【後編】
約三十分後に、有田社長の「運転手付黒塗り高級車」は、目的地へと辿り着いた。
彼は、目的の一軒家から家二軒分ほど離れた先に、路上駐車を運転手に命じたのだった。
「社長。表札には、伊藤と書いてありました」
運転手が、修平に報告する。
「そうか」
秘書からの情報に間違いはないようだ。大きく頷いて見せた、修平。
――旧姓「皆川留美子」、今の名前「伊藤留美子」は、一主婦として一軒家に住み、暮らしている。亭主と子ども二人の四人家族――
しばらくして、玄関の扉が開いた。
出てきたのは、予知画像で見た通りの姿の女だった。二十年振りに見る、「留美子」。
彼女が手にしていたのは、小さな玄関ボウキとチリトリだった。子どもたちを学校に送り出した後らしく、玄関先の掃除を、今まさに始めようとしている。
(ごく普通の主婦になったんだな。俺のプロポーズを断った時、彼女は『自分には夢があってそれが諦められないから』とか言ってたはずなのに……)
修平が、少し、裏切りにあった気分になる。
ここに辿り着けただけでもう気が済んだような気もするし、お節介をしているような気もする――
(ここから立ち去ろう)
一瞬そう考えたが、夜中に見たあの生々しい映像が頭からこびり付いて離れない。結局、彼はそのまま居残ることにした。
一時間ほどの時間が経過した。
こっくり、こっくりと居眠りを始めた運転手の後ろで、我慢強く外を眺めていた修平の眼に、緊張が走る。
「宅配屋……だ」
緊張感のある修平の声が、車内に響く。街でよく見かける、縞模様の服装をした小柄な人物が、彼の視界に入って来た。
配達トラックは、近くに見当たらない。けれど、ベビーカーのような台車を押しながら、配達担当者が、彼女の家の玄関先までやって来たのだ。帽子を深く被っているために、表情までは確認はできない。
修平の体が勝手に動き、車外へと飛び出して行った。
宅配屋が、玄関のインターホンのスイッチを押す。ぱくぱくと動く、その口元。
無我夢中で前へと進む修平と宅配屋の距離は、数メートルとなる。
そのとき宅配屋は、ポケットとから取り出した黒い雨合羽のような服を素早く上から被り、黒のサングラスを装着した。
その瞬間――玄関が、開いた。何の警戒心もない留美子の笑顔が見える。
黒い塊と化した人物が、懐から出したモノ――それは、果物ナイフらしき、鋭利な刃物だった。妙に明るい赤色の柄が特徴的な、高級ナイフ。
「きゃあぁ」
一瞬で状況を理解した留美子が、あらん限りの力で叫ぶ。と、同時に宅配屋が右手に持ったナイフを、大きく振り被る。
「留美子ぉ!」修平の叫び声が、辺りにこだまする。
そして、ナイフが、振り下ろされた。
ナイフが振り下ろされた場所――それは、伊藤留美子の体ではなかった。
その場所は、間に割って入った男の左胸――そう、投資先の株が必ずその価値を上げると評判の投資会社社長、有田修平の左胸であった。
「!」
彼の胸に、突き刺さったナイフ。それを見た修平の両眼が、大きく見開かれている。
留美子は、あまりの衝撃に声も出せない。
一瞬、暴漢の動きが止まる。けれどすぐさま、修平の胸からナイフを引き抜き、黒装束のままの恰好で、その場を走り去った。
空の段ボール箱は、玄関先に残されたままだった。
「だ、大丈夫ですか? えっ? あなたは修平……修平さんなの? どうしてここに?」
やっとのことで、留美子が声を絞り出す。
鮮血がいつまでも流れ続ける彼の傷口を、彼女はその小さな左手で必死に押さえた。けれど、その血の勢いは、止まらない。
「誰か、救急車を呼んで!」
その叫び声は、近所の誰かに届いたとは思えなかった。近所の人々の動く気配が、全く感じられないのだ。
「る、留美子、久しぶりだな。げ、元気だったか? こんなことして、お、お節介だったかな……」
現実を認めた修平が、優しげな声を出す。留美子は、頻りと首を横に振った。
けれど、修平の顔面は、みるみるとその青白さを増していった。何故か、笑ったような表情とともに。
