ひまわりの道①
1,年越し
年末の農協の仕事を終えて家に帰る途中のことだった。早坂信平は雪の積もった道を何時ものようにかったるそうに歩いていた。と、突然、後ろからタクシーがやって来てので、道路わきによけた。すると傍を通過すると思ったタクシーがスピードを緩めた。
「あらっ、信ちゃん」
「おー。帰って来たんか」
「うん」
「正月。東京の話をしてくれや」
「分かった。じゃあね」
信平と幼馴染である川端晴美は、タクシーの中から小さく手を振って去って行った。彼女は裕福な土地持ちの農家に生まれ、小学校から高校まで、信平とずっと一緒の学校で学んで来たが、一昨年の4月から東京の大学に進学し、都会暮らしを始めていた。その晴美が正月休みに帰省して、川端家は、さぞかし賑やかになるであろうと、信平は、川端家の団欒を想像した。そんなことを考え、雪道を歩いているうちに、自宅に辿り着いた。
「だだいま」
「お疲れ様でがす」
祖母の千鶴に迎えられ家に入ると、母の豊子と姉の清子が、台所で、大晦日と正月の料理をしていて、美味しそうな匂いが漂っていた。父、耕平は年越し蕎麦を湯がいていた。弟の忠之と優也は居間の炬燵で、テレビを観ながら、年越しの料理が出来るのを待っていた。信平が通勤着から普段着に着替え終わったのを見計らって、食卓に料理が並べられ、信平たち兄弟は、食卓へ移動した。母も姉も御節料理を作り終えて、席に付いた。スキヤキ鍋を前に家長である父、耕平が簡単な挨拶をした。
「今年、一年、皆、ご苦労さん。皆、それぞれ健康で、頑張ってくれた。来年も皆で頑張ろうや」
それから酒とジュースで乾杯して、皆でスキヤキ鍋をかこんで食べた。普段、酒を飲まない祖母、千鶴が、ちょっとだけと言って、『浦霞』を飲み、頬を赤くして、ご機嫌だった。こうして一同そろって食事をすると、家族という絆に結ばれている実感を強く感じさせられた。信平はふと、このような1年をまた繰り返し、この田舎で一生を終えるのかと、自分の人生を思いやった。自分の人生は、これで良いのか。もっと別に生きる世界があるのではないか。そういえば3年前の秋の終わり、父、耕平に大学に行きたいと願い出て、親子喧嘩になり、叱られたことがあった。あの時の父の激昂は忘れられない。
「何を言っているのだ。お前はもう農協に就職することが決まっているのだ。農協に務め、農業のことを勉強し、早く一人前になって、地元の為に貢献するのだ。農家の後継ぎになる者が大学に行く必要などない」
「父ちゃん。何で大学に行きたいという俺の願いに反対するの。農家の後継ぎは、俺でなくとも、忠之や優也でも良いんじゃあないの」
「わしは町の高校を卒業し、家業を継ぎ、農業のかたわら、立派に町会議員の仕事をしている。大学に行かなくたって、地元の仕事は出来る。お前の本心は分かっている。お前は東京へ行って、遊びたいだけだ」
「遊びたくて大学に行くのではねえ。全国の若者と出会い、勉学に励み、広い世界を知りたいんだ」
「そんな必要ねえ。お前が生まれる前は『俺ら東京へ行くさ』という歌で、東北のことを馬鹿にされたが、今では、テレビも車もバーもある。カラオケだってある。ここでの暮らしで不自由することは何もない。お前は農協で頑張り、町の名士になるのだ。特別な才能があるわけでも無いのに大学に行きたいなどと、馬鹿な事を言うな」
信平は耕平に、そう言われて、カッとなった。
「馬鹿な俺だって、大学で学べば、自分の才能を見つけ出すことが出来るよ。俺はこの町のことしか知らねえ、教養の無い、父ちゃんみたいな人に、なりたくないんだ」
「何だと。親に向かって教養が無いとは何だ。もう一遍、言ってみろ」
耕平は顔を真っ赤にして、信平の顔を殴った。信平は殴られても我慢した。すきやき鍋がひつくりかえりそうになった。母、豊子が夫、耕平の足にすがりついて泣いた。
「お父さん、止めて下さい。信平、お父さんに謝りなさい」
振り返れば、あれから3年経っていた。皆でスキヤキ鍋を食べ終えた後の締めは、年越し蕎麦だ。祖母の千鶴は息子、耕平の作った年越し蕎麦を、とても美味しそうに食べて笑った。長生きして欲しい。その後、皆でNHKの紅白歌合戦をテレビで見て、年越しをした。
2,正月を迎える
平成23年(2011年)元旦。早坂信平は二階の自分の部屋で目を覚ました。去年、一年の疲れが、どっと出た為か、家族で一番、遅い起床となった。一階の台所から、母、豊子と姉、清子が喋りながら、御節料理の準備をしている声が聞こえた。信平は自分の部屋の布団を仕舞い、パジャマを脱ぎ、セーターとジーパン姿に着替えた。それから朝日に向かって手を合せて祈り、二階の部屋から一階に降り、家族の皆に新年の挨拶をした。
「おめでとう御座います」
「おめでとう」
家族の者、一人一人が信平におめでとうを言った。そして信平が歯を磨き洗顔して椅子に座ると、家族全員が食卓で顔を合わせた。全員そろったのを確かめ、家長である父、耕平が新年の言葉を述べた。
「去年は大過なく順調にことが運び、お陰で、明るい新年を迎えることが出来た。今年もまた、健康に留意し、それぞれの目標に向かって頑張ろう。ではお屠蘇で、おめでとう」
その言葉を受けて、信平たちはお屠蘇でお祝いし、お節料理と年末についた餅の雑煮をいただいた。母、豊子と姉、清子が心を込めて作ってくれたお節料理は、伝統の早坂家の味で、何とも言えぬ美味しさだった。里芋、シイタケ、などの煮しめ、真鱈の子和え、しめ鯖、蒲鉾、タコ、栗きんとん、数の子、伊達巻、紅白のなます、昆布巻きなど、普段、食べられない美味しい料理を、発育盛りの兄弟は競うように頂いた。その姿を見て、母と姉は笑った。仕合わせいっぱいの顔だった。信平は自分の家族のように帰省した川端晴美が、実家で家族の人たちに囲まれて嬉しそうに、お節料理を頂きながら、新年を迎えている姿を思い描いた。川端家は晴美が加わり、より明るい新年を迎えていることであろう。信平は新年最初の朝食を済ませると、祖母の千鶴が初詣に行こうと言うので、お屠蘇の酒を飲み過ぎた父、耕平に留守を頼み。6人で近くの鹿島神社に出かけた。国道を渡り、鹿島神社に近づくと、正月の幟がはためき、これから参拝する人、参拝を終えて帰る人で参道は賑やかだった。ほとんどの人が知り合いなので、年賀の言葉を交わしたりして進行するので、神社の境内に辿り着くまで、時間がかかった。境内では参拝した人に開運御守が配られ、屋台も出て、おめでたい雰囲気が溢れていた。その境内で、信平は川端晴美とすれ違った。彼女は両親や弟たちと一緒で、軽く頭を下げただけで通リ過ぎて行った。そんな晴美を見送ってから信平は神前に進み、鈴を鳴らし、礼拝した。去年の無事の御礼と感謝の気持ちをこめて賽銭を投げ、密かに自分の望みを祈願した。
「東京へ行かせて下さい」
信平は東京へ行くことを、まだ諦められないでいた。初詣を終えてからの帰り道、末の弟、優也が信平に訊いた。
「信兄さん、何をお願いしたの?」
「うん、俺か。俺は家族の健康と農協での仕事を、もっと幅広く修得出来るように、お願いした。お前は何をお願いしたのだ」
「俺か。俺は良い高校に行けるようお願いした」
「そうやな」
信平は笑って、丸っこい優也の頭を撫でた。それを見て、皆が笑った。初詣を終え家に帰ると、母と姉は祖母を休ませ、また食事の準備をした。女衆は何時も忙しい。信平たち兄弟はテレビで『相棒』というドラマを観て過ごした。2日と3日は『箱根駅伝』をテレビで観た。往路は箱根山登りの名人、柏原竜二のパワーで『東洋大学』が優勝。復路は『早稲田大学』が健闘し、総合優勝した。大学生たちの燃えるような青春の情熱が、信平の胸を熱くさせた。自分も彼らと同じように、都会へ行って、青春を謳歌してみたいと思った。そんな所へ阿部輝夫から、川端晴美たち同級生と一緒に初詣に行こうという電話が入った。だが信平は4日から仕事なので、参加出来ないと断った。すると輝夫は高校時代から付き合っている竹内好子と相談し、初詣を次の土曜日に変更してくれた。
そして4日から信平の農協での仕事が始まった。信平の仕事は農協の販売部の営業で、客先回りが主な業務だった。5日から肥料や種苗、農業用フィルム、農機具などを購入してくれる得意先回りを、ライトバンを運転して行った。そうこうしているうちに8日の土曜日になった。朝早く阿部輝夫と永井健太が信平の家にミニバンに乗って迎えに来た。その車に乗り込むと輝夫が今回の初詣計画の経緯を信平に話した。ことの発端は竹内好子から、陸奥国一之宮にある塩釜神社に川端晴美たちと初詣に行きたいので、お友達を誘って塩釜まで車で連れて行って欲しいと依頼されたからだという。信平は、もしかすると、年末に晴美と出会った時、東京の話をしてくれとお願いしたので、その機会を得ようと、晴美が好子にもちかけた計画かも知れないと思った。輝夫の元気なお喋りを聴きながら信平と健太の3人は、矢本駅に行った。駅前でミニバンを停めると、竹内好子と川端晴美と佐々木町子の3人が、オーバーコートの襟を立てて、待ってましたとばかり走って来て、ミニバンに乗り込んだ。
「ああ、しばれんな~」
彼女たちは、口々にそう言って、後部座席に座り、肩を擦り合わせて、笑った。車の中は輝夫が暖房を利かせていたので、とても温かかった。快晴が続き、ドライブがてらの初詣には、絶好日和だった。新年の挨拶を交わしてから、車は一路、塩釜市へ向かった。まずは45号線で松島に出て、松島海岸を左側に眺めながら、塩釜市内に入った。車の中では、女性陣がピーチクパーチク、喋り通し。時々、健太が、振り返って合いの手を入れる。運転席に座る輝夫と助手席の信平は時々、バックミラーで後ろの連中を覗きながら、微笑し合った。目的地、塩釜神社には約一時間半で到着した。初詣の車が多くて、何時もより30分程、余計に時間がかかってしまった。また駐車場も混雑していて、第二駐車場に車を停め、そこから志波彦神社の鳥居の横を通り、まずは神馬舎を参拝した。その後、東参道に出て、手水舎で身を清めて、気持ちをすっきりさせた。それも束の間、本殿の正面に当たる髄身門の所を通りがかると、佐々木町子が、男3人に言った。
「ここが本殿の表参道なの。男坂といって、男は、この下の鳥居を潜って登って来ないと、好運に恵まれないらしいわよ。下に行ってらっしゃい」
「まじかよ」
そこから下を見下ろすと、神社の森のずっと下に鳥居があり、長い石段が鳥居まで続いていた。信平たち男3人が躊躇していると、女3人が命令した。
「行ってらっしゃい」
そう言われて信平たち3人は、仕方なく202段の石段を往復した。待っていた女性3人の前に戻った時には3人とも息切れがして、ハアハアだった。それから6人で本殿へ向かった。幾つかの門を潜り、雪の残る庭などを眺め、本殿に着くと多くの人たちが行列を作っていたので、その後に並んだ。行列が徐々に前進し、ようやく自分たちが祈願する番になった。信平は深く一礼し、鈴を鳴らし、お賽銭を投げ入れ、二礼二拍手一礼をして、自分の願い事を伝え、開運を祈った。
「東京に行けますように・・」
更に別本宮に移動し、ここでも参拝し、上京の夢を祈願した。その後、晴美たち女性3人は、おみくじを引いたりした。3人とも小吉だった。だが3人とも嬉しそうだった。続いて志波彦神社にも参拝して、松島湾が眺められる場所で、記念写真を撮った。初詣を済ませたところで、佐々木町子が予約してくれていたイタリアンレストラン『トワレ』へ行った。そこでパスタランチを食べながら、各人の近況を語り合った。好子は銀行の話、晴美は東京での学生生活、町子は病院の話、輝夫は漁協の話、健太は水産加工場の話、信平は農協の話をした。皆、悩み事一つ無いのか屈託なく、毎日が楽しそうだった。信平は晴美から東京の事を詳しく聞きたかったが、そのチャンスが無かった。塩釜から矢本駅に戻った時、こっそり、晴美に訊いた。
「明日、二人だけで話そうか?」
「いいわよ」
晴美は、にっこり笑って、翌日の再会を約束してくれた。
翌日の夕方、信平は車に乗って石巻市内の合同庁舎前まで行き、川端晴美と合流した。そして近くの駐車場に車を停めて、洋食レストラン『セパージュ』へ行き、デイナーコースを註文し、食事をしながら話すことにした。店に入ってテーブル席に案内され、食事を註文すると、飲み物を訊かれた。信平は車の運転があるので、ウーロン茶にした。晴美は赤ワインを頼んだ。その飲み物は直ぐに運ばれて来た。赤ワインを目にすると、晴美は嬉しそうだった。
「では、乾杯しましょう」
「乾杯!」
晴美と見詰め合っての乾杯は、何故か恥ずかしかった。なので、まず前菜、魚貝のサラダ仕立てを一口、口にして会話を始めた。昨日、互いの近況を訊いていたので、容易に質問することが出来た。その会話を和ませるように、きのこチャウダー、海老のチリソース掛け、カレイのソース蒸し、牛肉のロティーなど運ばれて来た。信平は、それらをゆっくり味わいながら、晴美の東京での学生生活について話してもらった。彼女は昨日より詳しく話してくれた。彼女の通う大学は池袋にあり、板橋のアパートから通学していて、通学時間はそれ程、かからないという。そのアパートは2階建てで、家主の家族が一階の片隅に住んでいて。晴美は2階にある4部屋の一つを借りていて、とても便利だという。アパートであるのに、台所、バス、トイレ付きの6畳間で、押入れや靴箱もセットされていて、まるでマンションと変わらないらしい。
「大学の授業は地方出身の学生も都内育ちの学生もいて、毎日がとても新鮮なの」
「友達は出来たかい?」
「ええ。沢山、出来たわよ。女の子だけだけど、皆、明るくて楽しい人ばかり」
「授業はどうなの」
「去年までは基礎教育のおさらいみたいな授業が多かったわ。この春から専門的になるの」
「そうなんだ」
「私は英文科なので文系の授業が主なの。信ちゃんの好きな文学の講議もあって、信ちゃんに聞かせてやりたいなんて、思ったりすることもあるわ」
嬉々として大学生活を語る彼女の話を聞いていると、信平は自分も大学に進学し、教養を身に付けたいと思った。しかし信平の家は市会議員をしている晴美の家と違い、まだ高校生の弟、忠之と中学生の弟、優也がいて、学費がかかり、経済的に厳しい農家であり、信平を大学に進学させる余裕など無かった。でも大学で学んでみたかった。
「皆、夢を持って勉強しているんだね」
「そうでもないわ。今は夢や目標が漠然としていて、勉強をして行く中で、自分の将来の選択肢をはっきりさせ、自分に役立つ知識と教養を身に付けていかなければならないの。英文科の学生の全部が商社の貿易部門や英語教師として学校に採用されるとは限らないから」
「そりゃあ、そうだな」
「二年生の多くは、まだ学生生活をエンジョイしているのに、もう、就職活動について悩んでいる子もいるのよ。今は就職難の時代なの」
そう言われれば大学二年生から就職活動に悩む学生がいてもおかしくない時代に突入していた。日本は少子化に反比例して、超高齢化となり、生産力が弱体化し、国家の税収が少なくなり、国民生活が厳しい状態に落ち込み始めていた。特に国家を動かす統治が自民党から民主党政権になり、今や介護の時代であると福祉に重点を置き、モノ作りを軽んじ、経済発展が期待出来ない世相を生み出していた。このままでは国民人口が減少し、今まで日本国が得意であった生産力が無くなり、国力が衰えるのは明白だった。このことは日本で生きて行かなければならない自分たちにとって、重大な問題だった。信平は、そのような状況を分かっていながら他人事のように、東北の地で傍観している自分がいたためれなかった。
「俺も一度、東京に行って、就職難の時代を見てみたいな」
「そうよ。一度、いらっしゃいよ。私が東京を案内してあげるわよ」
晴美は、そう言ってから明後日のは、また東京に帰ると言った。そして、東京で会おうと握手を求めて来た。細くたおやかな手だった。信平は晴美と握手しながら、自信に満ちた彼女の美しさに魅了された。
「まあっ、もうこんな時間」
晴美が腕時計を見て言った。それを合図に信平はレシートを手に、立ち上がり、食事の精算をした。それから晴美を車で彼女の家まで送って行った。
3,願望
あっという間に1月も終りに近づいた。信平の頭の中は東京へ行きたいという気持ちでいっぱいだった。この思いは高校生時代から湧き上がっては消えていたのであるが、新年を迎え、川端晴美から都会生活の楽しさを聞いて、再び、願望が強まった。だが、この気持ちを打ち明けたところで、父、耕平は勿論のこと、祖母も母も姉も弟たちも、賛成してくれる筈が無かった。信平は家族から早坂家の次代を背負う家長として期待されていたが、本人には、そんな気持ちなど全く無かった。希望するのは、日本国の中心、東京で一旗揚げてみたいという夢だった。何に対して、一旗揚げるのか、全く深慮しておらず、無鉄砲そのものであるが、だからといって何も準備しないで行動するような愚か者でも無かった。彼は農協からの給料の半分を家に入れ、残り半分を貯金に回した。また東京に行って生活する時の衣服や洗面道具も準備した。身分証明の為の10年のパスポートも取得した。あの寺山修司の『書を捨てよ、町へ出よう』の中にある言葉に、信平は自分なりの夢を描いていた。
〈 若者の未来の自由は、親を切り捨て、古い家族関係を崩すことから始まる 〉
寺山修司の『家出のすすめ』は刺激的だった。昭和の時代の東北出身者で、歌人であり、劇作家でもある寺山の考えは、信平の心を挑発した。東北の人間だって、この世に残る仕事が出来る筈だ。農家の長男に生まれたから、農業をせねばならぬという規定は無い。しかし、この東北で生まれ、東北に根を張って暮らす者にとって、それは暗黙のルールのようなものであった。このことについて信平は、幾度となく父、耕平と激論し、故郷から旅立つことを許可して欲しいと懇願したが、毎回、激怒されて終りだった。
「諦めなさい」
姉、清子に毎回、たしなめられたが、信平は素直に、それを了解しようとしなかった。自分が新しい世界に挑戦しようとすることを、誰も分かってくれないなら、家出するしかないと思った。信平はあの坂本竜馬が脱藩する寸前の気持ちとは、このようなものであったに違いないと想像した。そう思うと親を切り捨て、家族を見限り、故郷から脱出することが、夢となり、その思いは日に日に強まるばかりだった。自分の人生は自分で決めたい。高校を卒業するまで育ててくれた両親や家族に感謝しているが、だからといって、自分の未来まで、親に決めさせたくない。今まで学んで来た知識と見聞から、東京には夢がある。兎に角、機会を見計らって、家出をすることだ。人生は出会いと別れの連続であると、ある作家が書いていたが、その出会いに期待したい。信平は市内の書店に行き、東京の地図を入手したり、いざという時に相談に乗ってもらう東京に就職して働いている中学校や高校時代の友人の現住所などを手帳にまとめた。彼らは農家の次男坊、三男坊、四男坊で、各人、自分の置かれた環境の中で懸命に頑張っているに相違なかった。信平にとって東京への憧れは親の後を継いで、この田舎町で平々凡々と一生を終えるのでは無く、故郷を離れ、東京へ行って、都会の荒波の中で懸命に頑張っている仲間のように、命を懸けて自分の人生に挑戦してみることだった。自分の人生は自分に与えられた一回きりのものであり、やり直しが出来ないものであるから、自分の自由にさせて欲しかった。信平は、東京へ行くことばかりを毎日、考えた。
