五輪を制す
『ワァァァァァァァァァ!!!』
つんざくような歓声は、その時の俺にとって些細なことだった。
日本武道館に集まった2万人超の観客。テレビの向こうで拳を握るであろう、無数の視聴者達。その声援は、その時の俺にとっては小鳥のさえずりのようなものだった。
東京オリンピック。種目柔道。
今の俺の世界はこの10m四方のフィールドに詰まっている。
この世界、敷き詰められた畳の上にはただの三人しか住人はいない。
俺と、敵と、その決着に勝利の手を向ける者……審判。
つまり、俺の18年と少しの人生は、このフィールドに、この五分間に、全てが賭けられていた。
審判の待てが掛かり、両者一度定位置に戻って気崩れた帯と道着を正す。
お互いに上がる息。汗によって湿った畳。
ちらりとタイマーに視線を移す。
表示されている時間は残り2:34。お互いポイントは有効が一つずつ。
再び視線を戻すと、敵と目があった。
睨み合う。青い瞳に、金の髪。外人選手だ。
ここまで来ただけあって、今までのどんな相手よりも強い。
「始めッッ!!」
再び試合が始まり、俺は前に出る。激しい組手争いが始まり、お互いに湿った道着を掴み合う。
取られた組手を切っては切られでようやく、お互い妥協した組み手に落ち着く。
鋭い体捌きから、お互いの重心を崩し合い、時に小技を放ち相手の隙を伺う。
一歩一歩、少し足をずらす行為が命取り。全ての動きに慎重になり、相手の重心にも気を使う。
「はぁ、はぁ」
五分間に全ての力を使い切るこの競技。
激しい攻防戦の中で、体力を管理しながら最高のポテンシャルも維持しなければならない。
俺は軸足を前にちらつかせ、挑発的な体捌きで相手との間合いを図る。
時間もない。このまま延長戦に持ち込めば不利になるのはおそらく俺だ。
次の隙を突く……!
俺は相手の道着をずらして組み手を調節し、相手を振るった。
そして、大技のタイミングを図る。
が、次の瞬間、俺の右手が大きく釣り上げられた。
「っ!!」
袖釣り込み……!!
パワータイプである相手の得意技だ。研究し、警戒もしていたがまさかこのタイミングで……!?
完全に意表をつかれ、綺麗に入り込まれる。俺は瞬時に前に足を掛けたが、すでに体は浮いていた。
「ガァァァァァ!!!」
相手選手は叫びながら引き手と釣り手を振り抜いていく。
畳に吸い込まれていくのがわかる。寝技に持ち込めるように、相手はそのままのしかかるような投げを繰り出す。
俺はなんとか腰を捻り、両足を広げて畳に前面から体を叩きつけた。
が。
「技ありぃぃイイぃ!!」
審判の覇気のある声が響く。くっ、技ありか。
俺は腰を引いて亀の体勢になろうとする。そうはさせまいと俺をこじ開けようとする相手。
しかしそこで待てがかかった。
再び立ち直り、俺達は向かい合う。
相手のポイント表示に技ありが追加されている。
「ハァっ……! ハァっ……!」
道着を直しつつもお互い息は荒い。
バクバクとなる心臓。汗も際限無く溢れてくる。道着は水に浸したのかというくらいびしょびしょだ。
「始めッッ!!」
休憩なんてものは与えられない。
審判は最短で試合を開始させ、俺達は再び組み手争いを始める。
組み手争いは殴り合いに近い。素早く繰り出した手が相手にぶつかり、衝撃を与えるのは仕方のないことだ。
俺は攻防の中で大きく息を吸い、そして吐き出す。
時間は残り一分を切った。
逃げ切ろうとする相手に俺は技をどんどんかけていくしかない。
いや……。
この一本。誠心誠意最高の一撃を、相手に繰り出そう。
全てを、この技に賭ける。
5歳の頃から柔道を始め、ひたすらそれのみに打ち込んできた。
耳はとっくに潰れて、ぶっとい首。
そして体格もこの通りだ。
俺は将来も期待される若手柔道家。
だけど、ここで負けても次があるなんて考えは、微塵もない。
柔道に人生を賭け、一つの道に没してきた俺は、今この時が全てだと思っている。
18歳。これまでもっと経験すべきことがあったかもしれない。正直、遊びたかった、恋愛したかった、悪いことをしたりもしてみたかった。
それらを捨てて、柔道のみに打ち込んだ俺がここで負けることは許されない!
