6.闇の森の魔女
ティナとオリバー・セルフリッジは、闇の森の前にまで来ていた。途中までは他にも従者が一人同行していたのだけど、「人数が増えると、守り切れないから」とティナが待機しているように言ったので、付いて来てはいない。
“闇の森”は黒々と、その禍々しい雰囲気で彼女達を圧迫していた。因みにまだ昼間だ。この森は光を吸収してしまう。ティナは平気そうな様子だったけど、セルフリッジはややたじろいでいた。
灌木や茂みの中から、小さな黒い獣達が時折彼らを見ては笑っていた。邪悪そうにケケケと。シーッと警戒音らしきものを発する場合もあった。
「怯えなくても良いですよ。森の外側付近にいる“闇の獣”達に実害はないみたいだから。小さな子供とか、興味本位で近付いて来た人達を追い返しているらしいです。ただ、深く入っていくと強烈な連中が現れて襲いかかってきます。だから、普通は入るのにはあの魔女の許可が必要なんです。だけど、ここには呼び鈴も何もないんですよ」
ティナが準備運動をしながらそう説明する。セルフリッジは、それを聞いて森の出入り口に呼び鈴が設置されてあるシュールな光景を思い浮かべた。なんだか和むような気がしないでもない。彼女は続けた。
「だもんで、許可を取るのには時間がかかるんですよ。ひと月に一回くらいは、あの魔女はこの森から出て来るからそこを狙うか、彼女と取引している商人達に仲立ちをお願いするかなんですけど、二つともそんなに直ぐにはできません。
だから、今回はこのまま突入するという方針にしようと思っているんですがね」
そこまでを語ると、ティナはちらりとセルフリッジを見た。セルフリッジはそんな彼女の様子に、彼女の言った理屈は正しいのだろうけど、同時に彼女は闇の獣達相手の戦闘で運動がしたくもあるのじゃないかと、そんな風に思う。
「で、後はセルフリッジさんだけど、どうしますか? 一緒に来ます? わたしがまずは入って、それから事情を伝えた後で、迎えに来ても良いですけども?」
少し考えると、彼はこう応える。
「いえ、できれば一緒に入りたいです。時間ももったいないですし、それに少し確かめてみたい事もあるものですから」
「確かめてみたい事?」
「はい」
ティナはそれを聞いて不可解そうな表情を浮かべたけど、追及はしなかった。
「まぁ、いいですけど、でも、死なないように気を付けてくださいよ? 多少の怪我なら回復してあげますから。ここの闇の獣達は変わった魔法を使うから油断大敵です」
「ははは…… なんだか、すっごい台詞ですね」と、セルフリッジは頬を引きつらせつつ笑いながら返した。
“闇の森”には、一応道が通ってあった。ティナは物怖じせずにその黒々とした道を進み始める。足を踏み入れると、小さな闇の獣達がさっきよりも大きく騒ぎ、「この中に入るな」と警告を発している。ティナはそれをほとんど無視して進んだ。
「多少うるさくても、無視してくださいね。かまったら、却ってでかいのを呼び寄せちゃいますから」
そうセルフリッジに忠告をする。言われるまでもなく、彼に変な行動を執るつもりは微塵もなかったのだけど。
森の中を進めば進むほど、森の“黒さ”は濃くなっていった。その“黒”は、単なる色彩だけではないと彼は感じていた。恐らくはここは少しだけ“異世界”なのだ。彼はそんな風な感想を持った。
「しかし、なるほど、ですね」
しばらく歩いて、セルフリッジは不意にそんな事を呟くように漏らした。「何が、“なるほど”なんですか?」とティナが尋ねる。
「これだけ禍々しく演出していれば、付近の人達から嫌われてしまうのも無理はないという話です。例え、どれだけ好い人でも」
「“演出”って甘いですよ、セルフリッジさん。あの女はまったく好い人なんかじゃないです。ま、会った事もないんじゃ分からないかもしれないけど……」
そう言いながら、ティナは言葉を止めると周囲に視線を泳がせた。明らかに、警戒をしている。そして軽くスキップしながら、「そろそろ、おいでなすったかしら?」なんて言う。やがて彼女らの目の前から、黒い煙のようなものが近付いて来た。ぼんやりとした身体に赤い目だけが輝いている。
