蛍
梅雨。湿りを帯びた風は梅雨らしく宙を駆けていたが、空には点々と白があるだけだった。夏の鮮やかな碧とまでは言わないが、久々の晴天とあってその色は酷く鮮やかに見えた。
吉野蒼という一人の女性はそんな空を眺めつつ、公園のベンチに座って大きな欠伸をした。久しぶりに地を照りつけている太陽も木陰にまで顔を覗かせようとしない。休憩にはうってつけだった。そう。一人での休憩。久しぶりの一人。
風に乗って届けられる子供の笑い声。頭上から聞こえる巣立ち前の小鳥達のこえ。どこか遠くでは神輿を担ぐ人々の掛け合いが。今日は七夕。天の川を越えて織姫と彦星が久しぶりに互いの顔を見、手を取り合い、語らう日だ。
それが眼に飛び込んできたのは、自販機で買った飲み物をゴミ箱にポイっと投げ捨てた時だった。カランとゴミが音を立てた時、薄藍の空に鮮やかな瑠璃色が見せびらかすようにやって来たのだ。本人は恐らく目立たないように飛んできたつもりなのだろうが悲しきかな、蒼には目立っているようにしか見えなかった。
夏空に舞う黒揚羽とはまるで似つかないそれは、一匹の蝶。空に時折溶け込むように光を反射していた。周囲近辺に誰がいないのも音で聴き、その蝶が自分の隣におりたことを確認すると蒼は言った。その口元は少し引きつっている。
「思ったより早かったね、瑠雨。……何、それ」
蒼が瞬きをした次の瞬間、そこに居たのは一匹の蝶ではなく、黄色い猫目一人の少年。蒼の相棒のようなものか。少年こと瑠雨の手には、なぜか丸いガラス球があった。手のひらサイズのそれはつまらない程に透明で気にする価値もなさそうだが、問題はその中身だ。何も無い。入っているのは空気だけに見えるが、蒼の目にはそれ以外の何かがあるように見えた。
「これ何? 何入ってるの? 明るすぎてわからないや」
「いつもの如く近くて遠い場所からのお届けものですよ。僕が蒼の元を暫く離れて取りに行っていた物です。ひとまずどうぞ。時折火花が飛んでいるのは見えるんですが僕も中身はさっぱり」
蒼は少し震える手でそれを受けとった。謎の中身のせいなのか酷く質量がある。手で暗がりをつくっても何も見えない。分からない。そして降参した蒼は碧眼を瑠雨に向けた。説明を求む、と。
「それを別なところに届けて欲しいそうですよ。オリンピックの聖火リレーみたいなやつだそうです」
「つまり中に入ってるのは火?」
「だと思います。夜になれば分かると思いますよ」
何となく、そんな気がした。
夜。雲一つ無い空には大量の星が己を誇示してそこにいた。今宵は織姫と彦星の逢瀬を邪魔するものはいないだろう。いたとて賑やかな空が怒るだけだ。そして地上では空に負けじと屋台の明かりが飛び交い、騒いでいる。
そして、そこから少し離れた場所では鮮やかな炎が揺らめいていた。透明なだけに思えたガラス球の中では小さいながらも、ゆらりゆらりと炎が揺らめいている。赤か青かはたまた橙か。この色だと決めつけることが出来ないのは炎の周りを飛び散る火花のせい。炎から小さな欠片が飛び出たと思えば、それはガラスにぶつかり四散する。その時に弾ける小さな炎が様々な色を持っているのだ。
移、紅、黄丹、藍。今とび出たのは柳色。
炎の欠片が消える時の色は酷く美しく、蒼と瑠雨は魅入っていた。耳を澄ませばパチパチっと音がする。
どのくらい時間が経ったか、祭りの喧騒はパタリと途絶え、夜は静かさを取り戻していた。いつの間にか寝ていた瑠雨は目を開け、ずっとガラス球を見ていた蒼は同時に空を見た。心無しか賑やかだった星達も少し静かになっている気がした。
唐突に蒼はガラス球を手に取り、空に向かって放り投げた。花火より小さくて、花火より賑やかな色を持つそれは高く、高く、高く飛んだ。重力など知らないように。
蒼と瑠雨が迷い込んだ二匹の蛍に目を取られた一瞬、それはパシャリと音を立てて闇夜に沈んだ。
炎は次の世界に行くために。
欠片は色という名の出会いを探すために。