第9話 読むだけの盤
【前ループの変更点】
・巻き戻りなし(観測データ保持)
・監視用に残された小石盤の溝を検査、送信系の遮断テストを実施
・多読録画の常設運用を開始(朝の宣誓台は簡略化して一基に統合)
・会所から宰席宛の代替送辞を雛型化(未処刑=完了を定型へ)
昼下がり、門外に残された小石盤は卓の上で冷えていた。刻印は村の石盤より浅く、裏の溝は細く、接続に使う銀片は薄い。読むには十分だが、燃やすには心許ない。置き手紙のような盤。
ダゲンが肩で軽く押す。「噛みつくか?」
「噛みつくのは視線だよ」
僕は水袋を少し垂らし、銀片の根元に滲ませた。銀は光を嫌う。導きの道が一瞬だけ細くなる。リオが筆記板に短く書く。
「監視盤、送信の痕跡なし。受信は微弱」
ナヘルは香炉を抱いたまま、距離を保って見ているだけだった。祈祷の所作は今日は不要だ。未処刑の朝は、感謝だけで足りる。
朝の三面舞台は片付け、宣誓台は会所前に一基だけ残した。多読録画は板ではなく、壁に貼った紙で運用する。文は短く、太い。
「本朝、儀式完了。未処刑」
読み上げる声は三人いればいい。今日は十人が同時に読んだ。声は揃っていなくても、揃わないことがかえって強い。観客はばらつきがあるほど、同じ方向へ寄りにくい。
夕刻、使いの女——綺——がひとりで戻った。杖は持たず、外套は軽い。門の影で立ち止まり、監視盤を指さす。
「触った?」
「読みやすくした」
綺は卓に近づき、爪で銀片の縁を軽く弾いた。小さな高い音。彼女の目が一瞬だけ細くなる。
「送られていない」
「送らない盤だと、最初からそう言えばよかったのに」
「言えば、別の乱し方を選んだでしょう」
綺は卓の縁に腰を当て、村のほうを見渡す。「未処刑の朝が続くなら、設計は宰席から外へ“移る”。外の設計者は多い。多いものは遅い」
「遅い設計は、読みやすい」
僕が言うと、綺は首を傾げる。「名が要る?」
「名は慰みだろ」
「慰みは、読む側にも必要」
彼女の声は乾いているのに、妙に人の温度に近い。綺という名は、刃物の音に似ている。
会所で長と短く段取りを合わせ、夜のうちに村の外へ出る準備をした。宰席のある丘の街道まで、歩いて三日。死に戻りなら半日、とリオは言ったが、今日は戻らない。戻らないで覚える。
出立は薄明。ミラは粉袋を二つに分け、一つに石を混ぜた。「重さの乱数は、外でも効く?」
「視線がある場所なら、だいたい効く」
ダゲンが肩に紐を掛ける。「俺は前を歩く。転び方は任せろ」
リオは筆記板を薄い布で包み、胸に抱えた。「宰席に届く言葉は、途中で増える。増えたぶんを数える必要がある」
村を出ると、道はすぐに網の目の一部になった。分岐には小さな祠と石柱。どの柱にも、粗い刻印の欠片。人が多い場所ほど刻印は磨耗し、少ない場所ほど深い。読む目の数で、文字の寿命が違う。
最初の分岐で足を止める。石柱に、見慣れた形が刻まれていた。×と→、それに□。村で使った記号の祖型だ。綺が後ろから来る足音に合わせて言う。
「分岐は“最初の名”を作る。宰席へ行く者と、戻る者を分ける。戻る者のほうが多い時期は、儀式は強くなる」
「戻る者は慰みを買う。名で」
綺は足先で砂を払う。「名を売る側は、名を必要としない。記号で足りる」
道の途中に小さな駐屯があり、屋根の下に曇った小石盤が二基、布で覆われていた。見張りは眠く、ダゲンが静かに咳をして目を逸らせた隙に、覆いを少し上げる。刻印は村のものよりさらに薄い。読むだけの盤。側面に刻まれた小さな文字が、光の加減で浮かぶ。
「閲覧専用」
リオが口の中で転がす。「読むための盤を、わざわざ国中に撒くのか」
綺が答える。「燃やす盤は少ない。高い。読む盤は多い。安い。多読録画の原型は、外の手順書だ」
丘は遠く、空は近い。道の両側に麦と雑草。道標に指を当てると、石は冷たく、指に細い砂の音が移る。記録は砂に似ている。踏めば固まる。触ればほどける。ほどけた分だけ次の足音が楽になる。
三つ目の分岐で、綺が立ち止まった。
「ここから先は、宰席の耳がいい。言葉は票になる」
ナヘルの言い回しだ。僕は頷き、声を低くした。リオは筆先を短くし、ダゲンは足音を一拍遅らせる。ミラは籠の重さを左右でわずかにずらした。
丘の麓に小さな関所があり、卓の上に分厚い帳面。番は読むだけ。来た者の名を書かせ、行き先を書かせる。名は慰み、そして歯車。
