宜張による初愛依観察日記 2
✕月△日
つかまり立ちやはいはいをするようになった翔士は、今、木箱の中に入れられている。
木箱の高さは、ちょうど翔士の肩くらい。つかまり立ちして顔を覗かせる事はできるが、脱走は不可能という絶妙の高さである。
その木箱の中で、翔士はすやすやと眠っていた。今日も義理堅く死にかけて、つい先ほど、司凉の祝血を美味しくいただいたところだ。
自分の部屋の布団で寝かせておいてもいいのだが、目が覚めたら司凉の残り香に気付き、司凉を求めて、ふえふえ泣き出すのは目に見えている。
なので、俺たちが暮らす館に木箱ごと連れて来た。
…木箱は簡単に持ち運べるので、大変便利である。
そこら辺に転がっているような簡素な木箱だが、そこはそれ、依人さまを寝かせているので、一応、木箱の底には分厚い座布団が敷かれ、眠っている翔士の上にはふんわりとした掛布団が掛けられている。
寝心地はそう悪くはない筈だ。
そして、その木箱を部屋の隅に置いて、俺たち四人が真剣にやっているのが花札だ。
俺と妓撫と架耶と司凉。最近は、この四人が集まると、自然と卓子を囲むようになっている。
ことの発端は、館の廚に鎮座している、『獺桂』の樽だった。
この獺桂、口に含むと、酒本来の芳醇な甘みとすっきりとした香りが口いっぱいに広がり、そして飲み下すと、喉元にふわっと上品な吟醸の余韻が残る。
上質の米と水を使用している上、丁寧に時間をかけて精米されているらしく、雑味というものがほとんどないのだ。
不見でも五本の指に入るだろう。
出回っている数自体が少ないため、依人と言えども簡単に手に入るような酒ではないのだが、赴任の際、鄙での生活を案じてくれた宗家が、一樽まるごと泉恕に送ってくれた。
なかなか太っ腹な宗主である。
俺たち三人はこの話を誰にも漏らさなかったのだが、司凉はどうやら父親からこの話を聞いたようだった。
で、ある時、俺たちに勝負を持ち掛けたのだ。
曰く、花札の勝負で最終的に勝った者が、この銘酒を一杯だけ味わえるようにしないかと。
依人は皆、闘争本能の塊みたいなものだ。
勝った、負けたの勝負事には目がないし、こんな面白い話から逃げる選択肢なんて端からない。
瞬く間に話がまとまり、いつの間にか、四人揃えば必ず札遊びをするようになっていた。
自分の愛依、そっちのけで花札に興じる祝主。どこか間違っている気もするが、勝負の前には些末な事だ。
各々の手札を見つめる、俺たちの目は真剣だ。もしかすると、鍛錬をしている時よりも集中しているかもしれない。
札をめくりながら思い出すのは、獺桂の甘い芳香とまろやかな舌触りだ。悔しそうな三人を見ながら飲み干すあの一杯は、いつにも増して旨い気がする。
などと考えていたのがいけなかったのか、今日は完全にツキに見放された。
互いの碁石入れに入っている碁石や貫木の数をざっと見ると、今日の勝者はどうやら架耶のようだ。
追い上げているのが妓撫で、俺と司凉は大きく水をあけられている。
今日はツイていないなと独り言ちた時、俺の後ろで「あぶう」と声がした。
忘れていた。翔士を部屋に連れて来ているんだった。
振り向くと、木箱の中で翔士がむずかるように目を擦っていた。と、ぼんやりと辺りを見渡した翔士が、ふと何かに気付いたように、くんと鼻をうごめかす。
最近気づいたのだが、翔士は司凉の匂いだけは違わずに嗅ぎ分けられるようだった。司凉の袍が残されていたりすると、いつまでも袍に顔を埋めて、くんくんと匂いを嗅いでいたりする。
その嗅覚の鋭さはまるで犬並みだ。
俺たち愛依は確かに祝主の匂いを嗅ぎ分けられるものだが、翔士のようなことはない。肌に顔を寄せて、ようやく祝主の匂いを感じ取れる程度だ。
祝血で育ったような奴だから、愛依としての感覚が人一倍鋭くなっているのかもしれない。