そんな或る日、阿部輝夫から久しぶりに飲もうと言う誘いの電話があった。永井健太も誘ったという。信平はそれを聞いて、農協での仕事を終えてから、バスに乗って、石巻市内の文化横丁の待合せ場所へ行った。輝夫がお気に入りの居酒屋『浜風』に入ると、二人とも先に来ていて、信平が現れるのを待っていた。二人に会うのは塩釜神社に初詣に出かけた時以来の顔合わせだった。3人そろったところで、まず料理を註文し、日本酒で盃を交わした。社会人になって、まだ二年足らずなので、3人とも高校生時代の雰囲気で、仕事の事や個人の事などを話した。途中、女性の話になり、塩釜神社に初詣した時の話をした。
「彼女たち、何を祈願したのだろうか」
そう輝夫が言うと、健太が答えた。
「決まっているべっちゃ。素敵な人と結ばれるよう拝んだのさ」
「信ちゃんの嫁っこになりてってか」
輝夫が、そう言って信平の顔を見詰めたので、信平は笑った。
「そんな奴、いないよ」
そう信平が答えると、健太が塩釜神社の創建に関する知識を披露した。健太は高校時代から歴史について詳しかった。
「塩釜は、その昔、未開の地で、国土平定の為、房総半島に居住していた鹿島の神と香取の神、東北地方に派遣され、その道案内をしたのが潮土の神なんだ。平定の役目を果たした鹿島の神と香取の神は帰国したのに、塩土の神は平定されたこの地が気に入り、この地に留まり、漁民に製塩法を教えたりして、この地方を繁栄に貢献したという神様なんだ」
「成程。塩は人間の健康に大切なものだからな」
「俺は、その塩土の神のホンダワラ藻をこして作る藻塩を製造している加工会社に勤めているから、仕事上でも、塩釜は神社は、厳粛な場所なんだ」
健太と話していると、何故か学問的話になってしまう。輝夫には学問的話題は面白くないみたいだった。健太が歴史の話を熱弁しているのに輝夫が言った。
「場所を変えようか」
「うん。そうだな」
信平は輝夫の気持ちを察して、場所変えに同意した。その為、健太は話すのを止め、2人に従わざるを得なかつた。3人は午後8時、居酒屋『浜風』を出て、駅に近いスナック『サファイア』へ行った。『サファイア』の店内は結構、広く、ママの庄司絹代を含め、10名近いホステスがいた。既に何人も来客がいて、ほとんどのホステスが接客につとめていた。信平たち3人は店の片隅の席に座り、絹代ママに迎えられ、未成年なのにウイスキーの水割りを飲むことにした。ママの指示により、3人のホステスがやって来て、それぞれの隣に座った。まだ雪の降る季節なのに彼女たちはミニスカート姿で、信平たちを興奮させた。輝夫は、この店に何度か来ていて、京子というホステスと親密だった。竹内好子の他に、京子のような女性と親しい仲の輝夫を見て、信平も健太も、羨ましく思った。輝夫はスマートでハンサムだったので、女性から好まれるタイプだった。信平と健太は初めてだったので、令子と弥生を相手に、世間話をした。いろいろのことを喋っているうちに、お互い打ち解けてカラオケをデュエットで唄ったりするようにまでなった。楽しい時間はあっという間に過ぎ去り、夜の10時半になった。雪が降って来ると大変なので、信平たちはタクシーを呼んで帰ることにした。輝夫は同じタクシーに京子を乗せ、健太は麗子を乗せて帰ると言う。その為、信平はタクシーに弥生を乗せて帰ることになった。弥生の家は陸前赤井駅の近くなので、信平が帰るコースの途中だった。
こうして親友、阿部輝夫たちと会ったりしたが、信平は自分の願望を、彼らには秘密にしておいた。福寿草の蕾が膨らみ、水仙の花が開花する春に早くならないかと期待するが、中々、雪は消えず、梅の枝の蕾も固い。そんな気分でいる2月13日の日曜日、塩釜神社に初詣した時、一緒だった佐々木町子から、会って話したいことがあるからとメールが入った。何を話したいのか分からないが、一応、彼女の指定する市内の喫茶店『クリスタル』へ行った。オーバーコート姿の信平を発見するや、先に来ていた町子が手招きした。信平はオーバーコートを脱いで、彼女の前に座った。
「折角の休みなのにごめんなさい」
「何、気にすることは無いよ。今は百姓仕事が無いから自由さ」
「初詣、楽しかったわね」
「うん。町子ちゃんの知り合いのイタリアンレストラン『トワレ』のパスタランチ、美味しかったよ」
「そうでしょう。あそこの店、うちの病院の先輩に連れて行ってもらったことがあるの。春になったら、また行きたいわね」
「うん」
信平は町子の提案に同調したが、心の中では、もう、その頃には、この地にはいないだろうから、それは有り得ない事だと思った。そんなこととは知らず、町子は話したいことがあると言って、随分、明るかった。彼女は信平が運ばれて来たコーヒーを一口飲んだのを確認すると、話を開始した。
「実は、私、4月から仙台の医薬専門学校へ行って、医療事務の勉強をすることになったの。今は父の病院の手伝いをしているけど、いずれ兄が病院を継いだら、私、病院を離れなければならないから、その時の為に、医療事務の資格を取得しておこうと思って」
「そう。それは良い事だな」
「だけど、私のいない時の町の事が気になるの。時々、地元の情報を知りたいのだけれど、どうしたら良いと思う?」
町子は、そう言って、信平を見詰めた。その熱い目に信平は、どう答えたら良いのか戸惑った。石巻と仙台は、それ程、遠くは無い。日帰りが出来る距離だ。信平は笑って答えた。
「お母さんに電話すれば良いではないか。あるいは休みの日に、石巻に来れば良いじゃあないか。ここと仙台の間は、そんなに遠くないんだから」
「でも実家に帰るだけだったら、地元や友達の新情報が得られないわ」
「それも、そうだな。なら毎月、好子ちゃんと連絡を取り合い、時々、会ったら良いんじゃあないかな。塩釜とか仙台で」
「そうよね。それに信ちゃんともね」
町子は信平の意見に自分の思いを付け加えた。というより、このことを提案したかったらしい。信平が彼女の発言に唖然としていると、町子はにっこり笑って、座席の横に置いてた紙袋の中から、小さなリボン付きの小箱を取り出して、信平の目の前に差し出した。
「これ、バレンタインデーのチョコ。一日、早いけど」
信平はバレンタインチョコレートを差し出されて、町子が何を考えているのか理解した。高校時代からの学友であり、卒業してからも、そのまま付き合って来たが、これを機会に、一対一の付き合いを望んでいるらしい。
「有難う。町子ちゃんからバレンタインチョコを貰えるなんて、想像してなかったよ。とても嬉しいよ」
信平が、お礼を言うと、町子はちょっと顔を赤らめた。喫茶店でバレンタインチョコレートをいただいた信平は、感謝の態度を示さないのは失礼と思い、町子を食事に誘った。
「これから、食事でもしようか。チョコを貰ったから、御馳走してやるよ」
「本当。嬉しい」
町子は大喜びした。信平は喫茶店のちょっと先にあるフランス料理の店『セパージュ』へ、彼女を連れて行き、その店のコース料理を楽しんだ。食事の後、彼女はまだ何処かへ行きたかった雰囲気だったが、外に出ると雪が降って来そうなので、信平は町子を車に乗せ、彼女を自宅まで送った。
4,決心
新しい道に進む町子の話を聞いて、信平も東京に行く計画を立て、農協を辞める事を考えた。そして、その計画を、信頼している農協の先輩,有阪国男だけ、前もって伝えておこうと思った。このことは農協の人たちは勿論のこと、家族の者にも、2月末まで、絶対、秘密にしておかねばならぬことであったが、一緒に仕事をしている有阪先輩だけには伝えておかなければ、迷惑をかける事になると思ったからだ。
「有阪さん。金曜日、お話したいことがあるのですが、夕方、時間いただけますか?」
「何の話だべ?」
「個人的な話です」
「そうか、分かった。良いよ」
「市内の居酒屋で食事しながら、お話しますので、車は家に置いて出勤して下さい」
「うん、分かった」
信平は有阪先輩と二人で話す約束を取り付けることが出来た。だが半分、不安だった。自分の秘密計画を有阪先輩が誰かに漏洩してしまうのではないかという不安だった。とはいえ営業の仕事を指導してくれている有阪先輩を、或る日、突然、落胆させるようなことはしたくなかった。約束の金曜日は直ぐにやって来た。信平と有阪先輩は農協での仕事が終わってから、農協の後輩、今村薫に石巻市内の文化横丁まで車で送ってもらった。信平は自分たちを降ろして去って行く今村の車を見送ってから、先月、阿部輝夫たちと利用した居酒屋『浜風』に有阪先輩を案内した。まず料理を註文し、ビールで乾杯してから、信平は東京行きの決意を有阪先輩に打ち明けた。有阪先輩は一瞬、驚いた顔をした。現在の安定した仕事を捨てて東京へ出て行く事を冒険的だと思ったようだが、信平の思いを直ぐに分かってくれた。有阪先輩は、農協を辞めるまで、信平の支援をすると約束した。信平は有阪先輩に理解してもらいほっとした。余りの嬉しさに『浜風』での食事を済ませてから有阪先輩をスナック『サファイア』に連れて行った。絹代ママは、信平の事をちゃんと覚えていて、この前と同じ席に二人を案内した。有阪先輩は余りにも華やかなスナックに案内され、びっくりした。
「いらっしゃいませ。私、理恵です」
「私、瞳です」
「私、弥生です」
ホステス三人が名乗ったので、信平は、彼女たちに有阪先輩を紹介した。
「こちらは、何時も私がお世話になっている私の上司の有阪係長です」
「有阪だ。よろしく」
有阪先輩は、パンテイが見えそうな、ミニスカートのホステス三人に囲まれると、殿様になったような態度で答えた。信平がこの前、阿部輝夫たちと来た時、知り合った弥生が、信平に訊いた。
「早坂さん、ウイスキーでよろしいですか?」
「うん」。ウイスキーの水割り」
「有阪さんもウイスキーでよろしいですか?」
「うん。ウイスキーのダブル」
有阪先輩は、準備されたウイスキーで信平やホステスと乾杯すると、ホステスたちに農協の仕事について、面白おかしく喋って聞かせた。彼女たちは、その話に信平と一緒に相槌を打ち、時折、手を叩いて喜んだ。有阪先輩は若い娘。三人に囲まれ上機嫌だった。彼女たちに人生は3つのエルだと説明した。
LIVE 生きる
LAUGH 笑う
LOVE 愛する
その説明は、まるで彼女たちを口説いているようだった。それから秘密だと約束していたのに、信平が東京へ行くことまで話してしまった。
「秘密だと約束したのに、それはないですよ、有阪さん」
「ああ、そうだったな。ごめんなして、ごめんなして」
有阪国男は信平に指摘され、申し訳なさそうな顔をした。その他、ホステスたちといろんな事を喋っているうちに、10時半を過ぎてしまった。信平たちは慌てて帰ることにした。絹代ママに帰ると伝え、タクシーを呼び、店の清算を済ませると、絹代ママが弥生と理恵を乗せて帰ってと言った。毎度のことなので、了解した。弥生と理恵はタクシーに乗せてもらって帰れるので喜んだ。結果、信平はタクシーに乗ってから小磯理恵、有阪先輩、佐藤弥生の順にタクシーから降ろし、自宅に帰る結果となった。その為、自宅に帰ったのは、深夜12時近くだった。
5,大地震
2月22日の夕方、信平は農協の上司に提出する為の退職願を書く為、市内の喫茶店『クリスタル』に行き、コーヒーを飲みながら、便箋に向かった。初めて書く退職願なので、本屋で買った『手紙、挨拶文の書き方』に従って書いたが、緊張して、中々、上手に書けなかった。3枚ほど書いた時、喫茶店の片隅のテレビから重大ニュースが流れて来た。ニュージランドで、大地震が発生したとの報道だった。震源地はニュージーランド南部、カンタベリー地方で、現地時間、12時51分、マグニチュード6,3の地震が発生し、近くの都市、クライスチャーチのビルや教会が倒壊し、山崩れも起こり、日本人学生20人近くが生き埋めになり、何人もが亡くなったという。信平は、他の客と一緒に、そのテレビのニュースに釘付けになった。地震により沢山のビルが倒壊し、停電、断水の為、パニック状態になり、現地人は勿論のこと、語学研修中の日本人学生や観光客も戸惑っているとのこと。また地震発生後の津波にも警戒を呼び掛けしているという。その有様を見て、信平は良からぬことを考えた。もし、日本で同じような地震が発生したら、その時こそ、故郷を捨てて脱出するチャンスではないかと、起りもしない事を夢想した。だが現実として、そのようなことは起こりそうになかった。でも信平の上京の決心はゆるぎなかった。彼にとって早坂家の後継者としての立場も、財産も、親兄弟も不要だった。ニュージーランドの地震の状況をテレビで観て、地図や衣服、洗面道具以外に、寝袋や懐中電灯、ライター、ボールペン、などを準備することにした。退職願を書き上げ、喫茶店から出ると、信平は早速、市内で、寝袋や水筒を買って帰った。そんな信平の計画を、家族の者は全く気付かなかった。早坂家の家督を継ぐことになっている長男が、まさか自分の故郷を捨て、別天地で暮らすことを本気で計画しているとは予想もしていなかった。このことは自分の欲望の為に人間社会の約束を破ることであるが、信平はたとえ道徳に背くことであっても、、自分の夢を実現させたかった。川端晴美のように東京へ行って、羽根を伸ばしてみたかった。夢を広げてみたかった。家族や親戚に頼らず、自分の力で自分の人生を生きたかった。信平は家に帰って自分の二階の部屋で、自分が故郷を去る夜の風景を思い描いた。黒々とした幾つかの山々、青く光った幾筋かの川、まだ雪の残る田畑、村の鎮守、杉の林、小学校の校舎、先祖が眠る寺院の墓、知り合いの家々、白い野の道。それらの総てに、明るい月の光が降り注ぎ、沢山の星々が涙に濡れたように滲んで見え、故郷に背を向け、さよならを言う、自分の姿は、まるで物語の主人公のようだ。晴美の言葉が蘇った。
「一度、東京にいらっしゃいよ。私が東京を案内してあげるから」
東京へ行って、晴美と大都会の中を歩いてみたかった。幼い時から、晴美とは一緒に過ごして来たが、余りにも親しかったので、恋愛感情などというものを抱くことは無かったが、2年間、彼女と離れて暮らして、自分が彼女を愛しく思っていることに気づいた。背丈がすらっと高く、顔立ちの整った聡明で優美な彼女の姿が、思い出されて仕方なかった。心の中で東京へ行って一旗揚げたいと思い描いているが、その本心は、晴美の傍にいたいという願望かもしれなかった。信平はいろんなことを夢想してから、もう一度、喫茶店で書き上げた退職願を確認した。そして、それを白い封筒に入れ、表に退職願と書き、通勤カバンの中に仕舞った。
2月28日、月曜日、信平は農協に出勤し、夕刻になってから自分の上司である中島課長に退職願を提出した。中島課長は、退職願の封筒を受け取り、びっくりした顔をして、直ぐに信平に言った。
「こっちゃ来い」
信平は中島課長に人のいない会議室に連れて行かれ、退職理由を訊かれた。信平は東京で仕事をしてみたいからだと素直に答えたが、中島課長は許可しなかった。折角、農協の仕事に慣れたのだから一晩考えろと言った。だが一旦、退職願を出したからには容易に変更など出来る筈が無かった。翌朝、出勤するや、また中島課長に会議室に呼ばれ、辞めないで欲しいと泣きつかれ、どうすれば良いのか困惑した。その中島課長に依頼されたのか、信平の東京行きを応援すると言ってくれた有阪先輩も、信平を引き留めようとした。
「退職願を出したと聞いだよ。でも、もう一度、考えろ。中島課長が言っているように、君はこの農協の貴重な戦力なんだ。先の見えない東京へ行って、苦労するより、ここに残って、出世して行く方が、楽なんじゃあないかな」
「それは堅実な生き方です。でも、俺には平凡すぎます。俺は東京へ行って、寺山修司みたいな生き方をしてみたいんです」
「そうは言うが、寺山修司のような成功者は、何万人に一人だ。雲を掴むような話だ。東京へ行くのを止めれ」
「止めれなんて言わないで下さい。もう決めたんです」
有阪先輩や上司が引き止めるのを断り続けているうちに3月に入った。信平が退職願を提出したことは、まだ家族に知らされてなかった。父、耕平は床の間の掛け軸を椿の絵から梅の絵の掛け軸に変え、姉の清子と母、豊子は一緒になって、ひな人形を飾り、早咲きの桃の花を買って来て、花瓶に挿し、紅白の菱餅を備えたりして、早春の気分になろうと、呑気なものであった。信平は東京へ早く行きたいという気持ちがあったが、その前に佐々木町子にホワイトデーのお返しをしなければならないと思案し、明日の夕方にでも、市内で買い物しようと考えていた。そんな3月11日、金曜日の午後、信平はライトバンに乗って、訪問先から農協へ帰る途中、故郷の風景を眺めた。見渡す限りの田園には、まだ雪が残っていて、再び冬が戻って来るのではないかと思われるような風景だった。冷たく澄み切った青空が、気が遠くなるほど、果てしなく美しく広がっていた。東京へ行ったら、このような美しい風景は見られないと思い、信平は車を停めて、路傍に立ち、北国の初春の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。と、その時だった。突然、陸奥の大地が大きく揺れた。次の瞬間、信平は平衡感覚を失い、大地に叩きつけられた。悪夢のような眩暈に襲われ、信平は、かって経験をしたことの無い大地からの激震に恐怖を覚えた。周囲に目をやると、森の木が揺れ、電柱が傾き、民家が、バタバタと倒れ、地面が割れるのではないかと思われた。まさに今までに経験したことの無い大地震だった。後で知った事であるが、その地震は三陸沖を震源とするマグニチュード8,8の大地震だった。午後2時46分に起った大地震は東北地方から関東地方までに及ぶ凄まじい地震で、何度も何度も大地が揺れた。信平がヨロヨロと立ち上がると、大地震が発生し、緊急避難を告げるサイレンが鳴り渡った。信平はライトバンに乗り、農協ではなく自分の家に猛スピードで向かった。途中、民家が倒壊し、あちこちからの悲鳴を聞いた。家出するのは今だと思った。今を除いて、家出の機会はないと思った。信平はひび割れた道路を自分の家へと、まっしぐらに車を走らせた。家に辿り着くと、家には誰もいなかった。皆、緊急避難場所の鹿島神社に脱げたに違いない。信平は車から降りると、すぐさま密かに用意しておいた家出用具をスキーなどを保管している納屋の片隅から運び出し、ライトバンに載せた。そして石巻市から仙台方面へ向かった。両親や近所の人たちが逃げて行ったに違いない鹿島神社の方には目もくれず、一目散に車を走らせた。ところが途中で車が渋滞し、進めなくなった。信平はライトバンからリュックサックとスーツケースを取り出し、農協の車を路肩に放置し、歩いて仙台へ向かうことにした。重い荷物を持って国道398号を歩きながら、沢山の地震の被害を目にした。喚き声、泣き声の中、信平は故郷から遠ざかろうと、無我夢中歩いた。地鳴りと共に地割れがして、眩暈を起こした恐怖の20分間の恐怖など、もう何処かへ消えていた。今や故郷も両親も兄弟の事など、気にしていられなかった。気にしたら自分の夢を逃してしまうと思った。今の信平には、雄々しい自分だけが頼りだった。信平はひたすら東京へ向かって歩いた。たとえ東京が火の海になっていようとも、そこへ辿り着きたいと思った。その思いは狂気に近かった。松島近くを通過する時だった。大津波警報がひっきりなしに流れ、沢山の人たちが、倒壊する家屋やぐにゃぐにゃに曲がっている線路に目もくれず、血相を変えて逃げて来るのを目にした。20m近い高さの津波が,、第一波、第二波と押し寄せ、海辺は危険な状態になっているという。信平は、そんな情報を耳にしながら、ひたすら仙台へ向かった。松島から塩釜、多賀城を経て、暗闇の中、仙台に辿り着くまで、随分、時間がかかった。約10時間、歩き続け、仙台地区の標識を目にした時は、深夜を過ぎていた。やっと仙台に辿り着けたかと、信平は近くに見つけた公園のベンチに倒れ込むように寝転んだ。ニュージーランドの地震のニュースを見て、購入した寝袋を使って睡眠に入ったが寒さと断続的余震で、熟睡することが出来なかった。信平は余震が起こるたびに、真っ暗闇の中で跳び起き、死の恐怖に怯えた。もしかして地球が幾つかに分裂されてしまうのではないかと思った。この時になって信平は両親や兄弟を捨ておいて、ここにいることを後悔した。この地震で死ぬのなら、自分の故郷で自分の家族と一緒に死ぬべきであった。しかし、今更、戻ることは出来ない。いやいや、そんな弱気でどうする。自分は、このような大地震が起きる事を願っていたではないか。この地震は、塩釜神社や鹿島神社の神々が、自分の願いを叶えてやろと仕組んでくれたことに違いないのだ。この機会を逃してはならない。信平は辺りが薄明るくなったのを見計らい、公園のベンチから起き上がり、不安顔で動き回っている人たちに尋ね尋ねして、仙台駅方面へ向かった。途中、犬が二匹死んでいるのを目にして、どうして死んだのだろうと気になった。それにしても身体中が冷え切って、足の感覚が無くなって来ているのが分かった。それに腹がグウグウ言っているので、何処かに食堂はないかと、フラフラ歩きながら、看板を探した。新幹線の高架脇の道を歩いて行くと、『日の丸ラーメン』という看板を掛けたラーメン屋があった。営業しているのか、いないのか分からなかったが、兎に角、温まりたかったのでドアを開けると、何と、営業していた。労務者風の男が4人、朝飯を食べていた。
