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首を長くして彼を想う

作者: 小川四郎
掲載日:2025/12/14

明美はマンションで一人暮らしをしていた。


築年数の割に静かで、夜になると生活音が妙に遠く感じられる建物だった。


ある日、明美よりも二歳年下の雄二が隣の部屋に引っ越してきた。


雄二は顔を合わせるたびに、きちんと目を合わせて丁寧に挨拶をする好青年だった。

マンションでの決まり事や土地勘に乏しいこともあり、何かあれば隣の明美に相談してきた。


独身で恋人もいない明美は、そんな雄二に対して、いつしか母性本能を刺激されていた。

年下の雄二を、弟のように思う感覚。それは自然で、穏やかで、疑う余地のないものだった。


雄二が自炊できず、スーパーやコンビニの総菜で夕食を済ませていると知ったとき、明美は「多めに作ってしまったので、よかったら」と手料理を届けた。雄二は素直に喜び、その好意を疑いもせず受け取った。


一緒に食事をすることはなかった。


だが、どんな顔で食べてくれているのだろう、と想像するだけで明美は満足だった。自分が何かを“与えられる側”でいられることが、ひどく心地よかった。


そんな中、明美を不安にさせる出来事が起こり始める。


夜、雄二の部屋から女性の笑い声が聞こえた。


最初は隣室のテレビだと思った。しかし、このマンションに住んで三年、そんなことは一度もなかった。


壁に耳を押し当てると、酒に酔ったような女性の声が、はっきりと雄二の部屋から響いていた。


明美の知っている雄二は、酔った女性を部屋に連れ込んで何かをする男ではない。事情があって訪ねてきたのか、酔った友人を介抱しているのかもしれない。そう思おうとした。


だが、週末の夜になると、女性が出入りする気配は繰り返された。


廊下で聞こえる会話。ベランダに残された、口紅のついたタバコの吸い殻。


明美は次第に、雄二のことが心配になっていった。


部屋の中の様子を知りたい。どんな女性がそこにいるのか、見て確かめたい。


明美のベランダからは雄二の部屋の中は見えない。防犯上、隣のベランダへ移動できない構造になっている。


それでも。「どうすれば、見えるの?」


そう呟いた声は、自分の耳には少し遠くに聞こえた。





半分ほど開けられた茶色のカーテン。その隙間から、ガラス越しに見えたのは、ベッドで眠る雄二と樹里だった。


樹里の寝顔は、同性の明美が羨ましいと思うほどに美しかった。


だが、不思議なことに嫉妬の感情は湧かなかった。雄二にとって相応しい女性で、二人が幸せであればそれでいい。そう思えた。


自分の容姿で卑屈になってはいなかった。けれど、樹里ほど美しければ、人生はもっと違っていたかもしれない。

そんな考えが、静かに首の奥をよぎった。





ある日、帰宅途中に樹里が若い男性と手をつなぎ、外車の高級スポーツカーの助手席に乗り込む姿を見た。


樹里を乗せたスポーツカーは明美の前を、軽やかに走り去っていった。


「どういうことなの?」


雄二と樹里の間に、何かあったのだろうか。


マンションに戻ると、エントランスホールで郵便受けを確認している雄二と会った。

雄二はいつも通り爽やかに挨拶をし、軽い足取りで部屋へ戻っていく。


自分の勘違いだったのかもしれない。


勝手に恋人同士だと思い込んでいただけで、実は親しい友人か、親戚や妹のような存在なのだろうか。


そう考えると、明美は微笑み、差し入れする手料理の献立を思い浮かべた。





女の声で目が覚めた。


呻き声のようで、喘ぐようでもある。壁掛け時計は午後十一時過ぎをを指していた。


最近、アルバイトが急に辞め、明美は所定時間外の勤務が続いていた。


疲れ切った体で、夕食後にソファに座ったまま眠ってしまったらしい。


まさか、と思いながら雄二の部屋側の壁に耳を当てた。





雄二のベランダのサッシ越しに、ベッドが軋む音が聞こえた。


男の荒い息遣いと、女の声。


カーテンの隙間から覗いた先で、雄二と樹里は裸で獣のように愛し合っていた。





体は疲れ切っているのに、眠れない。


残響なのか、まだ聞こえているのか分からない声が、虫唾のように首の付け根にまとわりつく。


過労と睡眠不足で出勤する中、頭だけはハッキリとしていた。


「このままには、しておけない」


その言葉は、決意というよりも、当然の結論のように思えた。





二階建てのハイツ。


「これなら、ここからでも届くわ」


白いレースのカーテンと淡いピンクの遮光カーテン。


その隙間からは、酒に酔ったように男性にもたれかかり甘える樹里の姿が見えた。


以前に見たスポーツカーの男とは別の男だ。


「……これが、あの女の正体か」


視線を合わせるために、首が少し重たくなった気がした。





朝、出勤時にエントランスホールで雄二と会った。


雄二はいつも通り、愛想よく挨拶をしてきた。


明美はぎこちなく返したが、雄二は気にした様子もなかった。


「でも、何とかしなければ」





茶色のカーテンの隙間から、樹里を睨む。


雄二には気づかれず、樹里にだけに分かるように。


目が合った瞬間、口元が緩む。


樹里が悲鳴をあげた。


ベランダを指さした樹里に促されて雄二がベランダに出て周囲を確認する。


だが、明美の身体はいつも自分の部屋の中にある。


「首が痛くなってきたから、今夜はこれくらいにしよう」


何度も繰り返せば、いつか……





ある日、廊下で雄二に尋ねられた。


このマンションで女の幽霊を見たことがあるか、と。


見たことも、聞いたこともないと答えた。


だって、あの女には来てほしくないけれど、雄二には、ここに居てほしいから。


「……やっと、見つけたんだから。これからも、私が見てあげるね」


声は喉の奥で細く伸び、夜の高さまで、静かに届いていった。

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