幸せの羽
幸せの鳥。
その羽を手に入れたものはたった一つ願いが叶うという。
だけれど、その鳥は世界の果ての雲の上に住んでいる。
たまに地上付近を飛びまわるけれど、人の遥か上を舞い捉まえることは……
出来ない。
そう、彼等と同じような翼を手にしていなければ。
赤く焼け爛れ、焦げたような悪臭さえ漂う翼。それは僕の背中に存在する。つい数日前までは輝くばかりの白い羽毛に覆われてたというのに、今は見る影も無い。見る人が思わず顔を顰めてしまう醜悪さ。けれど、それに反して痛みは全くといっていいほど感じなかった。
痛覚があまりの酷さに麻痺してしまったのか、僕のあの人への思いが痛みを打ち消しているのか、確かなことは分からない。
「酷い、傷だな」
唸るような低い声で君は僕のすぐ隣に腰掛けたまま呟く。
暗い暗い草原の真っ只中、焚き火をしている灯りだけが微かに辺りを照らし出していた。見えるものは何も無い。月も出ていなければ空に満遍無く散りばめられているはずの星さえも姿を隠している。
そんな中、君はじっと僕の翼を見据えるばかり。
「うーん、そう、かな?」
少し沈黙が流れた後に、曖昧に言葉を濁し答える。何て答えていいか分からなかった。取り敢えず、君の気分を損ねたくないから笑顔は添えたけど。
パチパチと焚き火から木の弾ける音がして、暖かい橙色の灯りは静かに僕らだけを映し出している。
黒いこざっぱりとした髪に、藍色の目。無精髭を片手で擦りながら困惑したような表情を浮かべる君の背中には翼が無い。
人間だから。
僕とは違う生き物。
それなのに、ついさっき出会ったばかりなのに、君は親切に僕の傷の手当てを始めた。焼けて水膨れが出来た手に真っ白い包帯を巻いてくれたり、擦り切れた頬に沁みる薬を塗ってくれたり。そして最後に、僕の背中の焼け爛れた翼に気がついた。
暗がりでは赤黒く染まった翼なんか闇に溶けてしまって気づかないだろうと思ってた僕は少し面食らったけど。
「そうかなって痛覚ないのかよ?」
「無い、かもね」
困り顔を通り越して呆れ顔を浮かべる君に、僕は遠くを見やりふざけた答えを返す。形のいい眉を寄せて強く頭を掻く君を目の端で捕らえて、僕は思わず頬を緩ませる。こんな風に誤魔化すような受け答えしかしない僕に、真剣に向き合ってくれる君の優しさが嬉しくて。
「――お前っ! 何笑ってるんだ!」
「いや、何でもないよ。手当てありがとう。とっても助かった。じゃあ、僕はそろそろ行くよ」
僕の様子に憤慨する君が妙におかしくて更に頬が緩む。何か悪い気がして口元を押さえながらお礼を述べてその場から腰を浮かした。
一瞬驚いたような表情を浮かべ、君はすぐ、僕の後を追うように立ち上がる。そして引き止めようとするかのように僕の腕へ手を伸ばした。
ふわり……。
僕は重く垂れ下がった翼を無理やり翻し君の腕から逃れる。
多分君は、僕の翼の手当てでもするつもりだったんだろう。けど、もう使えない翼の手当てに時間を割いている余裕なんて僕には存在しない。
一分一秒でも早く、僕はあの人との約束を果たしたいんだ。
「――お前っ! 翼がそんなに状態で手当てもしないで何処へ行こうっていうんだ?」
「……僕には……少しでも早く行かなくちゃいけない場所があるんだ」
「だから、その場所ってんのは何処なんだ?」
少し距離を置いて君からの質問に答える。すると苛立った口調で君は再度問いただしてくるから、教えていいものか迷って変な顔をしてしまった。だって、あの人との約束は僕とあの人とだけの秘密。けど、真っ直ぐな君の瞳に押し負けて、口は勝手に動く。
「……幸せの鳥の羽を、取りに行くんだ」
そう、あの人との約束を口にした僕の肩をいきなり君は掴んだ。
凄い剣幕で。
びっくりして避けることなんか出来なかった。
「お前っ! 幸せの鳥なんて捕まえられるわけないだろう? アレは童話の中だけの世界なんだっ!」
