無職とは付き合えないと寝取られた俺、実は超人気Vtuberなので復讐します
六月の雨は、東京の街を鈍色に濡らしていた。
宮前トオルは、ファミレスの窓際席で冷めたコーヒーを何度も口に運んでいた。向かいに座る幼なじみの美雪は、俯いたまま一言も発しない。二人の間を、安物のBGMだけが流れていく。
「トオル……」
美雪が顔を上げた。その目には、決意と、わずかな躊躇が混ざっていた。
「私、話があるの」
トオルはコーヒーカップを置いた。心臓が早鐘を打っている。まさか、彼女の方からプロポーズの話を――いや、でも今日は何の記念日でもない。彼女の表情は、祝福を伝えるそれではない。
「聞いてほしい。私ね、もうすぐ三十歳になる」
「……うん」
「このままじゃいけないって、ずっと考えてた」
美雪は、隣の席に置いてあったトートバッグを撫でるように触った。その仕草に、トオルは違和感を覚えた。誰かを待っているような、誰かを呼び寄せるような。
「トオルは、優しい。小さい頃からずっと、私を守ってくれた。それは感謝してる」
「美雪……」
「でも、優しさだけじゃ生きていけないの」
彼女の声が、わずかに震えた。
「あなたと一緒にいると、将来が不安で仕方なくなる。仕事は決まらないし、貯金もないし、このままずっと無職なんじゃないかって……」
トオルは口を開きかけた。言おうとした。本当は仕事があること。毎日、夜な夜な世界中の何十万人ものリスナーを前に、歌い、語り、笑っていること。その収入が、一流企業の役員をも上回ること。
でも、喉の奥で言葉が引っかかった。
「今さら、そんなこと言われても……」
「ごめん。でも、私、もう決めたの」
美雪が隣の席のトートバッグを手に取った。そして、中から現れたのは――見覚えのある男だった。
「初めまして。田所と申します」
スーツ姿の男は、品の良い微笑みを浮かべて名刺を差し出した。大手総合商社のロゴ。肩書きは「経営戦略部 課長代理」。
「同じマンションの、上の階に住んでおります。エレベーターでお会いするたびに、美雪さんの魅力に惹かれまして……」
トオルは名刺を受け取ることもできず、ただその光景を呆然と見つめていた。
田所は美雪の隣に自然に腰掛け、彼女の手を取った。美雪は恥ずかしそうにうつむくが、拒まない。
「お付き合いさせていただくことになりました。美雪さんは、僕が責任を持って幸せにします」
「ちょっと……田所さん、それは自分で言うから……」
美雪が頬を染めて田所の腕を軽く叩く。恋人同士のじゃれ合い。あまりに自然で、あまりに絵になる。
トオルはそこで初めて、自分が「振られた」のではないと理解した。
寝取られたのだ。
「トオル……ごめんね。でも、これが現実なの」
美雪はそう言って、田所の腕に自分の腕を絡めた。
「あなたのような無職の人と、美雪さんの未来はない」
田所の口調は依然として丁寧だったが、その目は明確にトオルを見下していた。
「もし本当に美雪さんのことを思っているなら、身を引くのが誠実というものですよ」
トオルは何も言えなかった。
何も言えなかったのだ――あなたが隣でドヤっている年収千二百万など、俺の月の収入にも満たない、と。
「お会計、済ませておきましたので」
田所が伝票をヒラヒラと揺らす。千円札が一枚。見下すような、憐れむような、勝者の余裕。
「美雪さん、行きましょう。この雨、今夜は上がらないそうですから」
「うん……トオル、元気でね」
二人は傘を差し、ファミレスを出ていった。雨音が、ガラス越しに響く。
トオルは長い間、動けなかった。
コーヒーは完全に冷め、表面に薄い膜が張っていた。
「……はあ」
深い、深い溜息が漏れた。
溜息と一緒に、何かが抜けていった。緊張。不安。そして、美雪に本当の自分を打ち明けるべきかどうかの葛藤。
全部、もうどうでもよかった。
彼はスマホを取り出した。通知は二十三件。全てVtuber事務所のマネージャーであり、幼なじみであり、唯一の理解者であるヒカリからだ。
『トオル! 新衣装のラフ来たよ!』
『コラボの件、シロちゃん側からゴーサイン!』
『誕生日配信、もうすぐだね! 何か企画考えとく?』
『……元気?』
最後のメッセージは、三十分前。ファミレスに入る直前だ。
トオルは、ゆっくりと打ち返した。
『ヒカリ』
『おっ! 生きてた!』
『新しい企画をやりたい』
『どんな?』
『「元カノの新彼氏、実況してみた」』
三秒の間があった。
『……マジ?』
『マジ』
『その元カノって、まさか』
『美雪。さっき寝取られた』
既読がついたまま、しばらく沈黙が続く。
『わかった』
『止めないの?』
『止めるわけない。あたし、あの女のどこがいいのかずっと疑問だったから』
トオルは初めて、その日、微笑んだ。
『ありがとう』
『で、どうするの? 実況って、個人特定できちゃわない?』
『大丈夫。細工する。配信で話すのはフィクションってことにして、でも関係者だけは確実に気づくように』
