正面からの平手打ち
「ではお嬢様、お約束通りこの者をご指導頂ますよう。」
「任せて頂戴。」
恭しく礼をしたジャニアが背を押し、重たい一歩を踏み出したのは無事働くことが決まったネルヴ。
いつかの時のようにサンルームで待っていた私は彼を迎えて早速、語学の指導を行うことになった。全くこちらを見ようとしないネルヴに笑いかけ、向かいに座るよう促せば反対にジャニアは退室していった。
「さあネルヴ、お座りになって。」
「…はい。」
俯いたままこちらを見ようとしないが、彼の拳には想定外の事態に戸惑いが握られているような気がした。背凭れに体を預けることはせず、ピンと姿勢を正して座る姿には以前のアルジェントのような怯えは見られない。
私はアルジェントを指導したときと同様、先ずは自己紹介からと思い、立ち上がって腰を落とした。
「改めて、リリルフィア・クレモナ・ハルバーティアですわ。本日より貴方の語学指導及び細かな礼儀作法を、手本として指導することにしましたわ。」
「“することに”…“した”?」
「ええ。私からジャニアに願い出ましたの。貴方がここで雇われた暁には、私が貴方を指導すると。」
『することになった』ではなく、『することにした』。現在の私とネルヴの状況を言い表すにはこの表現で正しく、私はネルヴの疑問に素直に答えた。
するとクッとネルヴの眉が寄る。子供らしさの薄いその表情だが、気に入らない事が顔に出ることだけを考えれば、実に年齢に相応の態度である。
「気に入らないかしら。」
「いえ、光栄です。」
「そう。ならいいわ。」
ニコリと雇い主の娘に対して最適な返事をするネルヴに私もそれ以上は何も言わず、雑紙を一枚渡す。
不思議そうな表情を見せたネルヴに「上から声に出して読んで頂戴。」とだけ言った。
「“お初にお目にかかります、この度ハルバーティア伯爵家の使用人としてお世話になることにりました、アルジェント”…?」
詰まることはなかった。淀みもなく、言い直すことも無いネルヴはかなり読めている。教わった相手は読み方からするとアルジェントかしら。
兄の名前が書かれているところでようやく首を傾げたネルヴに「それ、アルジェントが練習に使っていたものなの。」と教えてやれば、嬉しそうに片手で持っていた雑紙を両手で持ち直した。
実に、実に分かりやすい。
「本当にアルジェントが好きなのね。」
「勿論です。兄はお…僕の唯一の家族ですから。」
嬉しそうだった表情を引っ込めて、ネルヴは硬い面持ちで言った。彼の言葉は頼る人が居なかったというわけではないだろう。もしもそうならばアルジェントはネルヴを置いて行ったりしないだろうから。
ネルヴの言う家族は恐らく直接的な血縁、もしくは彼自身が“家族”と言える間柄である親しい相手が兄しかいなかったのだと思われる。両親は居ないとアルジェントから聞いているし、ネルヴが奴隷となる前に共に暮らしていたのは、きっと遠縁か何かだろう。
“家族”とネルヴが判断できないほどには、希薄な関係だったようだが。
「そうなのね。なら、逢えてよかったわね。」
「はい。“お嬢様”には感謝しています。」
ニコリと笑うネルヴ。その顔は整っており、周りから見れば誰もが頬を赤らめるであろう完璧なもの。
それ故に、感情が全く籠もっていないことも容易にわかるというものだ。私はリンダに手振りで茶を用意させ、彼女が少し離れたところを見計らって私はネルヴに言う。
「リンダがお茶を淹れるまで、一つ聞きたいことがあるの。」
「…?」
「今ならどんな言葉遣いでもいいわ。私が許します。嘘を言ってもいいし、冗談でも演技でも何でするといいわ。けれど、必ず何か答えを言うこと。」
突然始まりそうな質問タイムに戸惑いというより訝しげに目を細めるネルヴに、私は自分でも渾身の笑顔を向ける。
聞きたかったというより、この質問でネルヴが揺らげばいいと思っている。崩れたところから彼の本心や私への感情を晒してくれれば大成功。
だって私は彼と“喧嘩”がしたいのよ?
それには先ず、喧嘩を売らなければならないじゃない。
「お兄さんに隠し事って、苦しくない?」
「は…」
「だって、アルジェントがあんなにも嬉しそうだった。始め私をあんなに睨んでいた貴方が、一日も経たないうちに笑顔で雇われることを了承するなんて、思っていないわ。」
青褪め、震えるネルヴはやはりアルジェントの弟だ。失礼かもしれないが、怯える姿が兄弟そっくりだもの。
緩む頬を叱咤して口角を釣り上げ、自分のキツめな顔を最大限利用する。笑ってもニヤリとなる顔の本領発揮だ。
「貴方、私のこと嫌いでしょう?」
離れた場所で、リンダの溜息が聞こえた気がした。




