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千年王国たる福岡藩に関するあれやこれ

数分で理解できる、幕末明治の福岡藩

作者: 筑前助広

「数分で理解できる、幕末明治の福岡藩」



 そう題しましたが、あくまで幕末明治の流れを理解した上での事なので、あしからず。

 また、今回は大まかな「流れ」に注目して語ります。細かい流れや人物紹介は私本黒田太平記で書きますので、ご容赦ください。



 幕末福岡藩を理解する上で抑えて欲しいのが、福岡藩が司馬遼太郎が言うような無気力な藩ではなかった事。

 長州の助命、薩長に福岡を含めた外様連合を画策、提唱した事。

 そして、それが第一次長州征伐での解兵や五卿動座の実現に繋がった事。

 しかも、それは佐幕・勤王関わらず挙藩一致で、藩是として行った事。


 少なくとも、福岡藩が幕末の動乱に対してアクティブに活動したという事を踏まえて、読んでいただきたい。


 まず、何故に挙藩一致なのか?

 佐幕と勤王の垣根を超えて、動けた理由は何なのか?


 それは簡単で、佐幕も勤王も「長州の助命」と「外様連合」という目的の利害が一致しているから。


 佐幕党:外様が連合して幕府を支え、平和的に近代化したい。 その為には、長州と戦争してはならない。内戦は外国を利するだけ。

 勤王党:幕府に意見を言えるよう、外様雄藩が連合すべきで、勤王の先駆けたる長州を潰してはならない。


 こうした理由で、手を結んだ両者。「長州の助命」と「外様連合」で一時的に目的は一致していたわけです。



 そこで、黒田長溥の登場。

挿絵(By みてみん)

※黒田長溥


 彼は島津の出身で、父親は島津重豪。幕末後期の怪物の息子です。斉彬の大叔父にもなります。

 父に勝るほど蘭癖な彼の方針は、全国一和。内戦を回避し、挙藩一致で近代化しようとするものです。

 つまり、彼は佐幕党のトップ。長溥は(勤王など世迷言と思いながらも)勤王党と手を組んで、長州助命と薩長同盟を進めていきます。


 そこで働いたのが、筑前勤王党と俗に呼ばれる加藤司書の正義党、月形洗蔵の月形グループ(名称が無い為に、郷土史界隈ではこう呼ばれています)。更には、長溥に見出された喜多岡勇平、牧市内、瀧田紫城ら。中でも喜多岡勇平は勤王の志士ながら、その秀才ぶりが長溥に愛され縦横無尽の活躍をします。一方、加藤司書は藩内で月形グループは長州や京都方面で活動し、福岡藩は確かに維新の真ん中を歩んでいました。

挿絵(By みてみん)

※加藤司書



 しかし、呉越同舟な福岡藩の歯車は狂い始めます。



 長溥はあくまで全国一和。内戦回避と幕府を中心とした近代化の為に運動していました。勤王など、毛頭ありません。しかし勤王党は、長溥の目が届かぬ所で行動を開始。つまり、本来の目的の為に牙を剥いたのです。

 ただでさえ、勤王党に対して不安感を抱いていた長溥は、憎々しげにその様子を眺めます。藩内では勤王党が権力を掌握し、時勢もそれを後押ししていたからです。

 そうした中、苦虫を噛む長溥に、信じられない急報が舞い込みます。


 長溥が可愛がっていた牧市内、続いて喜多岡勇平が暗殺されたのです。

 牧は潮干狩りの帰りに、喜多岡は就寝中に殺害されました。特に喜多岡は勤王党にも人望がありましたが、佐幕党に寝返ったと疑われた末の内ゲバでした。喜多岡の暗殺は、月形グループの過激派による仕業で、この暗殺は佐幕党のみならず勤王党からも非難されます。

 喜多岡こそ、福岡藩で一番の切れ者だったと思います。彼こそ生きていれば――と、筆者は思っています。



 こうした暗殺が続き、長溥は勤王党の切り捨てを考えるようになります。長溥にとって、勤王党は「全国一和」実現の為の道具なのですから、当然の事でしょう。しかも、彼は平和を志向する人でした。長溥にとって、勤王党は過激派以外の何物でもなかったと思います。

 長溥や冷や飯を食べていた佐幕党は虎視眈々とその機会を狙っていましたが、そのチャンスはすぐに訪れます。



 と、その前に……


 福岡藩には「犬鳴別館」という要塞が山間部にありました。これは加藤司書が築城したもので、海岸から近い福岡城が敵艦隊の砲撃に晒される可能性を考慮し、いざという時に藩主を匿う目的で築かれました。



 さて――。


 正義党の一員である衣非茂記が、ある日言っちゃったんです。

「いざとなったら長溥を犬鳴別館に押し込んで、息子の長知を藩主にし、藩政を掌握すればいい」

と。

 酒の席で。しかも、黒田家一門相手に。つまり、これはクーデター計画があると暴露してしまったのです!


