第3話 誘導は誰の手か
【前ループの変更点】
・投票台の裏板を夜のうちに外し、内部の刻印を写し取る(薄紙に炭でこすり出し)
・旅の書記リオの筆記板の裏を一瞬だけ拝借、貼り札の有無を確認
・“最初の名”を意図的に作るため、開票直前に人混みの中で囁きの同時多発を準備
夜明け前の村は、言葉の水位が低い。靴裏の音と、犬の寝返りだけが聞こえる。僕は投票台の横に膝をついて、指先で裏板の釘を探った。荷車から抜いた一本が、意外なほど役に立つ。釘の頭は錆びていたが、木は乾いていて、音を殺せば外れる。
裏板は薄く、内側に灰の匂いがこびりついている。懐から薄紙を出し、こすり出しで内部の模様を写す。浮き出たのは、円と線と記号。中心の円から、村の各家に対応する方向へ細い溝が伸び、その途中に**×の印**がいくつも打たれていた。昨日、リオの紙の端に見た記号と、同じ形。
(ここで“票の線”を初期化している)
円の縁には、古い文字が刻まれている。読める単語と読めない単語が混ざるが、要はこう書いてある——「最初に呼ばれた名に、神意を寄せる」。
最初の名。やはり起点は“最初の声”なのだ。誰かが最初に口に出した名へ、石盤は重みを偏らせる。多数決は正しい、という文句に隠して、最初の偏りで正しさを作っている。
裏板を戻し、釘を押し込んだ。痕跡は残りにくい。胸の煤は三粒のまま。息はまだ荒くない。
次はリオ。彼はいつも夜明け前に広場の隅にいる。書記は寝坊しない。
焚き火の灰に温度が戻る頃、彼の影が伸びた。僕はわざと火の向こう側から回り込み、挨拶の手を上げる。
「昨日の“×”、何に付けた?」
リオは顔を上げない。
「誤字の跡です」
「紙の端に、わざわざ?」
「端だからこそ、です」
彼は相変わらず筆を走らせている。筆記板の裏が気になる。固定具は革紐一本。紐が緩む瞬間は、ページをめくる時——。
僕が落とした小枝の音に、彼の視線がちらりと逸れた。その一拍で、筆記板の裏に指を滑り込ませ、貼り札の感触を得た。薄い紙が二枚。爪で角を少しだけ起こす。印がある。×と、さらに小さな→。
リオが顔を上げ、僕を見た。静かな目だ。怒りはない。
「読む人のいない記録は、紙の浪費です」
「読む人は、村の外にいるんだろう?」
「村の外だけにいるとは限りません」
沈黙が火の上で跳ねた。**沈黙が、彼の合図なのだ。**口を開けば何かが壊れると知っている人間の沈黙は、話すよりも雄弁だ。
僕は引き下がり、広場の外縁を回った。噂好きの二人組の家の前で、軽く戸を叩く。眠り気味の返事。
「井戸のロープが切れかけている。朝の前に、誰かが落ちるかもしれない」
嘘ではない。ロープは摩耗している。けれど、意図は別にある。心配は名を呼ぶ。心配は最初の名を作る。
その足で粉屋へ走り、ミラに小麦の配分の相談をふって、特定の名前を口にした。
「グレンの家、昨日の昼に子どもが遊びに来てたろ。朝のパンが足りないって」
ミラは目を丸くしたが、頷く。
最後に、広場の入り口で、狩人ダゲンにわざとぶつかる。
「朝の見張りは鍛冶屋の屋根で頼む。煙の向きが変わる」
「誰に頼まれてんだ?」
「俺」
彼は笑って肩をすくめ、屋根へ上がる。定位置を奪えた。
準備は整った。**同時多発の“最初の名”**を用意した。村の三箇所で、それぞれ別の名前が朝の直前に囁かれる。井戸の前で、粉屋で、屋根の上で。石盤がどれに寄るかを試す。
鐘が一つ。
人の流れが砂の上の濃淡をさらに濃くする。
鐘が二つ。
ナヘルの口上がわずかに遅れ、咳が一つ多い。僕も一つ咳を合わせる。
鐘が——三つ。
名を刻む音が、乾いた雨のように広がる。
石盤が光らせた名は、パン屋の隣家の老女だった。僕の用意した三つの名前の、どれでもない。だが、老女の名は井戸の前で最初に囁かれたはずだ。僕は目を細める。広場の端、井戸のほうで噂好きの二人組が互いに顔を見合わせ、わずかに首を傾けた。順番がずれている。僕が夜に入れ替えたはずの並びが、朝には戻っている?
