第2話 三つの差異に賭ける
【前ループの変更点】
・粉屋の配給列を一人分だけ入れ替える(噂の伝播順を遅延)
・祈祷師の口上に割り込む合図(鐘二つ目で咳→定型句を崩す)
・狩人ダゲンの定位置を荷車で塞ぐ(視線誘導の起点を遮断)
夜は静かで、僕の胸の煤は二粒。舌の上で砂を転がすみたいな焦りを、段取りに押し込む。
まず粉屋。店先の石段にわざと小袋を落とし、粉を少しだけこぼす。ミラがあわてて布を持ってくる。その間に、噂好きの女衆——いつも朝いちばんに「昨夜の物音」を話す二人組——の並び順を一人分だけ変えた。大したことではない。ただ、誰に最初に囁くかが一歩ずれる。
祈祷師ナヘルの家の前では、鐘の試し打ちに合わせて、自分の咳のタイミングを覚えこむ。二つ目で一度、三つ目では息を止める。口上「神火は嘘を焼く」の出だしを崩せれば、合図待ちの人々の迷いが長くなる。
最後に広場。ダゲンがいつも立つ物見台の下に、荷車を押しこんでおく。ほんのわずか視点が低くなれば、彼の目配せを拾う目が減る。
準備は夜のうちに終えた。月が雲に隠れ、村の犬が二度だけ吠えた。
朝。
鐘が一つ。
列ができ、粉屋の前でミラが笑う。彼女の袖口に歯型はない。噂の二人組は、順番が逆転し、囁きは一拍遅れる。
鐘が二つ。
僕は広場の端で咳をした。ナヘルが口を開きかけ、僅かに眉根を寄せ、香の煙が乱れる。定型句が半拍ずれ、迷いが広場に広がった。
鐘が——三つ。
名を刻む音が、石を爪でひっかくみたいに続いた。
僕は列の最後尾で、目を凝らす。長サウラの眼は、今回は僕を素通りし、粉屋のほうにも止まらない。物見台の下、荷車が影を作り、ダゲンは少し苛立って場所を変える。ナヘルは咳払いを一度多く入れ、旅の書記リオは筆を止めない。
薄く光った名は——鍛冶屋グレン。
ミラの名ではない。僕の名でもない。
票差は小さい。石盤の光は弱く、神火はささやくような熱で鍛冶屋の足首を撫でた。炎は確かに伸びたが、ゆっくりだった。僕の仮説どおり、票差と炎の強度は相関する。僅差なら、弱火。
(いける。介入は効く)
けれど、弱火でも火は火だ。グレンの顔に浮いた困惑は、やがて諦めに変わった。誰も止めない。止められない。多数決は正しい。神火は嘘を焼く。遅れて、定型句が追いついてくる。
僕は見届ける。長の口角は、今日は上がらない。ナヘルの指は、昨日より震えている。ダゲンは肩を鳴らし、荷車を鬱陶しそうに蹴った。リオの筆だけが一定の速度で走り、一度だけ、紙の端に“×”をつけるのが見えた。
“×”。何に対しての否か。誰に見せる記号か。
炎が膝へ、胸へ。決定の瞬間が訪れ、世界が糸を巻き戻しはじめる。
白い閃光——夜。
胸の煤は三粒になっていた。勝算が増えた分だけ、寿命は削れる。だが、観察の収穫は十分だ。
粉の噂は遅延できる。
祈祷師の定型句は崩れる。
狩人の視線は止められる。
それでも、長の“目配せ”は別の場所へ滑り、票は集まる。彼は単独で誘導していない。長の目は、必ずリオの筆と同じ方向に折れる。口ではなく、記録で合図するやり方がある?
もう一度、紙の端の“×”を思い出す。あれは票の流れの分岐記号だ。誰かに向けた隠し符丁。村の外にいる読む人にむけて——いや、読む人から来る指示に合わせて。
井戸のロープ、粉の裂け目、石盤へ続く砂の濃淡。すべてが細い線になって、広場の中心で束ねられている。それは投票台の裏へ潜り、さらに地下へ沈む。この儀式は、上からでも横からでもなく、下から動いている。
僕は息を吐き、次の段取りを書いた。
ミラを守れた。だが犠牲は出た。誰も燃えない朝を作るためには、票の誘導線を切るだけでは足りない。線の源を見つけて折る。
手始めに、投票台の裏——夜明け前の闇の時間、封印の綻びを探る。リオの持つ筆記板の裏にも、何かが貼られているはずだ。長の視線が届く「最初の名」を産む場所が、どこかにある。
夜が更け、犬が一度だけ吠えた。僕は荷車の車輪から釘を一本抜き取り、布に包んで懐にしまった。火を消すには、水だけが武器じゃない。
【次回の実験】投票台の裏を開ける/書記リオの筆記板の裏を確認/“最初に声に出る名”の発生源を特定——誘導ではなく初期化を止める。




