平治の乱(5)
永暦元年(1160年)1月
こんにちは。早く遠江に帰りたい平重盛です。
ですが、平治の乱の後始末が大量に舞い込んでなかなか帰らせてもらえません。
まずは、平治の乱の衝撃は大きかったようで、改元が行われました。平治は実質1年で終わりです。
次に首謀者たちの状況ですが、藤原信頼は宮城を脱し、逃走中に捕縛された。取り調べでは仁和寺を目指していたらしい。厳しい詮議の後、斬首となった。
また、信頼と行動を共にしていた藤原成親も同様に斬首。
あれっ? 藤原成親って、鹿ケ谷の陰謀で捕まって流罪になる人の名前だったような? 気のせいか。はたまた同姓同名か。それとも歴史が変わって、平治の乱で本当は助かるはずが助からなくなったとか・・・。
これに関してはよく分からん。
こうなると史実からの乖離が起こりそうだ。もう史実をあまりあてにしないほうが良いかもな。
次に二条天皇派の貴族の処罰だ。二条天皇派は二条天皇をお助けするという名目で藤原信頼たちから早々に離脱したものの、信西殺害の罪を問われることになった。
その結果、派閥の中心人物である藤原経宗、藤原惟方ほか、幾人かの貴族が官位剥奪のうえ、流罪となった。
最後は、乱に加担した武士たちだ。
源義朝とその子・朝長、その他の主立った武士は六波羅近郊での最後の戦いで討ち取った。
これも史実と違うはずだ。義朝は逃走先で殺されたと思っていたけど、どうなのだろう。
しかし、これも終わったことだし、置いておいて良い。
なんと言っても僕にとっての最大の問題は源頼朝がどうなったかだ。
義朝のことより、こっちがよほど問題だ。
源頼朝は六波羅近郊での戦いで捕縛された。
頼朝は簡単な詮議の後、六条河原で斬首の予定だったけど、やはりというか、池禅尼が助命嘆願をしてきたために助命された。
後でばあちゃんに聞くと、鳥羽法皇の皇女の上西門院が、ばあちゃんに働きかけたらしい。
なんでも頼朝が上西門院の皇后宮権少進や蔵人をしていたことがあり、その縁で哀れに思われたらしい。
甘いよね。12、3歳くらいとはいえ、頼朝は今回の戦いで平氏の兵を殺している。人を殺せる年なのだ。
結果として助命となったのは、平氏が頼朝を助命することでの危険性よりも、上西門院に恩を売っておくほうを選んだからだ。
首謀者たちの状況については、こんなところだろう。
さて、次は待ってました、恩賞の時間です。
まず、清盛パパの兄弟の経盛殿が伊賀守、教盛が越中守、頼盛が尾張守に任官。
次に基盛が遠江守、宗盛が淡路守、そして僕が従四位下・左馬頭だ。
遠江の開発のことは、基盛にうまく引き継げて良かった。平氏一門じゃない人が遠江守になったら、せっかくの開発が頓挫してしまう可能性が高い。
そして僕にはもう1つ恩賞があった。
小松邸で後白河上皇をお守りしたことが大功と認められ、内々に恩賞は何が良いか打診されたのだ。
そこで僕が要望したのは、頼長の子4人を僕の預かりとすることだった。さすがに無罪にしてもらうには保元の乱から日が経っていないし、罪が解かれていないのに家人にするのも困難。ならば身柄だけでも、という選択だ。
僕の要望について宮中では、やや揉めたらしいが、京に入れさせないことを条件に認められた。
この条件はまったく問題ない。行ってほしいのは京じゃなくて、遠江の頼長のところだからだ。さっそく配流先から直行してもらうよう手配した。
後日、遠江の頼長から感謝の文が届いた。
今後は行政官として一流の仕事ができるように子どもたちを鍛えまくるということが書いてあった。さぞや厳しい特訓になることだろう。ちょっとお子さんたちに同情してしまう。
さて、最後に清盛パパ。
実は清盛パパについては恩賞の音沙汰がない。
不気味だ。いや、実は平氏一門みんなが期待しているのだ。「ひょっとすると・・・と。」
従三位
武士として初めての公卿。
そのためなら、多少の間、恩賞を待つことなど大した問題ではなかった。
重盛「なぜ藤原成親が死んでしまったんだろう?」
ペンギン「君が成親の妹さんを嫁にしなかったからペン」
重盛「僕のせいっ!?」