ティナはスッと両の手を構える。両手には包帯のようなものが巻かれているが、これはテーピングの類ではない。その布には、呪符が施されているのだ。
こう呟く。
「呪符魔術“アンチ・マジック”…… の拳」
その次の瞬間、ティナは地面を蹴った。セルフリッジは、一瞬彼女の姿を見失う。気付いた時には、彼女は目の前に現れた“闇の獣”に拳を叩き込んでいた。
「この森の連中には、これが一番効くのよねー! 魔力打消し乱打ぁ!」
楽しそう。
瞬く間に闇の獣は胡散霧消していく。ティナが最後の一発を叩き込むと、大きく目を見開いてそのまま消えてしまった。
「凄い。彼女は勇者パーティの中でも一番の速度を誇ると聞いていましたが、まさかこれ程とは」
唖然とその戦闘シーンを見守りながら、そんな感想をセルフリッジは思わず呟いてしまう。そして、そこでふと気が付く。自分の周りの闇が濃くなっている事に。
「危ないセルフリッジさん!」
そうティナが叫ぶ。見ると、黒い大咢が彼の身体を挟み込もうとしていた。咄嗟に避けようとしたが、もう間に合わない…… そう思った瞬間だった。
「呪符魔術“疾風”…… 掌底アッパーカットォォ!」
強風が起こったかと思うと、ティナがそう叫んでその大咢を吹き飛ばしてしまったのだった。いつの間にか、彼女は彼の目の前にまで来ている。やはり速い。
「危なかったわね、セルフリッジさん」
そう彼女は言ったが、それから休む間もなく次の闇の獣が現れる。今度は二、三体が、地面すれすれを滑るようにして飛んできた。まるで大きなカレイか何かに見える。
「アハハハ! こりゃ大変だわ!」
そう言いながら、彼女は今度はそいつらを蹴り飛ばした。大変だと言いながら、とっても楽しそう。やっぱり彼女は運動不足を解消したがっていたみたい。
……闇の森の奥深く。
その中心辺りには大きな屋敷があって、中には侵入者の存在を知らせる警戒音が鳴り響いていた。
ワーニング! ワーニング!
「あらあら、侵入者とは久しぶりね。財宝があるってデマでもまた流れて、盗賊団か何かが無謀な冒険をしているのかしら?」
そう言いながら、“闇の森の魔女”アンナ・アンリが姿を見せる。彼女は室内に生えた液体が固まってできたような形状の樹木が、そのまま屋敷の外にせり出している所にまで来ると、それに手を当てて目を瞑った。
彼女の頭の中に、闇の森に入って来た侵入者達の映像が流れる。ティナがそこでは暴れまわっていた。闇の獣達が使う変則的な魔法を物ともせず、楽しそうに倒しまくっている。彼女は思わずこう呟いた。
「だれかと思ったら、ティナさんじゃない。随分と久しぶり…… 何の用かしら? しかも一人だけだなんて。まさか運動不足解消に来たのじゃないわよね? なんか楽しそうに闇の獣達と戦っているけど」
それから彼女は少し考える。
“あの子だったら、しばらく放っておいても平気よね? あの子の戦闘は、良いデータになりそうだし、なんか楽しそうにしているし……”
“闇の獣”は生命体ではなく、ただ単に動いて魔法を使うだけのもの。常に死滅し再生産されている。だから、多少、倒されたところで構わない。むしろ強い相手との戦闘は、貴重なデータにもなってありがたい。
ところが、しばらくしてから、彼女はそこから少し離れた場所にいる、闇の獣達の襲撃に怯え不安そうにしているセルフリッジの存在に気が付いたのだった。
「ちょっ! なに? もう一人いるじゃない! しかも、あの人、一般人よね? 何を考えているのよ、あの子は。こんな危険な場所に普通の人を連れて来るなんて。危ないわね!」
そう愚痴るように言うと、アンナ・アンリは念じて闇の獣達を操作し始めた。あの一般人に何か危害があってはならないと……
「あれ? もう退いていっちゃった」
ティナがそう拍子抜けしたような声を上げる。突然に、闇の獣達の姿が消えてしまったからだ。
「ホッ」と安堵の吐息を漏らしながら、セルフリッジは彼女に尋ねる。