「註文して良いかや?」
「ああ、良いよ」
「停電してないんだ?」
「うちは自家発電器を使っているから、営業出来てるのさ」
「良かった。味噌ラーメン、お願いします」
「あいよ」
まだ若い店主と従業員の男は、元気よく答えると、ラーメンを茹で釜に入れ、味噌ラーメンの準備を始めた。作業をしながら主人が訊いた。
「お客さんも、出張で来ていたのかね?」
「ええ、まあ、そんなもんです」
「三陸沖が震源地らしく、地震の後に直ぐ津波が来て、大船渡、釜石、気仙沼、女川、石巻では大勢の人が津波に巻き込まれ、海沿いの家や学校まで流されたっていうから、前代未聞の、大惨事だよ。うちもプロパンと貯水タンクの水が無くなったれ、休業だっちゃ」
そんな会話をしてるうちに味噌ラーメンが出来上がった。それを口に入れると熱かったが身体中が温まった。トランジスターラジオから聞こえて来る震災の状況は、阪神大震災以上の大きさだという。味噌ラーメンを食べ終えてから、店主に礼を言い、仙台駅へ向かった。白い息を吐きながら仙台駅に行くと、総ての電車がストップしていた。仙台駅は、まるで死んだようだった。仕方ない。歩いて向かうしかない。
信平は地震で曲げられた線路伝いに、まず仙台から白石に向かった。途中、岩沼方面から逃げて来た人たちと出会った。津波の恐怖で海辺にはいられないという話だった。夕方には白石に辿り着いた。信平は営業している旅館がないか探したが、何処も停電、断水及び建物に被害があった為、宿泊させることが出来ないと断られた。コンビニに行き、コッペパン1個を何とか手に入れ、名も知らない神社の境内の水舎へ行って、ひしゃくを使い、水を飲ませていただいた。そして傍らの物置小屋に入り、寝袋にくるまり、寝させてもらった。小雪がぱらつく厳し寒さの夜だった。一晩中、寝袋の中でガタガタ震えて過ごした。不安というより、一時も早く東京に辿り着きたい気持ちでいっぱいだった。漆黒の夜が過ぎ去り、次の朝を迎え、白石駅に行くと、まだインフラが麻痺状態で、列車は全面運休のままだった。東京に行くには、兎に角、歩いて行くしか方法が無かった。信平は白石から福島へ向かった。道路には車が続いているが、渋滞状態で、歩いた方が早かった。相馬方面からの避難者も精神的に不安定で、質問しても正確な答えが返って来なかった。信平は寒風の中、凍えながら、正午に福島に辿り着いた。幸いにも市内のラーメン屋が開いているのを見つけ、味噌ラーメンを食べることが出来た。新聞を読みたかったが、ラーメン屋に新聞は届いていなかった。信平は、こういった災害時の被災地での情報入手不足に驚く一方、そこで暮らす人間のふてぶてしさに感心した。人間は強い。
福島で一休みしてから信平は行ける所まで行こうと、郡山に向かった。郡山までの道は遠かった。その上、福島の原子力発電所が爆発し、放射能の危険があるというので、これまた浪江あたりの住民たちが沢山、逃げて来て、街道はパニック状態だった。どちらへ逃げたら良いのか戸惑う人たちを無視して、信平は、ひたすら郡山を目指した。被災地の人たちの絶叫と涙に同情している余裕など無かった。あの巨大地震により、予想外のことが次々に発生している。その恐ろしさに立ち止まってしまったら、自分の未来は無いと思った。二本松に足を踏み入れると、もう夕暮れが迫っていた。郡山までどのくらいかかるのか、路傍にいた人に訊くと、あと5時間以上かかると言われた。その困っている信平の姿をを見つけて、地元の青年団の男が近寄って来て言った。
「今から郡山に行くのは危険ですわ。夜中にまた原発が爆発するか知れねえ。ほら、そこの小学校の体育館へ行って、泊るといいっちゃ」
信平は警備をしていた青年団員の意見に従い、小学校の体育館に行った。そこでは子供連れの避難者たちが、沢山いて、近所の婦人会の人たちが、おにぎりなどを配っていた。そこへ迷い込んだ信平を見つけて、一人の女性が、おにぎりを一つくれた。有難かった。信平は、これから夜道を歩くのも大変なので、体育館の片隅に泊めさせてもらうことにした。しかし大勢いる体育館での睡眠というのは落ち着かなかった。何処の誰とも分からぬ人たちが、寒い体育館の床の上でのゴロ寝状態で、敷物や毛布があるといっても不安だった。貴重品を盗まれないよう用心するとともに、緊急時の非常口が何処にあるのか、しっかり頭に入れて、自分の寝袋に潜り込んで眠った。ところが、激しい鼾や余震で、時々、起こされた。徒歩の疲れで、短時間、ぐっすり寝ては起きるといった繰り返しだった。そして起きている時は故郷の家族の事を心配した。皆、無事でいるだろうか。行方不明になっている自分の事を、皆で探し回っているのではないだろうか。阿部輝夫や永井健太はどうしているだろうか。
翌朝、小学校の体育館で目覚めた信平は、炊き出しの雑炊をいただいてから、地元の青年団や婦人会の人たちにお礼を言って二本松から郡山へ向かった。朝日が昇り、陽光が降り注ぐと、風が冷たく寒いのに、体温は汗をかきそうなまでに上がった。今日もまた放射能を恐れて、関東方面へ避難するという人たちと一緒だった。郡山に着くと、皆、恐々として昼飯どころでは無かった。コンビニは閉まっていて。食料品が手に入らず、空腹を我慢するより仕方なかった。郡山でゆっくりしていることは危険だと思った。この日も東京へ向かって、ひたすら歩いた。そして夕方、白河に到着した。幸いにも、ビジネスホテルに泊まることが出来た。バス、トイレ、洗面所を使用しないという条件だった。小便は外の林でするしかなかった。宿泊代を前払いし、ビジネスホテルで、初めて新聞を読んだ。新聞には11日に起きた巨大地震のことがデカデカと報じられていた。信平は、その記事の一字一句を隈なく読んだ。三陸沖から茨城に至る被害状況が、こと細かに書かれていて、その惨状が、まるで地獄のようだと知った。故郷の石巻あたりでは、船が陸地にまで乗り上げ、家や車が流され、死者が沢山出ているという。自衛隊も出動し、救助に当たっているという。信平は大地に叩きつけられた時の恐怖を想い出し、ぞっとした。新潟県と長野県の境界でも家が倒壊するような地震があったと新聞記事に載っていたが、地震大国、日本はどうなってしまうのか。まさに異変だ。民主党政権は対処することが出来るのか。指揮系統の不明確な状態で、大地震と津波と原子力発電所の爆発という大惨事に見舞われ、菅直人首相は国民を救うことが出来るのか。心配でならなかったが、自分でも、どうすることも出来ない。兎に角、睡眠をとり、休んでおくことだ。信平はビジネスホテルのベットに潜り込み、その心地良さの中で、死んだように眠った。そして翌朝、目覚めるや、部屋のトイレにあったトイレットペーパーや石鹸を拝借し、リュックに入れると、午前6時過ぎにホテルのチエックアウトを済ませ、次の目的地、宇都宮へ向かった。放射能物質の飛散により、人体にどの程度の影響があるか分からないので、一時も早く福島から遠ざかる事だと、必死に歩いた。昼前に黒磯に着いたが、電車は不通状態だった。また半壊状態の住宅も所々に見受けられ、ここも安心出来るところではなかった。信平の家出計画は予想以上に衝撃的な進行状態になっていた。巨大地震による沢山のハプニングは、一日で終息するものではなく、苦しい家出の旅となった。電車もバスも利用することが出来ず、自分の健脚だけが頼りだぅた。東京へ行くには歩くしかないのだ。矢板を経て氏家という町に着いた時、早くも日が暮れて来たが、我慢に我慢を重ね、夜の8時過ぎに宇都宮に到着した。泊めてもらえるビジネスホテルを探し当て、チエックインしてから、コンビニに買い物に行くと、食料品が少なくなっていた。それでも何とかパンやバナナや飲み物を買うことが出来た。また故郷の状況を知りたくて新聞を買った。そしてホテルに戻り、パンを食べながら、新聞を読んだ。岩手、宮城、福島、茨城の震災被害が甚大だった。それに加えて福島第一原子力発電所の1号基の水素爆発の後、3号基も爆発し、事態はより深刻化しているとのことであった。信平は原子力発電所のことや故郷の事を心配しながら、宇都宮の夜を過ごした。
6,憧れの東京
3月16日の早朝、信平はホテルのチエックアウトを済ませるや、宇都宮駅へ行ってみた。駅員に確認すると、ようやく電車を動かす事になったという説明だった。そこで直ぐに上野行きの乗車券を手に入れ、新聞を買い、東北本線のホームに入って来ている電車に乗り込んだ。朝早くの電車なのに結構、乗客が多く混雑していたが、何とか座ることが出来た。窓側の席に座り、新聞を開くと、三陸大津波の被害状況などが、写真入りで細かく報じられていた。石巻漁港は魚市場が全壊し、地盤沈下を起こし、水産加工団地の会社も全滅に近いとの事。死者、行方不明者も日に日に増えて、予測出来ない状態であるという。鉄道は全線ストップ。電信電話不通。濁流が岸壁を乗り越え、集落を跡形もなく攫って行った記事は家族の者や親戚や、阿部輝夫や永井健太たち友人、農協の人たちが、どうなっているのか、信平を心配させた。新聞記事を読んで、信平は、農協の車を乗り捨てて逃げて来た自分の体験が、如何に計り知れない恐ろしい事だったかを、改めて知った。電車は午前8時過ぎに宇都宮駅から出発した。車窓から見る景色には人の姿が、わずかしか見られず、人家は死んでいるようだった。列車が小山、古河を経て、利根川を越え大宮駅に着くと、大勢の人たちが右往左往していた。その大宮駅を経て荒川を渡った時、信平はいよいよ東京の玄関口ともいえる上野駅に到着するのだと緊張した。その期待に胸が躍る反面、巨大地震に見舞われた故郷の事が無性に心配になった。電車は午前11時過ぎに上野駅に到着した。駅から外に出ると、そこには夢に描いていた『花の都』の様相など見受けられなかった。ただ人がいっぱいで、映画で観た終戦直後の上野みたいだった。地震の影響でインフラが復旧しておらず、電力不足状態だった。暗い顔をした人たちが動き回っていて、予想していたような華やかさは全くなく、街が薄暗かった。何処か食事をする所がないかと食堂を探すが、居酒屋ばかりで、それらしき店が見当たらなかった。上野駅から上野広小路に向かう途中、映画館があった。その映画館脇の細道の先に、屋台の提灯が見えた。信平は昼から屋台が出ているのを目にして、まずは、そこへ行ってみた。そこは好運にも、おでん屋の屋台だった。信平は朝から何も食べておらず空腹だったので、その屋台に行って、おでんを食べた。身体が温まった。満腹になったところで代金を訊くと、屋台の男が、3千円だと言った。余りにも高い代金だったので、信平は驚いた。そこで、うっかり余分な発言をしてしまった。
「ちょっと高いでねぇの?」
「お客さん。自分で沢山、食べといて、その言い草はねえだろう」
「それにしたって、ひでえや」
「何だと。食ってしまって値切るのかよ」
おでん屋の男は、そう言うと信平の胸ぐらをつかんだ。信平は無茶な男だと思い、男の手を払いのけて言った。
「払いますから、乱暴をしないで下さい」
「なら、さっさと、払え」
男は信平を睨みつけ、要求の手を差し出した。そして信平が財布から取り出した3千円を奪い取った。それから、男は信平との揉め事を見ていた通行人に向かって、怒鳴った。
「見せもんじゃあねえぞ。とっとと消えろ」
信平は思った。この男はならず者に相違ない。不忍池のほとりで、あくどい商売をしているのだ。こうなったら脱げるのが一番だ。信平は急ぎ足で繁華街に逃げ戻った。そして信平が職業安定所への行き方を訊ねようとすると、通行人たちは皆、大地震の影響を受け、全く他人行儀だった。昨日、福島第一原子力発電所の4号機が爆発し、東北だけでなく、日本中が大騒ぎになっていて、パニック状態が更に高まっていた。信平は御徒町から秋葉原まで歩き、電気街の店員に、東北の大地震で、東京に逃げて来たのだが、何処か働かせてもらえる店がないか相談してみた。すると店員は困った顔をして答えた。
「新宿の職安に行ったら、仕事、あるんじゃあないかな」
「そうですか。有難う御座います。行ってみます」
信平は、そうお礼を言って秋葉原駅に行き、新宿までの乗車券を買った。そして改札口から中に入ったが、何処のホームから、どの電車に乗ったら良いのか分からなかった。そんなウロウロしている信平を見て、中年男性が総武線の新宿方面行きのホームを教えてくれた。東京にも親切な人がいるのだと知った。
信平はその教えて貰った秋葉原駅のホームから総武線の電車に乗って新宿駅まで行き、そこで下車した。新宿は大都会、東京の行政機関、都庁があるところで、動き回る人たちは東北地方の大地震など、どこ吹く風といった雰囲気だった。総てがエネルギッシュに活動していた。沢山の人間が蟻のようにあちこち動き回っていた。トラック、観光バス、タクシー、乗用車などが川を流れる落ち葉のように列を作って走っていた。高層ビルが林立し、音楽や呼び込みの宣伝放送が絶えず、流れていた。信平は新宿駅東口交番に行き、職業安定所への道順を尋ねた。すると交番勤務の警察官は、交番前広場に信平と一緒に出て来て、西武新宿線に沿って新大久保方面に向かい、職安通りにぶつかった所のちょっと右側にあると、指で方向を示してくれた。信平は警察官に教えて貰ったとおりに広い通りを越え、西武新宿線の新宿駅まで歩いた。そこは何と噂に聞く歌舞伎町という繁華街だった。この町の事は田舎者でも知っていた。日本で一番、華やかで危険な大歓楽街であることは、馳星周の小説『不夜城』で読んで、どんな場所か想像していたが、昼間だった所為か、何ら恐怖感を抱かなかった。線路伝いにレストランやスナック、マッサージ店、ラブホテルの前を進んで行くと、職安通りに出た。そこから少し歩くと、ハローワーク新宿という看板があり、1階の自動ドアの前に立つと、ドアが開き、中に誘い込まれた。そしてロビーに足を踏み入れた時、突然、携帯電話が鳴った。ロビーには大勢の日本人や外国人が行き来していて、着信音が聞こえると困るので、ハンケチを巻いて音が停止するのを待った。そして音が止んでから携帯電話の電源を切った。多分、今まで不通だった東北地方の携帯電話回線が通じるようになったのであろう。自分の安否を確認しようとしているのが分かったが返信する訳には行かなかった。携帯電話をポケットに入れ、受付に行くと、そこは外国人雇用支援センターであり、求人紹介センターは新宿駅西口、エルタワー23階であると言われ愕然とした。すると急に空腹を感じた。外国人用ハローワークを出ると、直ぐ近くに立ち食いソバ屋があった。だが夕食にはまだ早いので我慢し、新宿駅へ引き返した。いろんな人に訊いて、西口のエルタワーに向かい、やっとのことでエルタワーに辿り着いた。エレベーターに乗り、23階に行くと、もう時間ですので、明日、また来て下さいと、受付で断られた。そこを何とかと交渉したが、田舎と違って、東京は時間に厳しく、冷たかった。信平は行く宛を失った。何処へ行けば良いのか。と、その時、突然、寺山修司が主宰していた劇団『天井桟敷』の劇場が渋谷にあった事が、脳裏に浮かび、そこへ行ってみたいと思った。新宿駅に引き返し、新宿駅から山手線の電車に乗り、渋谷駅で下車した。並木橋という所にあったと記憶していたので、そこの場所まで歩いてみた。だが、それらしき建物は無かった。近所の人に訊ねると、ずっと昔に、その建物は解体され、今は無いと言われた。またもや、がっかりしてトボトボと渋谷駅近くまで戻り、ビジネスホテルを探した。流石、渋谷。駅近くに何軒もビジネスホテルがあったので、適度の宿泊料金のホテルにチエックインし、係員に、『天井桟敷』のことを訊いてみた。
「渋谷に劇団『天井桟敷』の稽古場があると思って来たけど、今は無いんですね」
「はい。『天井桟敷』が並木橋にあったのは30年程前です。昭和の時代のことですよ」
「言われてみれば、そうですね」
「演劇に興味があるのなら、下北沢に行ったら、劇場が幾つかあるよ。ここから近いから、行ってみたら良いよ」
「歩いて行ける所ですか」
「歩いて行けるけど、渋谷駅から井の頭線の電車に乗れば直ぐだよ」
ホテルの係員は、親切に対応してくれた。信平は下北沢に行ってみたくなった。部屋に荷物を置いてから、まず渋谷駅の井の頭線改札口に行ってみた。勤め人の帰宅時刻と重なっての駅の大混雑を目にして、信平はびっくりした。その為、明日、下北沢に行くことにして、道玄坂で牛丼を食べて、ホテルに戻った。東京に来るまでの疲労が積もりに積もっていて、部屋に入るなり,信平はベットに横になって、死んだように眠った。
7,演劇の街
