【前編】
午前零時、五秒前――
薄暗い寝室の中、淡いオレンジ色のルームライトが、室内を照らしていた。
男が、右の人差し指をこめかみに当て、ベッドに横たわったまま、己の神経を集中する。隣には、安らかな寝息を定期的に漏らす、妻がいた。少し前に、眠りについたらしい。
「…………」
男が、ある人物の姿を脳内に浮かび上がらせる。彼の知り合いで、ある腕利きの株式ディーラーだった。
零時、きっかり。
『アダルバス社の株価が、急上昇! 思った通りの展開だ!』
喜び勇んだディーラーが、そう叫びながら飛び跳ねている。勿論それは、彼の脳内での出来事なのではあるのだが。
「……アダルバス社、ね」
彼の呟きとともに、脳内からその映像は消え去った。
男は、ベッドサイドのテーブルの上に置いてあった手帳を開き、メモ書きをする。
「あとはすべて、明日だな」
自分に背中を向けて寝る妻に冷ややかな視線を投げたその男は、ルームライトを絞り、掛布団を顔まで引き寄せた。
朝陽が、街角を照らす。
黒塗りの高級車が、滑るように市街地を走り抜ける。
昨夜の男が、黒い皮張りの広い後部座席にどっぷりともたれ掛かり、ため息をついた。自分の経営する会社へと向かう、通勤途中のことだった。
「……ああ、そうだ。アダルバス社の株を取引開始から買いにいけ。そして、頃合いを見て売り切るんだ。いいな?」
電話先の秘書にそう言い放った男は、まるでぴたり張り付いてしまったかのように左耳にあてがった携帯を、するり、音もなく頭から引き離した。
――その男の名は、有田修平といった。
投資会社「ドリーム・アップ」の代表取締役社長で、歳は四十五になったばかり。二つ年下の妻一人と、高校一年生の娘が一人の、三人家族だ。
会社も順調に成長しており、かなりの稼ぎを家に持ち込む彼には、妻も娘もそれなりに優しく、家族生活に特に不満はない。いや……寧ろ彼は、欲しいものはほとんどすべて手に入れてきたといってもいいくらいだ。まさに、順調な人生を過ごしてきたといえよう。
もちろんそれは、ほとんど、なのだが。
そんな修平だが、実は、一つだけ不思議な能力を持っていた。
それは、午前零時からたった五秒間ではあるが、頭の中で思い浮かべた人物の、その日のある一瞬を切り取って予知できる能力だった。昨夜は、彼はある有名株式ディーラーの名と姿を想像したのだ。そして今、その五秒の映像から得た情報を基に、投資した。
これが、ここ二十年の間繰り返されてきた、いつも通りの彼の行動だった。今まで、彼がそうやって会社の金を投資した株は、必ず、その価値を上昇させた。
会社を立ち上げる前は、ごく平凡なサラリーマンだった、修平。
だが、会社を立ち上げたその後の彼は、この能力を使って資産を増やすことに成功した。一言で言えば、ただの成り上がり者である。いや、特殊能力を持った彼だから、「ただの」ではないか。
しかしこの能力、生まれついたものではない。
彼にその能力が身に付いたのは、二十五歳の時だった。
もっと詳しく云えば、それはその頃修平が付き合っていた女、「皆川留美子」から別れを告げられたの日の、夜のことなのだ。
その日、彼女にプロポーズをすべく画策した彼は、留美子をデートへと誘った。
「結婚してくださいっ!」
彼の給料にしては奮発した感じの、落ち着いたフランス料理店。手に抱えるほどの花束を目の前に掲げた修平は、留美子にプロポーズした。
――しかし、そのプロポーズは成就しなかった。
ポケットから取り出した金の指輪を、近くの「どぶ」のような都会の川に叩き捨てた修平は、一度闇夜に向かって咆哮した後、近くの飲み屋街へと繰り出し、店を梯子した。
三件目の店、スナック「ふれんどりー」で安ボトルを一本開けかけた頃だった。運命の午前零時が、彼に訪れた。
日付の変更とともに彼を突然襲った、割れんばかりの激しい頭痛。
「な、何だ、この痛み……飲み過ぎか?」
頭を抱え込みながら、すぐ横で飲んだくれていた胡麻塩頭の初老男の背中を見つめた。その瞬間、彼の脳裏に、一つの映像が浮かんだのだ。
それは、目の前の初老の男が、脳卒中で倒れ、救急車で運ばれるシーンだった。
……数秒後、その映像が頭から消えるとともに、嘘のように、すうっと頭痛が止んだ。
(一体、何だったんだ……今の画像は。妙にリアルだったし……)
それから数日後。
スナック「ふれんどりー」に、ぶらっと再び訪れた修平は、例の初老の男が、あの翌日に突然倒れ、病院で亡くなったことを、ママから聴いたのだった。背筋が、カチンと凍りつく。
様子を聴けば、それは自分が見た画像にそっくりの状況ではないか。
(俺には、予知能力があるらしい……)
それが、有田修平が「能力」に目覚めた瞬間だった。
それから、約二十年が経つ。
零時に起こる頭痛そのものは、慣れてしまったせいか、最近はあまり痛みを感じない。
でも、予知能力そのものは、衰えることはなかった。
今日の予知も、きちんと当たり、取引は成功した。
そんな満足感の中で午前中の取引を終えた修平は、昼下がりの社長室でたった一人、大きなガラス窓から見下ろす景色を、楽しんでいた。大好きな煙草と濃いエスプレッソとともに過ごす、ちょっとした安らぎの時間だ。
(この能力をもっと早く得ていれば、金持になって留美子とも別れずに済んだろうに……今までの人生で、唯一、得ることができなかった留美子を、俺のモノにできたはずなのに……)
そんな風に過去を思い出すことは、彼にはよくあることだった。安らいだ時間であればあるほど、何故か脳裏に蘇る。
その度に、胃袋の奥から酸っぱい何かが込み上げてくる感覚に襲われる、修平。まさしくそれは、辛く苦々しい、悔しさの味がするのであった。