四 「ゆうちゃんは彼氏がいない」
重い足取りで家に帰ると、姉さんが酒も飲まずに待っていた。玄関まで迎えに来て、僕の顔を見るなり小さくため息を吐いたけど、やがて諦めたように薄く笑った。
「……駄目だったか」
「……お見通しかよ。流石だな姉さんは」
「姉さんだからね」
おどけてそう答えた後、姉さんはすぐにリビングに戻ってソファに座り込む。手洗いをすませてからその隣に座ると、姉さんは小さく笑みをこぼす。
「酷い顔してるねぇ。姉さんがおっぱいで慰めてあげよっか?」
「……おっぱいは今度で良いかな、気分じゃないや」
「そうかい。じゃあ今回だけはストックしといてあげるよ」
それから少しずつ、僕は今日の出来事を姉さんに話していく。委員長のこと、ゆうちゃんのこと、勝彦のこと、それはきっと取り留めもなくて、所々要領を得なかったのだろうけど、姉さんは黙って聞いてくれていた。
「姉さんはね、正助を見てられなかったんだよ」
「まあ、そうだろうな……。僕が同じ立場だったら、そうだったかも知れない」
「諦め切れない癖に、告白するわけでもない。勝彦君の代わりなんて出来るわけがないのに、ずっと遊菜ちゃんにくっついてさ……もう本当にどうしたものかと思っていた」
自覚はきちんとあったつもりでいたんだけど、第三者の視点でこう言われると思ったよりみっともない感じがしてくる。
「気持ちを伝えられないなら、いっそのこと忘れて欲しかった。でも正助は遊菜ちゃんのためにやっているつもりだったんだろう?」
「……ああ、そうだ。そのつもりだったんだよ、僕は」
それはどこまでもつもりでしかなくて、結局の所、僕はゆうちゃんの傍にいられる理由が欲しかっただけだった。決してゆうちゃんのためなんかじゃない。僕が、僕自身のためにやっていたことだ。それなのに、ゆうちゃんがこっちを見ないからって癇癪起こして喚き散らして……本当に滑稽で、ピエロみたいに思えてくる。
「つもりだった……それがわかれば良いんだよ。それで、これからはどうするんだい?」
僕がどうすれば良いのか、言われなくたってもうわかっている。
「……僕、伝えるよ。ゆうちゃんにちゃんと」
「……そうかい」
「考えてみれば変な話だったんだ。僕はまだゆうちゃんに好きだって一度も伝えてない。それなのにこっちを見てくれだなんて、虫が良い」
「そりゃそうだ。いやはや長かったね、気づくまで」
そう言って姉さんはカラッと笑って見せる。
「知ってるかい? 実は遊菜ちゃんに告白したのは勝彦君の方なんだよ」
「え……?」
「どうやら勝彦君はお姉さんのことを経験豊富な恋愛マスターくらいに思ってたみたいでね。まあ実際にはその時点だと全く交際経験がなかったんだけどさ。遊菜ちゃんが好きだって、相談しにきたことがあったんだよ」
「……全然知らなかった」
「正助には言わないでくれって言われてたからねぇ」
僕はてっきり、ゆうちゃんの方が勝彦に告白して付き合うようになったんだと思っていた。僕から見たってゆうちゃんは勝彦のことが好きだったように思えたし、勝彦はあんまりそんな素振りを見せなかったから。
「……何だよ水臭ェな……」
「正助にさ、取られたくなかったらしいよ」
姉さんの思いがけない言葉に、僕は目を丸くする。
「取られたくなかったって……ゆうちゃんを?」
「そ。だから正助に気づかれない内に、正助よりはやく告白したかったんだってさ」
「……なんだ、それ……」
僕と勝彦が競って、僕が勝った試しなんか一度もなかった。それなのにアイツは、ゆうちゃんが僕に取られるかも知れないとか考えていた。僕が勝手に諦めて、ゆうちゃんは勝彦が好きなんだって、思い込んでいる間に。あの時本当にゆうちゃんが勝彦を好きだったのか、今となってはもうわからない。諦めたかった僕が、勝手に見ていた幻想なのかも知れないし、本当に好きだったのかも知れない。だけど、僕が勝手に諦めてしまっていたことだけは間違いなかった。
ああ本当に。
情けなくってみっともなくって格好が悪い。
「勝彦君はさぁ、アレでちゃんと正助のこと認めてたんだよ。アイツにはかなわないって、言ってたよ」
「そりゃ僕の台詞だろ。かなわないのはいつだって僕だった」
「普段はね。それは勝彦君も言ってたけどさ……。でも、いつだって遊菜ちゃんを笑わせてたのは、正助だったって。それだけは、ひっくり返ってもかなわない、自分より正助の方が面白いってさ」
とんでもない勢いで、感情が下から競り上がって、両目から溢れそうになる。
アイツが、勝彦が僕をそんな風に思っていただなんて考えたこともなかった。いつだって負けているのは僕で、勝彦にはかなわないって思ってた。それなのに、当の勝彦はそんなことを思っていたなんて……。
「……なんっだよそれ……そん、なの……勝った内に入らねえよ……」
それに、それに僕は……
「僕はっ……お前が死んだ時っ……ちょっとだけ、ちょっとだけ喜んだんだぞ……! そんな最低な奴のこと……認めてんじゃねえよ……っ!」
ああ、目の上のたんこぶがいなくなったって、ちょっとだけそう思っていた。もう負けなくて良いんだって、少しだけ思ってしまった。そんな自分が嫌で、勝彦に申し訳なくて、僕は結局一度も墓参りには行っていない。合わせる顔なんて、ないと思っていたから。