その死んだように眠っていた信平は翌日の早朝の振動で跳び起きた。人間の身体とは不思議なもので、大震災で体験した恐怖が身体の奥深くまで記憶されていて、小さな振動でも敏感に感知するようになっていた。だが何のことはない。その振動は朝一番の貨物列車がビジネスホテルの直ぐ前の線路を通過する振動だった。都内の電車も、ようやく鉄道のダイヤが落ち着き、正常に動き出したらしい。昨日、初めて東京都内を動き回り、疲労感が残っていたが、信平の頭の中には、下北沢という街の名前が、朝から駆け巡っていた。早く行ってみたい。だが、朝食の時間には早すぎるので、午前7時過ぎまでテレビを観て過ごした。テレビは東日本大震災と福島原発のことで、政府が大騒ぎしている事を報じていた。7時半、信平はホテルのパジャマを脱いで、自分の衣服に着替えると、ホテルの食堂へ行った。そこで簡単なパンとサラダとコーヒーの朝食を済ませ、チエックアウトした。そして、渋谷駅に向かった。渋谷駅は私鉄が幾つか合流していて大混雑状態だった。昨夜、下調べをした京王井の頭線の窓口で、まずは乗車券を買い、荷物を持って、吉祥寺行きの電車に乗った。下北沢は渋谷から四つ目の駅だった。駅の改札口を出ると、下北沢の街は、午前中だからなのか、まだ半分、眠っているような、のんびりした感じだった。新宿や渋谷と違い、高層ビルが無く、駅周辺に沢山の小さな商店が軒を並べていた。洋風レストラン、レコード店、喫茶店、ラーメン屋、コンビニ、カラオケ店、薬局、アパレル店、美容院、ギャラリー、ゲームセンターなどなど。信平は、それらの店を一軒一軒、眺めながら劇団を探した。ガード下近くに『駅前劇場』、『吹雪座』、『本多劇場』、『演劇広場』といった看板がかかっていたので、そのうちの一つ『演劇広場』を尋ねた。薄暗いビルの一階の入口から階段を上がると、『演劇広場』と劇団名を太字で描いたドアがあったので、ドアに手を掛けた。だが鍵で閉まっていて、ドアは開かなかった。仕方なく階段を注意深く降りると、1階の駐輪場に自転車を停めながら、信平を不審顔で見詰める若者がいた。信平は、その不審顔を晴らすべく、若者に質問した。
「ここの劇場、やっていないのですか?」
すると若者は信平を見詰め直し、親切に説明してくれた。
「ここは劇場ではなく、演劇好きの勤労者の集まりが稽古する場所です。プロの劇団ではなく、アマチュアの劇団なので、昼間はやっていません。稽古するのは夜です。良かったら、夜、見に来て下さい、俺もここの一員です」
「えっ、ここの劇団員ですか」
「ああ、そうだよ。夕方6時半から始まるので、6時過ぎに来れば、見られるよ」
「分かりました。教えていただき有難う御座います。では夕方、また来ます」
「うん。俺はそこの『十勝ラーメン』で仕事してから、夕方、顔を出すので、その時、また」
若者は名前も告げずに、そう言い残して、ちょっと先の商店街のラーメン屋の中へ入って行った。信平は、その劇団員を見送ってから、不動産屋に行ってみた。東京で生活する為の居場所を決める必要があった。山手線円外であれば、いくらか安いだろうと考えた。一軒目の不動産屋はマンションの賃貸がメインで、信平が求めているようなアパート物件が無かった。二件目の不動産屋『中西不動産』へ行くと、東松原にバス、トイレ、台所付きの6畳の部屋があるということで、中西社長に、その部屋を案内してもらった。その場所は東松原駅から徒歩5分の所だった。住宅街の奥に入った二階建てのアパート『メゾン羽根木』の一階の片隅の部屋で、1人で暮らすには十分だった。早い者勝ちということなので、明日、契約すると約束した。中西社長と東松原駅前で別れてから、信平は、その界隈が暮らしやすい所か歩き回った。何とか暮らせそうな場所だ。
そして夕方6時過ぎ、信平は午前中、訪ねた古ぼけたビルの2階にある『演劇広場』へ行ってみた。階段を上がると、劇団名の書かれた入口のドアは解放され、劇団員が稽古していた。入口に立つと小柄な女性が信平に気づき声を掛けて来た。
「何か御用ですか?」
「は、はい。ああ、あの、ええあっと。あの黒いセーターの男の人に」
「ああっ、五味ですか。ちょっと待って下さい。五味さあ~ん」
彼女が声を掛けると五味が振り向き、踊りを停止して入口にやって来た。
「やあ、来てくれましたか。団長と監督に許可を取りますから、見学して行って下さい。ところで、お名前は何と言いましたっけ」
「あっ。失礼しました。早坂です。早坂信平です」
「俺は五味克彦とです。ちょっと待ってて下さいね。団長と監督の所へ行って来ますので」
そう言うと五味克彦は踊るように稽古場の奥に座っている高齢の指導者の所へ行って、信平の事を伝えた。すると五味から説明を受けた高齢の二人が、信平に視線を向けてから手招きした。信平は困惑した。手招きに応じて良いのかどうか、判断出来なかった。戸惑う信平を見て、五味が激しく手招きした。
「こっち、こっち」
信平は五味の合図に従い、靴を脱いで稽古部屋の奥に進んだ。皮のジャンパーを着た高齢の一人が近づいた信平の頭の先から爪先まで、まるで品定めするかのように、じっくり確認してから言った。
「入口は寒いだろうから、ここで見学しなさい」
「済みません」
「坊や、遠慮せず、もっとこちらに来て、座りなさい」
もう一人のブレザーを着た細身の老人が、笑って指示した。信平は指定されたところに座り、深く頭を下げ、挨拶した。
「お言葉に甘え、失礼します。早坂信平と申します」
すると細身の老人が優しく笑って言った。
「ああ、五味君から聞いたよ。私が団長の遠藤です。こちらは監督の浜田良英先生です」
「よろしくお願いします」
「ところで早坂君は演劇に興味があるのかな?」
皮のジャンパーを着た肥満体の浜田監督が、そう言って信平の顔を覗き込んだ。浜田監督は丸顔にヒゲをはやし、実に無精な感じだった。それに比べ、遠藤団長は細身の紳士という感じだった。二人が信平の返事を待っているのが、はっきりと分かり、信平はオドオドしながら答えた。
「はい。興味はありますが、田舎者なので」
「そんな事、関係無いよ。俺も田舎者だ。早坂君の田舎は何処かね?」
「宮城です」
「そりゃあ大変だ。今回の大地震で、君の田舎は大混乱しているのじゃあないのか。帰らなくて良いのか?」
「逃げて来たのです。地震、津波、放射能など、経験したことの無い恐ろしい事ばかり起こるので」
「大丈夫なのか。そんな事で。地元では、君の助けを必要としているのではないのか」
「地元で期待されていない男ですから、東京に出て来たのです」
「でも。親兄弟がいるんだろう。こんな所に来ていて良いのか?」
浜田監督に追及され、信平は返答に窮した。政府は原発事故の対応にやっきになっているが、その対応は菅直人首相の率いる民主党政権では心もとなかった。それに比べ石原慎太郎都知事の躊躇の無い積極的行動には目を見張るものがあった。だが、地震と津波に襲われた被害者たちは、深刻な状況に陥っているに違いなかった。浜田監督が心配するように、ここは自分の夢を捨て、一時も早く帰郷して、苦しんでいる人たちを救うのが、人間として、今、自分がやるべきことかもしれなかった。
「そうですが・・」
「どうも、悩んでいるようだな。人生は、それで良い。悩んで成長するのだ。もし演劇に興味があるのなら、この遠藤先生にお願いして、仲間に入れてもらいなさい」
「でも、自分に出来るか自信がありません」
「下手でも良いから、やってみなよ」
「は、はい。考えてみます」
そう答えて、信平は稽古が終わるまで、その場で稽古風景を眺めた。稽古は9時半に終わった。信平は遠藤団長、浜田監督に挨拶した後、五味克彦にお礼を言い、10時過ぎに下北沢駅から渋谷行の電車に乗って、渋谷のビジネスホテルに帰った。そして、ベットに横になり、下北沢で演劇の勉強をしながら、生活することを考えた。ここで毎日、寝泊まりしていたら、苦労して貯めた資金が直ぐに底をついてしまう事は明白だ。まず昼間、見た部屋を借りる事だ。そう決心すると、直ぐに寝られた。
翌日、信平は昨日と同じように渋谷駅から京王井の頭線の電車に乗って下北沢行った。そして『中西不動産』と部屋の契約するをする前に、印鑑屋に立ち寄り、2種類の早坂の印鑑を手に入れた。それから『中西不動産」を訪ね、昨日、下見した部屋を借りると伝えた。中西社長は昨日の打合せ通り、東松原のアパートの一部屋の賃貸契約書を作成して、信平を待っていた。まずは信平を応接テーブルの椅子に座らせ、事務員にお茶を出させ、それからゆっくりと貸主がサインした契約書内容を読み上げ、契約条項を一つ一つ読み上げて信平に確認した。信平が納得すると、三通の契約書の借主のところにサインをさせられた。住民票は自動車の免許証のコピーで了解してもらった。保証人の名前を求められたので、実家の住所と名前を書き込み、今朝、購入した大きい方の印鑑を押した。その後、不動産屋の社長が契約書にサインした。中西福太郎というサインだった。それから敷金と家賃の支払い手続きに入った。信平は手持ちの金では足りないので、中西社長に、これから銀行に行って現金を引き出して来ると伝え、一旦、不動産屋から出て、駅前の銀行へ行った。そこにあるATMで30万円を引き出し、『中西不動産』に戻ると、中西社長が領収書を準備して今か今かと待っていた。信平はその領収書と現金を交換し、契約を終了した。中西社長は一仕事を終えて、満悦の笑みを浮かべて言った。
「コーヒーをどうぞ」
「ありがとう御座います」
「これからの東京生活、慣れるまで大変だと思うが、頑張って下さい」
「ありがとう御座います」
契約書と部屋の鍵を受け取った信平は、コーヒーを飲み干すと、中西社長に、今後ともよろしくと挨拶して、外に出た。不動産屋から外出ると、信平はほっとした。ようし、これからだと唇を噛みしめ下北沢駅へ行った。そこから井の頭線の電車に乗って、昨日、中西社長に案内してもらった東松原のアパートへ行った。一階の片隅にある105号室のドアを鍵で開け、部屋の片隅に家出の時から運び続けて来たスーツケースとリュックを置いてから、まず、準備しなければならない物を考えた。冷蔵庫、食器棚、折り畳みテーブル、寝具の4つを優先すべきだと決めた。やかん、鍋、炊飯器、フライパン、食器などのキッチン用品は、後から準備すれば良いと考えた。洗濯機は近くにコインランドリーがあるので、そこを利用すれば済むことなので、買わないことにした。、信平はそれら購入することに決めた物品リストをメモ書きにしてポケットに入れ、東松原の商店街に出た。ところが駅周辺には花屋、喫茶店、食堂、クリーニング屋、保育所程度しかなく、家具や電気製品を販売している店が無かった。そこで駅前のクリーニング屋に行って、冷蔵庫など何処に買いに行ったら良いのか訊いた。すると眼鏡をかけた中年女性が親切に教えてくれた。
「新品なら新宿か渋谷でしょうね。中古なら隣の明大前に中古品の店があるわよ」
信平は彼女のアドバイスに従い、東松原駅から電車に乗って明大前に行った、そこの商店街を歩き直ぐに、中古品取扱店を発見することが出来た。早速、その中古品販売店に入り、信平は自分が借りた部屋に適した冷蔵庫、食器棚、折り畳みテーブルを買った。その他、手ごろな電子レンジがあったので買うことにした。布団が無かったので、店の主人に訊くと、3軒隣が布団屋だというので、そこへ行き、布団を買った。中古品店の主人と布団屋の主人は、信平が四月から明治大学に入学する学生だと早合点し、特別に値引きしてくれた。そして、夕方、羽根木のアパートまで、註文した物を小型トラックで運んでくれた。その品物をアパートで受け取ると、信平はいよいよ、ここで暮らすことになるのかと心が踊った。中古屋の主人と布団屋の主人に手伝ってもらい、冷蔵庫と食器棚はうまい具合に配置することが出来た。
「じゃあ、頑張れよ」
信平は、そう言って帰って行く親切な二人に深く頭を下げ、走り去る小型トラックを見送った。と、同時に、携帯電話が鳴った。しかし信平は鳴るに任せ、着信を無視した。携帯電話が鳴り終わり、発信者を確認すると、姉の清子や有阪先輩や実家からの受信記録が並んでいた。信平の安否を確認しているに相違なかったが、ここで受信しては、自分が元気でいることが判明してしまい、総ての計画が水の泡になるので、兎に角、無視し、耐え忍んだ。実家はどうなっているのか。故郷はどうなっているのか。知りたいことがいっぱいあるが、我慢するしか、仕方なかった。その後、信平は故郷の事を気にしながら買い物に出た。東松原の街は福島第一原子力発電所の爆発事故の影響を受けて、計画停電が始まり、暗かった。その為、東松原から電車に乗って下北沢駅のスーパーへ行って買物をした。スーパーでは米、パンなどの食料品の他、トイレットペーパー、女性用ナプキンなどが不足して、パニック状態になっていたが、かって石油パニックを経験したことのある年配者たちは、それ程、慌てた様子でなかった。信平は取り敢えず、パンとトマトとバター、トイレットペーパーなど。目についた物を買った。その後、折角、下北沢に来たのだからと『演劇広場』に足を延ばした。買い物で膨らんだポリ袋を手にした信平を見て、昨日、一番先に信平に声を掛けて来た小柄な女性が、笑って信平を迎えた。
「五味さんですね」
「はい」
「五味さぁ~ん」
彼女の呼び声に、五味克彦が駆け寄って来た。五味は懐かしい人に出会ったような笑顔で信平を迎えた。
「やあ、また来てくれましたね。団長が、早坂君が来るんじゃあないかと言っていました。団長の所へ行きましょう。一緒します」
「ありがとう」
信平は入り口の片隅に荷物を置くと、五味に案内され、昨日と同じ場所に座っている遠藤団長と浜田監督の所へ行って挨拶した。
「こんばんわ。また見学させていただきますが、よろしいでしょうか?」
「ああ、良いよ。監督の隣にどうぞ」
遠藤団長は優しく迎えてくれた、すると浜田監督は信平を自分の脇に座らせ笑いながら言った。
「おう。矢張り来たか。則さんの言ってた通りだ。仲間に入れてもらう決心がついたか?」
その問いに、どう答えるべきか信平は戸惑った。浜田監督と遠藤団長の顔を恐る恐る見ながら、小さな声で答えた。
「いえ。まだ仕事の方が・・」
「仕事がどうした?」
「まだ無職ですから」
「なら遠藤先生に相談すれば良い。きっと良い働き場所を探してくれるよ」
「本当ですか?」
信平が遠藤団長の顔を見ると、遠藤団長は、コクリと頷いた。信じられなかった。信平がポカンとしていると、浜田監督が信平の肩を軽く叩いた。
「入っちゃいなよ」
「は、はい」
「ようし、決まりだ」
信平は劇団の仲間に入ろうか入るまいか逡巡していたが、あっという間に入団させられてしまった。困惑している信平に遠藤団長が、現在、稽古している演劇について語った。
「この作品は浜田監督の親友、丸山伸之先生の脚本で、終戦後の若い姉妹の物語が舞台になっている。姉の恋人は国や天皇の為ではなく可愛い弟や自分を育ててくれた父母や、祖父母や愛しい恋人の為に、戦地に向かった青年であり、妹は歌手を夢見る女子高校生。ストーリィは終戦を告げる玉音放送から始まるんだ」
「すると時代背景は昭和20年代の話ですね」
「そうだ。昭和20年に終戦となり、戦争中も大変だったが、それに続く敗戦国の国民生活は、物心両面の苦しみに苛まれ、大変だった。誰が、このような悲劇に向かう戦争を起こしたのか。戦争がもたらす悲惨に就いて考えなかったのか。この深い傷を負った経験が、今、日本の社会から忘れ去られようとしている。それでは戦死した沢山の人たちが余りにも可哀想すぎる」
「そうですね」
「その戦争の不幸を私たちは歴史に刻印する為に、この作品を公演する。戦争は決して遠い過去のものではないのだ。今も、その傷が残っている」
信平は遠藤団長の熱弁に圧倒され、今、目の前で稽古が行われている作品『曙橋慕情』に興味を持った。恋人の帰りを待ち焦がれる姉役は、青木洋子、歌の上手な妹役は平原由美で、二人の純粋無垢な魂の讃歌で人間愛を表現し、戦争反対を訴える作品だという。その作品説明が終わると、遠藤団長は、簡単な地図と時刻をさらさらっとメモ書きにして、信平に渡して言った。
「明日、午前10時、このメモの喫茶店『ボヌール』に来なさい。そこで今後の打合せをしましょう。良いですか?」
「は、はい」
信平は、劇団の団長や監督に親切にされ、新しい都会での生活が始まると思うと嬉しくてならなかった。明るい未来がやって来るような気がした。
8,喫茶店でのアルバイト
東日本大震災により、日本中が陰鬱に包まれているというのに、季節は例年通り巡って来て、アパートの向かいの家の庭にある杏の木が、パッとピンク色の花を沢山、咲かせた。信平は雨戸を開けて、その咲き具合を眺めてから、食パンとトマトとスープの朝食を済ませると、今日、買いたい物の名をメ書きにして、ブレザーのポケットに入れた。昨日、猿渡団長と約束した時間までに余裕があったので、ゆっくり、『メゾン羽根木』を出て、東松原駅から下北沢に向かった。相変わらず電車は混雑していた。電車が下北沢駅に到着すると、降りる客と乗ぅて来る客が交錯して、降りるのに大変だった。やっとのこと電車から降り、ホームを歩き、改札を出た。それてから、昨日、遠藤団長から渡された地図を確認し、喫茶連『ボヌール』を探した。その喫茶店『ボヌール』は駅から数分歩いた所にあるビルの地下にあり、結構、広い喫茶店だった。レジカウンターに行き、遠藤団長の名前を伝えると、黒いチョッキ姿の青年が信平を見詰めて答えた。
「一番奥の席に座っておられます」
「あっ、そうですね。有難う御座います」
遠藤団長は青年が手を向けた奥の席で、コック姿の男と話をしていた。信平はその遠藤団長のいる席に、そっと近寄り、声をかけた。
「お早うございます」
「おう、お早う。ここに座り給え」
「は、はい」
信平は遠藤団長の指示に従い、遠藤団長の隣の席に座った。すると遠藤団長と話していたコック姿の男が、真剣な顔をして信平を見詰めた。信平は緊張した。
「こちらが、うちの劇団員になった早坂君だ」
「早坂信平です。よろしくお願いします」
「岩崎です」
信平とコック姿の男が名乗り終えると遠藤団長が信平に丁寧な口調で言った。
「この方が、ここの店長の岩崎さんだ。朝8時から夕方5時まで君をここで使ってもらうお願いした。詳細は岩崎さんの指示に従ってくれ。私はこれで帰るから、夕方、また会おう」
「は、はい」
「では岩崎さん。よろしくお願いします」
そう言って立ち去って行く遠藤団長を信平は立ち上がって見送った。そこへ劇団員の小柄な女性が、えんじ色のスカートに黒の前掛け姿で、コーヒーを持って現れた。
「どうぞ」
目の前にコーヒーを差し出されて、信平はびっくりした。突然のことなので慌てた。コーヒーの香りが鼻先を刺激した。慌てている信平を見て岩崎店長は笑った。それから信平と一緒にコーヒーを飲みながら岩崎店長は就業規則、給料などについて説明してくれた。その後、岩崎店長はレジカウンターにいたウエイターに、更衣室で信平にチョッキの制服に着替えさせるよう命じ、奥の厨房に入った。こうして、信平のアルバイトはスタートした。喫茶店『ボヌール』は、コーヒーや紅茶、ケーキを出す、一般の喫茶店と違い、食事の提供も行う店だった。レジ係の男は小野栄治と名乗り、ウエイトレスの椿原愛子と宮下若菜を紹介してくれた。劇団員の小柄な女性は宮下若菜だった。店長の他に、もう2人、コックがいて、1人が西川四郎というベテラン、もう1人が山本修二という見習いだという。信平は喫茶店の制服姿になると、何故か気が引き締まった。チーフの小野栄治やウエイトレス2人の指示に従い、コーヒーを運んだり、食事を運んだり、水足しをしたり、テーブルの上を拭いたりの仕事をした。また暇な時は、店のメニューを見て料理や飲み物の品名を覚えた。昼食はスタッフ専用室で岩崎店長や山本助手が作ってくれた半熟タマゴとベーコンのカルボナーレと野菜サラダをいただいた。美味しかった。ウエイトレスの椿原愛子は料理も得意らしく、忙しい時は、キッチンに入り料理の手伝いをした。喫茶店の客は、暇を持て余す御婦人方や、サラーリーマン、大学生、老夫婦、旅行客など、いろいろだった。それぞれに談笑したり、読書をしたり、文章をノートに書いたり、携帯電話器とにらめっこしたり、貯金通帳をチエックしたり、スパゲッティを食べたり、甘いケーキを口にしたりで、『ボヌール』は憩いの喫茶店だった。小野栄治は信平が戸惑ったりしていると、その都度、耳打ちして、細かく教えてくれた。ウエイターの仕事は初めての経験だが、この仕事なら務められると思った。ほとんど立ちっ放しで、脚が疲れるが、慣れれば平気になるだろうと思った。