 加藤司書も月形洗蔵も、寝耳に水だったでしょう。勤王党の中には、クーデターを企む人もいたでしょうが、衣非にしてみては酒の席の冗談だったと思います。

 しかし、それが長溥の耳に入ると、とうとう勤王党潰しが始まります。加藤や月形などが捕縛され投獄。そして切腹。これが、俗に言う「犬鳴別館事件」と「乙丑の獄」のはじまりです。



 長溥は、平和を乱す勤王党を粛清し、福岡藩は佐幕政権になります。

 しかし、まもなく大政奉還からの、戊辰戦争突入。福岡藩からは、慌ててかき集めた2617名が従軍(うち死者57名)


 さすがに藩主が勤王党弾圧の責任取れないので、佐幕党の面々が切腹する羽目になります。可哀想に(´;ω;`)

 そんな佐幕党の辞世の句がこちら。


<野村東馬>

 君が為 すつる命は 今更に

 おしとおもはじ 大和真心


 享年 29


<浦上信儂>

 死出の山 越ゆるも君の 為ならば

 心いさめる もののふの道


 享年 45


<久野将監>

 数ならぬ 我身のいのち 此国の

 代りとなりて 果るうれしさ


 享年 56



 これにて、勤王政権が復活。しかし悲劇はまだまだ続きます。

 福岡藩が莫大な量の偽札を作っている事が新政府にバレてしまうのです。偽札偽造自体は、福岡藩だけではありません。しかし、額が大き過ぎたのです。政府は調査の結果、責任者に切腹を命令。そこで腹を切ったのが、偽札に関わっていない面々でした。更に追い打ちを掛けるように、福岡で前代未聞の大一揆が発生。政府が布告した徴兵令・解放令に反対した一揆で、筑前竹槍一揆といいます。

 この事件で誰も責任を取ろうとしなかったので、ある青年武士が切腹しました。



 悲しい歴史はまだまだ続きます。



 維新の動乱で完全燃焼してなかった志士や、勤王派の二世が西南戦争に呼応して福岡で挙兵。「福岡の変」の勃発です。

 しかし、結果は惨敗。勤王派の子らは、親同様斬首されました。




 こうして、近世から近代になった福岡。

 黒田長溥は勤王党を粛清した事を後悔し、人材育成に精を出します。そこで、育ったのが金子堅太郎、団琢磨、栗野慎一郎、 明石元二郎たち。

 彼らは日本の発展に尽力し、日露戦争で日本を救います。

挿絵(By みてみん)

※金子堅太郎、団琢磨、栗野慎一郎


 勿論、長溥の世話になるのが嫌な人たちもいます。在野を好む者もいます。そんな若者が反骨心ありありの若者が集まって結成されたのが、玄洋社。

 明治から昭和にかけての自由民権運動をけん引しました。

挿絵(By みてみん)

※玄洋社


 以上、これが超簡単な福岡藩の幕末明治です。

 お分かりいただけたでしょうか??

 詳しくは、いずれ「私本黒田太平記」にて書きたいと思います。



 ただ一つ覚えて下さい。

 福岡藩の面々は、少なくとも必死に生きたと。

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― 新着の感想 ―
[一言] 瀧田紫城は嘉永4年(1851年)頃、江戸福岡上藩邸にて永井青生厓から蘭学を学び、同時期同所にて勝海舟が蘭学を学んだとされています。
[一言]  ここで書かれているよりは少し後の時代のことになりますが、今「サピオ」誌上で小林よしのりが頭山満や玄洋社のことについて描いてますよね。(確か小林は福岡の出身だったはず)  あの漫画で明治初期…
[一言]  こうして読むと日本全国を上げて日露戦争は有能な人材が頻出していたんだと思います。2次大戦時には残っていない方が多いところや日ロの勝利による弊害も大きなものだったと思います。
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