深夜の逃走
それは突然のことだった。
いつの間にか寝入っていた私は、総毛立つように体にのしかかってきた不安感で一気に目が醒めた。
慌てて上体を起こす。
大雑把な私にしては綺麗で女の子してる可愛らしい小さな部屋は、いつも感じていた居心地のいい空間ではなくなっていた。
月明かりに照らされたうす暗がりの部屋に充満した寒気がする空気。
ドアは閉じたまま、窓も開けてない。
それでも肌にまとわりつく粘ついた気配。
私が今まで感じたことのある空気じゃなかった。
けど、刻まれた記憶が、妖の本能とでもいうべきものが私に告げる。
敵がいる。
敵意を持ったモノが私を狙っている。
ひくひくとしきりに鼻をひくつかせ、相手の匂いを辿る。
垢舐めは夜中に風呂場で垢を舐める妖だ。
人に見つからないように、人が近づく気配を察知することに優れている。 少し意識するだけで怪しい気配は即感知である。
私の鼻は臭いをキャッチする細胞が通常人の三十倍くらいだそうだ。
犬程ではないけど人よりは確実に多くの臭いを嗅ぎ分けられる。
母の連れてきた学者が言ってたからたぶんそうだろう。
窓の方がドアよりも臭いが強い……外?
すぐに窓から外を見る。
ゾクリとした。
月明かりに照らされて、下から私を見上げる少年が一人。
そいつは、私に気づいて笑顔で軽く手を振ってきた。
妙に爽やかな笑顔だ。
背中を得体の知れない何かが這った気がする。
鳥肌のようなものが全身に吹きでる。
あれは……間違いない。
間違いなく、殺された妖使いの少女の家で見た少年。
そいつがマンションの前で、私のことを待っている。
警察と関係のある少年が、グレネーダーによって抹消された少女の家からでてきた少年が……私を狙っている?
ここから窓を壊す能力もなければ、飛び降りて無事に逃げられる身体能力すら持ち合わせていない、私なんかを?
逃げる? いや、無理だ。捕まったらあの少女のように殺される。
立て籠る? どうやって? 押し入られたら終わりだ。
答えのでないまま頭の中で何かが回る。行動を伴わない言葉の羅列。
焦り、焦燥。戸惑い。
どうする? どうすればいい? あれから逃れるには?
ズルリ……
何かが、聞こえた。
ズル……ズル……
ドアの向こうで何かが這い寄ってくる。
思わず窓から顔を背け、私は、私は……悟ってしまった。
認識してしまった。
あの少年、妖使いだ。
今、妖同士の認識ができた。
私や母さん以外の妖使いに実際会ったのが初めてだったから分かんなかったんだ。
この臭いが、垢舐め以外の妖使いの臭いだったなんてことに。
そうして理解する。
私の感覚器に触れる同族を認識した感覚。
少女の家からでてきた時はなぜだか気づかなかった。でも、今は分かる。 あれは妖使い。
そして、ドアの向こうにいる何かが、きっと少年の妖能力。
なにかが這い寄る。
廊下をズルリズルリと引きずったような音を立て……
ほら、ちょうど今ドアの前にいる。
ドアノブがゆっくりと回る。
気配が凍りついた部屋に、ドアの開く音が不気味に響いた。
「有伽さん、いらしてたんですか」
親父だった。
張り詰めた緊張が一気に解けた。
ベットの上にぺたんと力なく座った私は、立ち上がろうとしてベットから転落する。
「はわっ!?」
とか声にでたし。
腰……力入んないし。
あ、なんか泣けてきた。
「なにしてるんですか?」
心配そうに顔を覗き込んでこようとする疲れ果てた顔の親父。
「何でもないわよ」
無様な格好のまま親父を睨みつける。
「入るときはノックしてっていつも言ってるでしょっ」
「はぁ、でも……」
何か言いたそうにしていたが、項垂れたまま私に頷く。
親父の態度にため息吐いて、でも、すぐに私は気づいた。
親父の後ろにはまだあの気配がある。
なるほど、人前では姿を現す気はないわけね。
待っているんだ、私が独りになるのを。
「で、何の用?」
何とか体勢を変えてベットにもたれて座る。
「酒の在庫が切れてまして……」
買って来いとおっしゃられますか。
他人行儀なくせになんでこういうことだけ娘を使いっぱするかなこの親父は。
もしかして家政婦かなんかと間違えてんじゃないですかね。
まぁ、親父の中では私は他人なんだろうけどさ。
しかし、これはこれでチャンスでもある。
家に一人でいるならば、あの少女のように遺体で発見されてもおかしくない。でも、外なら……
親父から賃金を受け取り、動きやすいハーフパンツとフードつきの服に着替える。
ちょうど左右にあるポケットがそのまま前側を通って開通してる青いパーカー。
ポケットの上には英語の文字が書いてある。詳しい名前なんて知らない。
母さんが男の子っぽくていいんじゃない? って書いたカードと共に、去年の誕生日プレゼントとして送ってきた奴だ。