夕方5時ちょっと前になると、岩崎店長が厨房から顔を出して信平に言った。
「早坂君、お疲れ様。もう上って良いよ」
「まだ5時になっていませんけど」
「帰り仕度もあるだろう」
「良いのですか?」
「ああ」
岩崎店長は、そう答えると、信平の次の言葉も聞かず、急いで厨房に戻った。その姿を見て、信平がきょとんとしていると小野チーフが言った。
「早坂君。帰って良いんだよ。遠慮せずに早く帰りな」
「分かりました。今日は色んな事を教えていただき有難うございました。では、甘えてお先に失礼致します」
信平は、そう言って更衣室に移動し、制服からブレザー姿に着替えを始めた。すると交替のアルバイト学生が更衣室に入って来た。信平はそのメンバーに軽く頭を下げ、再び小野チーフに挨拶して、『ボヌール』を出た。それから下北沢の商店街を『演劇広場』に向かって歩いた。すると、後ろから突然、声がかった。
「早坂さん、お疲れ様」
その声に振り返ると、相手は先程まで『ボヌール』で一緒に働いていた宮下若菜だった。彼女はニコニコ笑顔で話しかけて来た。
「一日中、疲れたでしょう」
「あっ、宮下さん。正直言って少し、疲れました。動き回っている仕事、初めてなので」
「でも直ぐに慣れるわよ。私たち役者が足を鍛えるのには給仕の仕事って最適なのよ」
彼女に、そう言われると何となく納得出来た。彼女は更に話した。
「早坂さん、宮城の出身なんですってね。大地震の時、大変だったでしょう」
「はい。仕事の途中、突然、地面が揺れて、立っていられず這いつくばりました」
「私は、あの時、『ボヌール』にいて、余りにも激しく揺れたので、ビルが倒壊し、店が潰れるのではないかと思ったわ。岩崎店長の指示で、お客さんと一緒に急いで前の道路に跳び出したわ」
「東京の揺れも激しかったらしいですね」
「そうよ。電柱や街灯が揺れ、ビルがたわみ、地面が割れるのじゃあないかと怖かったわ。揺れ戻しが何度も続き、道路は沢山の人たちで動けないくらいだった。電車がストップしたので、店を閉め、その日は稽古も中止。家まで歩いて帰ったわ。怖かった」
若菜から都内での地震の状況を聞いて、信平はあの日の事を想い出した。危険からの避難というより、故郷から脱出するチャンスだという考えの方が、優先して脳中を駆け巡り、心を沸き立たせた。東京へ向かいながら家屋の倒壊を目にし、津波の被害を耳にしても、故郷に引き返そうとは思わなかった。放射能の危険など気にせず、福島を突破し、必死になって東京を目指した。そんな精神状態だったことを振り返る信平に若菜が訊いた。
「あんなに激しい地震の後、早坂さんはどうして東京へ?」
信平は、そう訊かれて一瞬、戸惑ったが嘘の答えをした。
「あの日、俺のいた東北は大地震と津波に襲われ地獄だった。俺の家は津波で流され家族は大崎の親戚に避難し、職場を失い、そこの厄介になっている。だから若い俺は東京に仕事探しに来たんだ」
「そうなの。大変なのね。私、この前、津波で園児を失った幼稚園の園長さんの話を聞いて、泣いちゃった」
「どんな話?」
「どんな話って、早坂さん、知らないの。園長さんは預かっている園児たちを一時も早く、親元に返してあげようと送迎バスに載せて幼稚園のある高台から坂を下り、浜辺の町にバスを向かわせたの。そこへ海の方から大津波が襲って来て、幼い園児たちはバスごと津波に呑み込まれ、全員死亡しちゃったの。もし、あの時、早く子供たちを親元に返そうと思わなかったら、運転手さんも保母さんも含め、全員、高台の幼稚園にいられたものをと、園長さんが自分を責めて泣くのよ。津波に呑み込まれバスの中で苦しみもがく園児の姿を想像すると、今も胸が痛み、涙が出ちゃうわ」
若菜は眼がしらに涙を浮かべ次の言葉に詰まった。信平は、そんな現場の近くにいたというのに、この悲惨な出来事を知らなかったことに罪悪感を抱いた。大震災にかこつけ、故郷を捨てて上京して来た自分は、人間として許されるのだろうか。祖母、両親、姉、弟たちは、どうしているのだろうか。実家の場所は海から離れているので、仮設住宅に引越すようなことはあるまいが、厳しい生活を強いられていることは確かだった。
「皆、苦しく、辛い毎日を過ごしているようだな」
「そうよ。テレビ観ているのでしょう」
「まだテレビ買っていねえだ」
「そうなの。早くテレビ買いなさいよ」
「そうですね」
そんな会話を交わしているうちに、2人は『演劇広場』に到着した。その『演劇広場』で信平が最初に与えられた役柄は、郵便配達員の役だった。もともとメンバーが足りず、五味克彦が2役やることになっていたらしい。稽古しているのは『曙橋慕情』の第一部一場と二場とのことであった。一場は終戦の玉音放送の場面、二場は主人公の姉、節子が恋人、本田勝利の復員帰国を祈願する場面で、信平の出番は、この二場だった。セリフも少なく、最初は舞台美術の藤田研吾先輩の手伝いをする仕事だった。うらぶれた敗戦時の下町の貧しさや汚れた生活感を臭わせる舞台セット準備に、藤田研吾は情熱を注ぎ、五味克彦や信平たち若者を上手に活用した。その為、まだ稽古の無い信平は、『藤田建具店』に行き、藤田先輩の仕事を手伝った。藤田先輩は自分の夢の為に、舞台美術の仕事を楽しんでいた。舞台背景作りの作業をしながら、信平に言った。
「俺は今、親の後を継いで建具屋をしているが、何時か記念物になるような庭園の設計をしてみたいと考えている。舞台美術の仕事は、そのアプローチだ。早坂君の目標は何だ?役者になることか?」
「明確なものは、まだありません」
「何の目標も抱かずに、東京に出て来たのか?」
「はい。農協で働いていて、或る日、ふと父親や親族によって敷かれた、既存のレールの上に載せられた貨車のように終点まで進む人生を、余りにもつまらないと感じたんです。生きるに値する人生とは何か。それは、どんな生き方か。それを探しに俺は東京に来ました」
「そうか。農協で働いていたのか」
「上京して来た今は、漠然としていて、目標なるものがありません。たまたま目の前に『演劇広場』の看板が目に入ったのです。何故か演劇というものに興味が湧いたのです」
「その興味、好奇心が、これから経験する人生の問いかけに役立つのだ。目標を見つけるには目を光らせることだ。多くの人たちと触れ合い、世の中が、どのように動き流れて行くかを観察することだ。そうすれば、必ず目標は見つかる」
信平は藤田研吾の熱弁に心動かされた。五味克彦も、藤田先輩の励ましを受け、ラーメン屋で働きながら、俳優になることを目指しているに相違なかった。信平は藤田先輩と話していて、自分が世の中の動きを把握していないと気づいた。宮下若菜の言葉が、ふと思い出された。
「早くテレビ、買いなさいよ」
信平の『ボヌール』での休日は、『演劇広場』の休日に合わせ、月曜日と水曜日になっていた。そこで信平は明大前の中古品店でテレビを薦められたのを思い出して、水曜日にテレビを買いに明大前の中古品店に行った。中古店の店主は信平の事を覚えていて、小型液晶テレビの出物を安く売ってくれた。代金を手渡すと、店主はニコニコしながら言った。
「大学の入学式、そろそろだね。頑張ってな」
「は、はい」
信平は店主の勘違いを訂正せずに深く頭を下げ、ダンボールケースにテレビを梱包してもらい、アパートに持ち帰った。アパートに着くや即座にダンボールケースからテレビを取り出して、部屋の片隅にセットした。テレビの電源をいれると、どのテレビ局も、福島第一原子力発電所から大量の放射性物質が漏れて、被曝拡大の恐れがあると報じていた。報道によれば、福島第一原子力発電所はアメリカのGE社の設計施工であり、アメリカが事故処理の協力を申し出ているのに、菅直人首相が、自分は東工大出身だからと、それを断ったというから信じられない。東芝などの日本企業の技術力向上の為に、アメリカの協力を断ったというが信平には理解出来ないことだった。今や日本政府は巨大地震被害に苦しむ人たちより、原子力発電所の格納容器が破裂爆発するのを回避する為に、東京電力に叫んでいるだけで、大震災被害処理が出来ないに等しかった。残るは東京電力の現場メンバーや協力会社の作業員、消防隊、自衛隊員の能力と使命感に期待するしか鎮静化の術が無かった。そのような中、石原慎太郎都知事は、東京都の消防車や消防隊員を使い、まるで日本の首相でもあるかのように振舞った。菅直人首相に従う北沢俊美防衛大臣を怒鳴りつけ、自衛隊に被災者救援の為の活動を優先するよう指示した。信平は自分の故郷、東北地方がどうなるのか、心配で心配でならなかった。だが引き返すことは出来ない。
信平は、いろんな心配を抱かえながら、東京での日々を過ごした。今日も昼間、喫茶店『ボヌール』でウエイターのアルバイトをして、夕方から『演劇広場』での稽古に励み、夜の10時過ぎ、電車に乗って、東松原の『メゾン羽根木』に帰ると暗闇の中からジャスミンの芳香が漂って来た。部屋に入り、一人でいると、故郷の事が思い出され、とても淋しい気持ちになった。家族の者は音信不通、行方不明の自分の事を、どんな思いで心配していることであろう。あらゆる可能性を信じ、捜索し続けているに違いない。大津波に呑み込まれ、遠くへ流されてしまったのではないかと、その安否の確認が出来ず、悩んでいるのかもしれない。役所や警察への行方不明者の届け出などがあるであろうが、自分は今、どんな処理をされているのであろうか。阿部輝夫や永井健太はどうしているのであろうか。川端晴美は田舎へ帰ったのだろうか。それとも、今まで通り、東京で大学生活を送っているのだろうか。狭いアパートの一室で、只一人、あれやこれや思考していると、自分はこれから、どの方向へ流されて行く事になるのだろうかと、不安が迫って来た。心細くなり、果たして自分は東京で生活して行けるのか、不安で不安でならなかった。都会はあらゆる可能性に溢れているというが、反面、残酷な落とし穴が沢山、待ち構えているという。その落とし穴を避けながら、どのように努力して行けば、自分の胸の奥底で熱く燃え続けている夢を叶えられるのであろうか。ありきたりの敷かれたレールの上に乗って、郷土で一生を終える事は、何故か味気ない人生だと思い、家出を実行したのであるが、今更、故郷に戻る訳にはいかない。何らかの形で成功しないことには故郷に帰る訳にはいかない。志を果たし、何時の日にか帰らんという唱歌があったが、故郷に出る時、描いていた夢を果たさず、どの顔をして、故郷に帰れるというのか。それにしても、人口過密の東京の夜は、初めて一人暮らしを始めた信平にとって、心寂しくて仕方なかった。こうして一人ぽっちでいると、捨てて来たからこそ感じる家族の温かさを乞う気持ちが強くなり、思わず涙がこぼれそうになった。家族の笑顔や生真面目で年配の人たちを尊重する故郷の人たちの心が愛しくなった。自分は、その故郷を捨てて来たのだ。それは後悔しても、今や取り返しのつかないことだ。自分は都会の地べたを這ってでも、多くの人たちから脚光を浴びる人物になり、故郷に錦を飾らねばならない運命的な船出をしてしまったのだ。本当に自信あっての船出だったのだろうか。振り返ってみると自信があったわけではなく、あの日の空が、あの日の地震が、新たな道に進む覚悟を後押ししたのだ。故郷にいる時は、家族や周囲の人たちの支えがあって、自分が生きているということに気づかなかった。だが今、都会の孤独を知って、自分がたった一人で生きているということを、はっきりと実感し、その前途が故郷で思い描いていた予想をはるかに超える厳しいものであると認識した。田舎者の自分は、全く世間知らずであったと驚き、いろんなことに遭遇し、自分の至らなさを気づかされた。そして『演劇広場』の遠藤団長、浜田監督、藤田美術員、五味克彦、宮下若菜たちの優しさに心揺るがされ、この人たちのグループに深入りして行けば何か掴めると思った。また『ボヌール』の岩崎店長、西川コック、小野チーフらの親切な指導に感謝した。いずれにせよ、下北沢に来て出会った人たちとの関係を大事にして、一歩一歩、前に進んで行くしかないと悟った。信平にとって東京の深夜の孤独は耐え難かった。
こうして東京にやって来た早坂信平は自分の家出を誘引した寺山修司の過去を真似るように『演劇広場』の一員になったが、ちょっと出るだけの郵便配達員の役に物足りなさを感じた。だからといって、入団、早々に、そんな不平を言える筈など無かった。そのような信平が時折、見せる物憂い表情を見て、『曙橋慕情』で主人公の姉妹の母親役を演じる、細村慶子が、信平に声をかけた。
「早坂さん。稽古、面白く思っていないんじゃあないの。そんな時は、今、稽古している作品の台本を何度も読んでみることね。読めば読むほど、作者、丸山伸之先生が、不幸な戦争に巻き込まれた人たちの思いや死の恐怖の中で生き抜いて来た人たちの悲劇と愛を心を込めて熱く描いているのが分かるわ」
「は、はい」
「プロの役者を目指すなら、座長や監督が新人にやらせたりするセリフ無しの通行人の役でも、しっかり表現し、その作品を魅力的に仕上げる演技をしないといけないわよ」
「は、はい」
細村慶子の助言は、劇団の人たちが新人の自分に対し、親身になって考えてくれている事を教えてくれた。信平は、その道の先輩から背中を押され、台本を読み、作品の中にちりばめられている戦争に巻き込まれた人たちが、どのように戦争に立ち向かい、国を護る為、家族を護る為、命を懸けて生きたのか、また、どのような経過を辿ることになったのか、丸山伸之が執筆した作品の把握に努めた。そして自分に与えられた郵便配達員の役にも、終戦直後の一人の人間としての心があるのだと学んだ。ソバ屋の出前を演じている五味克彦は、そのような仕事の流儀を、すでに心得ていて、信平にこう語った。
「俺の役はソバ屋の出前で、現実の自分の仕事と、ほとんど同じなので、がらっと変えたいと思ったのだが、浜田監督は、格好をつけないそのままが良いんだという。ハンサムで頭も性格も良い主人公と違って、不細工で、おっちょこちょいで、何か足りない脇役が、物語を引き立て、笑いを誘いながら、観客を魅了するのだと、浜田監督は言うんだ。だから俺は普段の調子で、鼻歌を唄い、自転車踊りを演じて楽しんでいるんだ」
信平は五味の話を聞いて役柄のイメージを確立出来ている五味の事を羨ましく思った。それに対して、自転車に乗って郵便物を配達する自分の役柄は、どのように表現すれば良いのか。同じ自転車の乗り方でも五味と違う乗り方をしなければならない。細村慶子に台本を何度も読んで、その役柄を、しっかり表現するのだと言われたが、入団ホヤホヤの信平には、その極意が掴めなかった。しかし戦争に負けて敗戦国となった日本で、戦地に出征した兵隊の便りを待つ人たちの心を想うと、差出人から送られて来た安否の内容により、郵便配達員の顔色の変化も、その臨場感を観客に伝えるものだと思った。信平は配達員の感情を自分の身体を通して表現することに努めた。すると浜田監督が熱を込めて手を回し、場を盛り上げて喜んだ。
「その調子、その調子。中々、良いぞ」
信平は浜田監督に褒められ、良い気分になった。東京に来て初めて褒められたような気がした。嬉しさに興奮している信平を見て、宮下若菜が耳打ちした。
「良かったわね、早坂さん。貴方、才能あるみたい」、
「おだてても駄目だよ。皆の方が、ずっと上手だから、もっと頑張らないと」
信平は、そう答えながら、若菜のつぶらな瞳を見詰めて笑った。演劇の稽古は楽しかった。
そうした月曜日、信平は何時もの時刻に起床して、部屋の窓を開けた。すると向かいの家の満開に咲いた杏の花が目に飛び込んで来た。まるで大地震や津波、原発事故など無かったように明るく咲き誇っている。何と残酷な対比かと思っていると、突然、部屋がガタガタ揺れて、信平は地震だと気づき慌てた。だが部屋から逃げ出さず、テレビのスイッチを入れた。東北地方で、また地震があったというニュースが流れていた。あの巨大地震の余震がまだ終わっていないようだ。信平は少し様子を見てから朝食を済ませ、アルバイトに向かう準備をした。そして、アパートを出ようとして、今日はアルバイトが休みの日であることに気づいた。劇団の稽古も休みの日であった。さて今日は何をしようか。そういえば洗濯物がいっぱい溜まっていた。まずはコインランドリーに洗濯物を袋積めして持って行き、洗濯することにした。コインランドリーは駅へ行く途中にあった。そこに行って洗濯機に衣類と洗剤を入れて、スイッチをオンにして選択が終わるのを待った。その間、ランドリールームの片隅にある椅子に腰かけ、誰かが置いて行った漫画本を読んだ。そこへジャージ姿の若い女性が、洗濯物を持って現れた。
「ちょっと失礼します」
信平は声を掛けられ、数秒、彼女を凝視した。すると彼女は急に愛想笑いを作って、言い訳した。
「ごめんなさいね。私、今日、これで二回目なの。ドライヤーに洗濯物を入れっ放しのままアパートに戻ったりして。お使いになるのではなかったのですか?」
「洗濯が終っていませんので、まだ大丈夫です。この漫画本は貴女の物ですか?」
「いいえ。私は漫画は見ません」
彼女は漫画本の所有者と思われたのが、不愉快だったのだろうか、冷淡な口調で答えた。信平は、そのそっけない口調に少し驚いた。そして、肩をすくめ、今まで読んでいた漫画本のページを再び読み始めた。すると彼女が、ドライヤーのボックスの中から乾いた衣類を取り出しながら言った。
「貴方、学生さん?」
「いや。フリーターです」
「あらっ、そうなの。今は何をなさっているの?」
「今は喫茶店でアルバイトをしています。今月、東松原に引っ越して来たばかしです」
「そう。私は大学二年生。4月から三年生になるの」
それを聞いて信平は彼女の顔をまじまじと見た。自分や川端晴美と同年代ということになる。そんな彼女が大学で何を学んでいるのか、ちょっと気になった。
「何を専攻しているのですか?」
「経済です。これからの時代は女性活躍の時代でしょう。だから日本経済について勉強して、日本経済の発展に貢献する仕事をしたいの」
信平は、それを聞いてびつくりした。彼女は女性が活躍できる職場で、キャリヤーウーマンとしての専門分野での実力をつけ管理職につくことを志望しているみたいだった。それで言ってやった。
「俺の知り合いの彼女も英文科で英語を身に付け、世界で活躍したいという夢を抱いている。昭和の時代のような専業主婦を考えている女性はいなくなっているみたいだね」
「そうとは限らないわ。女性もさまざまよ」
「そうかな」
「彼女、何処の大学へ行っているの?」
「R大学と言っていた」
「では池袋ね。私の行ってる大学は渋谷よ。私の名前は坂口美咲。貴方の名前は?」
「早坂信平です。よろしく」
「まあ、二人とも坂が付くのね。こちらこそ、よろしく」
そう言って笑った坂口美咲は、自分のドライヤーでの乾燥が終わると、信平にドライヤーの使い方を教えてくれた。信平は漫画本を、もと在った場所に返却し、彼女との会話に終始した。こうしてまた信平は一人、知人を増やした。
そんな日々を送っているうちにアパートの向かいの家の杏の花が散り出し、代わるように桃の花が、その隣で咲き始めた。春が来たというのに信平の心は晴れない。テレビ報道によれば、東日本大震災の被災地では、今猶、悲嘆と慟哭の日々が続いているという。故郷の事を想うと胸が痛む。天災とはいえ、余りにも悲惨な状況が続いている。あの陸奥の故郷に春は訪れるのだろうか。信平はふと石川啄木の歌を思い浮かべた。
