4.地蔵盆祭りの終わり
さて、地蔵盆3日目の今日は、最終日だ。
ラストイベントは、盆踊りならぬフォークダンス。
テントは明日片付けられる。
夕方になり、遊び道具はそれぞれの持ち主が持って帰った。ござは丸められ、倉庫の隅っこに立てかけてあった。
フォークダンスが始まるまで、ぼくらは倉庫の壁際に咲いている朝顔を眺めてしりとりをしていた。
6時半になって、やっとうちのお母ちゃんが、家から持ち運びできる小型のレコードプレイヤーを持ってきた。
今年もオクラホマミキサーのレコードがかけられた。
みんなでぐるぐる、ぐるぐる踊る。
小さい頃は楽しかったけど、最近はあまりおもしろいと思わない。
5周もしたらあきてしまった。
ぼくがあきたそのタイミングで、レコードの音が飛びはじめた。レコードプレイヤーの調子が悪くなったんだ。
お父ちゃんがごちょごちょいじくっても良くならない。本格的に壊れたんだ。
そこでフォークダンスはおしまい。
今年の地蔵盆も、終わったんだ。
あのわけのわからんラジオ放送の内容は、その日の夜にわかった。
テレビで同じ放送を流していたのである。
「あーッ! これや、この音や」
夏によくやる終戦特集という番組だ。
第二次世界大戦の終わり、日本では1945年8月15日にラジオで放送されたという、昭和天皇が詔書を読み上げた放送の一部だ。テレビの音はラジオで聞いたものよりマシだったが、解説されなければなんのことやらわからないのは同じだった。
お父ちゃんがビールを飲みながら「なんのこっちゃ、わからんやろ」と笑った。
「これは玉音放送いうてな、終戦の日に、天皇陛下が、これで戦争は終わったって、発表しゃはったんや。じっさいに放送されたのは録音されたレコードの音声やったんやけどな」
「お父ちゃんもお母ちゃんも、ほんものの放送を聞いたんか?」
「そやね、なんやラジオの前にみんなであつまってなあ。なんや、さっぱりわからんかったけど、これで戦争が終わりやって」
そこからお母ちゃんの話がはじまった。
戦争が終わった頃、お母ちゃんは小学一年生。小学校へいったら教科書のあちこちを墨で塗りつぶされて、教科書はほとんど真っ黒けになって読めなかったとか。
食べ物が少なくて、普通のパンなんか買えなかった。でも、お母さんのお母さんはジャガイモをつぶしてパンを作ったとか。どんな味のパンなんだろ?
ポテトチップスみたいなお菓子なんか無かった。漫画の本も買えなかった。
お母さんは赤銅鈴之助のラジオ放送が大好きだったとか。『君の名は』ていうラジオドラマが大ヒットしたとか。
「せやけどなあ、大阪の方は空襲でたいへんやったらしいで。大勢の人が亡くならはって、子どももぎょうさん死んだんやて」
そんな話を寝るまでたくさん聞かされた。
翌日は雨が降った。
地蔵盆祭りは終わったし、倉庫だからぬれて困るような問題はない。
ぼくらはテントの後片付けを手伝った。
ポールを運んだり、みんなでテントをたたんだりするのはけっこう面白い。
ふるいラジオはまだそこにあった。
「お父ちゃん、これ、どうすんのや?」
「なんや、またえらく古いもんを引っ張り出してきたなあ。これはもともと大阪の親戚がな、空襲で焼け残ったのをお金にかえてほしいて持って来よったんや。戦前のもんやから、作られてから50年以上は経ってるんとちゃうかなあ」
「でも、昨日まで音が出てたで」
「はあ? そんなわけないやろ。ほら」
お父ちゃんはラジオの後ろ側をパカッと開けた。
中は空っぽ。
ここにあったのは入れ物だけ。ぼくらが見つけた最初から、そうだったのだ。
「この真空管ラジオはな、お父ちゃんが子どもの頃に壊れたんで、中身だけ、古道具屋に売っぱらったんや」
「なんで中身だけ?」
お父ちゃんが言うには、当時は真空管や部品に使われている銅が良い値段で売れたという。それにお父ちゃんは機械いじりが好きだったので、中身だけ中古で買い換えたら安くで直せると思ったらしい。
ところが、戦後はラジオも進化して、こういう昔ふうの真空管ラジオは本当に古いものになり、テレビが発売されたら、みんなが欲しいのはラジオよりテレビになった。
うちのおじいちゃんもテレビを買った。当時は白黒だ。カラーテレビに買い換えたのはぼくが生まれる少し前。
ラジオは、お父ちゃんが最近になって最新型の小型ラジカセを買った。お父ちゃんはよく演歌のカセットを聞いている。
たたまれたテントは町内会の保管場所へ仕舞われた。
お父ちゃんは幼馴染みのおっちゃんたちと飲みに行った。きっちゃんとタムやんのお父さんである。3人は幼馴染みだ。
あの中身の無いラジオは、いつの間にかなくなっていた。
おそらくテントを片付けた際に出たゴミと一緒にお父ちゃんが処分したのだろう。
今年の地蔵盆から始まった夏のイベントは、町内会の日帰り温泉旅行が終わって、つつがなく幕を閉じた。
つぎは溜まっていた夏休みの宿題を大急ぎで片付けなければいけない。
ぼくは我が家でいちばん風通しのいい仏壇のある部屋の、大きな1枚板の卓で麦茶を横に置きながら宿題にはげんだ。
算数の計算に疲れてバタッと寝っ転がったら、天井の近くがよく見えた。
「あ、おばあちゃんの写真や!」
