3.地蔵盆2日目~3日目の昼間
2日目だ!
朝からぼくらはビーチサンダルで町内中を駆け回ってはテントへ戻るということを繰り返していた。
おばあちゃんはときどき姿が見えなくなったが、気がつけばあの子たちとトランプやカルタで遊んでいた。
あの子たち、今年はテントに入ってこられたんだ。去年とちがってきれいな服で、足もきれいになったからかな。
今日はおばあちゃんも女の子も、朝顔模様の夏のワンピースだ。
そういえば、真夜中に古いミシンがカタカタ動いている音が聞こえていた。あれはおばあちゃんが服を縫っていたんだろう。
今日のおやつはかき氷だ。
テントには氷屋さんから借りたかき氷屋さんのかき氷機が用意されていた。この時間はみんなが来て行列を作る。シロップはイチゴとメロンと透明の白蜜だ。
ぼくより早くおばあちゃんとあの子たちはイチゴのかき氷を食べていた。
いつのまに氷をもらったんだろう。ぜんぜん気がつかなかった。
シロップはセルフサービスだ。それぞれが好きなだけかけていたら、あっというまに、大人の分が無くなった!
お母ちゃんたちが慌てて食料品屋へ買いに走った。
「あかん、氷も足りひんわ。あと2こ、氷屋さんに買いにいかんと!」
ぼくは最初にイチゴシロップで食べ、おかわりはメロンのシロップで食べた。
お母ちゃんたちが近所の氷屋さんから買い足してきた氷をみんなが食べ終わるまで1時間はかかった。お母ちゃんたちは最後の方で食べていた。
かき氷が終わるまで残っていたぼくらは最後に余った溶けかけた氷を砕いて、捨てずに持っていた器へ入れてもらい、残っていたシロップもかけてもらった。
ぼくときっちゃんとタムやんが氷をガリボリ食べるのを見て、おばあちゃんと知らない子たちがおかしそうに笑っていた。
そうして、とうとう3日目になった。
大人は短い時間だったという。でも、ぼくらは、とても長いことテントで過ごした気分になっていた。
ぼくらは今日も朝ご飯が終わるとすぐにテントへやって来た。
おばあちゃんはもう来ていて、ラジオのすぐ前でござに座っていた。
あの子たちもいる。ラジオの後ろにお行儀良く立っている。今日はテントに入ってこないのかな。
「おばあちゃん、また赤銅鈴之助やる?」
「今日はないなあ」
それをぼくは、放送時間がちがうからないのだろうと解釈した。
おばあちゃんはつまみを回した。
ぼくはハッとして耳を澄ませた。
遠いサイレンが聞こえる。
苦しい唸りのような、高く、低く、なんどもなんども。背中がぞわぞわっとする、いや~な音だ。
ラジオの後ろで、あの子たちはラジオを見つめている。
そのときだ。
ぼくの目の前に、暗い川が顕れたのは。
川の中で、たくさんのろうそくの火が燃えている、そんな光景だった。
初めはそれが何なのか、わからなかった。
しかし、その正体が見えたとたん、とてつもなく恐ろしいものだと理解した。
だって、燃えさかる街を流れる赤い川の中で、燃えているのは人間だったのだ。
暗い空には爆撃機が飛び交い、あとからあとから爆弾が降ってくる。
あの子たちはお母さんといっしょに炎から逃げて、川へ飛び込んだ。
でも、火は追いかけてきた。
お母さんにも火がついた。お母さんに抱っこやおんぶをされていたあの子たちの髪の毛に火は燃えうつり、遠目から見たら頭が燃える様子がろうそくのようだったのだ。
この光景は、むかし起こったことなのだ。
でも、いまのぼくには現実ではない幻だ。
ぼくは地蔵盆祭りのテントにいて、目の前にはタムやんときっちゃんがいる。
なのに、まるで自分があの光景の中にいるみたいで、怖くて、体が固まったように動けなかった。
おばあちゃんがもう1度つまみを回した。
遠いサイレンが止まった。
暗い川と燃える人々の光景は消えた。
ぼくは動けるようになった。
怖かった気持ちはあの光景が記憶の彼方へ薄れていくのと同じようにだんだんやわらいでいったけれど、完全に忘れてしまうことはなく、ちゃんと覚えていた。
なぜかぼくの目から涙がぽろぽろこぼれていた。
悲しくなんかないのに。
地蔵盆祭りが楽しくてしかたがないのに。
ふと前を見たら、女の子と男の子がおばあちゃんのひざにすがりついて泣いていた。
ぼくは、こうしておばあちゃんのひざで泣くために、あの子たちの女の子たちはこの女の子ひとりに、男の子たちはこの男の子ひとりになったのだ、と直感した。