やはらかに 柳青める北上の
岸辺 目に見ゆ 泣けと如くに
そして厳しさの中で、苦しみや悲しみや不安にくじけず、歯を食いしばり、立ち上がろうとしている被災地の人たちの粘り強い頑張りに、頭が下がる思いがした。テレビに映る被災地で懸命に生きる人ちの姿を見ると、自分が故郷にいる時から描いて来た熱い願いを、石にかじりついても達成しなければならないと思った。信平は未だ風の冷たい 東北地方のことを想いながら、今朝も電車に乗り、下北沢駅で下車して、『ボヌール』に出勤した。信平が裏口から店に入ると、既にコックの山本修二と西川四郎が厨房でコーヒーやモーニングセットの準備を始めていたので挨拶した。
「おはよう御座います」
「お早う。少し慣れて来たみたいだね」
山本コックにそう言われ、信平は照れ笑いして返事した。
「はい。お陰様で」
「でも午後になると、ちょっと辛そうに見えることもあるけど」
山本コックの指摘に、信平はまだウエイターとして、小野チーフの足元にも及ばないでいるように見えるのだと思った。
「申し訳ありません」
「いやいや気にすることは無いよ。俺だって、ついこの間まで、同じだったんだから」
そんな会話をしていると椿原愛子や宮下若菜が現れた。更に小野チーフと岩崎店長がやって来て、店のシャッターを上げ、立て看板を外に出し、営業を開始した。今日も馴染みの客からモーニングセットの注文を受け、朝から忙しかった。トースト、バター、野菜サラダ、ゆで卵、ウインナーソーセージ、オレンジジュース、ブレンドコーヒー、ミルクなどをトレイに載せ、客席に運んだ。出勤前に『ボヌール』を利用してくれる会社勤めの独身男女が多かった。彼や彼女は東日本大震災のことを気にとめながらも、今日、会社に出勤し、どんな仕事を優先するかなどを、あれやこれや考えている風だった。午前9時半を過ぎると、会社勤めの人たちに代わって、ゆっくり朝食に来る老人たちが、何組か現れた。老人たちは、長々と世間話に花を咲かせ、時には昼食を済ませて帰って行く人もいた。昼食時は会社員、銀行員の他、商店街の店員たちもやって来て、椿原愛子が岩崎店長や山本コックたちの手助けの為、厨房に入る程、多忙を極めた。ハンバーグライス、イタリアンパスタ、カレーライス、ビーフシチュー、サンドイッチ、オムライス、ピラフなど、四人で手際よく作り、小野栄治と椿原愛子と宮下若菜と信平が、注文した人の席に注文品を運んだ。その忙しさは、朝以上だった。午後2時過ぎになると、店の中に空席が目立つようになった。少しのんびり出来るなと思っていると、中年の男女が、すうっと入って来た。
「若菜ちゃん」
若菜に声を掛けた女性は、『演劇広場』の細村慶子だった。
「あっ、いらっしゃいませ」
慶子に、声を掛けられた若菜は、にっこり笑って、二人を片隅のテーブル席に案内した。そして、二言三言、喋ってから、カウンターに戻り、二人の註文を山本コックに伝えた。信平は、そっと若菜に訊いた。
「あの人、細村さんの御主人ですか?」
「何、言ってるのよ。細村さんは独身よ。一緒にいるのは丸山伸之先生よ。行って挨拶しなさいよ」
「は、はい」
信平は若野の助言を受けて、直ぐに片隅のテーブル席に行き、二人に挨拶した。すると、二人は笑って信平見上げた。
「ああ、早坂君。先生、彼が噂の早坂君です」
「そう」
丸山伸之は信平を見詰め、にっこりと微笑んだ。優しい笑顔だと信平は思った。この人が戦中、戦後と移り変わる時代の悲劇を執筆した反戦の心の作家なのだと、その出会いに感動した。
9,春到来
四月になると『曙橋慕情』の稽古は第一幕三場、のど自慢大会と第二幕四場、師走の雪が加わったに入った。三場は節子の妹、和子がのど自慢大会で優勝し、明るさが蘇って来る場面で、和子役を演じる平原由美は音大生で、その清らかな歌声は聴く者の心に響いた。四場は姉、節子の恋人が、まだ復員せず、その生死がはっきり分からず、戸惑いながらも恋人の帰りを信じ、周囲から反対されても、雪の降りしきる神社に、お百度参りする場面で、悲痛に満ちていた。信平は、これらの主役を演じる青木洋子や平原由美の演技力に感心した。郵便配達員が届ける戦死の知らせを受け入れられない人たちの中で、愛する人の生存を信じ、愛する人をひたすらに待つ青木洋子の演じる女のパワー。敗戦の苦しみにめげず、逞しく夢に向かう若者の希望を、美麗で清らかな声で歌い上げてみせる平原由美の歌唱。これらは原作者、丸山伸之の思いを、浜田監督が演技者を巧みに使い、舞台を盛り上げ、演技者それぞれの内的緊張と陶酔を観客に伝えるに相応しい重要な役割を果たさせる技だった。その演劇に自分も一役買っているのだと思うと、信平は稽古が進んで行くのが楽しみでならなかった。そんな或る日、普段、演技について余り口にしない遠藤団長が信平に言った。
「随分と演劇が分かって来たようだね。稽古を重ねるごとに上手になっているよ」
生真面目な遠藤団長が珍しく信平に声を掛け、演技を褒めてくれたので信平は驚いた。芝居の細々としたことについては、浜田監督に一任している団長が、メンバーの一人一人に目を配っているのが分かった。
「そうですか。監督には突っ立ったままで朗読しているみたいだなどと、何時も叱られているのですが」
「うん。最初は確かに、そうだったが、最近は身体がセリフに合わせ動くようになって来ているから、見ていても安心出来る」
「でも、わざとらしくないですか?」
「いや。そうには見えないよ。自然体で、中々、良いよ」
信平は遠藤団長に褒められ、ちょっと恥ずかしい気分になり、照れ笑いした。遠藤団長は一度、口を結んでから、思い出したように付け加えて言った。
「ところで、そろそろ公演の下準備を始めなければならないんだが」
「はい」
「今回、講演する『曙橋慕情』のパンフレットを作成するのだけれど、君の役者名は本名のままで良いかな。それとも、何か代わりの名を考えようか」
「団長に役者名に考えていただけたら有難いです」
「うむ、そうか」
遠藤団長は、信平の返事を聞いて、嬉しそうに目を細めて信平を見詰め思案した。信平にとって自分の早坂信平という名がパンフレットに載るのは望ましくなかった。出来れば別の名で表記して欲しかった。遠藤団長は少し考えて信平に訊ねた。
「私は信平という名前は素晴らしい響きがあるから、名前はそのままにしたい。苗字は東北の出身だから北のついた北島、あるいは北川にしようと思うが、どうかな」
「なら北上にして下さい。故郷に北上という町があります。北上信平で、お願いします。北上信平で」
「成程。良い名だ。では北上信平で行こう。話が早い。良い名だ」
遠藤団長は納得してくれた。信平は自分の役者名をいただき心が躍った。まだ駆け出しなのに有名人になったような気分になった。
「君は磨けば光るような気がする。楽しみにしてるよ」
遠藤団長は、そう言うと今度は新川正人の方へ移動した。新川正人も信平同様、まだ一年目で、チョイ役だった。団長は彼にも同じような事を確認するみたいだった。信平は自分が次第に演劇の世界に深入りして行くのを肌身で感じた。
喫茶店『ボヌール』でも4月になって早朝客に若い新しい顔が数人、加わり、直ぐに新入社員であると分かった。まだ会社勤めが如何なるものか理解出来ていないからか、目が希望に耀き、新鮮さ、いっぱいだった。中に同じ会社に入社した二人組がいて、モーニングセットを口にしながら楽しそうに話しているのを耳にした。
「研修が終わったら、どんな部署に配属になるのだろうかな」
「さ、何処になるかな。そのうち分かるよ」
「僕は企画室で働きたいな」
「俺は余り配属先にこだわらないよ。与えられた職場で、真面目に仕事をするだけさ」
「特に希望がないんだ」
「うん。ところで昨日、総務の人から、転居届を区役所に出しておくよう注意された。君は言われなかったか」
「僕は3月末に引っ越しした時、済ませたから」
「そうか。俺は土曜日に届けに行かなくてはいけないんだ。付き合ってくれるか?」
「良いよ」
2人の会話は、まだ学生気分が抜けていなかった。信平は、その2人の会話を聞いて、自分も転居届を提出する必要があると思った。住所不定では、これから先、不都合なことが起こる可能性がある。だが転居届を提出したなら、自分の居場所が家族に分かってしまう。どうしたものか。でも、今なら、故郷の役所は大震災の被害から立ち直るのに躍起になっていて、転出届など処理出来ぬ状況に相違ない。そこで信平はアルバイトが休みの月曜日、下北沢の北沢総合支所に行き、転居届を提出した。ところが窓口の女性から、転出証明書が無ければ受け付けられないと言われた。そこで信平は一旦、支所から外に出て、時間を少しおいて再び同じ窓口に行って、説明した。
「田舎に連絡したところ、市役所が震災により役所機能を失っていて、転出証明書を出せる状態でないので、健康保険証か運転免許証、あるいはパスポートを提示し、兎に角、転入届の提出だけ、済ませておいて下さいとのことです。役所機能が復旧したら転出証明書を私の所へ送るそうですので、よろしくお願いします」
すると役所の女性は、渋い顔をして言った。
「そうですか。では身分証明をするものを見せて下さい」
「はい。健康保険証と運転免許証です」
「分かりました。ではコピーさせていただきますね」
「はい」
女性職員は、信平の健康保険証と自動車運転免許証で本人確認をして、コピーを済ませると、信平の転入届を受理した。信平は転入手続きを終わらせると、すっきりした気分になった。これで念願の東京人になれたと思った。時計を見ると、まもなく正午になるところだった。ふと五味克彦が働く『十勝ラーメン』のことを想い出し、『十勝ラーメン』へ行った。
「いらっしゃい」
大きな声で客を迎えた五味は、信平の来店にびっくりした。五味は信平の座った席にやって来ると、グラスに水を入れて、差し出しながら、ニコリと笑った。
「初めてだよな」
「うん」
「さ、何にする?」
「勿論、十勝ラーメン」
「ハーイ。十勝一丁」
五味は、そう言うと、カウンターに戻り、メモを書き、トレーの準備をした。信平は、ラーメンが来るまで、することが無く、五味の仕事ぶりを観察した、やがてラーメンが出来上がり五味が運んで来た。
「大盛にしたよ。ゆで卵はサービス」
「ありがとう」
信平は鶏ガラ、コーン、キャベツ、モヤシ入りの塩とバターの多様な味の十勝ラーメンをレンゲを使いながら口にした。なんとも言えぬ塩味のスープが食欲をそそった。麺の茹で具合が丁度、良かった。その美味しい十勝ラーメンを食べ終えてから、信平はサービスしてくれた店主と五味にお礼を言って店を出た。それから北沢川沿道を散歩した。桜の花が満開。東日本大震災の被害を受け、沢山の人たちが、嘆き苦しんでいるというのに、その愁いなど知らん顔で桜の花が咲き誇っているのを目にして、信平は余りにも美しすぎると思った。何故なのか。
翌日も『ボヌール』の仕事を終え、井の頭線沿いの桜を眺めながら古ぼけたビルの二階にある『演劇広場』へ行くと今日も皆、熱心に稽古の準備をしていた。全員揃ったところで、遠藤団長が拍手して、皆に伝えた。
「今日の稽古は1時間で終わりにします。桜の花が散り始めたので稽古を終えてから、夜桜を見に行きます。既にお酒やおつまみや敷くシートは買ってあります。場所は新宿の花園神社です」
「花園神社?」
「そうです。かって『赤テント』のあった所です。都合の出来る人は参加して下さい。会費は千円です。従って何時もより早く、8時に稽古を終了しますので、よろしく」
遠藤団長の報告が終わるや、団員たちは、それぞれの場面での練習を始めた。稽古は姉、節子を演じる青木洋子と妹、和子を演じる平原由美を中心とした二組に分かれて行われ、浜田監督と遠藤団長の息の合ったチームワークで、それぞれの意見を出し合い、舞台美術の藤田研吾のセッティング方法なども含めて、舞台表現に磨きをかけた。その稽古は何時もより2時間早く終了した。劇団員は20名ほどであるが、稽古終了後、夜桜見物に行くことになったのは、15名だった。暗くなった7時半に稽古場の明かりを消し、入り口の鍵を閉めて、まず下北沢駅へ行った。そこで不参加の人たちと別れ、小田急線の電車に乗り新宿へ向かった。新宿駅に着くと、駅のコンコースは帰宅客で、芋を洗うように混雑していた。新宿駅から花園神社までは、最後の桜を観ようとする人たちで、ごった返していた。信平たちは遠藤団長たち先輩とはぐれぬよう、まるで金魚のフンのように、くっいて歩いた。五味克彦が靖国通りの向こう側にある繁華街を指さして教えてくれた。
「あのネオンが輝いている所が、歌舞伎町だよ」
信平は秋葉原から電車に乗って、職業安定所に行こうと、職安通りまで行った時の事を想い出した。噂に聞く危険な大歓楽街は以前、見た時よりも更に増して、妖しい光彩を放って、信平の心を攪乱させた。やがて劇団メンバーは、5丁目の交差点の信号を渡り、花園神社の参道に入った。そこは真っ暗闇であるが、両脇の灯りを頼りに境内へと進んだ。境内に入ると、その場所は打って変わって真昼のように明るかった。満開の桜が信平たちを迎えた。境内は花見客でいっぱいだった。一行は、まず花園神社の朱色の社殿の石段を登り、『曙橋慕情』公演の成功を祈願し、その後、境内の片隅の桜の木の下にシートを敷き、紙カップにビールや日本酒を注ぎ、浜田監督の音頭で乾杯した。世の中、東日本大震災のこともあって、自粛ムードで、屋台も出ていないが、花見客は夜桜を鑑賞し、花見酒を楽しみ、信平たちの前を往来した。年配者の一行や若い男女が桜の木の下で酒を楽しみ、好きな物を食べ、あれやこれや喋り合っているのを、羨ましそうに眺めては、通り過ぎて行った。遠藤団長が、懐かしそうに皆に言った。
「ここの所に、劇作家、唐十郎率いる唐組の『赤テント』の舞台が設置されていたんだよ。あの頃は、若者が燃えていた」
その言葉に劇団員たちは、昭和の昔を想像しながら、夜桜を愛で、飲食を満喫し、親睦を深めた。あっという間に時刻は10時を過ぎていた。遠藤団長は、浜田監督に解散を指示され、夜桜見物を終わりにした。それから浜田監督と遠藤団長は何人かを引き連れ、歌舞伎町の外れにあるゴールデン街へ向かった。信平は藤田研吾、細村慶子、五味克彦たちと新宿駅に引き返し、小田急線の電車に乗って、それぞれの家に帰った。
10,ふれあい
朝起きると雨。昨夜、夜桜見物で劇団員と親睦の為、酒を飲み、遅く帰ったので、少し辛かった。そこで、簡単に朝食を済ませ、アルバイトに出かける準備をした。テレビからは福島第一原子力発電所の復旧作業の状況や葉物野菜や生牛乳の出荷停止状況や田植えをするべきか否か、失った漁師の船をどうするかなどといった苦悩報道が伝わって来た。現地の人たちが気の毒でならない。信平は、そのテレビのスイッチを切ると玄関で靴をはき、部屋のドアを閉めて、鍵をかけ、『メゾン羽根木』を出た。雨傘をさして東松原駅に向かいながら、先行きの不安を感じ、途方に暮れている故郷の漁師や農家の人たちのことを想った。何か手助けをする方法がないかと考えた。だが家出して来た自分に出来る事は、何も無かった。そんな自分に雨が冷たく降りかかるので、やるせない気持ちになった。東松原駅に辿り着き、雨傘を折り畳み、雨の雫を振り払い、ホームへと進んだ。そして、やってきた電車に乗ると、日曜日だからか、何時も程、混雑していなかった。下北沢駅で下車して、『ボヌール』に行くと、山本コックと西川四郎の両名が既に仕込み作業に取り組んでいた。信平は制服に着替え、床にモップをかけたり、テーブルを雑巾で拭いたりした。そこへ椿原愛子や宮下若菜、小野栄治が加わった。そして岩崎店長が現われたところで、店をオープンした。『ボヌール』は普段、会社勤めの人たちで混雑するが、土曜日、日曜日は客層が違った。地元の老人や中年の人たちに店の食事が人気があり、食事時に来てくれる地元の人たちが多かった。その他、若い恋人たち、怪しいカップル、地方からの観光客も立ち寄ってくれた。また『演劇広場』のメンバーも、遠藤団長の経営する店と知って、何人かが利用してくれた。この日の午後になると、雨が上がって、あの細村慶子と青木洋子が来店した。その二人を目にすると宮下若菜が駆け寄った。
「いらっしゃいませ」
信平も駆け寄り頭を下げた。すると席に座りながら青木洋子が言った。
「ああ、信ちゃんも、ここで働いているのね」
「は、はい。まだ半月ですが」
「郵便屋さんもお似合いだけど、ウエイター姿も恰好良いわよ」
信平は返答に窮した。それを見て細村慶子が言った。
「洋子ちゃん。早坂さんを、からかっては駄目よ」
返答に困惑し、赤面している信平を見て細村慶子が助け船を出してくれた。しかし青木洋子は先輩の言う事など気に留めなかった。
「だって、そうでしょう。若菜ちゃん。注文訊かないの」
「あっ、すみません。何に致しますか?」
「紅茶。二人とも紅茶」
「承知しました」
そう返事して、若菜が立ち去ったので、信平もその場から立ち去ろうとした。すると青木洋子が信平のワイシャツの袖を掴んで、にっこり見上げた。
「信ちゃん。苗字変えたのよね。早坂さんじゃあないのよね」
信平は一瞬、何のことを言われているのか分からなかった。細村慶子も、びっくりした顔をして、信平の顔を見た。すると洋子はちょっと笑って言った。
「北上さんよね。北上信平さん。そうでしょう」
「は、はい」
言われてみれば遠藤団長に名付けられた自分の役者名は北上信平だった。信平は感じた。青木洋子は細村慶子の知らないことを知っているという優位さを自慢したかったに違いない。信平は二人の間に異様な雰囲気を感じたので、深く頭を下げて、その場から、そっと離れた。入れ替わりに若菜が二人の席に紅茶を運んで来て、二、三、言葉を交わしてから、信平の所へ戻って、信平に耳打ちした。
「あの二人、仲が良いようでライバルなの」
若菜に、そう言われたが信平には二人がライバルであるとは思えなかった。何故なら、今、稽古している『曙橋慕情』では主人公、小山節子を青木洋子が演じ、その母、多恵を細村慶子が演じるのであるから、二人の呼吸が合わない事には、芝居が上手く行かない筈だ。出来栄えが制限されてしまい、失敗作になってしまう恐れがある。普段の稽古を見ていて、そうには思えないので、信平は若菜に言い返した。
「でも稽古では親子の関係を、とても上手に演じているよ」
「それが役者の才能なの。才能があればある程、本性が分からなくなるの」
「それって本当ですか?」
「決まっているわよ。特に女は演技が上手なの」
若菜は何もかも、お見通しみたいに言い切った。田舎にいた時も、いろんな女性がいたが、皆、はっきりしていて単純だったが、若菜たちは違った。
「あの二人は劇団の女王様の座を狙って、争っているのよ。青木さんは浜田監督に好かれているし、細村さんは丸山先生と古い付き合いだから、二人とも虎の威を借るキツネなの。お互いの後ろ盾を良い事に、偉そうに威張り合いをしているの。だから二人の間に巻き込まれないように注意しないとね」
「そうですか。分かりました。注意します」
信平と若菜がヒソヒソ話をしていると、細村慶子が二人に向かい、手招きをした。ヒソヒソ話が聞こえたのではないかと、信平は心配し、若菜と恐る恐る二人の席に近寄った。
「何でしょう」