順番を待つ間、関所の壁に貼られた紙を読み込む。掲示は短い文の集まりで、語尾に小さな印が付いている。
丸は「完了」。×は「廃止」。// は「保留」。
村で使った記号が、そのまま関所の窓口に貼られている。
「記号は、外の言語だな」
僕が言うと、綺がわずかに笑う。「名の国で、名を使わずに決めるための」
番の前に出る。名を問われ、僕は短く答える。「ユウ」
「行き先」
「宰席」
番の筆が止まる。「審査か?」
「設計の報告」
綺が横から割って入る。「監視の更新」
番はそれで納得したらしい。三冊目の帳面を開き、閲覧専用の印のある列に僕たちの名を記す。閲覧専用は読むだけ。燃やす権限はない。読む者が増えれば、火は痩せる。ここでは、その理屈が最初から手順になっている。
丘を登る。宰席は城ではない。広場と、卓と、台座。台座の上に、もっとも分厚い盤が一基。盤の周囲に、静かな人影。袖に印、胸に小さな記号。名はどれも短い。名ではなく、機能で呼び合う空気。
台座の前で止まり、綺が軽く頭を下げる。彼女の背後には、村で見た監視盤と同じ型がいくつも積まれている。読むだけの盤は山になる。燃やす盤は台座に一つ。
僕は台座の縁を見上げ、息を整えた。
「報告。未処刑の朝、三度。記録済み。送辞は“儀式完了=未処刑”。会所印」
台座の上の影は反応しない。代わりに、周囲の読む者たちが筆を動かす。読む速度が速い。紙の重みが空気に移り、盤の上の光がわずかに揺れる。
リオが一歩前に出て、文を差し出す。
「多読録画の手順書。観客三十以上、同文、同時読み。付記、“最初の名”に寄らない」
読む者たちの筆がまた走る。誰かが小さく咳払いし、別の誰かが指を一本上げる。指は合図。ここでも指は票になる。票は火ではなく、文の重りになる。
静けさの中、台座の上の影がやっと唇を動かした。声は薄く、乾いた紙の音に似ている。
「停止手続き、継続。閲覧専用の盤を、村に二基追加。燃やす盤は保持」
綺がその言葉を拾い、短く要約する。「読む盤、増やす。火の盤、残す」
僕は頷く。「読み手が増えれば、火は痩せる」
影は続けた。「代替送辞は、暫定で受理。文言の末尾に“暫”を付けよ」
リオが筆を止めずにうなずく。「暫は、仮の印。仮のほうが、動く」
僕は影にもう一歩近づいた。「名は?」
影は答えない。綺が肩で小さく笑う。「名は、慰み」
僕は引き下がり、台座の縁から視線を広場へ落とした。読む者の数。筆の音。紙の擦れる小さな風。村の朝より火は痩せ、夜より目は濃い。
丘を降りる途中、ミラが籠を抱え直して言った。
「台所みたいだった」
「どういう意味」
「味見する人が多いほど、焦がさない」
彼女の比喩は、いつも温度を正確に運ぶ。ダゲンが笑い、肩を回した。「俺は腹が減った」
帰りの分岐で、関所の掲示が一枚増えていた。紙の端に、丸でも×でもない小さな印。ひし形。下に短い文。
「未処刑、暫」
リオがその形を写し取り、筆先で指を濡らす。「新しい印は、すぐ増える」
増えるなら、早く慣らす。村に戻るまでに、会所の壁の文を「暫」つきに改稿する必要がある。
夕闇が砂の上に降り、門の影が長く伸びる。監視盤は卓の上、静かに光っていた。送らない光。読むだけの光。僕は縁に指を置き、村の石盤の下に耳を澄ました。木は乾き、灰は固い。溝の音は細いまま。
長が会所から出てきた。「返書。閲覧専用、二基追加。暫の記」
「壁の文を直す」
リオが答え、紙を剥がし始める。ミラは粉袋を軽く叩き、重さを戻した。ダゲンは門に寄りかかり、空を見た。
綺は卓の横で立ち止まり、監視盤に触れた。「読む」
「読んだら?」
「帰る」
「また来る?」
「読むために」
彼女の真顔には冗談の影がほんの少しだけ乗っている。必要に応じて、巧妙で素早いユーモアは火を痩せさせる。僕は目でだけ笑った。
胸の煤は四粒のまま。視界の端の暗さも変わらない。だが、未処刑は村の習慣になり、宰席の紙にも印がついた。暫でも、印は印だ。印は、道だ。
夜風が石盤の縁を冷やし、鐘楼は鳴らない。誰も燃えない夜は、音が少ない。少ない音は、手の震えを教える。震えは釘を深くする。
【次回の実験】
・会所壁面の文を「暫」対応に改稿し、多読録画の常設手順へ組み込み
・追加された閲覧専用盤二基の設置位置を最適化(視線の分散を最大化)
・村の石盤裏に暫の刻印を仮設で追加し、送辞と刻印の一致を検証——未処刑=完了=暫を、外と内で同時に固定する。