ガシッ、と。組み手が決まる。
最高の組み手だった。
俺は組むや否や相手を引きつけ、一気に踏み込む。
そして足を思いっきり天に向けて刈り上げた。
内股。
足の長さを活かせる俺の得意技。
綺麗に決まった内股は、相手を宙に舞わせた。
「やああああぁぁぁぁぁぁあああああ!!!」
相手の足が浮いて畳に叩きつけられるまで……。一秒にも満たないこの時間は、柔道家にとって快感であり、時を置き去りにする。
畳の振動が静寂を生み出した。
そして現実の時間も止まったように、誰もが審判の声を待った。
「一本!! それまでぇぇ!!!」
今度こそつんざくような歓声を浴びる。
何度も息を吐き出しながら、礼の位置へ戻る。相手選手は畳をしばらく睨みつけていたが、立ち上がりやがて向かい合う。そして勝者の判定が下された後、俺達は一礼して10m四方の楽園から去った。
そうして俺は、世界で一番強い男の一人となったのだ。
ーーー
『祝、東京オリンピック柔道日本代表。金メダル。大山田伊吹』
そんな垂れ幕が校舎の屋上から掲げられる。
「どうしたの?」
目の前にいるのは笹倉千奈美。
彼女は学校のマドンナでもあり、俺の意中の人である。
放課後、俺は彼女を呼び止めて拳を握りしめていた。
「……俺さ」
「……?」
どうしたの? もう一度そんな顔で首を傾げるクラスメイト。
金メダル。その文字を眺めながら拳に汗を握る。
そう、俺は“告白”をする為に彼女を呼び止めた。
秋葉も落ち始め、卒業も近くなってきた。周りが受験の為に励む中、俺はスポーツ推薦での進学が決まっている。
いつもなら、これから柔道部の方に顔を出すところだ。だけど、今日は違った。
「好きな人がいるんだ」
「!!」
どうやら察したらしい。しかし、驚きの方が大きいのか表情にはその色の方が濃く出ている。
前置きをし、いざ告白の時なのだが緊張がピークに達する。心臓が破裂しそうで、何を言えばいいのかが分からない。ダメだ、言葉が出てこない。
オリンピックの決勝の時の始まる前だってこれほど緊張はしなかった。
勝負が始まれば不思議とそうでもなかった。極限の中で命を削り合い、ぶつけ合っている勝負の最中にそんな余裕もなかったといった方が正しいか。
一度深呼吸をし、少し落ち着いたところで自分に向かって言い聞かせる。
そんなにデカイ図体を持っていて、情けない。優勝したんだろ、俺。
一区切りついて、ここで想いを伝えなければいつ伝えるんだ。
手の平の汗をズボンで拭い、意を決する。
「好きだ! 付き合ってくれ!」
……言った、言えたぞ。
それだけでやりきったような気分になり、ほっとする。
「ごめんなさいっ!」
が、一瞬の間にして地獄へと叩き落される。
ごめんなさい? それは一体。理解が出来ず、逃げるように走って去る彼女の背中を眺める。
あぁ、そうか。つまり……そういうことなのか。
フられたんだ。柔道以外に特に取り柄もない不細工の俺は、それを今実証したわけだ。
……明日にはもう広まっていて、笑い者にされるのだろうか。
あまりにも自分が惨めだ。何故成功すると思ったのか。
俺は鬱になりながら帰路につく。ダメだ、何をする気力もない。今日は柔道も……サボろう。同期は引退して後輩しかいないわけだし……。
「……」
公園から聞こえる子供の笑い声が、まるで自分を嘲笑う声に思えてきた。
オリンピック優勝により日本全土に顔は知れている。
だが、そんな俺がまさかたった今恋に敗れ落ち込んでいるとは思わないだろう。現時点柔道家の中で最強の一人として君臨する俺がだ。
……もう考えることはやめよう。家に帰って布団に潜れば忘れる。
「アアアアアアアアアア!!! 道路で転んだ幼女がダンプに轢かれてしまうゥゥ!!」
そんな叫び声が聞こえて振り返ってみると、道路で転んだ少女。それとそれに気づく気配のないダンプカーが視界に映る。
「なっ!」
助けなければ。咄嗟に体が動き、飛び出す。
しかし、思慮が浅かった。もうそこまで迫ってきたダンプカーに対して逃げるということは出来ない。
少女を救い出す時間もなく、迫ってくるそれを前にし、立ち尽くす。
……手はある。
「ふんぬっ……!」
受け止めるしかない。両手を突き出し、鉄の塊を受ける。
「ぐぉぉぉぉぉりゃぁぁぁ !!!」
今まで当たってきた誰よりも重く、強い衝撃。幸いさほど広くない通路だからか速度もそれほど出てはおらず、数歩の後退を許したはもののダンプカーの進行を止めることができた。
……助かった。間一髪だった。
驚いた様子で出てくるドライバー。事態を理解したのか、なんとも言えないような顔をしている。強いて言うなら少し安心した面持ちか。
俺は安堵の息を吐き、少女に立てるかと手を伸ばす。
掴まれた時に腕の筋に電流が走る。車を生身で止めた代償は安くなかった。
だけど、無事ならいい。少女が無事だったのならそれは喜ばしいことだ。俺の両腕と少女の命は代えられない。