「いつもは、もう少しさっきみたいなのが続くのですか?」
「ええ、そうね。もうちょっと奥まで行って、もうちょっと大変そうな連中が出て来た辺りでってパターンが多いですけど……」
それを聞いてセルフリッジは「それはそれは……」と冷や汗を垂らしながらそう返した。あれ以上、大変になられたら堪らないといった表情。だけど、同時に何故か彼は満足そうに笑ってもいた。
「まぁ、いいわ。とにかく、邪魔者がいなくなったんだから、先を急ぎましょうか?」
「はい。そうですね」
それから二人はその言葉通りに、闇の森の道を進み始めた。闇の獣達がいなくなった道は、黒々とした不気味さと下草の少なさを別にすればそれほど普通の森と変わりないように思えた。もっとも、そもそも暗くて視界が悪いので、本当にそうかは分からなかったのだけど。
そのうちに、大樹の傍にもたれかかるようにして建っている大きな屋敷が見えてきた。ティナが「あそこですよ」とそう教えてくれる。そこが“闇の森の魔女”アンナ・アンリの屋敷なのだろう。
黒く暗い森の所為で、不気味に思えてしまうが、本来は明るい色調の屋敷なのかもしれないと、オリバー・セルフリッジは屋敷に近付いてみてそう思った。どことなく、可愛い造形をしているように思えなくもない。
二人がその屋敷の扉の前に立つと、それは自然にキィと音をたてて開いた。それから誰かの足音が近付いて来る。
「久しぶりですわね、ティナさん。一体、何の用でしょう?」
暗いのでよく顔は見えなかった。けれど、間違いなく彼女こそが“闇の森の魔女”アンナ・アンリなのだろうと、セルフリッジはそう思っていた。
――国の中心、大都市“ダイジョウダン”。その更に中心にある王城“ホンマデッカ”。その書庫のような場所で、キャサリンとスネイルの二人は寛いでいた。王であるキークと防衛大臣のゴウが魔物討伐に出掛けていて、文部大臣のティナは“闇の森の魔女”に会いに行っている。
主要な国のメンバーが全て出払う訳にはいかないので、彼女達はそうしてお城で待機している…… というのは、もちろん建前で、出掛けるのは面倒そうだと彼女達はそこで留守番をしているだけだったりするのだけど。
「あのセルフリッジさんって人がさ、闇の森の魔女は協力してくれるはずだってな事を言っていたじゃん」
何かの本を読みながら、唐突にスネイルがそうキャサリンに言った。紅茶を飲みながら、何かの書類を作っていた彼女は「そうね」などとそれにぞんざいに返す。
「どうしてそう思ったのか、不思議に思って俺は一応調べてみたんだよね。そうしたら、変な資料を見つけたよ」
そう言いながら、スネイルは自分の読んでいた本のタイトルをキャサリンに示す。それを読み上げて、彼女は驚いた声を出した。
「闇の森の魔女について……? しかも、極秘文書って」
「そう。何故か、極秘文書。
で、どうしてなのかと思って読んでみたらさ、なんかあの魔女を都合良く利用されたら厄介だからって事らしい。因みにこの資料は極秘文章だから、セルフリッジさんも知らないはずだ」
「へぇ、どんな事が書かれているのよ?」
それを聞いて、キャサリンは俄然、興味が沸いて来たようだった。都合良く利用されたら厄介って事は、つまりは利用できるという事だから。
「まずは、あの魔女があの土地に住むようになった理由について書かれているな。200年程前に、闇の森を勝手に創って、勝手に住み始めた…… 理由は、あの土地が干ばつの被害を受け難いからって推測しているみたいだ。あの土地では、疫病の被害が少ない点も挙げられているが」
「それは知っているわよ。日照り続きになると、山のてっぺんの方の雪が溶けだして、麓に水を供給するのでしょう? あの魔女の住む森にも水が必要だから、そんな場所を選んだって…… でもって、森を占拠している上に、異形の化け物どもまで飼っているから、地元の住民達から彼女は忌み嫌われ、恐れられてもいるんでしょ? 他にはないの?」
