第一章 舞踏会の夜
ラルカン帝国の宮廷は、春の訪れとともに華やかさを増していた。
桜の花びらが風に舞い、大理石の回廊を彩る。
その中でも特に注目を集めていたのは、三月十五日に行われる『春の舞踏会』だった。
その舞踏会は皇太子ケイディ・ハイト・ラルクアンの十八歳の誕生日を祝うものであり、同時に皇太子の婚約者選びの場でもあった。
「ミキアドール・アビス・ブラックローズ、入場──」
宮廷司会官の声が響くと、会場の視線が一斉に入口へと注がれる。
黒い絹のドレスに身を包んだ少女が、静かに歩を進めた。
その美しさはまるで夜に浮かぶ月のようで。
しかし、人々の視線には畏怖と警戒が混じっている。
「またあの令嬢が……」
物語に出てくるような『悪役令嬢』として知られる、ミキアドール・アビス・ブラックローズ。
彼女の家は嘗て権力を握っていたが、皇太子の父である皇帝の改革によって没落した。
それ以来、ミキアドールは皇太子に復讐を誓い、悪行を重ねている。
だが、それは全て彼女の前世の記憶によるものだった。
ミキアドールは嘗ての世界でこの物語を知っていた。
ライトノベル『皇太子の花嫁』。
そこでは、ミキアドールは傲慢で残忍な令嬢として描かれ、皇太子に拒絶され、民衆に石を投げられ、最終的に牢獄で自害する──という悲劇の悪役だった。
しかし、今世のミキアドールはその運命を変えると決めていた。
「……皇太子殿下のお見えです」
会場のざわめきが止み、全ての視線が中央の階段へと集まる。
そこに現れたのは、白銀の礼服に身を包んだ青年だった。
金糸を織り交ぜたような金色の髪。
琥珀色の瞳は、どこか遠くを見つめるように澄んでいて。
その美しさは、まるで神話に登場する天使のようだった。
そして、彼が口を開いた瞬間──
「皆様、本日は私の誕生日にご参集いただき、誠にありがとうございます」
その声が会場を包み込む。
美しい。
あまりにも美しい。
まるで春の風が森を通り抜けるように、あるいは夜の星が歌うような──美声。
ミキアドールの心臓が、強く鼓動した瞬間でもあった。
「……そんな筈がない」
彼女は皇太子を憎む筈だった。
復讐の道具として、敵として、そして物語の『悪役』として。
なのに何故──?
その歌声のような声を聞いた瞬間、彼女の胸の奥に熱いものが広がる。
「……ケイディ……殿下……」
彼の名を初めて心から呼んだ。