『なるほど。伝えておくわ。何時からにする?』
『今夜。すぐ』
『死にそうな顔で?』
『死んだから。一回、全部。だから、もう怖くない』
ヒカリからの返信は、スタンプだけだった。小さい頃、トオルが泣いていると、ヒカリはいつも無言で背中を撫でた。その代わりのスタンプだった。
トオルはファミレスを出た。雨は少し弱まっていたが、まだ冷たい。
彼は自宅マンションには戻らず、そのまま事務所へ向かった。
『天城カイト』になるために。
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夜九時。
『天城カイト』公式チャンネルの配信開始を知らせる通知が、約八十五万台のスマホに一斉に届いた。
リスナーたちが待ち構えていた。ゲーマー、歌ってみたファン、雑談配信のヘビーリスナー、そしてただこの青年の語り口に魅了された者たち。
画面に現れたのは、銀色の髪と深紅の瞳を持つ、バーチャルな美青年だった。トレードマークの青いパーカーに、首元には小さな鍵のアクセサリー。
「やあ、諸君。夜更かしの時間だ」
天城カイトの声は、少し掠れていた。
『おっ、カイトさん遅刻?』
『珍しい、定時ジャストに来ないなんて』
『声枯れてない? 風邪?』
「いや、ちょっとね。今日はいろいろあって」
カイトは軽く咳をした。
「今日は特別編。ゲーム実況も歌もなし。ただの愚痴配信――いや、『フィクション』の朗読会、とでも言おうか」
『お? フィクション?』
『なんか含みある言い方w』
『カイトさんの愚痴、希少価値すぎる』
「じゃあ始めるね。タイトルは……」
カイトは間を置いた。
「『元カノの新彼氏、実況してみた』」
一瞬の静寂の後、コメント欄が爆発した。
『は??????』
『元カノ!? カイトさんに彼女いたの!?』
『寝取られ系? 来たわね』
『草しか生えん』
カイトは淡々と語り始めた。幼なじみの彼女。彼女が「安定」を求めるタイプだったこと。自分が無職であることをずっと隠していたこと。今夜、ファミレスで呼び出され、年収千二百万の商社マンを連れてこられたこと。
一切の実名を出さず、特定されないように細工しながら。でも、本人たちが聞けば確実に気づくように。
『なにそれクソ彼女www』
『年収千二百万でドヤってるの笑う』
『いやでもカイトさんの年収って…(察し)』
『その商社マン、カイトさんの収入知ったらどんな顔するんだろ』
「彼女は言ったんだ。『優しさだけじゃ生きていけない』って」
カイトの声が、わずかに揺れた。
「本当にそうかもしれない。俺は彼女に、優しくすることしかできなかった。本当の自分を見せる勇気がなかった。それは事実だ」
『カイトさん……』
『でもさ、年収だけで人を選ぶ女なんて』
『それが現実だよね…悲しいけど』
「でも、彼女の言うことも間違ってはいないと思う」
カイトは続けた。
「現実って、残酷だから。愛だけじゃ乗り越えられない壁が、確かにある。それを教えてくれたことには、感謝してる」
『優しい…』
『泣ける』
『カイトさん、強くなったね』
「だから、これは復讐じゃないんだ」
カイトはそっと言った。
「ただの――確認だ。彼女が選んだ『現実』が、本当に正しかったのかどうか。それを確認するだけの、ただの実況」
配信は二時間に及んだ。カイトは時に笑い、時に沈黙し、時に目に見えて感情を揺らしながら、あの夜の出来事を語った。
終了時、同時接続者は十五万人を超えていた。
トレンド入り。関連ワードがTwitterを席巻する。
『#天城カイト』
『#元カノ実況』
『#年収千二百万』
深夜二時。
トオルのスマホに、一本の電話がかかってきた。
表示された名前は『美雪』。
トオルはしばらく迷い、そして通話ボタンを押した。
「……もしもし」
『トオル? 私、美雪だけど』
彼女の声は、震えていた。
『あの、今、大丈夫?』
「大丈夫じゃないけど、話すくらいは」
『……あの配信、見た』
「そう」
『天城カイトって、トオルなの?』
トオルは窓の外を見た。雨はとっくに上がり、雲の切れ間から月が覗いている。
「そうだよ」
長い沈黙。
『なんで……なんで言ってくれなかったの?』
「言ったらどうなってた?」
『そんあの……』
「『無職だけど年収は一億超えてるんだ』って。それ聞いて、美雪は俺のどこを見るつもりだったの?」
美雪は答えなかった。
「俺が欲しかったのは、『無職でも一緒にいる』って選択じゃないんだ。そんなの、ただのわがままだから。でも……」
トオルは言いかけて、やめた。
『でも?』
「いや、もういい。寝るよ」
『待って! 田所さんが……田所さんがすごく怒ってて。会社にも苦情が来てるって。どうしたらいいか』
「知らない」
『トオル、私……』
「おやすみ、美雪」
トオルは電話を切った。
ベッドに倒れ込み、天井を見つめる。天城カイトのアバターが、壁に貼ったポスターの中で微笑んでいる。
(俺は――本当に、復讐したかったのか?)
