その夢の名は、後悔
「ただいま~」
その日、私は妹の折鹿と一緒に学校から帰宅した。
玄関で靴を乱暴に脱ぎ捨て、妹もそれに習う。
二人揃って台所で夕飯の支度をするお母さんの元に。
今日は大事な話があるからってお父さんも早めに帰ってくることになっていた。
ついでに抜き打ちテストで好成績を叩きだしたので、その証拠であるプリント片手に笑顔満面、私達は台所へ足を踏み入れた。
「お母さんただいまぁ~、今日ね、学校で……ね……」
その光景は、忘れもしない。
きっと二度と忘れることなどできはしない。
いつも見ていたはずの台所。
笑顔で振り向きおかえりと言ってくれる優しいお母さん。
そして、既に帰っているお父さんはテーブルの椅子に腰かけ、お茶を飲みつつ出迎えるのだ。お帰りと。
なのに……今日は……
赤かった。真っ赤だった……
キッチンにもたれるようにして、お母さんは座りこんでいた。
紅に染まったお母さん。視線はすでに光を失い、身体には未だに刺さっている包丁。
それは赤く染まった両手に握られていた。お父……さん……の……両手に……
私たちに気付き、お父さんは恐ろしい顔で迫ってきた。
手にした包丁をお母さんから引き抜いて。
なにが起こったのか、理解なんて出来ない。
ただ一つ。そのときの想いは……
妹を……折鹿を守らなきゃ。
私はお父さんの腕に噛み付く。
物凄い腕力で投げ飛ばされる。
テーブルの足にぶつかって、息が吐きだされる。
苦しかった。息が出来なくて、死んだ方がましで。でも……
妹に迫るお父さんの凶器。
妹を守らないと。
力が欲しい。
妹を守れるだけの力。
どんなものでもいい。お父さんよりも、強くなれれば……
そう思った瞬間だった。
ドクンッと体が脈打った。
今までの苦しさが嘘のように引いていく。
内から溢れ出てくる力の本流。
なにが起こったのか? どうして起こったのか? そんな事はどうでも良かった。
妹を守れる。
その想いだけが私を動かす。立ち上がる。走りだす。
「ああああああああああッ」
両手でお父さんを掴み投げ飛ばす。
それは軽々と。紙を掴んだように、本当に楽に投げられた。
壁に頭を突っ込んで、お父さんは動かなくなった。
私は妹に駆け寄って、抱きしめる。
もう大丈夫だと。
もう安全だと。
私が守ると。
力を込めて抱きしめて……茶吉尼の力が強すぎて、妹は……
「ああああああああああああああああああああああああああああッ!?」
「ひゃぁッ!?」
自分の悲鳴で飛び起きる。
横で寝ていた鈴も一緒に起きていた。
「な、なに!? なに?」
「あ……はっ……はぁ……は……夢……」
鼓動が早い。寝汗が凄い。
悪夢だ。あの夢を見るなんて……
額に手をあて、嫌な気分を落ち着かせる。
「大丈夫お姉さま?」
「はい……大丈夫です……入鹿は強い子ですから……」
半ば反射的に答える。
あの時から変わらない。
防衛のための虚勢。
大人たちに同情されるごとに言っていた。小さな私の防衛策。
心が壊されないようにするために、思い返して狂ってしまわないように。
私の中に進入してこようとする者を拒否する防衛手段。
まだ、私は……
「お姉さま? なにか変ですよ」
「だ、大丈……夫。うん、もう大丈夫。あの空飛ぶ変態が無数に出てくる嫌な夢見ちゃってね」
そう言って笑ってみせる。
「それは、かなり災難な夢ですね」
大丈夫。嘘だって気付かれてない。
「それで、今日も仕事は行くの?」
「ええ。今何時?」
「八時二十五分」
「そっか、まだ八時半になってないなら間に合……わないってッ。今日も全速力で走んなきゃッ!」
咄嗟に飛び起きパジャマを脱ぎ捨て洗面台へ。
「お、お姉さま、その格好は……」
「気にしたら負けよ!」
濡れた顔のままベットの上で呆然とする鈴に答え、服を着始める。
「バッグ。あれ、バッグは?」
「あ、あそこにありますお姉さま」
「ナイス折……じゃなくて鈴ッ!」
バッグを持って、玄関口に、
「お姉さま、顔くらい拭いていってくださいッ」
「自然乾燥よッ! 走ってるうちに乾いちゃうからッ! あ、朝食はレンジでチンね。わかんなかったらベランダに生えてる生野菜齧ってて。折鹿、鈴、行ってきま~すッ!」
返事も聞かないうちに玄関を開け放して出て行く。
「お、お姉さま、鍵、鍵かけていってくださいッ! 無用心ですよ~ッ」
「そっちは任せた。戸締りちゃんとしといてね~ぇぶらッ!?」
鈴に聞こえてるかどうかすら分からない声を返して安住荘とか書かれたプレートのある壁に正面衝突。
なんとか壁の粉砕は免れたけどヒビが……
だ、大丈夫、大家さん気付いてない。誰も、見てない。犯人ワカラナイ。
顔面押さえつつも、走るのを止めない私だった。