壁に黒い額縁の写真が5枚飾ってあって、その1枚がおばあちゃんの写真だった。今日までしっかり見たことがなかったので気がつかなかったのだ。おばあちゃんの右横には若い男の人の写真があった。
ぼくの前で残りの宿題の量を数えていたお父ちゃんが、眉間に皺を寄せたまま、写真を見上げた。
「あれは遺影っちゅうんや。大ばあさんいうてな、おまえのひいおばあちゃんにあたる人の写真やで」
「毎年、地蔵盆で会うてるで」
「はは、なにいうてんねん。大ばあさんはお前が生まれる前に亡くなったんやで?」
お父ちゃんと話が噛み合っていない気がしたが、遺影の写真がとても気になったぼくは質問をつづけた。
「その隣の若いおにいちゃんは誰なん?」
「わしのお父ちゃんのお兄さんや。お前の大叔父さんやな。戦争へ行かはったんや」
「その人とは会うたことないけど、話はおばあちゃんから聞いた。戦争から帰って来いひんかった人やって」
「そうや。よう知っとるな。わしは話しとらんかったと思うが、誰から聞いたんや?」
「だから、そのおばあちゃんや!」
「はは、あれは亡くなった人の写真やがな。そういや、もうすぐ大ばあさんの13回忌やわ。忘れとった!」
お父ちゃんが仏壇の引き出しを開けてガサゴソし出した。
「あかん、メモも何もあらへん。それで、近所のどこのおばあちゃんが話をしてくれたんや? 戦争の話はなあ、しっかり聞いとかなあかんで。なんせ知ってる年寄りがどんどん少のなってるからな。あの戦争にいかはった叔父さんはな、けっきょく遺骨も遺品も戻ってこんかったんや。亡くなった知らせは電報1枚やった。大ばあさんはそりゃあ、泣いてな。ここらは空襲はなかったけど、そんな人もけっこうおったんやで」
そこへちょうどお母ちゃんが、切ったスイカの盆を持ってきた。
「なんやの、空襲の話? 法事の話?」
お母ちゃんは朝顔模様の夏のワンピースを着ていた。自分で街の布屋さんで買ってきた布をミシンで縫って作ったやつだ。
「大ばあさんの話や!」
お父ちゃんはスイカにかぶりついた。
「ああ、大ばあさんはな、ほんまに立派なお人やった。あんな人はめったにやあらへんわ」
お母ちゃんがスイカのお皿をぼくの前にも置いてくれたので、ぼくは算数の宿題をいったん卓の下へ避難させた。
「そやなあ、ひ孫の顔を見るまでがんばらんと、って言うんが、死ぬ前の年からの口癖やったけどなあ。お前が生まれる半年前にポックリ逝かはったんや。あれがほんまの大往生っちゅうんやろなー」
お父ちゃんは遺影を見上げながら、しみじみと語った。
お母ちゃんはスイカ用スプーンで種をほじくりだしていた。
「そういうたら、去年はうちのおじいちゃんの三回忌やったやろ。今年はほかにも年回忌の人がおるっちゅう話を聞いたんやったわ。誰やったかいな。わからへんから、もっかい、お寺さんに聞きにいかんとあかへんわ」
お母ちゃんはスイカ模様の布でも同じ型のワンピースを手作りした。
婦人服の雑誌の付録には大人用と子供用の服の型紙が付いていて、それを使って作ったんだ。去年より太ったから買ってきた布がぎりぎり足りたわ、とかいってたけど。
お母ちゃんのワンピースを作ったあとの端布はほんの切れっ端だった。
それなのに、大人もう1人と子ども何人分もの服を作れるほどの大量の布地はどこにあったんだろう。
ふと、ぼくの頭に、おばあちゃんがスイカ模様の端布を手にしている姿が浮かんだ。
まるでカラー写真のように鮮明な光景だ。
おばあちゃんは両手で端布を持って、えい、えい、と何度も振った。
すると端布はどんどん広がって、ふとんを2枚並べたよりも、テント屋根の布よりも、もっともっと大きくなった。
おばあちゃんはそうしてできた布へ子ども服用の型紙を当て、お母ちゃんがいつも使っている裁縫用の大きな裁ちばさみでどんどん切り分けた。
あの子たちはおばあちゃんが服を作るのをワクワクした顔で見守っていた。
真夜中に聞こえていたカタカタいうミシンの音は、やっぱりおばあちゃんがあの子たちの服を縫っていた音だったんだ。
なんだ、わかってしまえば不思議でもなんでもないや。
あんなに小さな端布を大きな布に増やして何人分もの服を作るなんて、おばあちゃんはすごく器用な人なんだ。
ぼくはスイカを食べながら、おばあちゃんが服を1着作りあげたところまで見ていた。
とうとつに、その映像は見えなくなった。
お母ちゃんとお父ちゃんは法事の支度がどうの、和菓子屋さんへお菓子を頼まんとあかんだの、大阪の親戚にも連絡せなあかんとか、いろんな相談を始めた。
スイカを食べ終わったぼくは、算数の計算の続きに戻った。
こうして忙しくしている間に今年の夏休みは終わった。
次の夏も、その次の夏も、ぼくはお父ちゃんが「大ばあさん」と呼んだあのおばあちゃんに会うことはなかった。
あの子たちも来なくなった。
ぼくは親戚の子だと思っていたが、お盆休みに僕の家へ来る親戚は誰もいなかった。
きっちゃんとタムやんは、おばあちゃんとあの子たちのことをきれいさっぱり忘れてしまっていた。
やがて日本でバブルが弾けると、町内会の行事は跡形も無くなった。
ふるいラジオの思い出は、やがてぼくの中に沈みこんだ。
それは1980年代の記憶の奥底でゆらゆらとゆれていたが、大人になる頃には中身の無い輪郭が、おぼろげに残るだけとなった。
〈了〉