答えは出なかった。
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配信から三日後。
事態は、トオルの想像を超える速度で拡大していた。
最初はVtuberファンコミュニティ内の話題だった『元カノ実況』は、やがてビジネス系インフルエンサーや就活メディアにも拡散され、「年収信仰の危うさ」を問う社会現象に発展していた。
『天城カイトの年収はいくらか』というスレッドが立った。ファンによる綿密な収入推定が行われ、グッズ売上、スーパーチャット、企業案件――全てを合算した結果、驚愕の数字が弾き出される。
推定年収:1億2000万円~1億5000万円
『草、商社マンの十倍じゃん』
『年収千二百万でドヤってた男、今どんな気持ち?』
『ていうか元カノ、一億円の男振ってんの? 歴史的失策では』
田所の勤務先も、すぐに特定された。
大手総合商社・東和商事。田所は経営戦略部に所属するエリート社員だったが、ネット上では実名こそ出ていないものの、「年収千二百万でドヤってた男」として確実に認知されてしまった。
社内のSlackでは、担当役員からの注意喚起が流れたという。
『不特定多数の目に触れるSNSへの投稿は、会社の信用を毀損しないよう細心の注意を払え』
田所の立場は、急速に悪化していった。
そして、美雪にも変化が訪れた。
『#元カノ実況』のトレンドを見た知人から、次々と連絡が来た。
『美雪って、あのVtuberの元カノなの?』
『会社の人、みんな見てるよ』
『ていうか、なんで年収一億の男振ったの?』
美雪は会社に行けなくなった。
トオルはそれらを、少し距離を置いて見ていた。
胸の奥に、ずしりと重いものが沈んでいる。
(これで良かったんだろうか)
そんなある夜、ヒカリが事務所に訪ねてきた。
「トオル、これ見て」
彼女が差し出したタブレットには、田所が運営すると思われるインスタグラムのアカウントが表示されていた。
鍵はかかっていない。投稿を見れば、確かにあのファミレスにいた男だ。
『美雪さんと初デート。素敵なレストランでした』
『婚約指輪、どうか気に入ってくれますように』
『#年収千二百万 #都内在住 #資産形成』
トオルは、その投稿をじっと見つめた。
「これ……いつ?」
「全部、二ヶ月前から。美雪と付き合う前から、明らかに彼女を狙ってた投稿がある。よく見て」
スクロールするうちに、トオルはある投稿で指を止めた。
『同じマンションに住む女性。毎朝エレベーターで会う。彼女の彼氏は無職らしい。もったいない』
――これは、明らかに。
「美雪も美雪だけどさ」ヒカリが言った。「この男、本物のクズじゃん。最初から略奪目的で美雪に近づいてたんだよ」
トオルはタブレットを置いた。
「美雪に、これ見せる」
「え、庇うの?」
「庇うんじゃない。知る権利がある」
トオルはスマホを手に取り、美雪にメッセージを送った。
『今から会える? 大事な話がある』
三十分後、近所の公園のベンチで、トオルは美雪と向き合っていた。
美雪はすっかりやつれていた。化粧気もなく、髪もぼさぼさだ。
「これ、見て」
トオルは田所のインスタグラムのスクリーンショットを見せた。
美雪は黙って読み始め、そして途中で動きを止めた。
『彼女の彼氏は無職らしい。もったいない』
「……これ」
「君と付き合う前から、君を獲物として見てたってことだ」
美雪はそのまま、しばらく固まっていた。
ぽた、ぽた、と涙がスマホの画面に落ちた。
「私……私……」
「謝らなくていい」
「でも!」
「謝られても困る。俺はもう、君のことを特別に思ってないから」
美雪が顔を上げた。その目には、初めて恐怖の色が浮かんでいた。
「トオル……私、どうすればいいかわからない……」
「知らない」
トオルは立ち上がった。
「でも、教えてやれることは一つだけある」
「なに?」
「人間の価値は、年収じゃ測れない。それは、間違いなく正しい」
美雪は何も言えなかった。
「俺は間違ってた。ずっとそれを証明するのが怖かった。でも、もう怖くない。証明できたから」
トオルは背を向けた。