少女を立ちあがらせ、頭を撫でる。次からは気をつけろよ、そう言うと俺はダンプカーを受け止める時咄嗟に下ろしていたカバンを拾い上げる。
「お、おい兄ちゃん! あのトラック、突っ込んでくるぞ!」
「なっ……」
ドライバーのおっちゃんにそう言われ、振り返る。
赤信号を突っ切り、かなりの速度でこちらに向かってきている。居眠り運転か、何かトラブルでも発生したのか。
「せめて少女だけでも……!」
逃げられないと判断した俺は少女を道の端へ突き飛ばし、もう一度受け止めるべくトラックと向き合う。
「しまっ……」
しかし反転すらままない。受け取める機会すら与えられず、トラックと衝突する。
腕で止められたのなら肩で。なんてそんな甘い考えを消し飛ばすように、体が持ち上がる。
そのままダンプカーに背中が打ち付けられ、胃から何かが込み上げて来るのがわかった。
血。あぁ、血だ。
それは俺の口から飛び出し、トラックの窓ガラスに飛沫する。ふと、少女の方を見てみると泣きそうな顔でこちらを見ていた。
そうか。俺、死ぬんだな。
俺はそこで意識を手放した。
「……ここは?」
目を覚ますと病院、ではなくどこか見知らぬ場所に立っていた。目を覚ましたのだろうか。気づけば立っていたという感じだ。
俺は両の手を動かし、グーパーしてみる。痛みはない。体も大丈夫だ。
『ワァァァァァァァァァァァァ!!!』
目の前には人混みがあり、その奥に向けて凄まじい歓声が放たれている。オリンピックで聞いた歓声より凄まじいものだ。
向こうで何か行われているのだろうか。
そんなことを考えながら、ぼうっと人混みを眺める。するとその人混みを形成しているのは武闘家達だということに気がつく。
しかも、強い。直感でそれを感じ取ると、俺の目は次第に見開かれていく。
少し背伸びをして人混みの向こうを見渡してみると、そこで驚くものを見た。
そこでは打ち付けられる堅固な肉体、飛び散る汗。そして雄叫びを上げながら拳を振るう二人の武士がいた。
驚くほどの熱気。
喧嘩……? いや違う。何かが違う。あれは純粋な強さ比べだ。
「なん……なんだ」
背伸びを辞め、俺は呟いた。
すると、呆然と立ち尽くす俺に気がついた一人のおっさんが振り返って言った。
「よう、新入りか?」
「え……? あ、はい」
曖昧な返事をしてしまう。新入りって、ここは何なんだ。
そう思っていると、俺に話しかけてきたおっさんが叫んだ。
「おおおおおおぉぉい!!! 新入りが来たぞォォォォォ!!!」
その言葉で、歓声を上げていた人混みが一斉にこちらを向いた。
そして
「しっんいり! しっんいり!」
『しっんいり! しっんいり!』
つんざくような新入りコールが始まる。俺は頭に無数の疑問符を浮かべながらキョロキョロと周りを見渡した。視線は全て俺に注がれている。
やがて、人混みの壁に道が開き、そこで戦う二人の姿が背伸びなしで見えるようになった。
バコンッ、そんな音がして、片方の男がもう片方の男をノックアウトして、開かれた道の先にいる俺を見た。
地面に沈んだ方は周りの男達が場外へと引きずり出していく。どうやらあそこは戦いのフィールドになっているらしい。
俺は吸い込まれるように男の元へ歩いていき、少し段差になっているフィールドの上に上がった。
そこでコールが止んで、歓声が上がる。
『うおぉぉぉぉぉぉ!!!』
振り向くと、開かれた道は男共によって閉じられており、辺りは静寂に包まれた。
フィールドの上の土は、ところどころ血で赤く染まっている。
目の前の男の体を下から上へ見渡す。隅々まで鍛えられた体だ。
男は俺を指差して言った。
「どこ出身だ? 俺は地球だ。名前はスティーブ・マルコヴィッチだ」
明らかに容姿外国人の男は、日本語を話した。
「日本語……?」
俺が呟くと、目の前の男は両手を上げた。
「地球だ!!」
『ちっきゅっう! ちっきゅっう!』
何なんだこれ。一体、何なんだ。俺は死んだんじゃなかったのか?
ここはどこなんだ。
「何をやってたんだ?」
男が話し出すと、また周りのコールが止まり静寂が訪れる。
「何をって、なんの質問ですか?」
「やってた格闘技だよ」
「それなら、柔道です」
『JUDOOOOOOOOOOOO!!!』
上がる謎の歓声。そしてその瞬間、私服を着ていたはずの俺の体は、なぜか柔道着に纏っていた。
「よし新入り、教えてやる。ここは武神の作った空間。名を、戦う男達の楽園。戦って死んだ猛者のみが迎え入れられる天国だ」
「は、はぁ」
「じゃあ、歓迎の一戦だ」
『ワァァァァァァァァァァァ!!!』
そんな歓声と同時に向かってくる男。
速すぎて俺は見動きすらとれなかった。
そしてブレる体から放たれる拳。その拳を顔面にモロに受けて、俺はフィールドの場外へと吹っ飛んだ。
「ボクシィィィィィィィィング!!!」
『ボクシング! ボクシング! ボクシング!』
そんな歓声と共に、俺はまた意識を失った。
初作品です!
どう思いますか?