「二人とも、明日、休みでしょう」
「はい」
「明日、私の家に遊びにいらっしゃらない。桜を見ながら、お茶しない」
その誘いに若菜が少し考えているので、信平が先に答えた。
「行きます。行きます」
慶子は信平から返事をもらい微笑むと、若菜に訊いた。
「若菜ちゃんは、どうなの?」
「信平ちゃんが行くなら行きます」
若菜の答えを聞いて慶子は満足した。そして青木洋子にも声を掛けたが、青木洋子は、用事があるからと断った。その後、遠藤団長と桜井俊明が店に現れ、四人で『演劇広場』の運営についての会議を始めた。
翌日の月曜日、信平は小田急線の成城学園駅の改札口で、宮下若菜と待合せし、レストラン『シュべール』でキノコパスタを食べた。とても美味しかった。その精算を信平がしようとすると、若菜が伝票を取り上げた。
「ここは私が払うから外で待ってて」
「でも」
「良いの。遠慮しなくて良いのよ。『コルティ』で手土産を何にするか、考えておいて」
信平は、若菜と伝票の取り合いをするわけにも行かず。レストランを出て、駅前のショッピングセンター『コルティ』に行き、入口近くの菓子コーナーで、手土産を何にしようか考えた。何にすれば良いのか思い当たらなかった。結果、若菜がやって来て、洋菓子とイチゴを買った。代金は信平が支払い、その手土産を持って、二人は細村慶子の家に向かった。細村慶子の家までの道順は、若菜が詳しく知っていた。世田谷の高級住宅街は緑が多く、とても静かだった。駅南口からゆるやかな坂道を下り、カトリック教会の所を右に回り、くねくねと進み、バラやチューリップ、ライラック、すずらん、シャガ、エニシダなどの花々が咲く庭や洋風の建物などを眺めながら、5分程歩くと、細村慶子の自宅に到着した。
「ここよ」
そう言われて信平が目にしたのは、二階建ての洋館だった。ぐるりと白い塀に囲まれ、入口の石段の脇のポストの所には『細村』という石のネームプレートが埋め込まれていた。茨を象った青銅の門扉の支柱に、チャイムがあり、若菜が、そこのボタンを押した。すると、レンガ造りの家の中に通じたらしく、前方の玄関ドアを開けて、淡い黄色のワンピースを着た細村慶子が現れた。彼女は玄関からチューリップの咲く庭を、ゆっくり歩いて来ると、門扉を開けた。
「いらっしゃい」
「お邪魔します」
信平は藍色の瓦屋根の建物を見上げながら、若菜の後ろに従って進んだ。門の右側の駐車スペースに車は無かった。信平たちを招待した細村慶子について、若菜から独身だと耳にしていたが、誰か車を運転する同居人でもいるのだろうか。信平は謎めいた中年女性の日常を想像しながら、バラの花咲く玄関から家の中に入った。それから上がり框前で靴を脱ぎ、家に上がった。綺麗な花を描いたステンドグラスの小窓のある廊下を通り、応接間に通され、信平は目を見張った。何と素晴らしい応接間か。入った奥に暖炉とマントルピースがあり、天井にはシャンデリアが吊り下がっていた。
「どうぞ、二人並んでお座りになって」
麗子の指示に従い信平と若菜はテーブル席の椅子に座った。そこに座ると南側のガラス窓の向こうに緑の芝生の庭と小さな池が見えた。その池の畔には松や椿、楓などの木々が茂り、その間で桜と桃とツツジの花が互いの美しさを競っていた。まさに瀟洒な洋館だった。
「素晴らしい御宅ですね」
「私の父の遺産ですの。父は銀行の頭取だったから、昔は裕福な暮らしをしていたけど、今は両親が亡くなり、私ひとりなの」
「こんなに広いのに・・」
「一人娘の私は女子大を卒業して、直ぐにK大卒の商社マンと結婚して、父は、大喜びでしたわ。母は、その前に病気で亡くなり、私が結婚し、娘婿が細村家を継いでくれることが、父の希望だったの。ところが私の夫は結婚して、三年後、心筋梗塞で帰宅途中に急死したの。私は半狂乱状態になり、病院に入院」
「ええっ。それは、それは大変だったですね」
「そうよ。私は、病院で沢山の小説や詩集を読ませてもらったわ。お陰で精神的悩みも鎮まり、退院することが出来たの」
「そうでしたか」
「父は母のいない家に、私をひとりにさせてはならないと、私の健康を考え、銀行を引退し、私との暮らしに時間を注ぎ、私が外に出られるようになった5年前に亡くなったわ」
涙声になって語る慶子の話を聞いて信平は、彼女の不幸な身の上を知って暗い気持ちになった。この話を何度か聞かされて来た若菜であるのに、目に涙を浮かべているので、信平も涙が出そうになった。慶子は話し続けた。
「そういう訳で、私は天涯孤独。お手伝いの佐喜さんに通ってもらい、一人暮らししているの」
慶子が、そんな自分の身の上話を喋っていると、たった今、話したお手伝いの飯田佐喜が紅茶を運んで、応接間入って来た。
「いらっしゃいませ」
佐喜はテーブルの上に紅茶の入ったカップを三つ置くと直ぐに立ち去った。その姿を見送り、慶子が話を続けた。
「今のがお手伝いの佐喜さんよ。父に尽くしてくれた人なの」
若菜と信平は慶子の話に引き込まれ、手土産を渡していないのに気づいて、若菜が慌てて慶子に手土産を差し出した。
「あっ、忘れていました。これ二人の手土産です」
「まあっ、気を使っていただき有難う。ところで庭の桜、2本しかないので、少ししたら、外に行って桜見しましょう」
「は、はい」
それから、佐喜が運んで来たクッキーを味わいながら、3人は30分程、雑談してから、外出した。成城の住宅街から、急な坂道や石段を下り、世田谷通りに出てしばらく歩くと、小川があり、鴨が泳いでいるのが見えた。更に川べりの住宅街を進むと、植木園の向こうに、新緑の森が広がっているのが目に入った。心地良いそよ風を受けながら慶子が若菜と信平に公園の名を教えた。
「ここからが『次太夫堀公園』よ」
その公園は沢山の木々に覆われ、桜の花が所々に咲いて、信平の故郷の春を思わせた。
「まあ、素敵」
若菜は桜が満開に咲く森の中の細道が、まるで自分の稽古場であるかのように小躍りして、自然に触れる喜びを踊りで表現した。3人は美しい桜や水辺を眺めたりしながら、古民家に立ち寄り、赤白緑の花見だんごをいただいた。信平は東京にも、こんな所があるのだと、心を癒され、満足した。それからもと来た道を引き返し、再び細村邸の応接室で雑談した。演劇と文学の話が主体だった。彼女は『演劇広場』の座付き作家、丸山伸之のことをしきりに褒め称えた。信平は寺山修司の話を持ち出し、彼女たちと議論を交わした。夢中になって語り合っているうちに何時の間にか夕方になっていた。そこで慶子の行きつけのステーキ屋に連れて行かれ、若菜と一緒に夕食をご馳走してもらった。美味しかった。夕食をいただいてから、信平たちは、ステーキ屋の前で細村慶子と別れた。信平は慶子の後姿を見送ってから、今日一日、若菜と一緒に劇団で特別扱いされている細村慶子と長時間過ごし、細村慶子の境遇を知り、彼女たちと、これから親密に付き合って行けそうな気分になった。成城学園前駅から電車に乗り、下北沢駅で、若菜とさよならした。それから東松原のアパート『メゾン羽根木』の105号室に戻って、信平は今日、成城の細村慶子の家に訪問し、感じたことを振り返った。まずは彼女が不幸な身の上でありながら、資産家であり、文芸の憧憬者であると感じた。それに彼女が『演劇広場』の座付き作家、丸山伸之にかなり心酔していると知った。細村慶子は役者であると同時に、詩人であった。彼女の尊敬する丸山伸之は劇作家であると共に、小説家であった。その詩人と小説家という文学性が、二人の関係を惹き付け合う磁石の役目を果たしているように思えた。慶子と若菜と自分の三人で雑談した中で、何度、丸山伸之の話が出て来たことか。三人でいろいろなことを話し、信平は初対面の時から、ちょっと癖のありそうな妖しく美しさを持った女性だという印象を慶子に抱いて来たが、今回、自宅に招かれ、小説や詩や演劇についての考えを語ってもらい、素敵な人だと見直した。想像と異なり、他人が考えていることとか、望んでいることが分かる不思議な女性だった。一見、意地悪そうに見えるが、本当は優しい許容範囲の広い人みたいだった。信平は、そんな感想を日記に書いて眠りについた。
翌日の朝、『ボヌール』で宮下若菜に会うと、彼女は目を細くして笑った。
「昨日は、お疲れ様。夕方まで緊張しっ放しだったわね」
「うん。あんな高級住宅街に行ったの初めてだったから」
「素敵なお宅でしょう」
「うん」
「女の一人暮らしには勿体ないわね」
「一人暮らしの経緯をうかがって、びっくりしました。世の中には不幸な事に遭遇しても、明るく生きている人がいるのですね」
「お金持ちだからよ」
若菜は、さらりと言った。それは細村慶子が財産家であり、許容量があり、他人に優しくして上げられるのだと言っているように受け取れた。若菜の言う通りかも知れないが、金持ちでも出し惜しみをしたり、欲張ったり、差別したりする人がいる。しかし、自分たちを接待してくれた細村慶子には、そのような態度は見受けられなかった。信平は若菜に訊いた。
「細村さんは、再婚しないのですか?」
「本人は再婚したいと思っているけど、お嬢さん育ちの細村さんと、結婚しようという男性はいないわ。料理も洗濯も、ろくに出来ないのだから・・」
「そうなんですか」
「それに結構、自分勝手なの」
若菜は慶子との付き合いが長く、慶子に関することを詳しく知っていた。細村慶子は『演劇広場』の座付作家、丸山伸之と親しくしているが、丸山先生には妻子がいて、丸山先生の妻、法子との間で、ごたついているなどと教えてくれた。信平は丸山伸之に会ってはいるが、直接、演劇や小説について語り合ったことがなく、一度、創作について話してみたいと思った。信平は不思議な二人に興味を抱き、若菜に更なる質問をした。
「そんな自分勝手な細村さんと、丸山先生は何故、お付き合いしているのですか?」
「二人は『アモーレ』という同人誌の仲間で、劇団以外の付き合いがあり、つながりが深いの」
「同人誌の仲間ですか・・」
信平は同人誌という言葉を耳にして、何故か大正、昭和の時代のような文学グループが、今の時代になっても、存在していることを知った。かっては同人誌から出発し、芥川賞や直木賞を受賞した小説家がいたが、今は、そんな時代ではない。芸能人や美人女性が受賞する商業的受賞になっている時代の流れだ。そんな流れに逆らって、丸山伸之や細村慶子は小説や詩の創作に取り組んでいるのかと思うと、更に二人への興味が深まった。
「もし、二人の事が気になるなら、同人誌『アモーレ』を読むと良いわ。遠藤団長が持っているわよ」
若菜からの情報は、信平にとって有難い情報だった。遠藤団長に、お願いして、丸山伸之の小説を読んでみたいと思った。その同人誌『アモーレ』を数日後、遠藤団長から借りる事が出来た。
「丸山先生の、この作品は、中々、面白いよ」
遠藤団長は、丸山伸之と竹馬の友で、今も演劇によって繋がり合っているということで、互いに互いを尊敬する間柄だった。
11,気がかり
あの恐ろしい東日本大震災から1ケ月経過し、沢山の悲劇が新聞やテレビで報道されると、信平は胸を締め付けられた。自分は今、どのような処遇になっているのか。多分、行方不明のままであろうが、津波で死亡した遺体確認で、もしかすると、本人扱いされているかも知れなかった。しかし、今更、そんな事を考えても、どうなるものでも無かった。自分が生きていることを好運と受け取るべきだ。むしろ日本の未来がどうなるかを気にせねばならなかった。日本は今、福島第一原子力発電所の事故により、国際的にも、深刻な状況に追い込まれている。その原発事故の危険度は、あのチェルノブイリ事故と同等のレベル7にアップしたという。石原慎太郎都知事が、福島原発に東京都の消防隊を送り込んだり、東京都の水道水を自ら飲んで、問題ないと証明し、四度目の都知事に選出され、原発事故の対処に懸命になっているが、政府の行動はモタモタしていて、国民を失望させた。政府の対応は余りにも緩慢過ぎて、積極性の欠如と無能力さを露呈するばかりだった。被災地の苦しみと原発事故の大きさは、最早、石原都知事だけが積極的に行動し、頑張っても、終息できるものでは無かった。東京電力は勿論のことであるが、政府が具体的行動を示さなければ、事態は増々、悪化することが明白だった。政府は大学教授たちを集めて会議を開いているだけで、何の具体的行動を示すことが出来ないでいた。何度、会議を開いても、問題解決の為の実作業が実施されず、原発は暴れ回る一方となった。このことは信平の生活していた地震と津波の被災地でも同様だった。道路が分断し、物資が届かず、義援金が分配されず、復興の目途が全くつかぬ状態だった。このような日本の有様を見て、天罰が下ったのだと喜んでいる国もあり、頭に来た。信平は『ボヌール』で働きながら、年寄りたちの嘆きの言葉を耳にした。
「民主党政権は、何をやっているのか。今回の大震災は我が国にとって、二度目の敗戦を味わっているようなものだ」
確かに日本領土の四分のに近い場所が、瓦礫に覆われ、放射能汚染が広がり、沢山の人たちが、不安に震えている現状は、広島、長崎に原爆を投下され、降伏した日本に似ていた。信平は、ふと故郷に帰ろうかと思ったりした。故郷の家はどうなっているのだろうか。祖母、両親、兄弟は無事でいるのだろうか。中学や高校時代の同級生で、被害に苦しんでいる者がいるのではないか。あるいは亡くなった者もいるのではないか。勤めていた農協はどうなっているのだろうか。信平は喫茶店でのアルバイトをしながら、故郷の事を、種々、考えた。しかし、その愛しく思う故郷を捨てて来たのだから、今更、帰る道理など無かった。『ボヌール』に集まった年寄りたちは、嘆きながらも強気な発言をしていた。
「65年前の日本人は耐えがたきを耐え、忍び難きを忍び、歯を食いしばり、次々と襲う大きな苦難にもめげず、その都度、厳しい状況を克服し、世界に誇る経済大国に日本を成長させた。その世界に類を見ない日本人の叡智と粘り強さは、私たちの血の中に浸透している。負けてはならぬ。勇気と希望を持って、この苦難に立ち向かわなければ」
その老人たちの熱さに、信平は感銘を受けた。老人たちの話によれば、プロ野球、楽天の監督、星野仙一が、オープン戦の遠征から戻るや直ぐに避難所を訪れて、皆に深く頭を下げ、大人や子供たちを激励したという。
「来るのが遅くなって誠に申し訳ない。皆で力を合わせ頑張りましょう。子供たちよ、負けるな」
信平は、その話を聞いて、兎に角、諦めるなと被災者を激励し、勇気を与え、前向きに生きるプロ野球監督の姿を目に浮かべた。自分も故郷の大人や子供たちを激励したいのだが、今や、そんな資格は無かった。今、自分がやらねばならぬ事は、『演劇広場』で実力をつけ、演劇界の表舞台に躍り出る事だと思った。東日本大震災を機会に故郷を脱出し、東京にやって来て、何とか、落ち着くことが出来た。東京に来て、一人で生きて行くことが出来るのか、自分の将来が不安で不安でならなかったが、今、考えると、総てが出会った人たちのお陰だった。『演劇広場』の遠藤団長を始めとする演劇メンバーや喫茶店『ボヌール』の岩崎店長ら従業員一同の信平への思いやりの心は、被災地を見捨てて来た信平の心を癒してくれた。こういった優しい人たちや、お客様と挨拶を交わしたり、笑顔で会話したりしていると、何故か都会で生きる勇気が湧いて来て、明るい気持ちになれた。そして取り敢えず、この演劇の世界で生きてみようと思った。何処に行き着くか分からないが、この地に足を留め、演劇の道を突き進み、故郷と縁を切った生活を考えた。まず故郷と縁を切る為に、携帯電話を変更することにした。休みの日に渋谷の携帯電話会社に行き、これまで使用していたモバイルと電話番号を変更した。家族や友人たちのアドレス帳は新しいモバイルに読み込んでもらい、一応、連絡出来るようにしておき、いざという時、連絡出来るよう配慮した。その携帯電話を変更し、ほっとしたところで、信平は渋谷の街を、ほっつき歩いた。新しい携帯電話にしたことによって、故郷の人たちからの電話やメールをして来る者は皆無となった。信平は都会ではどんな人が、どんな風に生きているのかを見て歩き、自分のこれからの参考にしようと思った。故郷からの解放感は、春風と共に、信平の心を晴れやかにした。道玄坂を歩いていて、『東急百貨店』の本店の隣に『文化村』という映画や美術館、コンサートホールなどのある文化施設があるのを発見し、中に入った。そこで、キラキラ光るガラスの飾り物を売っている店に引き寄せられた。女性店員が、展示しているのはオーストリアのチロルのスワロフスキーのフアッション製品だと説明してくれた。東京には見たことも無いような美しい物が売られているのだと感心していると、突然、背中から声をかけられた。
「あらっ、早坂さん。こんな所で何を見ているの。彼女への贈り物?」
「あっ、坂口さん。綺麗な品物が並んでいたから、ちょっと」
「怪しいな」
坂口美咲は、信平をからかうように、はしゃぎながら言った。二人の様子を見ていた美咲の友達が美咲に訊いた。
「お友達?」
「そう。私のお友達。早坂信平さんよ。私の家の近くなの。劇団員なのよ」
美咲は気軽に信平を友達に紹介した。信平は美咲の説明に合わせ、軽く頭を下げた。すると美咲の友達が明るく笑って言った。
「私はの野原香澄です。美咲ちゃんのクラスメイトです。よろしくお願いします」
「早坂です。でも信じられないな。こんなに人の多い渋谷で顔を合わせるなんて」
「そうね。これから、何処行くの?」
信平は美咲に訊かれ、赤面した。
「何処行くのって訊かれても。ただブラブラ見物しているだけだよ」
すると女子大生二人は笑った。彼女たちは大学での授業を終えて、時間をもてあましていたようだ。
「もし良かったら、私たちとコーヒーでも飲みませんか?」
「良いですよ」
信平は二人に見詰められ簡単に了解した。そして彼女たちに道玄坂の喫茶店『キーフェル』に連れて行かれた。豪華な喫茶店だった。そこでコーヒーを飲みながら雑談した。二人とも東京の大学に行きたいという一心で親を説得し、上京したという。美咲は東松原、香澄は三軒茶屋と私鉄沿線での一人暮らしを楽しんでいた。信平は東京に来れば、何かがあると、東日本大震災を機会に上京し、現在、『演劇広場』で舞台稽古をしていると話した。二人とも信平が真剣な表情で自分の可能性について純粋な目をして語るので、その話に引き込まれた。話が尽きたところで、折角なのでと、携帯電話番号を訊かれた。そこで信平は新しく取得したばかりの携帯電話番号を二人に教えた。彼女たちも自分の携帯電話番号を信平に教えた。2時間程、話すと彼女たちは、この後、新宿へ行くからと言って、信平と別れた。コーヒー代は信平が支払った。男はつらいよ。
こうして桜の季節は過ぎて行った。そして新緑が色を増し、アパートの向かいの家の庭には藤の紫の花房が垂れ下がり、ジャスミンの黄色い花が芳香を放つようになった。信平は、そんな爽やかな季節を迎えているというのに、東日本大震災以後の日本経済が震災の傷跡、原発不安、買いだめ、自粛などの問題点を、引きずりながら、不景気という暗闇に引き込まれて行くのを、目の当たりに感じるようになった。特に福島原発事故のその後は、悪化を辿る一方で、その終息への対応が、全くなされず、都民までもが不安を覚えるようになった。劇団員の中にも、東京に、このまま居住していて良いのかと心配する者もいた。稽古が終わってからのことだった。下田次郎が普段、仲良くしている五味と信平に言った。
