【中編】
その夜の、八時になった。
午後にも順調に利益を上げ有田修平は、仕事を終えて、帰宅した。
彼を出迎えたのは、妻の「桜」だ。結婚以来、絶やさず彼に微笑み続けた、その優しい笑顔は、今夜も変容することはなかった。
「お帰りなさい、あなた……。御飯でいい?」
カウンターキッチンの前のテーブルに並べられた、手の込んだ料理の数々。
(たまには気を抜いて、お茶漬けとかでもいいのにな……)
そんな気持ちとは裏腹に、笑顔とともに修平は妻に笑いかける。
「……ありがとう、そうするよ。いつもながら、桜の料理は、美味しそうだね」
一方、もう一人の家族である娘「佳那」は、最近、自分の部屋に閉じこもることが多くなっていた。ちょっと前までは、彼の帰りを「とろけたシュークリーム」のような笑顔で、彼を出迎えていたというのに……。
近頃は、リビングにもほとんど姿を現さない。
「佳那は、自分の部屋か? 最近ここには、あまり顔を見せないようだが……」
「うん、部屋に居るわ……まあ、佳那もお年頃なのよ。それなりに学校の宿題とかも多いようだし、許してあげて」
「いや、別に怒ってる訳じゃないんだ」
彼のために甲斐甲斐しく働く妻を尻目に、修平が着替えをしようと寝室に入る。脱いだスーツをハンガーに掛けようと、クローゼットの扉を開けた時だった。
何がどうしてそうなったのか、一枚の紙が、まるで羽の生えた天使がゆらりと天空から舞い降りるかのように、彼の足元へと落ちてきたのだ。
(……写真?)
腰を屈めて、その紙を拾い上げる。
「こ、これは……」
それは、修平が若い頃に心から愛し、そして、最後はプロポーズにて敗れ去った女……皆川留美子とのツーショットの写真だった。
場所は、忘れもしない、この辺りでは有名な夜景スポット。
彼女の肩に手をまわし、目尻をこれでもかと下げた良く見覚えのある若い男の顔が、イラつくほどに、彼の胸の奥に突き刺さった。
(どうしてこんなところに、これがある? この写真を、俺がクローゼット奥に隠しておいたのだろうか? ……いや、記憶ないな)
頭が、混乱に陥いる。
処理の仕方も急には思いつかなかった彼は、とりあえず、今脱いだばかりのスーツのポケットに写真を滑り込ませた。
そして、クローゼットの扉を、音が立たないように、ゆっくりと閉めた。
午前零時、少し前。
予知作業に集中しようとする修平だったが、どうしても集中できない。
当然ながらあの写真――今の彼にとって、敗北感にも似た忌まわしい記憶の塊であるあの写真――のせいだった。
(桜に見られてはいないよな? 出迎えの時も夕食の時も、特には変わりはなかったし、大丈夫だとは思うが……)
午前零時――
結局、そのときの彼が思い浮かべていたのは、皆川留美子の名前と容貌だった。久しぶりに感じた、激しい頭痛。
(どういうことだ?)
修平はこのとき、初めて自分の予知画像を疑った。
彼の脳内に現れたのは、当然ながら留美子の姿であった。けれど、その内容が俄かには信じられない。彼女の命に関わる、重大危機の瞬間なのだった。
――誰かの妻になったらしい彼女は、エプロン姿で玄関に現れた。二十年前から比べれば少し肌の艶は見劣りするものの、相変わらず可愛らしい顔をした留美子が、宅配の荷物を受け取るため、玄関を開ける。するとそこに、黒ずくめのカラスのような恰好の人物がナイフを手に立っており、彼女に襲い掛かったのだ。
(留美子が、危ないのか? 本当に?)
危く漏れそうになった言葉を喉に押しこめた修平は、ちらり、同じベッドに横たわる妻の姿を見遣った。いつもはこちらに背を向けて寝ている桜が、珍しく今日は、仰向けに寝ている。安らかな寝顔だ。
「……」
修平はベッドから起き出すと、リビングに戻り、彼の携帯電話を手にした。相手は、長年連れ添った、社長秘書の男だった。
「ああ――俺だ。夜分、遅くに済まん。急で申し訳ないが、ある女の居場所を突き止めて欲しい。朝になり次第とりかかって、なるべく早くだ――ああ、そうだ。金は、いくらかかっても構わん。
……後で、俺の知る限りの彼女のデータをお前のアドレスに送っておく。頼んだぞ」
メールを送り終えた修平は、暫くぼんやりと、リビングテーブルの鈍い光沢を眺めていた。
◇
夜が明けた。
結局、秘書に依頼した件が気になり、修平は一睡もできなかった。
まるで紙のような味のサラダと鉛のような味の食パンを食べ終え、リビングで佇んでいた彼の携帯が鳴ったのは、十時を少しまわった頃であった。
当然それは、留美子の居場所を知らせる、秘書からの連絡だ。
「思ったより早かったな、ご苦労さん。じゃあ、詳しい住所は俺のスマホにメールを頼む」
電話を切り、修平が何やら考えに耽る。
それを見た妻の桜が、テーブル越しに微笑みかけた。
「どうしたの? 朝から真剣な顔して」
「あ、いや……今日はこれから大きな投資があってね。心配しなくていい」
「ふうん、わかったわ。でも、どうか無理はしないでよ」
いつもと変わらぬ、彼女の笑顔。結婚以来、この笑顔に彼は癒され続けてきた。当然、妻には感謝はしているが、今の彼の脳裏には別の女の影がある。
「行ってくる」
投資会社社長、有田修平は、そう言って妻に軽く会釈をすると、お迎えの車に颯爽と乗り込んだ。後部座席に座るや否や、ルームミラー越しに、会社とは別の住所に向かうよう、お抱え運転手に指示をする。
「……かしこまりました」
運転手の相槌とともに、タイヤを回転させ始めた高級車。
この車が向かおうとする先――それは、彼の想像より意外と自宅に近く、空いた時間帯ならば車で十五分ほどの距離の、住宅街だった。
(留美子、意外と近い場所に住んでたんだな……幸せなんだろうか?)
修平が、スーツの内ポケットに手を入れ、一枚の写真を取り出した。昨夜突然見つかった、留美子と修平が笑いながら並ぶ、あの写真だ。
(俺はどうして今、彼女のもとへ行こうとしているのだろう……。今更、彼女の前に出たところで俺とは判らないかも知れないし、感謝などされないかも知れないというのにな。それどころか場合によっては、お節介だと嫌がられてしまう可能性もあるのだぞ)
急に自分の行動がわからなくなってきた、修平。
不意に写真を窓から投げ捨てたい気持ちが湧き上がった彼は、電動の窓を一度開ける。が、思いとどまった彼は、窓を元に戻し、ポケットに写真を押し込んだ。
(まあ、気にはなるからな……遠くから様子だけでも窺っておくか)