乱心の令嬢
「…そう、アルジェントね。」
叫び出したい衝動を必死に耐えて、私はそれだけ呟いた。
口角を上げて「まだゆっくりと休んでいて。」と言い残してその場を去る。
深呼吸しながら廊下を歩き、サンルームに置いていた本を部屋へ持ってきてほしいとリンダに頼み、私は一人で自室に戻った。
周りを見ても、人は居ない。
「っどう見ても!!銀髪なんて!!今までの生活で!!!見たことなかったじゃないのーっ!!!!!」
モゴモゴとクッションに顔を押し付けて叫ぶ。
考えれば答えは導けたはずだ。
リリルフィアとして生活していても、灰色や白髪は居たが銀という髪色は見たことが無かった。つまり、少なくともハルバーティア領で銀髪は居ない。
そしてアルジェントという人物は、小説の中では13から15までの2年間を奴隷という身分で過ごしたという過去があった。15で主人であった貴族が亡くなったことで奴隷が一斉に解放され、彼は主人公に会うまでの期間を別の働き先で過ごす。
奴隷になるのも解放後の働き先もハルバーティア領ではなかったので、完全に頭から抜けていた。
彼がいるはずの地名は確か…
頭に地図を思いうかべ、該当する地名とハルバーティア領の位置関係を照らし合わ…
「…隣だわ。どうして気が付かなかったの…!!」
ハルバーティア領の北に位置するその地域、そういえば先日行った街は領の北なので近いと言えば近いのか。
とはいえ痩せた子供の歩けるような距離じゃないし、歩けたとしてよく追手を撒いたなという感想が残る。
何故逃げ出したのか、どうして奴隷になったのか、ハルバーティア領まで来れたのは何故か、あの強い目は何なのか。
名前を口にした時の彼の表情が頭から離れない。
怯えも恨みもなく、ただ自身を主張するその強い目は、大凡の奴隷がするような瞳ではないように思えた。
そして、私はその目を曇らせたくない。
「だって主人公に会うまで過酷な生活の上、主人公の想い人に冤罪をかけられるのに、解決しても大して詫びられもせずに戦地で死ぬなんて、あんまりだわ!!」
先程思い出した別れの一幕は、戦地へ赴く友人を主人公が見送るシーンなのだ。その友人が自分を思っているなんて、主人公は知らない。
ーー青年は静かに瞼を閉じた。自分の思いに蓋をするように、ティサーナの思いが報われることを祈るように。
「愛した人、サヨナラ。」
辛い過去を背負った軍人は、戦地の中に身を投げた。ーー
「辛すぎるわ!思い出すと余計に小説の描写が切ない!!」
顔を覆って一気に息を吐き出せば、少しは胸の支えが取れた気がする。それでも彼の置かれる環境が不憫でならない。
小説の文字を追うのと、目を合わせ、声を聞いて、彼の意思を聞いた今では全く状況が違う。
状況が…
「そうよ、状況が変わってるわ。小説では2年の奴隷期間があるけれど、今のアルジェントはハルバーティア伯爵邸で使用人として働ける可能性もあるのだから…」
私が変えた、なんて気付かなかったくせに大きなことは言わないが、ハルバーティア領で保護することを父が認めてくれたのだから“枷の呪い”も気にする必要の無い今、少なくとも奴隷になる未来は無いと言えるだろう。
その過去が無くなる影響は想像出来ないが、小説の中にある“2年の奴隷という生活が…”などという描写は無くなることになる。
「少しでも辛くない過去に…少しでも自由な未来に…」
出会ってしまったのだから。
知ってしまっているのだから。
彼の幸せを願うくらい、いいのではないか。悲劇に包まれるかもしれないヒーローを、少しでも救いのある未来へ導いたって良いだろう。
死の迫る者が目の前にいたとして、助けられるかもしれないのに助けないなんて、私の少なすぎて砂のような良心が痛むのだ。
「登場人物が辛いときに『あの子に手を貸してあげて。』って助言したって、そんな内容が小説に載るようなこと無いじゃない。身を挺して守るならまだしも。」
陰から見守るくらい、いいわよね。
そんなことを考えて、私はようやく抱えていたクッションを置いた。