「……違うよ。居るんだ、絶対」
眉を吊り上げて声を荒げる君に、僕は微笑を浮かべて静かに言った。君の勢いはそこで萎む。
「やっぱり君は人間なんだね。人間は見えないと信じられない生き物なんでしょう? 僕たちの存在も、昔は否定されていた。だけど、雲の上まで君たちは来て、僕等を見つけてその存在を肯定せざる終えなくなった。なのにまだ、見てもいないことを否定するんだね」
君は視線を僕から外した。でも僕は淡々と言葉を続ける。俯いた顔、ゆっくり離れる手。何だかそんな君の姿を見ていると胸の奥がチクチクと痛む。折角親切にしてくれたのに、ね。
でも、信じてることを否定されるのはとても悲しいから。
「僕は……君達と違う。信じてるんだ。だから、探しに行くんだよ。それじゃあ……」
そう言って僕は君に背を向けた。
「……待てよ」
一呼吸置いて歩き出そうとした瞬間、君の声が僕の動きを止める。ゆっくりと振り向いた。何で引き止められたか分からなかったから。
君はただ真剣な表情で僕を見ていた。緊張して息を飲み込む。喉を通る感覚が分かった。
「……もし、もしだけどよ」
君はゆっくり口を開いてそう切り出す。
「目的の場所に本当に辿り着けたとして、鳥を見つけられたとして、あの鳥は地面を飛ばない。遠い空の彼方が好きなんだ。だから……」
「だから?」
藍色の真っ直ぐな瞳から目が話せなくて僕は小さく先を促がしていた。
急に暖かい感触が頭の上に乗る。
「大人しく翼の治療されろっ!」
そのままぐっと押されて無理やりその場に座らされた。あまりに予想外で唐突過ぎて僕は座り込んだまま君を見上げた。笑うでもなく、むしろ口をへの字に曲げて仏頂面の君。
「なんだ? 沁みるから消毒は嫌だとかいうんじゃねぇぞ?」
その顔が僕の表情を見て浮かんだものだと、出てきた言葉で分かる。思わず僕は頬を緩めた。
「違うよ。だったら、他の傷の手当の時にもっと嫌がってる。そうじゃない、そうじゃないんだ……」
「だったら、何だってんだよ?」
首を振って君の言葉を否定する僕に、君はますます怪訝そうな表情を浮かべる。手がカタカタと震えていた。僕は……怖い。口にすることが。でも、君はいつまでも黙って、僕が喋りだすのを待っていた。
「この翼……治る、かな? もう一度、この翼で飛ぶことなんて、できるのかな」
沈黙に耐えられなくなって俯いて、か細い声で呟く。震えが体全体に広がった。
「馬鹿か、お前」
君の呆れた声が頭上から降ってくる。強く拳を握った。目頭が熱くなる。視界がぼやけ始めていた。
「何で幻の鳥は信じられて、自分の怪我が治ることは信じらんねぇんだ? お前達は、お前は、見えないもん信じられんだろ? ならなんで、見えない未来を疑うんだ? 信じねぇんだ? 治るって……信じろよ」
スッと気持ちが軽くなった。君の言葉は熱くなった僕の中に滲みて、やんわりと包み込む。恐怖は何処かへ行ってしまった。
「それにな! 人間様の知力と命への執着心を甘く見るんじゃねぇぞ? お前達天使は人間を欲深い生き物だと言う。死の先の楽園を見たこともないのに信じようとせず、生にしがみ付く、愚かしい生き物だと。でもな、そのおかげで医学が生まれ発達したのさ。オレの持ってる薬でも、お前の翼は大部よくなると思うぜ?」
長々と遠まわしに君は僕を励ました、のだと思う。心の中が温かくなって、自然と笑みが零れた。
君は僕の横に腰掛け、鞄の中から瓶を取り出す。そして、僕に翼を向けるよう手で指示して、瓶の中身を優しく労るように翼へ塗り始めた。痛覚も感じなかった翼に、大きな手の温もりを感じた気がした。
僕は一度目を閉じて、そしてそれから真っ暗な空を見上げて思う。あの人のことを。
一度は駄目かと諦めかけてしまった貴方との約束、果たせそうです。
僕はとてもいい人と出会いましたから。
いつかきっと
羽を持って帰ります。