闇の馬
いかにも裕福な商人といった中年の男が若い召し使いと護衛2名を連れ、城下町の傍の森の中を馬に揺られていた。男の名はシビラ。商用でこの森を抜けた先の城下町を訪ねて行くところだ。
初冬の森の小道には葉を落とした木々の枝を透かし、柔らかな正午の日差しが降り注いでいた。少ししてシビラは森の中央部、少し開けた場所に、粗末な木の小屋が建っているところに出た。
扉の脇にはまだ若いが手入れをされた小さなリンゴの木があり。その低い枝に一羽の深いスミレ色の目をしたカラスが留まっている。シビラは馬から下り、小屋へ向かって歩みを進めた。カラスが小首をかしげてその動きを追う。召使が急いでロバを降り、小屋の扉を叩く。
「誰かおらんのか?」
扉が開き、清潔だが粗末な生成りの長衣を着た男が出てきた。明るい茶の髪、穏やかそうな風貌のその男はどう見てもシビラより若い。青年といっても良い年恰好である。だがその紫がかった青い瞳には威厳があった。
「何か御用ですか?」
「食事がしたいのだが。そうだな、過分な額だが銀貨を一枚そなたにやろう」
シビラは背筋を伸ばして威風堂々と言い、召使に顎をしゃくると銀貨を1枚差し出させた。
「ああ、……どうぞお入りなさい。大したものはありませんが。謝礼などは要りません」
青年は言って肩をすくめた。金などいたってどうでも良いといった態度である。そのさまを見てシビラはカチンと来た。
「その態度は何かね。私がわざわざ銀貨をやろうというのに。銀貨だぞ」
カラスは枝から青年の肩に飛び移ると、首をかしげた。青年はまっすぐに昏い青色の瞳をシビラに向けた。
「私に金は必要ないから、そう申し上げたまでですよ」
そう言って青年は背を返し、小屋の戸を開けた。
シビラは思った。豪商である自分が寛大にもこの貧しげな男に過分な富を施してやろうというものを……愚かな奴め。気に食わん。生意気な奴だ。
シビラが案内された粗末な木の椅子に座ると、青年は大きな籠を奥まった部屋から持ってきて、そこから大振りのパンとりんごを一つずつ皿に乗せ、水差しに入ったミルクをカップに注ぐとテーブルに置いた。
「こんなものしかありませんが」
「……随分粗末なものだな、まあ、この生活では仕方があるまい」
バカにしたようなシビラにの言葉には何も答えず、青年は黙ってそのまま扉から出ると、外で待つ召使や護衛にもシビラと同じものを振舞った。
シビラは粗末な食事を済ませ、部屋を見渡した。部屋の横手にある窓の反対側に大きな棚があり、そこにさまざまな物が並べてある。そのうちの一つがシビラの目を引いた。目を閉じ、頭を振りたてて鬣と尾を乱し、前足を高く跳ね上げた艶やかな漆黒の馬の像である。すばらしい出来で、まるで生きているようだ。この美しい置物は粗末な小屋にそぐわない、異質な輝きを放っていた。シビラは立ち上がり、もっとよく見ようと棚のそばに寄った。そこに空になった籠を抱えて青年が入ってきた。彼はシビラを見、静かに言った。
「その置物に触れるのはおよしなさい」
「これは素晴らしい逸品だな。私にこれを売ってはくれんかね? 謝礼は十分にしよう」
青年は首を横に振った。
「その馬は闇の馬の彫像です。私には要らないものですが……」
「闇の馬?」
「それを持つには貴方には邪念が多すぎる……危険ですからおやめなさい」
「なんだと?!」
シビラは怒りで顔を真っ赤にして叫んだ。この若造がなにを言う! 自分は社会的地位の高い人々とも交流のある立派な人間だ。頭も良いからこれだけの富も手に入れられたのだ。このみすぼらしい若い男はきっと、身に余るこの美術品を手放したくないからこんな馬鹿な脅し文句を言っているに違いない。
シビラは青年の警告の叫びを無視し、彫像を手に取った。
とたんに周囲が薄闇に包まれた。青年も、カラスも、扉も、窓も消えた。シビラがいるのは出口のない石の小部屋だ。そして馬の像は見る見る実物の馬の大きさへと膨れ上がった。
漆黒の、絹のような毛並みの見事な馬だが、普通の馬ではない。蹄ではなく、ナイフのような鉤爪を持ち、口元からは鋭く長い犬歯が覗いている。
閉じられていた馬の瞼がゆっくりと開くと、燃える石炭のような紅い目がぎらぎらと輝いていた。たてがみと尾は、黒い炎でできているように燃え上がり、揺らめいている。馬はゆっくりとシビラの方に近づいてきた。前足の鉤爪が開き、かっと開いた口の中には、鋭い牙がいくつも見える。
声もなくシビラは後じさった。ひんやりとした石の壁に背中が当たったのを感じる。井戸の底のようなこの部屋の、どこにも逃げ場はない。馬は後足で立ち上がり、前足で空を搔くと轟くようないななきをあげた。衝撃に石壁がびりびりと震えるほどの凄まじい声だ。馬はまっすぐシビラの前に進み出、両肩に前足を振り下ろしてきた。鋭い鉤爪がシビラの肩に食い込み、口をカッと開いた。鋭い牙が目の前に迫る。
「た、助けてくれ!!!」
シビラは絶叫した。恐怖で意識が遠のく。そのときどこにいたのかカラスが大きく翼を開いて飛び、馬の背に飛び乗るのが見えた気がした。
ふと気がつくと、シビラはもとの椅子にぐったりともたれかかっており、青年が傍らの椅子に静かに座っていた。カラスはテーブルに置かれた黒い馬の像の上に留まり、目を細めてシビラを見ていた。
「だから触れるのはおよしなさいと言ったでしょう。 ……この馬は心の闇を顕現する物なのですよ」
シビラは真っ赤になってへたばっていた椅子から立ち上がると、小屋を飛び出した。それでももうシビラはあの像を欲しいとは思わなかった。早くここから去りたい。あの馬の爪が食い込んでいた肩口に、奇妙な疼痛が残っている。
「私を馬鹿にしおって! 若造が!! 変なまやかしを使いよって!」
シビラは怒声を上げて小屋の前の罪のないりんごの木を蹴りつけ、自分の馬によじ登るようにして乗ると、拍車を入れた。おもむろに駆け出したシビラの馬に驚いた護衛と召使たちが慌ててそのあとを追ってゆく。
静かになった小屋の中、カラスが彫像から青年の肩に飛び移り、耳元にくちばしを寄せると物柔らかな女の声でつぶやいた。
「命を落とす前に制止できて良かったわ」
青年はカラスに微笑んでみせると、テーブルの馬の彫像を取り、元の棚にそっと返した。