その翔士は司凉の匂いを嗅ぎ取ったらしく、「だあっ」と叫んで四つん這いになり、木箱の縁につかまり立ちしてきた。
木箱から顔を出して、「ばぁぶ、だあっ」と必死に司凉を呼ぶ。
司凉はちらりと翔士を見るが、抱き上げに行ってやったりはしない。面倒くさいからだろう。
代わりにすぐに立ち上がり、迎えに行ってやるのは優しい架耶だ。腰を屈めて翔士を抱き上げ、箱から出してやる。
床に下ろされた翔士には、もう司凉しか見えていない。短い手足を必死に動かして、まっしぐらに司凉の元へと向かっていく。
「ばぶぅ」
全身で喜びを表しながら、翔士は胡坐をかいている司凉の膝の上に這いのぼった。そこから伸びあがるようにして、司凉の胸に抱きついていく。
司凉が小さく吐息をついて、片手で愛依を抱き上げた。
翔士は司凉に抱きつきたいのだ。一度はきちんと抱き締めてやらないと、この甘えたの愛依がいつまでもぐずるのは目に見えている。
司凉の首に両手でしがみつき、翔士は司凉の顔に頬をすりすりした。ついでにちょっとだけ口舐めをすることも忘れない。
やがて、散々甘えて気が済んだのか、翔士は大人しく祝主の胡坐の中に落ち着いた。
太腿の辺りでもぞもぞと動き回ったり、お腹の辺りに顔を突っ込んで祝主の匂いを嗅いでいたりする。
そうこうするうちに、翔士はうとうとと微睡み始めた。病み上がりなので、まだ体力もないのだろう。
袴に涎をたらされたくない司凉は、すさかず座布団を自分と翔士の間に割り入れた。
司凉の体温が感じられなくなった翔士は、ん?と、一瞬不満そうに頭をもたげたが、司凉が頭を撫でてやるとそのまま騙されて寝入っていった。
…割とチョロい。
「続きをしようか」
札を手に取り、司凉が言った。
いつものことながら、切り替えが早い。膝で寝ている愛依のことなど、もうこれっぽっちも考えてはいないのは明白だった。
「もう、勝負はついたんじゃないの?」
呆れたように架耶が言ったが、俺たちは皆、首を振った。勝負事は下駄を履くまでだからな。
✕月△日
翔士はまた熱を出した。
高熱を出しそうな気配だったので、早めに司凉を呼んでおくことにする。
司凉が顔を見せると、熱で顔を真っ赤にしていた翔士は目を潤ませて祝主の方へ手を伸ばす。
司凉が脇を抱えるように抱き上げると、翔士は小さな手足をバタバタさせて、全身で喜びを表した。
司凉に抱きあげられた翔士はご機嫌だ。「んまんま」と言いながら司凉の口に顔を寄せていく。口舐めと言うか、手っ取り早い気食いである。
しばらくびちゃびちゃと気を貪っていたが、やがてお腹もくちてきたのだろう。その頭がこっくりこっくりと傾ぎ始め、やがてだらんと垂れ下がった。
「寝たか」
その様子を眺めていた司凉が、あっさりとそう呟く。
そしてそのまま翔士を布団の上に下ろしたのだが、横になった途端、寝ていた筈の翔士が「ふえーん」と泣き始めた。
司凉は仕方なく、もう一度抱き上げた。司凉の胸に顔を寄せ、翔士は安心しきったようにまたうとうとと微睡み始めた。
頃合いを見計らって、布団に下ろそうとすると、また「ふえーん」と声を上げる。
どうやら、布団の上に寝かされるのは、お気に召さないらしい。
「ったく手の掛かる」
布団に寝かせるのを諦め、司凉は翔士を抱いたまま胡坐をかいた。司凉の腕に抱かれた翔士は、とても幸せそうだ。
「宜張」
呼ばれて俺が顔を上げると、「こいつ、どこまで言葉の意味が分かっているんだ?」と司凉が聞いてきた。
先ほどの翔士の言葉が、どうにも気にかかるらしい。
司凉が何を聞きたいのか分かった俺は、
「まだ意味なんて、分かってないと思うぜ」
と、軽く流しておいた。
実を言うと、翔士はもう、ごはんが『まんま』だと知っている。そしてさっきは、明らかに司凉の顔を見て、「んまんま」と声を上げていた。
今度から、司凉の顔を見てまんまと言うなと、教えてみよう。けど、こいつに、そんな難しいことが教えられるかなあ。