「闇の森の魔女は、完全に人間社会と隔絶して暮らしている訳ではなく、商人などとの取引を通して地域住民と少なからず交流してもいる…… ってな事も書かれているな。薬を売って金を稼いでいる。高価な薬だが、よく効くから取引したがる商人は多いんだとか」
「それも知っているわよ。有名な話じゃない」
「ところがだ、ここでオレ達の知らない情報が出てくる。資料によると、あの魔女は、商売の取引で騙された事が一度もないらしい。何故だか分かるか?」
その説明にキャサリンは顔をしかめる。
「分からないけど?」
得気な表情で、スネイルはこう答えた。
「なんと、あいつは人の心を感じ取る事ができるらしい。考えが読めるとかじゃないが、相手が邪な思いを抱いていたり、敵意を持っていたりすれば直ぐに分かる。優しい人間かそうじゃないかとかな」
「へぇ」と、キャサリンはそれに感心した表情を浮かべる。そしてそれからこう続けた。
「なるほど。それで謎が解けたわよ」
と。
屋敷内に入ると、急に明るくなった。恐らくは何らかの魔法なのだろうけど、まるで日中のよう。それで“闇の森の魔女”アンナ・アンリの姿が初めて分かった。セルフリッジはもっと大人びた雰囲気の女性を想像していたのだけど、意外にその外見は若かった。外見年齢は高く見積もっても、20歳前後といったところ。“綺麗”というよりは、“可愛い”と表現した方が似合いそうだった。肩口の付近にまで伸びる髪はちゃんと整えられていて、普通の女性のように姿形にも気を遣うのだと、それで分かる。
「頼み事があるですって?」
屋敷の中のリビング。そこに彼ら二人を招いたアンナ・アンリは、ティナからの話を少し聞くとそう言った。見下しているとも、嫌がっているとも違った拒絶したような目で。ティナは半ば文句を言うようにこう返す。
「そうよ。断っておくけど、わたし達の為じゃなくて、この世の中、全部の為の頼み事だからね」
アンナはそんな彼女の態度に呆れる。上から目線。人にものを頼む態度ではない。
“まぁ、もっとも、この子の場合は、半分はあの勇者の坊やのことがあるから、わたしに反感を抱いているのでしょうけど……
裏表のない性格は好きだけど、そういう個人的な事情で自分を曲げられないってのは国の人間としてどうかと思う”
なんてアンナは思う。
ティナの心を感じ取り、その言葉に嘘偽りがない事を確かめたよう。
それからティナはこう続けた。
「あなたは魔王討伐にだって一緒に来なかったじゃない。あなたが来れば、わたし達はあんなに苦労しないで済んだのよ。あなたは楽をして魔王の魔物達を追っ払えたんだから、これくらいは協力してよ」
その言葉に、アンナ・アンリはやや怒りを覚えたようだった。これまではなんとなくわざと作ったような態度だったけど、今度は実の伴った険のある口調で言う。
「ティナさん。あなたは何かを勘違いしているようね。わたしがあなた達に協力したのは、あなた達人間よりも魔王の方が嫌いだったというだけよ。決して、人間達が好きって訳じゃない。いいえ、はっきり言ってしまえば大嫌い。前国王に比べれば、まだあなた達の方がマシでしょうけど、だからって深く関わるつもりはないわ。遠くから、応援だけさせてもらいます。
わたしは、わたしのテリトリーでわたしのできる事だけをする。ただそれだけよ。あなた達に協力をするつもりは一切ないわ」
それを聞くと、ティナはワナワナと震え始めた。元々彼女はアンナが嫌いだからだろう。その言葉にかなり苛立っている。そして、「なんて自分勝手なのよ、あなたは!」とそう言ってしまった。
今にも二人は喧嘩をし始めそうだった。
ところが、そこでセルフリッジが“これは、まずそう”と思ったらしく、こうティナに話しかけたのだった。
「あの…… すいません。僕にも彼女とお話しをさせてくれませんか?」
話しかけられたティナは、それで怒りのタイミングを外されてしまったようで、何かが切り替わるようにキョトンした表情を見せる。まぁ、元々彼女は怒り易い反面、直ぐにその怒りを忘れる性質なのだけど。