「俺、静岡に戻ろうかと思うんだが、君たちはどう思う?」
すると、五味が驚いた顔をして、下田を見詰めた。
「それは、まずいんじゃあないの。シモちゃんがいなくなったら、誰がシモちゃんの役をするのさ。シモちゃんは自分の役を誰でも出来ると考えているようだけれど、そうではないんだよ」
五味は下田次郎が、自分たちの前で、静岡に戻ろうかと言い出したので、それに反対した。皆で一生懸命、稽古をしているのに、突然、劇団員を辞めて、静岡に帰ろうなんて、納得がいかなかった。五味の言葉を受けて、下田がせせら笑った。
「たかが警察官の役じゃあないか」
「何を言っているんだ。今まで努力して来た演劇を放り出して、故郷に帰ろうだなんて、何が原因で、そんなことを言い出すんだ?」
「放射能汚染だよ。福島原発の放射能漏れが更に進み、関東地区まで広まり、農作物は勿論のこと、人体にも影響し、死者が出るという報道もある。君らは東京にいたら危険だと思わないのか?」
「シモちゃんは大袈裟過ぎるよ。そうであれば、政治家や学者が先に逃げ出しているよ。彼らが逃げ出さないでいるということは、東京が安全だという証拠さ」
五味は下田次郎の心配を一蹴した。信平は、そんな五味の発言の後押しをした。
「そうですよ。東京は心配ないです。東京電力は万一、原発事故が発生しても、都心にまで放射能が及ばない遠隔地に原発を配置しているのです。だから静岡には帰らないで下さい」
「信平君は逃げようと思わないのか?」
「だって稽古が半分まで進んでいるのですよ。浜田監督の親友、丸山先生の脚本は、我々に戦争反対を訴えている戦争経験者の作品です。戦争がもたらす悲惨さと不幸を繰り返すようなことをしてはならない事を表現するのが、俺たち劇団員の役目なんです」
「君は随分とでかい口を叩くな。まるで浜田監督みたいだ」
「遠藤団長から教えて貰った受け売りです」
「おおっ、良く言った。偉いぞ、信平君」
二人に反対され下田は気まずい顔をした。
「そうか、そうか。分かったよ。俺が静岡に戻るって言ったら、遠藤団長も、同じことを言うだろうな」
下田は余分な事を言ってしまったと苦笑いした。お互いの意見を喋り合うことによって、3人の気持ちは和やかになった。すると今度は五味克彦が飲みに行こうと言い出した。信平も下田も賛成し、五味の知っている『鈴なり横丁』の居酒屋へ行った。店に入ると何と店のカウンターで、舞台美術の藤田研吾先輩が焼酎を飲んでいた。彼は、後輩3人の声に気づき、振り返った。
「おうっ。お揃いで来るとは珍しいな。信平君は初めてかな」
「は、はい」
「そうなら紹介しておこう。マスター、こちら前に話した被災地から来た北上信平君だ。よろしくな」
「北上信平です。よろしくお願いします」
「秋元公一です。よろしく」
秋元マスターはカウンター内から信平を見詰め、軽く頭を下げた。信平は北上信平という芸名で紹介され、その名をスムースに自分の口から出せたことに不思議を感じた。信平に、また知人が一人増えた。店の中は3人が加わったので演劇熱で盛り上がった。こうして木々の梢で若葉が揺れる4月が過ぎ去った。
12,東京の5月
あざやかな緑の5月がやって来た。『演劇広場』の稽古は、5月1日から5日まで休みだった。この間、『演劇広場』の人たちは海外旅行に出かけたり、山荘へ行ったり、帰省したり、友達と遊びに出かけたりしていたが、信平は喫茶店『ボヌール』でのアルバイトに専念した。
「田舎に帰らなくて良いのか?」
岩崎店長に訊かれたが、今更、どんな顔をして帰れるというのか。被災地の復興ボランテァにまぎれて、故郷の様子を見に行くことも考えたが、万一、顔見知りに遭遇したなら、今までの苦心が水の泡になってしまう。それに交通費も馬鹿にならない。不人情と思われようが、被災地に行く事を回避して過ごす、ゴールデンウイークとなった。大震災で何もかも失った人たちの現状に思いを馳せながら、『ボヌール』でアルバイトをしていると、先月、渋谷で会った野原香澄からメールが入った。
〈 この間は短い時間でしたが、お会い出来て楽しかったです。今日はアルバイトですか。私と美咲ちゃんは夕方から渋谷に買い物に行きます。夕方6時半頃から、この前の喫茶店で、お喋りしませんか。来られますか? 〉
信平は野原香澄からの誘いに驚いた。思いがけない誘いにしばらく思案したが、稽古が無いので、渋谷の喫茶店に行くと了解した。そして『ボヌール』の仕事を終えた夕方、井の頭線の電車に乗り、渋谷へ行き、この前、坂口美咲と野原香澄と3人で入った喫茶店『キーフェル』に行った。喫茶店に入ると、待ってましたとばかり、香澄が奥の席て手を上げた。赤いニットのシャツと白いワイドパンツの香澄は、とても目立った。また白のTシャツの上にデニムジャケットを着たプリーツスカートの岬は、控えめであるが可愛かった。信平が2人の座っている席の前に立つと、岬が席を移動して、香澄の横に座りながら言った。
「用事があったのではないの?」
「いいえ」
「まあ、座って」
信平が座るやウエイトレスが来て、注文を訊いた。信平はアメリカンコーヒーを註文した。その様子を見ながら香澄が美咲に耳打ちした。
「ねえ、来てくれたでしょう」
その言葉に美咲がちょっと赤くなった。信平は目の前の2人と話すのは二度目なので、それ程、緊張することはなかった。
「2人とも田舎に帰らなかったの?」
「私の所は田舎ではないけど、飛行機が混むし、正月に帰ったから。それに札幌はまだ寒いの」
香澄は、そう言って明るく笑った。すると美咲が香澄の顔をちらっと見てから、言った。
「私の所は田舎そのもの。ようやく雪が解けて、桜が綺麗よ。でも混雑するし、電車賃がかかるから」
それを聞いて、信平が2人への言葉を言おうとすると、香澄が、割り込んだ。
「魚沼は近いのに、帰らなかったのは、東京にいれば何か良い事があると思ってではないの」
「何で香澄ちゃんは、そういう風に考えるの。それより、早坂さんの方こそ、どうして帰らなかったの?」
美咲は香澄の追及をかわし、信平に話を向けた。何故帰らなかったか質問されると、信平は胸が痛んだ。信平は込み上げて来る後ろめたさを呑み込んで答えた。
「福島第一原発の被害が拡大し、東北へ向かうのは難しいらしい。たとえ裏日本側から故郷に帰ったとしても、帰りに戻れるかどうか。俺が戻らなかったら、劇団に迷惑をかけることになるから、帰省しないことにした」
信平は帰らない理由をごまかした。3人は喫茶店で話した後、宇田川町のイタリアンレストラン『グルマン』に異動した。美味しい食事をしながら、香澄はずけずけと、開けっ広げな話をした。美咲は大学生活の楽しさを語った。信平は演劇の話や文学の話をした。その後、3人で、渋谷から東松原に帰った。東松原駅に降りると、香澄が信平を誘った。
「一緒に美咲ちゃんの所に行きませんか?」
「駄目だよ。男子禁制なんだから」
信平が、そう答えると、美咲が信平の顔を見て、笑って言った。
「香澄ちゃんたら、馬鹿ね。そんなことしたら、私、大家さんに怒鳴られちゃうわ」
そんなやりとりをしながら歩いて行くうちに、信平の暮らす『メゾン羽根木』の前に着いたので、信平は2人にさよならした。別れ際、香澄がまた冗談を言った。
「この先の『コーポ、ローズマリー』よ。待ってるわよ」
信平は、その香澄の言ったアパート名を脳裏に刻み、棒杭のように突っ立って、2人を見送った。
こうしてゴールデンウイークが終わると、再び東京での日常が始まった。『演劇広場』のメンバーは晴れやかな笑顔で、稽古場に集まった。稽古は今までの続き、第二部5場の「帰って来た男」と6場の「桜咲く」が加わった。5場は姉、節子の恋人、南雲竜也が戦地から復員して来る場面で、竜也役を演じる杉山良介は、K大生で背が高く、国を護る為に戦地に赴いて帰って来た男の傷ついた姿を表現するのに努力を見せた。6場は姉、節子と南雲竜也が、桜の咲く舞台に花嫁姿で登場、妹、和子が歌手となり、二人の結婚を祝う歌を唄うところでハッピーエンド。心の底から込み上げて来る感動に、場内を破裂する程の興奮で高まらせ、観客にうるうる涙を溢れさせる場面だ。浜田監督は悲しみと絶望の淵で苦しみ続けて来た姉妹が、絶望の淵から這い上がり、希望を捨てずに、ついに笑顔と愛を手にするという生きる喜びを、稽古場で、役者一人一人が共有するよう熱い思いで指導した。
「舞台に立つ役者には、主役も脇役も無い。出演者、誰もが主人公だ。役者の一人一人が生きていなければ作品は死んでしまう」
浜田監督の思いは、座付作家、丸山伸之の描く、愚かなる戦争に巻き込まれた日本人が、どのように敗戦を迎え、その後、どのように生きて来たかの物語を、戦争を知らない若者や観客に、その劇空間を利用して体感してもらう事であった。ということは、通りがかりの人が、その渦中に吸い込まれて行くような演技を、役者一人一人が演じなければならいということだった。その浜田監督の意気込みを、遠藤団長も一緒になって劇団員に伝えた。
「監督の言う通り、一人一人が、その役柄に心酔し、セリフは勿論のこと、顔つきや身体の動きの一つ一つに、その役に合った表現をして欲しい。一人一人が生きた演技をすれば、お客様と舞台がつながり、同じ空気を共有することが出来る。お客様に伝わるものが無ければ、作品の心も伝わらず、我々の公演の意味も無くなる。役者は顔つき、セリフ、動作の三っに重点をおいて稽古すれば、必ず輝く」
劇団の稽古は信平の入団した時から順調に進み、最終仕上げに向けて、拍車がかかった。静岡に戻ろうかなどと言っていた下田次郎も落ち着き、仲間と競うように演技に情熱を注いだ。そして、『曙橋慕情』の公演日は7月10日の日曜日、昼の部と夜の部の2回を行うことになった。その為、美術の藤田研吾の仕事の手伝いの時間も増え、毎日が忙しくなった。舞台の背景を描きながら、藤田研吾も、演技について彼の考えを教えてくれた。
「舞台で自分を生かせるか、どうかは、演じる自分次第だ。台本のセリフを巧みに喋り、観客が同じ舞台に立っているかのように、リアルに演じて見せるのが、役者の醍醐味だよ」
そう説明されても、観客のいる舞台に立ったことの無い信平には、出番もセリフも少ないのに、不安が先行して仕方なかった。大都会、新宿のシアターとはどんな所か。観客は、どんな人たちなのだろうか。自分は、ちゃんとセリフが言えるのだろうか。その舞台に立った時のことを想うと、信平は自分が上手にやれるのか、心配で心配でならなかった。そんな信平に細村慶子は舞台に立った時、どうすれば良いのか教えてくれた。
「何も緊張することは無いの。ありのまま、気持ちを乗せれば良いのよ」
優しく、そう言われると、信平は未熟な自分でも、何とかやれるような気持になった。毎日が楽しくなった。
そんな信平の稽古とアルバイトが休みの日、野原香澄から渋谷で会おうとメールが入った。今の女子大生は何を考えているのか分からない。まだ信平に何か話したいことがあるのかと疑問を抱いた。信平は『曙橋慕情』の5場と6場での自分の出番もセリフも少ない事から、休みの日に、覚えることも無いので、彼女の誘いに乗った。午後3時に以前、彼女たちと入った喫茶店『キーフェル』に行くと、香澄と美咲がミルクティを飲みながら喋っていた。信平は二人に近づき、小さな声で言った。
「お待たせ」
二人は信平に気づき、慌てて信平を見上げてから、二人で顔を見合わせて笑った。信平の噂をしていたみたいだった。ウエイトレスが信平が座ったのを確かめ、近寄って来たので、お喋りの香澄が信平に質問した。
「何にするの?」
信平は背後に立っているウエイトレスが、水の入ったグラスをテーブルの上に置くのを確認してから、振り向いてウエイトレスに註文した。
「コーヒーじゃあなくてオレンジジュースにしようかな」
するとウエイトレスに代わって香澄が確認した。
「オレンジジュースにするのね」
「うん。オレンジジュース」
信平は、はっきりと答えた。ウエイトレスが、かしこまりましたと註文を受け、頭を下げて立ち去ると、香澄が喋り始めた。
「ここのところ夏のように暑くなって来たわね。男の子って良いわね。衣替えも簡単だし」
香澄は、まるで、お笑い芸人のように次から次へと、いろんな話をした。その淀みない喋りに、美咲も信平も、笑い続けた。香澄が喋り疲れた時、美咲が信平に訊いた。
「今、舞台稽古をしている作品は、どんな内容のものなの?」
信平は、突然、演劇の事を訊かれて慌てた。二人が今日、自分に会って知りたかったことは、多分、このことに違いないと思った。信平は二人が自分が稽古をしている『演劇広場』に興味を抱いているのを嬉しく感じた。そして作家、丸山伸之の戯曲『曙橋慕情』について語った。その太平洋戦争の終戦後の東京が舞台である作品は、若い姉妹が、戦争という悲劇の中で、貧しい時代を生き抜き、戦争の傷が癒えない人たちをねぎらい、女としてひたむきに気高く希望を求め、人間の大切なものを守り抜く、愛と尊厳を謳った傑作であると強調した。信平の説明に二人は引き込まれた。
「まあ、私たちのお婆ちゃんが若かった時代の話ね。その演劇、是非、見たいわ。公演は何時なの」
「7月10日の日曜日。新宿のシアターで、昼と夜の2回、公演することになっています」
「まあっ、そうなの。私、見に行く」
その言葉に信平は、今こそチケットを売り込むチャンスだと思った。
「もし良ければ、俺からチケットを買ってくれないかな」
「良いわよ。何時から買えるの」
「6月5日までに連絡もらえれば手に入れるよ」
「分かった。他の友達にも声を掛けてみるわ。枚数が決まったら、美咲から連絡してもらうわ」
香澄は信平が出演する演劇を観られると、大はしゃぎした。なのに、その後、急に沈んだ声になって言った。
「でも現代は戦時中でないから、緊張感が無く、空しいわね。もし私が戦時中に生きていたら、明日、出征する男の人に身を捧げ、最後になるかもしれない歓びを味合わせて上げたいと思うのだけど」
すると美咲が赤面して香澄の肩を叩いた。
「何、言っているの。、香澄ちゃんたら」
「ごめんなさい。つい主人公になったような気になっちゃって。ところで早坂さんは、どんな役をやるの?」
「ちょいと出の郵便屋さん。目立たない役だけど、重要なんだ。劇団に入ったばかりなのに、役をもらって有難いよ。芸名は北上信平だからね」
「北上信平。素敵な名前だわね。では私たち、これから貴方の事を、北上さんと呼ぶわ」
三人で話していると、話がはずみ、次第に大袈裟になって行き、まるで自分が有名俳優にでもなったかのような舞い上がる気分になった。
「端っこの役なのに期待されて嬉しいよ。チケットを沢山、買ってもらえると思うから、これから食事、奢るよ」
「本当、本当に良いの」
「うん。この前のレストランへ行こう」
三人は喫茶店を出て、前回、入ったイタリアンレストラン『グルマン』へ行った。二人とも食べながら良く喋り、信平はここでも二人の会話に引きずり回され、あっという間に、時間が流れ去った。
5月の末になると『演劇広場』の稽古は一層、厳しいものになった。『曙橋慕情』の1場から6場まで、ぶっ通しの稽古となり、各人の演技を浜田監督が細部にわたるまで指導した。信平はちょいと出の郵便配達人なので、自分の演技を、それ程、重要とは思っていなかったが、浜田監督に説教されてから真剣に演技した。浜田監督はセリフは勿論のこと、自転車の乗り方、挨拶の仕方など、こと細かに要求し、時には罵倒し、時には突き放し、新米役者を鍛え上げた。そんな指導を受ける信平に比べ、主人公を演じる節子役の青木洋子や妹役の平原由美の演技は大変だった。休み無く、立て続け演技なので、体力的にハードで、とても辛そうだった。だが浜田監督は、苦労する役者たちを叱陀激励し、何とか1場から6場まで、一気に演じさせた。そのきつい指導に誰もが耐えた。それはメンバーの誰もが、演劇が素晴らしいものであると信じているからに相違無かった。それだけでは無い。劇作家、丸山伸之の戦後の荒廃した都会の物騒な世の中で、人間の愛と尊厳を貫いた女たちの生きざまを描いた作品に感銘を受けたからであろう。信平は憧れの東京にやって来て、ふと足を踏み入れた演劇の世界が、かくも感動的で喜びを感じさせるものとは、全く予想していなかった。当ても無く上京し、偶然、辿り着いて始めた演劇に、このように引き込まれようとは、自分でも信じられなかった。馴染みのない東京の片隅の街に、今は亡き、寺山修司の面影を求めて迷い込んだのが、そもそもの始まりだった。その迷い込んだ街での人との出会いによって、このように快適な居場所が見つかろうとは、まさに幸運といえた。それに比べ、東日本大震災で家族を失くしたり、自宅が倒壊したり、家財を流されたり、福島第一原発の被害に遭ったり、震災で職場を失ったりした人たちの不幸は、一向に改善される見込みがなかった。災害援助資金、災害公営住宅などの準備が急がれているのに、政府や地方の自治体は、どのようにすれば問題が解決して行くのか、戸惑うばかりで、実行力に乏しかった。自分が見捨てて来た故郷は今、一体、どうなっているのだろうか。信平は東京での生活に慣れて来ると、その故郷への思いが、次第に希薄になって行くのが怖かった。テレビで、その災害時の状況と現在の復興状況などを観ると、あの恐ろしい大震災で、家族や友を失った人たちのことなどを想像し、胸が痛んだ。だが故郷に帰ろうという気持ちなど怒らなかったかと心に問えば、それは嘘だった。帰りたいと思ったが一旦捨てた人たちの顔を見る勇気が無かった。そんな信平に比べ、下田次郎の故郷への思いは気軽だった。帰ろうと思えば何時でも、簡単に帰れる所であった。
「俺、今度の休みに静岡に行って来るよ。仲間にチケットを買ってもらわないと、ノルマ達成出来そうにないから」
そう言われて新入りの信平は自分にも10枚以上、チケットを買ってもらわなければならないというノルマがあることを想い出した。先日、渋谷で坂口美咲と野原香澄と喫茶店で話した時、チケットを買ってもらう約束をしたが、何枚、買ってもらえるか、まだ連絡が来ていない。公演が初めてでない五味克彦はチケット販売について余裕だった。
「俺は『十勝ラーメン』のお客さんの中に演劇フアンがいて、何枚も買ってもらえるので、自腹負担しなくても済むよ。信平君はさばけそうかな」
「ちょいと心配です。買ってくれそうな人がいますが、10枚なんて、東京に来たばかしの俺には無理です。1枚、2500円だから、自腹で買って、興味のありそうな人に、只で配ります」
「そうか。では売れ残った時、俺にまず教えてくれ。少し、協力出来るかもしれないから・・」
「申し訳ない。よろしくお願いします」
「任せておけ。そうだ。帰りに『鈴なり横丁』へ行こう。藤田さんの知り合い以外の人に買ってもらえるかもしれないから・・」
五味克彦の思いつきに、下田次郎も信平も『鈴なり横丁』に行く事に賛成した。三人は稽古を終えてから、パンフレットのコピーを数枚持って、『鈴なり横丁』に出かけた。そして、そこに飲みに来ていた客に、観劇のお願いをした。酒を飲みながら、チケットを買ってくれそうな人を探したが、ほとんどの人が東日本大震災がもたらした惨状を嘆き、話に乗ってくれなかった。信平は思った。自分は、こんな生き方をしていて良いのだろうか。あのひまわりの花が咲き誇っる明るい夏は、東北にもやって来るのだろうか。この先、自分が進む前途に、明るいひまわりの道は現れるであろうか。信平は不安な気持ちになり、酒をあおった。
* ひまわりの道②に続く




