知らなかったんです
書庫から持ってきた本を読んで、私は思わず溜息が出た。
シハルヴァ建国記は“大国シハルヴァ”が出来るまでを綴ったものだったのだが、それがどうにも読みにくい。
言い回しが独特で、文字は読めるが意味を間違えて解釈していそうで読み進めるのに時間がかかる。現代で使われている言葉でも意味が違ったりするその感覚は、正しく日本で授業を受けた“古文”のようだ。
「かなり古いからかしら、文字が読めないわけではないから辞書もあまり使えないわ…」
リンダの用意してくれたお茶に口をつけて少し休憩。
読書に選んだ場所はサンルームで、日当たりの良い室内から見える庭は寒さがなければ色とりどりの花が咲いていただろう。
現在は葉の落ちた木々が哀愁を誘っている。
ひざ掛けの暖かさにぬくぬくしていると、使用人の対応をしていたリンダが戻ってきた。
私の傍に寄ると礼を取る。
「失礼致します。お嬢様、“あの者”の準備が整いました。」
「お嬢様にお会いしたいと申しているようです。」と続いたリンダの言葉に私は驚いた。
“伯爵家が保護した”ということを説明したのならば、まず面会を求めるなら父にではないのか。倒れているのを保護するように願ったのは私だけど、行動に移してくれたのは父なわけだし。目覚めてから最初に会話している筈のジルも、父に雇われているのだから父が中心の説明をしているはずだ。
「ジルは私のことを話したの?」
「いいえ。どうやらあの者は保護される最中、途切れ途切れに意識があったようなのです。旦那様とお嬢様の会話も聞こえていた部分があった、と。」
なるほど、聞こえていたなら私の存在を知っていることも納得だ。
倒れた子の前で言い合いしたし、父はあの子を馬車に乗せたし、意識があればなんとなく状況は掴めていただろう。
疑問は解けてスッキリし、私は本を閉じて椅子から立ち上がった。
「今から会いに行ってもいいのよね?」
「はい、旦那様の許可も頂いております。」
リンダの肯定を聞き、私はあの子の居る使用人部屋へ向かった。
「あら、男の子だったのですね?」
会って一番に出た私の言葉に、その場にいたリンダや眼の前の子…少年?それからジルはギョッとこちらを見る。全員が『知らなかったの!?』と目で言っており、私は逆に『知ってたの!?』と言いたいくらいだ。
細い体に痩けただけではないだろうスッキリした容姿、灰色だと思っていた髪は身支度を整えた今、銀に鈍く光っている。普段から手入れすれば、キレイな色になりそう。
この状態だったら、私にも男の子だってわかるけれども。
「細いし顔はよく見てなかったものですから、同い年の女の子かと思ってましたわ。歳はおいくつですか?」
「じ、13、です…」
あれま、3つも歳上だった。
歩んできた境遇故か、成長しきれていない体型は私と同い年に見えた。これにはリンダたちも驚いたのだろう、声には出さずとも痛ましげに少年を見つめている。
まだまだ未来がある少年。10歳の私が言ったらとても変だけれど、私がお願いして父に屋敷へ連れ帰る許可をもらったのだから、これからのことを考えるのは私の役目だ。
「ジルから説明を受けたでしょうが、“枷の呪い”は薄くなりました。もう殆ど分からないくらいになっているかと思いますので、平民として日銭を稼ぐこともできましょう。貴方はこれからどうしたいですか?」
ここに居ろ、とは敢えて言わなかった。
ハルバーティア伯爵家に平民が居るとなると、その扱いは使用人となる。給金は勿論出るが、働くのならば仕事先はハルバーティア伯爵家じゃなくても同じだろう。
重要なのはこの少年がどうしたいかだ。
「こ、ここで働けないですか?」
少年はジルに目を向けて聞いた。
私が話しかけているのに、別の者に目を向けるのはマナーとして失礼極まりないが、聞く相手は間違っちゃいない。
子供の私よりも実際に働いている使用人であるジルに声をかけるのは真っ当で、直感か雰囲気か、何にせよその判断ができることを称賛したい。
「お前っ!お嬢様になんて「いいのよジル。彼の判断自体、間違っているとは思わないわ。」」
ゲンコツでもしそうなジルの拳に手を置いて首を横に振れば、青ざめた少年は顔を俯けて震えてしまった。
暴力を受けた経験があるのだろう。トラウマというものはいつどんな時に何がきっかけで思い起こされるかわからない。大声が苦手な人もいるし、振り上げる動作が苦手な場合もあるのだ。
ジルを睨むと、彼は気まずそうに拳を下ろした。
「もう一度聞くわ。貴方はどうしたい?」
「ここで、ここで働きたい、です…」
尻すぼみになってしまっているその言葉に、私はリンダを見る。
リンダは頷いて返したので、ジャニアに報告してくれるだろう。
「いいわ。他の使用人と同じように試験を受けて、合格したら雇いましょう。」
ビクッと少年の肩が上がる。私がここに来てから全く目の合わない彼に苦笑いする気持ちを抑えながら、そういえば名前をまだ聞いていなかったと思い出す。
「失礼ですが、お名前は?」
スッと不意に目が合った。
その濃いグレーに感じたのは雪を降らせる雲の色。
「アルジェント、です」
ーーその青年は輝きを持った濃いグレーの瞳をティサーナに向けた。その瞳には悲しみはあれど揺らぎがない。青年は「幸せに。」とだけ言葉を残し、星の軌跡のような銀の髪を振るわせて馬に跨った。戦地へ赴く彼の背を、ティサーナは最後まで見送った。
「アルジェント、生きて帰ってきて。」ーー