そこで初めてアンナ・アンリは彼の存在を意識したようだった。そう言えば、どうしてこの人は付いて来たのだろう?と。
彼女の表情から察したのか、ティナが軽く説明した。
「その人は、オリバー・セルフリッジさんって社会学者よ。わたし達にあなたに協力を求めるように提案して来た人」
それを聞くと、アンナは冷たい視線を彼に送る。
「ふーん。あなたが今回の元凶ですか」
それからゆっくりと彼に近づく。椅子に座っていた彼はその行動に慌てて、失礼があってはならないとでも思ったのか、立ち上がって畏まった表情を浮かべた。
“さて。どんな悪巧みをしているのかしらね? わたしを何かに利用しようとしているのか、それともティナさん達に取り入って何かを企んでいるのか……”
もちろん、彼女は彼の心から邪な雰囲気が感じ取れる事を期待して近付いたのだ。ところがどっこい、彼からはそんな雰囲気は微塵も感じ取れなかったのだった。いや、それどころか……
アンナ・アンリは驚いて目を見開いていた。
“なんか、この人、とっても優しいっぽいのだけど? と言うか、なんか、わたしに対して、けっこうな好意を抱いている…… ような…”
そう。何故か、彼はアンナを平たく言ってしまえば好きなようなのだ。それで彼女は少し調子が狂ってしまう。照れているというか、何というか。
“なんで?”
首を傾げる。
アンナが不思議がっているのを察したのか、奇妙な表情を浮かべつつもセルフリッジは軽く微笑むとこう言った。
「闇の森の魔女さん。まずはお礼を言わせてください」
「お礼? 何の話ですか? わたしはあなたにお礼を言われるような事は何もしていませんよ?」
「いいえ、あなたは僕を助けてくれました。さっき、この森の中で“闇の獣”達を退かせたのはあなたでしょう? あのままだったら僕は死んでいたかもしれません」
その言葉にアンナはまた驚く。
「あれは、ただ単にティナさんの軽率な行動を是正しただけです」
その言葉に彼は嬉しそうに笑う。
「つまり、助けてくれたって事でしょう?」
それを受けて、「それは、まぁ、そうかもしれませんが……」と彼女は口ごもった。少しばかり照れているよう。それからこう思う。
“この人。もしかして、たったそれだけの理由で、わたしに好意を抱いたとでも? なんて愚かななのかしら…… それが罠で誘われていると考えもしなかったなんて。
いいわ。こーいう安っぽい手合いは、少し脅してやれば直ぐに化けの皮が剥がれるものよ!”
彼女は無理をして警戒心を復活させると“見てらっしゃい!”とそう心の中で叫ぶ。そして、手を地面の方にかざし、何かを持ち上げるような動作をした。すると、その一呼吸後のタイミングで、床から大きな闇が勢いよくせり上がって来たのだった。
それで、ティナとの間に、闇の壁ができてしまう。
「んっな!」
その突然のアンナの異常な行動に、壁の向こう側のティナは驚いていた。
「何しているのよ! 闇の森の魔女ー!」
普段、アンナ・アンリはこんな行動はしない。まぁ、だから、つまりはこの時点で既に彼女の精神は平素よりもかなり揺れていたって事なのかもしれないのだけど。
アンナはその闇の壁に驚いて、直ぐにセルフリッジの自分に対する好意は吹き飛んでしまうとそう思っていた。どうせ、こいつもつまらない男なのだろうから。ところが彼は、突然にせり上がって来た闇の壁に多少は動揺したようだったけれど、直ぐに落ち着いてしまったのだった。恐怖もほとんど抱いてはいない。アンナはそれをやはり不思議に思った。
「どうして、あなたはもっと怖がらないのですか?」
それでそう尋ねる。
セルフリッジは、彼女を安心させる為か、優しそうに微笑みを浮かべながらそれにこう返した。
「それは、あなたがとても優しい人だからですよ。どれだけ凄い力を持っていようとも、本人にそれを悪用するつもりがないのなら、大して怖くはありません」
“とても優しい? わたしが?”
その言葉にアンナは混乱する。どうしてこの男がそう考えているのか、その理由がさっぱり分からなかったからだ。