そして、リオ。筆は止まらない。彼の筆記板の端で、薄い紙がわずかに剥がれて、風に揺れた。×と→。矢印は、老女の家の方角を示していた。
長サウラの目配せは、確かにリオの視線の後を追っている。視線の矢印が**“最初に呼ばれるべき名”を決め、石盤の下の×**が対応する溝に“神意”を流し込む。
つまり——最初の名は自生していない。設計されている。
光は弱い。今日も票差は僅かだった。神火は老女の足首を舐め、ためらうように筋を上に伸ばす。僕は前へ出た。
「待って!」
長が顔をしかめる。ナヘルが眉間に皺を寄せる。
「言葉は票になる」
「票は言葉でできてる!」
僕は叫び、井戸のロープを掲げた。いつの間にか、一部を切り取り懐に入れていた。摩耗ではなく、刃物の跡。
「昨夜の井戸のロープ、切られてた。老女の家は井戸の隣。誰が落ちたと囁けば、**“最初の名”**は老女になる」
沈黙が波のようにたゆたう。
長は何も言わない。ナヘルは香の煙を濃くする。リオは筆を止めない。ダゲンは屋根の上で肩を鳴らす。
神火はなおも進む。これは裁判ではなく、装置の実行だ。正しさは最初に置かれ、あとは滑り台。
(止まらないなら、滑り台の角度を変える)
僕は老女の前に一歩進み、自分の名を石盤に重ねて刻んだ。一瞬のざわめき。石盤の光が二つの名の間で揺らぎ、火が左右にぶれた。
痛みは来なかった。火は迷い、弱火のまま、上りきれない。
白い閃光も来ない。巻き戻りの条件は、“処刑者が確定する瞬間”。確定しなければ、今はまだ続く。
ナヘルが苛立ちを隠さずに香をくべ、定型句を無理やり繰り返した。
「多数決は正——」
彼の言葉を遮るように、屋根の上からダゲンが笑った。
「見ろよ、火が腹ぺこだ」
長が顎を上げ、リオがその言葉を紙に取る。紙の端に、**×**が一つ増えた。
その瞬間、火が老女の名に寄った。僕の重ね刻みは、**“最初の名”**の効力には勝てない。
炎が上る。僕は奥歯を噛みしめ、何が足りなかったかを刻む。最初の名を同時多発させたつもりが、矢印の指示に負けた。指示元を潰すしかない。
白い閃光。夜。
胸の煤は四粒。視界の隅が微かに暗い。それでも、線は見える。
投票台の裏の**×印を消す。初期化を止める。
リオの筆記板の貼り札を剥がす。矢印を無効化する。
長の目配せを受け取る受信機**を壊す。受信機——それは言葉でも、紙でも、祈祷の所作でもいい。
僕は薄紙に写した刻印の上、×の位置に小さな印を付けた。石盤の裏の**×に対応する場所へ、細い釘を打ち、灰を詰める。溝の通り道を詰まらせる。
リオのほうは、正面からは無理だ。代わりに、沈黙を壊す。沈黙が合図なら、意図的な雑音でノイズを上げる。
鐘の二つ目と三つ目の間に、三人に別々の話題を与えて同時に喋らせる**。粉の価格、井戸の修繕、羊の足跡。どれも投票に関係がありそうで、実際には関係がない。矢印が迷う。
ミラに目をやる。彼女は僕の顔色を見て、袋詰めの手を止めた。
「何か、するの?」
「実験だ。誰も燃えない朝に、手を伸ばす」
彼女は唇を噛んでから、小さく頷いた。
「パン、余分に焼いておく」
「どうして」
「誰も燃えない朝には、きっとたくさん食べるから」
胸の煤が、わずかに軽くなった気がした。錯覚でもいい。錯覚は、ときどき真実より強い。
【次回の実験】石盤裏の**×対応溝を灰で詰める/鐘二つ目と三つ目の間に雑音三重奏を投入/リオの貼り札を剥がす機会を作る——“最初の名”の支配を無効化**する。




