愛依は、祝主に思いを伝える
「翔士…!」
どこか遠くから翔士を呼ぶ声が聞こえた。乱れる足音が近づき、やがて狭い戸口を蹴破る勢いで格付けらが中に飛び込んできた。
「鬼は…」
辺りを見渡した格付けらは、今は澱み一つない場に翔士が一人きりで立ち尽くしているのを見て、ことの顛末を知った。
「浄化…したのか」
その清浄な気の流れを読んだのだろう。格付けらとともに駆け付けた佑楽が、どこか切なそうにそう呟いた。
翔士は頷き、床に転がったままの首飾りと指輪を大事そうに拾い上げた。
「これを墳墓に入れて欲しいって。それが最後の望みだった…」
幾人かの血を吸ったそれを、佑楽は哀しそうにじっと見つめるばかりだった。
受け取ろうともしない佑楽に代わって、翔士はそれを成唯に差し出した。
「どうか願いを受け入れてあげて。もう二度と、宗妃さまをあんな哀しい鬼にさせないで」
成唯は頷き、しっかりとそれを受け取った。
「わかった。宗主にお願いしてみよう」
受諾の言葉に、佑楽がほっとしたように肩の力を抜く。僅かのあいだ瞳を閉じ、そして未練を断ち切るように背を向けた。
「……ありがとう」
翔士の傍を取り過ぎる時、聞こえるか聞こえないかわからないほどの声で、佑楽は囁いた。
翔士ははっと顔を上げたが、佑楽はそのまま一度も後ろを振り返ることなく、静かに遠ざかっていった。
これで良かったのだと翔士は思った。貴沙妃には安らかな眠りが訪れ、佑楽も二度と罪に苦しむ事はない。
心に負った傷も、いつしか時と共に薄らいでいくだろう。
そう思って、翔士がほっと胸を撫で下した瞬間だった。
「うわっ」
不意に後ろから手首を捻り上げられて、翔士は情けない悲鳴を上げた。
「お前、怪我をしたな」
地を這う低音でそう質されて、翔士の背中がぴきっと引きつった。振り向かなくてもわかる。これはかなり怒っている。
今までも数えきれないくらい司凉を怒らせてきたが、今回はとんでもないことをしたという自覚が山のようにあったため、殊の外分が悪かった。
「ごめんなさいっ気をつけます!」
気付けば条件反射のように叫んでいた。
おそるおそる目を上げると、不機嫌そうに自分を睨んでいる祝主とばっちり視線が合ってしまった。その目が完全に据わっている。
「えっと、あのぅ…、し、しりょ…?」
完全に、ヘビに睨まれたカエル状態だ。
だらだらと冷や汗を流す翔士を横目に、格付けらが肩を竦めたり、訳あり顔で翔士に笑い掛けたりしながら、次々と部屋を出て行った。
自分の愛依をどう躾けようと祝主の勝手だと、皆きちんとそう心得ているものらしい。
やがてがらんとなった室内で、司凉はぶっきらぼうに声を掛けた。
「傷を見せてみろ」
「う…ん」
翔士は腕をまくり、鬼に傷つけられた場所を露わにする。肘から手首に掛けて斜めに切り裂かれたその部位は、まだじわじわと出血を続けていた。
治癒力の優れた不人だが、鬼によって付けられる傷は呪を孕むため、なかなか血が止まりにくい。
「傷を作るなと言っておいた筈だ」
司凉は無造作に自分の指を裂き、その血を傷に滴らせた。どくんと甘い痺れが傷を這い、瞬く間に血が固まっていく。
「ごめん」
言葉もなく項垂れる翔士の口元にも、その指が押し当てられた。甘い血が口に広がり、翔士は驚いて司凉を見上げる。
血を分けてもらわなければならないほどの状態ではなかった。
躊躇う翔士に、司凉は吐息をついた。
「いいから飲め」
鬼と対峙して消耗した体に、それは甘美な誘惑だった。翔士はゆっくりと瞳を伏せ、司凉の言葉に従った。
夢中になって血を舐める翔士の小さな面を司凉はじっと見下ろし、やがて満足したように顔を上げた翔士の体を、司凉はやや乱暴に抱きこんだ。
「ったく、無茶をする」
吐息と共に、抱きこんだ翔士の頭に顎を乗せる形で司凉はそう呟く。
一人で鬼と対峙させるには、この愛依はまだ幼すぎた。