しくしくと泣き声が聞こえてきた。
この子たちの声を聞いたのはこれが初めてだ。
いまならわかる。
この子たちは、喋れなかったんだ。
あのすさまじい炎と煙で喉をやられたから。全身が煤で汚れていたのは、あの燃えさかる炎の中からやってきたからだ。
女の子と男の子はおばあちゃんのひざでまだ泣いているけれど、ぼくの涙は止まった。
あのすさまじい光景、暗い川と火の雨と人間が燃えていたあの光景は、ぼくが体験したことではない。
あまりに怖い記憶だから、ぼくにはかえって現実感がわかなかった。
だって、ぼくにはどうしようもないことだ。
ぼくはあの戦争を知らない子どもだから。ぼくは顔の涙をシャツの右肩でゴシゴシふいた。
「おばあちゃん、いまのは何やったん?」
おばあちゃんは左手を伸ばして、小さい子にやるように、ぼくの頭をゆっくりなぜてくれた。
すると、怖かった気分がすっかり消えた。ついでに暗い記憶の残り滓も、きれいさっぱり払われたようだった。
「びっくりさせて悪かったな。あれは空襲警報いうて、あの音がしたら急いで大事な荷物だけを持って、家の近くに作った防空壕へ入らんとあかんかったんや」
「あー、俺、それ知ってる。戦争の時の話やろ。うちのじいちゃんに聞いたことがあるで」
タムやんが自慢げに言った。
「おばあちゃんも防空壕にはいったんか?」
きっちゃんが訊いた。
タムやんときっちゃんは泣いていなかった。ぼくが見たものを2人は見ていなかったんだろう。たぶんサイレンの音だけを聞いていたんだ。
「そうや。B29て知ってるか? 京都には爆弾落としてくることはなかったんやけど、それでも戦時中は怖ーてな。たいへんやったんやで……」
おばあちゃんは、またラジオの黒いつまみを、くるりっと回した。
ラジオから聞こえる音楽が小さくなった。
ザザー、ピー、ザザザザザ……。
すごく聞き取りにくい。音楽やラジオドラマでもない、耳障りな雑音だ。
「今日で地蔵盆も終わりや。いっしょに聞いてくれておおきにえ。これでこのラジオで聞く放送も最後や。この古いラジオもこの子らも、わてがぜーんぶいっしょに連れていくさかい、来年からはもう来いひんで。せやさかい、安心しいや……」
雑音には、なんとなく人の声が混じっているようだった。
と、急にはっきり人の声になった。
でも、なにを言っているのかがさっぱりわからない。
とつぜん、周囲が無音になった。
ラジオの音だけが聞こえる。
――タエガタキヲタエ、シノビガタキヲシノビ、
モッテバンセイノタメニ、タイヘイヲヒラカントホッス…………――
泣き止んでいたあの子らが、くたびれた大人みたいなションボリした顔になった。わかってんのかな?
「なんや、これ、なんていってんのや?」
わかるか?
きっちゃんとタムやんも首を横に振る。
「聞いたことあるような気もするけど、なんやわからへん」
「おれも、さっぱりやで」
しばらく耳を傾けていると、とうとつにラジオ放送は終わった。
「これはな、天皇陛下が、これで戦争は終わったっていうたはるんやて。でもな、戦争が終わっても、おばあちゃんの息子は帰ってきいひんかったんや。それでわてはこのラジオを聞くのがホンマにイヤになってしもて。物置の奥へ片付けたんよ」
「なんで?」
「ふるいラジオを見るたびに、なんでや、戦争は終わったのに……そう思えて、くやしいて、くやしいて……悲しくなって、泣いてばっかりいたんや。でも、おばあちゃんにはほかにも2人の子がいてな、泣いてばっかりいられへんかって、ふるいラジオは見えないところへ片付けたんや」
「ふうん。おもしろい放送もあるのに、もったいな!」
ぼくはつまみへ手を伸ばした。
ぐるぐる回した。
音は聞こえない。
「おばあちゃん、音でえへんで。これ、どっちへ回したら聞こえんの?……あれ?」
顔を上げたら、おばあちゃんはいなかった。
あの子たちもいなくなった。そういえばあの子たち、本当は何人いたのだろう。
テントにいるのはぼくら3人だけ。
おばあちゃんたちが出て行くのにぜんぜん気づかなかった。
「なんや、おばあちゃんらもフォークダンスまでいればよかったのにな」
午後になると、町内の子が何人か遊びに来た。最近は家のなかで漫画ばっかり読んでいる方が楽しいという子もいる。
ぼくにはそれがよくわからない。
山へ虫取りに行く方がぜったい楽しいのに。