娘だってこと忘れてるんじゃないだろか? なーんて涙がでた思い出の品だ。
フードを目深に被った私は、親父に心配そうに見送られながらよたよたと家をでる。
敵意を持った何かは、私がマンションをでた後も、一定の距離を置いてついてくる。
襲いかかってくるかとも思ったけれど、どうやらそこまで酷い奴ではないようだ。
相手も多分、大胆にも外へでた私の能力を警戒しているんだろう。
あの少年は? 目につく場所にはいないな。
真夜中になった今の時間帯でも、私が行きそうな近くのコンビニ辺りで待っているんだろう。
むしろそっちに誘導する気か? 後ろの奴が誘導係とか。
殺されるかも知れないってのに、何やってんだろ私。
怖くて逃げたくてどうしようもないのに、今は絶対に逃げられないって分かってるからだろうか? 震える足は自然と目的地に向かっていた。
あーもう。まだ腰がおかしい気がするよ。
深夜の街中は人がいないので寂れた感じがする。
時々遠くからパトカーやら救急車の音が聞こえてきたり、改造バイクの大きな音が聞こえてくる。
そしてもう一つ、私の背後からズルリズルリと何かを引きずる音が聞こえている。
さて、妖同士は認識範囲というものが存在する。
これは個体によって広さが違い、推測の域だけど、私はあの少年と比べると二倍くらい広さがあるはずだ。相手も自分も敵の認識範囲がどのくらいあるかは感覚で分かる。
私が無事に逃げられるとするなら、そこが狙い目。
相手の認識範囲外にでられさえすれば、私が殺されるなんてことはまずありえなくなるはず。つまり、一度相手の範囲から遠ざかってしまえば、近づいてきた相手が私を認識する前に逃げることができる。
認識を意識してないとダメだけど。
問題は、身体能力。
舌は人一人くらいなら持ち上げることができるけど、それ以外の身体能力は一般人とそう変わらない。
相手は警察関係者である以上妖専門に訓練くらいしているだろう。
なら、油断を突くしかない。
一撃離脱。それに賭けよう。
ようやく着いたコンビニで、私は缶ビールと骨付きフライドチキンを買った。
幸い、年齢確認はされなかった。
それはそれでショックを受ける。老けて見られてたらヤだな。
少年はコンビニにはいなかった。
いやまぁ、外から私が買ったものを見てるみたいだけどさ。見当たらないけど妖反応だけはあるんだよ。
骨付きチキンを食べながら、私は家とは逆方向に歩きだす。
左手はビールとともにポケットの中で遊ばせる。
食べ終わったチキンの骨を咥えたまま、適当な路地裏を見つけて入っていく。
ある程度まで進み、袋小路に行き着くと、私はようやく足を止めた。
「で? いつまでついてくる気?」
震えそうになる足を気力で支え、私は誰もいない空間に問いかける。
「なんだ、気づいてたのかよ」
答えはすぐに返ってきた。
「あんた、気配を消すのは上手いみたいだけど臭いは全く消せてないみたいね」
少し、声が震えているのが自分でも分かった。
「未成年が酒買っちゃいけないんだぜ? 知ってたか?」
私の言葉は聞き流し、世間話を持ちかけてくる。
「もちろん、普段なら絶対買いになんて来ないよ。しいて言うならあんたのせいだ」
いつもならあのまま断り、親父がしぶしぶ自分で買いに行くだけだ。
振り返ると、少年は路地の入り口を塞ぐように立っていた。
「逃げ場を自分でなくすなんて驚いたぜ。自虐癖でもあんのか?」
「ないわよ。あんたみたいなストーカー癖もね。現行犯逮捕して警察に突きだしてあげようか?」
「それは困るな。といいたいとこなんだがよ……」
少年の目が細まった。
薄ら寒い風が吹き込んで来た気がした。
「人権のないテメェがどうやって逮捕できんだよ?」
こいつ、やっぱり私が妖使いだと知っていながら追いかけてきたんだ。
「何でボクを?」
追ってきたのか? そう言葉にするより早く、少年が口を開いた。
「妖専用特別対策殲滅課。通称グレネーダー。テメェを狙う理由なんて、言わなくても分かんだろ?」
少年がニタリと笑った。
その言葉の意味する事実に、愕然とする。
グレ……ネーダー? こいつが?
あの、警察に特設された妖を確実に抹殺する機関?
ダメだ。
一度知られたら逃げ切ることは不可能。
ほぼ100%の仕事遂行率を持つといわれている専用部隊に私の存在が知られるなんて。
興味本位のよっち~たちに付き合って少女の家なんて見に行かなきゃよかった。
「見逃して……なんて無理かな?」
「さぁてねぇ、なんなら逃げてみれば? 案外逃げ切れっかもよ」
このまま逃げようとしたところで意味はない。
後ろからバッサリやられるだけ。
むしろ逃げるためなら、相手を追跡不能にしてから。
さあ、考えろ私。ここが私の正念場だ。
周囲に視線を走らせ、妖気も辿るが少年以外に怪しい気配はない。
やるなら……今だ!
