愛依は、狂った同胞を恐れる
奥宮を出て、顔見知りの依人たちと翔士が話をしていると、いきなり背後からどんっと誰かにしがみつかれた。
「翔士っ!」
そのままわあっと声を上げて泣きじゃくる幼馴染みを、翔士は慌てて抱きとめてやる。
「良かった。無事で」
顔をくしゃくしゃにしてしゃくり上げる緋沙は、あの後、這いずるように部屋から逃げ出したところを無事に保護され、ずっと翔士の事を心配していたものらしい。
「鬼は封じられたって聞いたけど、翔士の事が何も伝わってこなくて…。何かあったんじゃないかって、ずっと私心配で…」
翔士の身を案じて、生きた心地もしなかったのだろう。白粉も剥がれかけ、結い上げた髪も解けかかっているというのに、その事に気付いた様子もない。
「平気だって。ほら、俺、ぴんぴんしてるだろ。
…なあ、もう頼むから泣き止めって」
翔士としては緋沙が泣き止むまで背中を撫でてやってもいいのだが、いかんせんここは場所が悪すぎる。
同胞らのにやにやした笑いが気になって、落ち着いて緋沙を宥めるどころではない翔士である。
「そうだ、緋沙。俺、藤下の休息所まで送ってやるよ。お前も今日は一人で道を歩くの、嫌だろ?」
鬼が散々荒らした奥宮のあの一角は、当分閉鎖される事になっていた。浄めも行わないといけないし、しばらくは立ち入り自体が禁止される。
藤下の休息所は、非番の官女が宿下がりに使う宿舎で、御所からはほんの目と鼻の先だった。奥宮を出た緋沙は当分そこに住まい、御所に通うようになる筈だった。
道を歩く間中、緋沙はずっと無言だった。激しい恐怖とその後の安堵で、軽い放心状態に陥っているらしい。
「もう、大丈夫だから。緋沙?」
門についてもまだ、半分呆けたように足元ばかりを見つめている幼馴染みを見て、翔士は困ったなとため息をついた。
これ以上中へは立ち入れないし、このまま放っておくわけにもいかない。
ふと思いついたのが、泉恕で緋沙によくしてもらっていたお呪いだ。
年長の子が年下の子にしてやる儀式みたいなもので、頭一つ分、緋沙よりも背が高くなっていた翔士は少し身を屈めて、緋沙の額にごつんと自分の額をぶつけた。
いわゆる頭突きで、された方は必ず笑わないといけない。
「笑え、笑え」
決まり文句を面白がるように言って、緋沙の顔を覗き込んだ翔士だったが、一瞬惚けたように凍り付いていた緋沙が、次の瞬間、青ざめた頬にみるみる血を上らせて後退るのを見て、え…?とその場に立ち尽くした。
「な、何して」
「何って、お呪いだよ。ガキの頃、良くしてくれてただろ?」
真っ赤になった緋沙を見て、もしかしてこれはまずいことをしてしまったのだろうかと、ようやく翔士も気付く。
よく考えれば、緋沙は官女だ。田舎丸出しのこんな呪いをされるのは嫌だったかと謝ろうとした時、緋沙はいきなり小さな拳を握り締めて、翔士に殴りかかってきた。
「おい、こらっ。痛いって」
「何よ、翔士なんか!私がどれだけあんたのこと心配したって思ってるの!」
「分かった、分かったから止めろって。緋沙、痛いって。俺が悪かったってば」
緋沙の拳から逃げ回りながら、翔士は必死に謝り倒す。
それは特段、眉を顰めるような類のものではなかった。
まだ幼さを残す少年と少女が、往来でふざけ合っている、ただそれだけの光景であった筈だ。
だがそんな二人の様子を、執念深い眼差しでじっと見つめる、気味の悪い視線があった。
肌を刺す剣呑な視線に、まず緋沙が気付いた。その眼差しに怯えたように、思わず表情を強張らせる緋沙を見て、翔士もつられて後ろを振り向く。
「妃咲?」
楡の木の陰から、妃咲がじっと緋沙を睨んでいた。青ざめた白い肌に黒髪がおどろおどろしく乱れかかり、まるで悪鬼のようだと緋沙はぞっとした。
「来て」