「さようなら、美雪」
「トオル……!」
呼び止める声を背に、トオルは歩き出した。
一歩、また一歩。
涙は、出なかった。
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4年後、天城カイトは、登録者数百五十万人を突破した。
冠番組を持ち、CMに起用され、紅白歌合戦への出場も決まった。もはやVtuber界の枠を超え、一つの国民的キャラクターとなっていた。
トオルは今も無職のままだった。
住民票の職業欄は空白。でも、誰もそれを笑わない。
ある日、トオルは久しぶりに、かつて美雪とよく行ったファミレスを訪れた。
窓際の席に座り、コーヒーを注文する。あの日と同じ、梅雨の夜だった。
外は雨。窓に水滴が伝う。
「……宮前さん?」
声がして顔を上げると、そこに立っていたのは美雪だった。
いや、違う。痩せこけ、目の下に隈を作った女は、確かに美雪の面影を残しているが、二年前の彼女とはまるで別人だった。
「やっぱり……トオルだ」
美雪は遠慮がちに向かいの席に腰掛けた。
「隣、座らないの?」
「私、もう隣には座れないよ」
美雪はかすかに笑った。それは昔のような可愛らしい笑顔ではなく、全てを諦めた者の諦観に近かった。
「元気そうだね」
「うん、まあ」
「天城カイト、すごいね。おめでとう」
「ありがとう」
沈黙。
コーヒーが運ばれてくる。美雪はそれを一口含み、静かに話し始めた。
「田所さんとは、別れたよ」
「……そう」
「あのインスタ、知ってからすぐに問い詰めたの。そしたら逆ギレして。『お前が無職の彼氏を引きずってるからだ』って」
美雪の声は、感情を殺していた。
「そのあとすぐ、会社も辞めた。ネットで晒されて、もうどこにも就職できなくて。今は実家に戻って、パートしてる」
「そうか」
「トオルは……私のこと、憎んでる?」
トオルは少し考えて、首を振った。
「憎んでない。もう終わったことだから」
「……そっか」
美雪はうつむいた。
「私ね、ずっと間違ってた。ずっと『普通』に憧れてた。普通の結婚、普通の家庭、普通の幸せ。でも、普通って何なんだろうね」
トオルは答えなかった。
「トオルは……普通じゃなかった。すごく、特別だった。それに気づくのに、全部失ってから二年もかかっちゃった」
雨が強くなる。窓の外は、水滴のカーテンに覆われた。
「一つだけ、言わせてほしい」
美雪が顔を上げた。
「ごめんなさい。あの日、私があなたを無職だって……そんなことで傷つけて、ごめんなさい」
トオルはカップを置き、静かに言った。
「許すよ」
美雪の目に、涙が溢れた。
「でも、二度と会わない」
「……うん」
「これが最後」
「うん」
美雪は立ち上がり、深くお辞儀をした。そして振り返らずに、雨の中へと消えていった。
トオルはコーヒーを飲み干した。
冷めきっていたが、少し甘く感じられた。
会計を済ませ、外へ出る。
雨はもう上がっていた。
スマホが震える。ヒカリからだ。
『トオル! 紅白の打ち合わせ、衣装どうする? あと新曲の歌詞、そろそろ詰めないと!』
トオルは空を見上げた。雲の切れ間から、星が一つ、輝いている。
『帰ったらすぐ行く』
『待ってるよ』
歩き出す。
明日も配信がある。新しい歌を覚えて、新しいゲームをクリアして、新しいファンと出会う。
無職のまま、世界で最も多くの人に知られるVtuber。
それが、俺の選んだ『普通』だ。
あの日、全てを失った夜から、二年。
復讐は終わった。
今はただ、前を向いて歩くだけ。
(完)
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あとがき:
この物語をお読みいただき、ありがとうございました。
もしこの話がお気に召しましたら、ぜひ下記の連載中作品もご覧いただければ幸いです。
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引き続き、読者の皆様の心に残る物語をお届けできるよう努めてまいります。これからも応援よろしくお願いいたします。