私は少年に向かって走りだした。
「へぇ、怖気ず来んのか。どんな妖かお手並み拝見だな」
笑みを浮かべ、余裕さえ漂わせている少年。
でも、油断は大敵ってね。
口の中で骨を巻きとる私の舌。骨の形を確かめる。
うん、これなら十分だ。
少年に向かって舌を吐きだす。
垢舐めの力で通常よりも伸ばされた舌には、絡めとられた鋭い刃。
「骨ッ!? いつの間にっ!」
慌てて下がろうとした少年に向かって舌を振りかぶる。
そのまま先の尖った骨だけを少年へと投げつけた。
「ちぃっ!」
小さく呻いてわざと体制を崩す少年。
私の眼の前で尻餅をつく。
狙い通り!
私はすぐさま用意していた左手をポケットから取りだした。
手に握られているのは缶ビール。
心なし膨張してる。
「テ、テメ、まさか……」
「んじゃ、バイバイ♪」
少年の鼻面でプルタブを取り除く。
長時間振っていたせいで極限まで膨張していた中身が勢いよく噴出。
声にならない悲鳴に満面の笑みを浮かべ、私は路地裏を後にした。
後ろを振り返れば、私の気配を追って立ち上がった少年。
目に泡でも入ったのか辛そうに抑えつつ、おぼつかない足取りで私を追ってくる。
私はそれだけ確認すると、一目散に街道を走りだした。
グレネーダーに見つかった以上、家にはもう帰れない。
友達の家もマークされるだろうし、母さんのところにも関係者が行くだろう。
ごめん母さん。私は親不孝な娘だったみたい。
銀行かATMハシゴしてお金を全額下ろして高飛びっきゃない。
アマゾン辺りなら追っ手なんて来ないだろう。
幸い、自分のお金以外にも密かに月40万づつ貯金に回している親父の金がある。
そいつを合わせれば何とかなるはず。
さらに幸いなことは、追っ手があの少年一人だってこと。
彼さえ振り切れば私は逃げ切ることができるかもしれない。
「て――」
少年の声が聞こえた。
も、もう来たの?
後ろを見てみると、やはり少年は追ってきていた。というか……
あいつ、目を瞑ったまま追って来てる!?
あ、通行人にぶつかった。
深夜の通行人は怖い奴が多い。
ほら、なんか怒鳴られてる。丁寧に謝ってるし。
だけど、結局距離は近づいていた。
ツメが甘かった。もう三十回くらいビール振っときゃよかった。
とにかく今は捕まらないように全力疾走だ。
そう思って少年から目を離し、前を向こうとした瞬間だった。
突然生まれた背後の感覚に体が止まった。
本能が警告している。
そこに死神が待っているとでもいうように。
何かは分からない。
けれど、今振り返ってはいけない。
もしも振り返ってしまったら……
私は何かを見るだろう。
そこで何かが終わってしまう。
「や、やっと追いついた」
息を切らせた少年が追いついてしまった。それでも、私は動けない。
少年よりも私の後ろ、進行方向で言えば前だけど。
そこにいるナニかのほうが数倍恐ろしい。
まるで刃物でも突きつけられているように、首筋がひやりとしている。
「へぇ。振り向かねぇんだ」
少年が息を整え、楽しそうに笑う。
「ふ、振り向けないのよ。ナニが……居るの?」
最悪だ。
予想してたけどこいつ精神体を操るタイプの妖使いだ。
自分の体じゃないから遠距離まで飛ばせる精神体。
当然、精神体というくらいだから使用者が集中を乱したりすれば消えてしまうわけだけど……
「俺のア・ヤ・カ・シさ。俺のは自動的だから、振り向いてたらあんた死んでたぜ。足止めで思わず使っちまったんだが、よく振り向かなかった。誉めてやる」
冗談でしょ? 前も後ろもバッドエンド突入選択肢じゃない。
「俺の妖相手に振り向こうとしなかったのはお前が二人目だ。誇っていいぞ妖使い」
足が震えていた。
今まで感じたことのない、死という名の恐怖が押し寄せてくる。
「まぁ、そう逃げんなよ。ってこれじゃあ話もできねぇよな。もういいぜ、鎌を下ろしちまえ、【テケテケ】」
途端に消える背後の気配。
体が軽くなったように私はその場にぺたりと座り込んでしまう。
太股がジワリと暖かくなった――
「ん? お前何泣いてんだ?」
うっさいバカッ。
いっそ一思いに殺してくれぃ……
あとがきで新たに出現した妖使いの能力を纏めることにしました。
今回は有伽です。
名前: 高梨 有伽
特性: 膀胱が緩い
妖名: 垢嘗 (有伽自身は垢舐めという表現を多用)
【欲】: 垢を舐める事
能力: 【舌伸縮】
舌を自由に伸ばせる。
人一人くらいなら舌で持ち上げられる。
(自分を含めると二人)
【毒性無効】
舌で垢を舐め取るため、白血球が強化されている。
これにより風邪を引く事はない。
【嗅覚鋭敏化】
臭いに敏感になる。人の三十倍の臭いを感知可能。
【同族感知】
妖使い同士を認識する感覚器。
個人のよって範囲は異なる。
【奥之手】
舌を使った吹き矢のようなもの。
骨などを舌で削り、舌の力で相手に飛ばす。