よろめくように歩いてきた妃咲に、翔士はぐいと腕を掴まれた。たおやかな細腕なのに、思わず翔士が怯むほどの強い力だった。
「早く」
妃咲がなぜこれほど感情を高ぶらせているのか分からず、翔士は困惑したように妃咲を見つめた。
だが、その哀れな姿を放ってもおけず、青ざめて声も出ない緋沙にごめん、と口の動きだけで伝え、手を引かれるままに妃咲と共に歩き出す。
遠ざかっていく二人を、緋沙は恐怖に凍り付いた眼差しでじっと見送った。
だが、二人の姿が往来の向こうに消えるや、意を決したように身を翻し、今来た道を逆に走り始めた。
妃咲はそのまま翔士の手を引いて御所の裏手へと向かい、草の生い茂る足場の悪い山道を進むうちに、ここは埋めの陣に続く道だと、翔士はようやく気が付いた。
裏山自体が御所の鬼門に当たり、山の中腹にある陣所には、かつて宗家に謀反を起こして処刑された八人の衛士の首が祀られていた。
首埋めの陣とも言われ、規模は小さいのだが、怨嗟がなかなか鎮まらないため、度々結界を張り直している陣だ。
湧き上がる不安を抑えきれず、翔士はついに山道の途中で立ち止まった。
「これ以上は行けないよ、妃咲」
左手を掴んでいた妃咲の手をそっと外そうとするが、妃咲は尚もぎりぎりと手首を絞めつけてきて、翔士が逃げるのを許さない。
「血の匂いがするわ」
と、じっと翔士を見つめていた妃咲が、不意に嫌な笑いを浮かべて翔士を見た。どこか楽し気なその口調に、翔士はぞっと背筋を凍らせる。
「妃咲?」
先ほど封じで負った傷の事を言っているのだと、すぐに分かった。
そしてその途端、翔士はもう一つの戦慄すべき事実をようやく思い出した。
妃咲は、呪陣に誘き出した祝主に怪我を負わせて気断ちできないようにさせた後、陣の結界を破って鬼に嬲り殺させた。
「まさか…」
翔士は唇を噛みしめた。
渡されていた祝主の符は、先ほど使ってしまっていた。自分にはもう、司凉に助けを求めることができない。
俄かに鼓動が早まってくる。祝主の符を持たない事を、この時ほど心許なく、不安に思ったことはなかった。
「こっちよ、貴方。さあ、早く」
凍り付いた翔士を嘲笑うように、狂った目で妃咲が笑った。陰湿な歓びがその眼差しに満ちている。
「止せ!」
翔士は声を荒げ、死に物狂いで妃咲の手を振りほどこうとした。だが妃咲は、女の細腕とも思えぬ狂った力で締め付けてきて、どうしてもその手を払えない。
たまらず翔士は、自由な右手で妃咲を平手打ちした。思わぬ殴打に、一瞬手の力が緩んだ隙をついて、神気で妃咲の体を跳ね飛ばす。
「妃咲、ごめ…」
言葉を最後まで言う事は叶わなかった。飛ばされた場所から跳ねるように身を起こし、陣へと駆けて行く妃咲の姿が目に映ったからだ。
「止めろっ!」
陣を破砕されたら、封印されていた異形が一気に解き放たれる。堪らず印を結び、妃咲を攻撃しようとして、土壇場で翔士は躊躇った。
同胞を害する事への嫌悪が、翔士の腕を鈍らせたのだ。
その一瞬の迷いが翔士の命運を決した。
振り返った妃咲の掌から視線を染め抜く光芒がぶわりと放たれ、攻撃を予測していなかった翔士は、神気に弾き飛ばされて地面に叩きつけられる。
「う………」
したたかに背を打って、その衝撃にしばらく立ち上がれなかった。
その間にも、妃咲は陣の封印を目指してまっしぐらに駆けのぼって行く。
間に合わない、と翔士は思った。止めるだけの時間も、言葉も、力すらも、今の自分には残されていない。
「司凉……っ!」
今逃げても、鬼に追いつかれるだけだと分かっていた。けれどこのまま、呆けたように座り込んでいる訳にもいかなかった。
翔士は痛みを堪えて立ち上がり、助けを求めるためにふらつく足で走り始める。
司凉の元へ……。
祝主を求めて逃げて行く翔士を嘲笑うかのように、妃咲が封印に向かって凝縮した気を放った。




