負けて声を掛ければ暗い瞳が俺に向けられた。鋭いわけでも、かと言って弱々しいわけでもないその瞳は、濃く不安の色に染まっている気がした。
「私がお嬢様の保護した者に手を上げた、それだけです。」
それだけな訳が無い。
まあ事実、俺が見たのはその直後の場面だったんだろうけど、俺が聞きたいのはそんなことじゃない。リリ様の事をリンダさんはいつでも考えていて、そんなリンダさんが一方的にネルヴに何かするなんて絶対無い。
「どうして手を上げたか聞きたいんですけど…」
「…」
言おうとはしないリンダさんに、この人が怒るような、少年に手を上げるほど自分の心に正直になるような理由ってなんだろうと考える。
リリ様にネルヴがなにか言ったのは間違い無い。
だとすれば、何を言ったのか。あの二人が顔を合わせた時からネルヴはリリ様を嫌ってるように見えた。平民であるアイツがリリ様を何も知らない筈なのに嫌うのは、身分とか噂とかリリ様自身のことを知らなくてもわかるような理由、だと思ったんだけど…
「うーん…あ、リリ様に不細工とか言っちゃったとか?」
「…貴方そんなこと思っているのですか。」
「そんなわけないじゃないですか!!リリ様お人形さんみたいだし!!」
八歳の子供って何言う?って考えたんだけど、違ったみたいだ。ネルヴ自身、思ってもないようなことを言ったと思ったんだけどなあ。
リリ様は気にしてないように見えたってことは、ネルヴが言った言葉のことをリリ様は言われるだろうって知ってたか気付いてたってことだと思う。年上の俺より色々考えてるリリ様だから、リンダさんが怒ってリリ様は平然としてるようなことは、周りのことじゃなくてご自身のことだろう。
「奥様のことだったりして。」
「…!」
「えっ!うそ!うわあ…」
リンダさんが“奥様のこと”と言ったら眉毛が動いたのが見えた。その少しの違いは、普段冷製で表情を読ませないリンダさんにとっては大きな変化で、自分の思ったことが当たったことを知る。
リリ様が小さい時に亡くなった奥様は俺もよく知らない。けれどリリ様を閉じ込めちゃうくらい、旦那様が愛しておられたということを親父から聞いたことがある。そんな旦那様の大切な、リリ様の母親の事を言うなんて。
「それは、リンダさん怒って当たり前ですよ?」
「ですが感情的になりすぎました。お嬢様が気丈に振る舞っておられる前で、私は…」
珍しく俺の前でも後ろ向きな発言を繰り返すリンダさんは、かなりお嬢様のことを気にしているみたいだ。ネルヴに手を上げたことよりも、お嬢様の前で感情的な行動をした方を悔いているように見える。なんか、お嬢様を第一に考えているリンダさんらしい。
「それで、ネルヴは何を言ったんです?」
俺の問いかけに目を下に向けたリンダさんは小さく「“奥様の子ではない”という噂を、お嬢様に…」と早口で言った。
…はあ?
「“子ではない”って、そんな噂あるんですか?」
「雇って間もない使用人の間で、少々。」
ああ、なんか2年の間に4人くらい初めて見る顔が増えたなと思ったから、その人たちかな。
リンダさんが強く握る拳に、使用人たちの行動がどれだけ考えの足りないものか俺でもわかる。リンダさんは知らないだろうけど、奥様の居ないリリ様が部屋から一歩も出ずにひたすら本を読んでいる姿を、俺は知っている。
「…何も知らないくせに。」
呟いた俺にリンダさんは頷いた。
知っていなければならないというわけではない。その時に働いていないのだから、知らないことは当然で、それを責めるようなことをリンダさんやジャニアさんはしない。
でも、知らないなら勝手に何かを言ってもいいわけじゃないことくらい、分かるだろ。
旦那様やリリ様を好きなリンダさんやジャニアさん、ジルさんが怒るのも当たり前で、怒って当たり前のことをネルヴがリリ様に直接言ってしまったとなれば、そんなの俺だって何するかわかんないよ。