今回は、寸前で鬼が人の心を取り戻したから良かったものの、一歩間違えれば返り討ちに遭っていた可能性が高い。
それを思うと、今更ながらに肝が冷える気がした。
「ごめんなさい」
翔士はもう一度、殊勝に謝ったが、生まれて以来、言い飽きるほど繰り返してきた言葉だ。
聞く方もいい加減耳にタコができており、全く司凉の心には響かなかった。
「里を歩けば鬼と出会う。おまけに変な気を遣って俺に隠し事をする。挙句に大立ち回りをして傷まで拵えて…。
お前はどこまで俺に気を揉ませれば気が済むんだ」
ぼやき混じりの愚痴に、翔士は返す言葉もない。
「いくら大人しくしていろと俺が言っても、どうせお前は言うことを聞かないんだろうな」
「そ、そんな事…」
ない、と力強く否定したかったが、できずに翔士は口ごもった。
翔士とて好きで鬼と遭遇した訳ではないし、隠し事をしたのは司凉を守りたかったからだ。結局、最悪の形で全部ばれたので、やったことは全部無駄だったが。
これまでの行動をゆるゆると振り返り、さすがに翔士は愕然とした。
翔士としては、本当に一生懸命、祝主の役に立とうとしているのだが、考えれば一度も役に立ったことがない気がしてきた。
いや、いくらなんでも、一度くらいはどっかで役に立ってないかな…。
必死に思い出そうとするが、生憎、記憶にかすりもしなかった。
やがて司凉は翔士の体を離し、大きくため息をついた。
「もういい。お前に何を言っても無駄なのは分かった」
「司凉ぅ……」
見切りをつけられた気がして、翔士は思わず縋り付くように司凉の袖を掴んだ。
何とか祝主の気を引こうとする翔士から頑なに目を逸らしたまま、司凉は疲れたように言葉を落とす。
「その代わり、何があっても俺の所に戻ってこい」
翔士はしょんぼりと項垂れていた頭をぱっと上げた。
「うん!分かった」
それくらいなら自分にもできそうだ。というか、司凉から離れる選択肢なんて最初から翔士にはない。
帰ってくるなと言われたって、絶対に司凉の元へ帰るだろう。
気付けば、遠くの方で司凉を呼ぶ格付けらの声が聞こえた。
鬼は浄散されたが、この一連の騒動の後始末がまだ残っている。翔士はこの後、別にする事もなかったが、格付けの司凉にはする事がたくさんあるようだった。
「先に戻ってろ」
司凉はうんざりと戸口の方を見やり、そのまま踵を返した。
「あ………」
遠ざかる司凉の背中が、何故か翔士にはどこか遠く感じられた。
それは予感…だったのかもしれない。もう二度と司凉と会えなくなるような不安と焦燥を覚え、翔士は身動ぎ一つせず、司凉の後ろ姿をじっと目で追った。
このまま置いていかれるのが寂しくて、けれどそんなわがままなど言える筈もなかったから、遠ざかろうとする司凉の背に、想いだけを必死に伝えようとした。
「俺、司凉だけが大事だから…っ!」
今にも泣き出しそうな目でじっと後ろ姿を追っていると、戸口辺りで立ち止まった司凉が、いきなり何だとでも言いたげに後ろを振り返った。
一途な眼差しで自分をじっと追っている愛依に気付くと、一瞬驚いたように瞠目し、すぐに呆れた様子で吐息を漏らす。
「馬鹿が。俺が知らないとでも思ってたのか」
その言葉に、ふんわりと温かいものが翔士の喉元にせり上がってきた。
いくら好きだと言っても言い足りないくらい、司凉の事が好きだった。司凉がそれをわかってくれるなら、もうそれでいいやと翔士はようやく安堵した。
「うん!」
途端に元気になった愛依の姿に僅かに笑みを零し、司凉はそのまま去って行った。
それは平素と何ら変わらぬ、翔士の日常の筈だった。格付けである司凉は多方面から呼び出される事が多く、翔士はいつも見送る立場にあったから。
だから全く気付かなかった。
宮の祝が地から消えていくことの本当の恐ろしさを、不運な偶然がまるで意思を持つかのように、贄を求めていくことの恐ろしさを、翔士は微塵も気付くことができなかった。