「お、俺……あのとき、君の心を掴むことができなかった。それがずっと、心残りだったんだ。今なら俺の気持ちを……受け止めてくれるかい?」
「ああ……。修平さん!」
涙で掠れる景色の中、もはや風前の灯となった彼の命を目前にして、留美子はこくりと頷くことしかできなかった。それを見た修平の眼が、幸福感に満たされていく。
「ありがと……う。これで俺は、すべてを……手に入れることが……でき……た」
この言葉が、最期だった。修平は、息を引き取ったのだ。
◇
自宅近所の斎場で、修平の通夜が執り行われていた。
喪主である妻の桜は、気丈な態度でその勤めを果たしている。
その横には、故人の長年の親友であり頼れる部下であった、あの秘書の男がいた。そう、かなり近い傍に……
「この度は、ご愁傷様でした。ご主人は、私の命の恩人です。感謝しても、感謝しきれません」
涙ながらに喪主の桜に話したのは、二十年ぶりに修平に会い、そしてそのまま別れることとなった、伊藤留美子だった。深々と頭を下げ、肩を震わせる。
「あなたのせいではありませんよ。どうか、お顔をお上げ下さい」
留美子が顔を上げると、そこには慈母のように温和な表情の、桜がいた。
「でも、よろしければ主人の最期について、お話をお聞かせ頂けないですか? 私も、警察から詳しくは聞いていないのですよ。さあ、どうぞこちらに……」
「は、はい……」
喪服姿の桜が、ゆらり、とした動作で、奥の親族控室へと留美子を導いた。
ハンカチで目頭を押さえながら、部屋へと進んだ留美子。彼女が椅子に座ったのを確認すると同時に、桜が口を開く。
「一つ、お訊ねしたいことがあります。どうして、ウチの主人は、あのとき、あの場所にいたのでしょうか……」
桜は、留美子にそう尋ねながら、机の上のリンゴを一つ、手に取った。
「それが……。私にも、よくわからないのです。彼とは、確かに結婚以前、お付き合いしておりました。ですがそれはもう、二十年も昔のことです。その後、彼とは一度もお会いしておりませんでした。二十年ぶりの再会の日に、あんなことになってしまうなんて……」
「あら、そうでしたの? てっきり、私は……。ま、いいですわ。あ、そうそう、こちら頂き物のリンゴですけど、お食べになります?」
「あ、いえ、どうかお構いなく……」
留美子の返事が、聞こえたのか聞こえなかったのか、あるいは聴かなかったのか――桜は黙って懐から一本の果物ナイフを取り出し、リンゴの皮を剥き始めた。
「……。それで、ウチの人とは、最期にどんな会話を?」
しゅり、しゅり、しゅり……
一筆書きのように、剥かれていくリンゴの皮。
あまりにきちんと整ったその形に、留美子の背筋は寒さを覚えた。
「そうですね……意味はよくわからなかったのですが、御主人は最期、こう仰ってました。『これで、俺はすべてを手に入れることができた』とかなんとか……」
一瞬、動きの止まった、桜の指先。彼女の目に、ピリリ、と緊張が走る。けれど数秒後には、何事もなかったかのように、彼女はリンゴの皮を再度剥き始めた。
「あ、やっぱり……。私にはわかっていた。結婚してからずっと、あの人の心の中には、いつもあなたという人がいたことをね。私というものが、ありながら……。
フン、すべてを手に入れることができたですって? でもそれはきっと、彼の思い違いね! だって、あなたの気持ちを得ることができたとしても、最も近い存在の女の気持ちをモノにはできていなかったのですから。第一、女心はモノじゃない」
「え?」
瞳をぐるぐると回しながらとまどう留美子を前にして、リンゴの皮を剥き終った桜が手にしたナイフを掲げ、じっとそれに見入った。
――珍しい、赤い柄の高級ナイフ。
「そ、そのナイフは……」留美子が怯え出した。
「あなたには、感謝してるわ。あなたの御陰で、私も欲しいモノをすべて得ることができましたしね」
「え? あなた、もしかして……」
大きく見開かれた、留美子の瞳。
その時、控室に入ってきた男が、一人いた。
修平の秘書であった、あの男だ。
ドアを閉めたその男は、ニヤリと笑うと、後ろ手でドアの鍵をがちゃりと閉めた。
― 終 ―