「……そろそろ、行ってやりなよ。勝彦君の好きだった饅頭、買っといてあげるからさ」
「……ああ、行かなきゃ……。行って、謝って、それから……」
言わなきゃいけないことは山程ある。そこにアイツがいるわけじゃなかったとしても。受け入れるために、この先を歩くために。
「よし、とりあえず顔洗ってきな! 姉さんがカップ麺作ってあげるから!」
「お湯わかすだけじゃねえかよ」
ぐちゃぐちゃに濡れた顔でそう笑って、僕は顔を洗いに洗面所へ向かった。
洗面所で顔を洗い、とりあえず姉さんとお湯が沸くのを待っていると、不意に僕の携帯が鳴り響く。すぐに画面を確認すると、相手はおばちゃん……ゆうちゃんの母親からだった。
「あれ、おばちゃん……どうしたんだろ……」
「少年、これ怒られるんじゃないか? うちの娘に酷いこと言っただろって」
「いやあのおばちゃんに限ってそんなことは……ないと、思いたいけど……」
実際どうなんだろう。先週は最早終盤どんな言葉をゆうちゃんに浴びせたのかあんまり覚えてないくらいだから、結構酷いことを言っているかも知れない。
「とにかく早く出なさい少年。謝る時は姉さんも謝ってあげるから」
「そこまではいーよ、自分で謝るってば」
とは言いつつも、不安ではある。だけど、恐る恐る電話を取ると、かなり焦った様子のおばちゃんの声が聞こえてきて、その内容に僕は表情を変えた。
「……わかった、わかったよ、落ち着いてくれ。僕も今からすぐ行くから!」
その後すぐに電話を切って、僕は携帯を乱暴にポケットへ突っ込んで立ち上がる。
「何事だい?」
「ゆうちゃんが、いなくなったみたいなんだ!」
あの日よりも強い焦燥感が、僕の胸をかきむしった。
僕はひとまずゆうちゃんの家に向かい、おばちゃんの話を聞いた。話によると、ゆうちゃんは行き先も告げずにいつの間にかどこかへ行ってしまっていたらしい。
「ごめんね……その、詳しくはわからないけど、先週、喧嘩していたんでしょう? こんな時にお願いするのもどうかと思ったんだけど……」
「いや、いいよ、そのことは僕も悪いんだし……。とにかく捜してみるよ」
「最近、様子が少しおかしかったのよ……なんだか塞ぎ込んでいて、正助君と喧嘩したからだと思ってたんだけど……」
よく考えれば当然のことだけど、やっぱりゆうちゃんも気にはしていたらしい。観覧車の時みたいに、僕のいない空間でも勝彦と一緒にいるんだったら僕といる必要はないだろ、くらいに思ってたんだけど。
「……勝彦君がいない、会いたいって言ってたことがあって……やっぱりあの子、正助君がいないと駄目みたいなのに喧嘩なんかして……。でもこれ以上、正助君に迷惑はかけたくなかったから……」
「……いいんだよ、迷惑くらいかけてくれて。僕はゆうちゃんのこと、好きなんだよ」
試しに言ってはみたものの、凄まじい勢いで顔が上気するのがわかる。勢いで言っちゃったけど、親に言っちゃうのってどうなんだ……?
でも、吐いた言葉は戻らない。戻す気ももうない。同じことを、ゆうちゃんにも伝えなくちゃいけない。
「……ありがとうね……ありがとうね……」
「と、とにかく、僕は思い当たる場所を捜してみるから、おばちゃんは警察に連絡しといてくれると嬉しい。多分まだだよね?」
おばちゃんが頷いたのを確認すると、僕は適当に別れを告げてゆうちゃん捜しを始める。ひとまず近所は一通り巡ってみるつもりだけど、ゆうちゃんがこんな時に行きそうな場所が思いつかない。
「それにしても……こんな時間に一体どこに……!」
おばちゃんが最後に家でゆうちゃんを見たのは大体一時間くらい前。徒歩でどこかへ行ったのなら、あまり遠い所へは行っていないハズだ。
おばちゃんの話から察するに、多分ゆうちゃんは僕と喧嘩して以来勝彦とは会っていない。もしかすると、勝彦を捜しに行っているのかも知れない。そうなると、今度は勝彦の行きそうな場所を当たることになる。少し気が引けるが、久しぶりに賀上さん家を訪ねないといけない。
「……墓参りも行ってない、通夜で喧嘩したバカタレは顔を出しにくいんだけどな……」
勝彦の通夜、勝彦の死を受け入れられなかったゆうちゃんは既に勝彦の幻影を見ていた。まだゆうちゃんの状態を理解していなかった僕はその場で怒鳴りつけてしまい、とんでもない大喧嘩になってしまっている。あの時は勝彦の両親も参っていたせいで僕もゆうちゃんも相当怒られてしまい、あれ以来顔を出せていない。父さんづてにあの時は言い過ぎて悪かったって言ってたとは聞いているけど。
しかし今は顔を出しにくいとか言ってる場合じゃない。というか今のゆうちゃんが賀上さん家に行くのは本当にまずい。焦って走り出そうとしていると、ポケットの中で携帯が震えた。
「……委員長?」
何で気まずい家に行こうとしてる時に今一番気まずい奴から電話があるんだよ……。
とは言え無視するわけにもいかず、とりあえず電話を取る。
「あ、えーっと……もしもし?」
「あ、もしもし灰神君。ごめんねこんな時間に」
「う、うん……」
思ったより普通だった。
「今、大丈夫?」
「あんまり大丈夫じゃないけど、手短に頼む。ゆうちゃんがいなくなったらしくて、今捜してるんだよ」
「あ、それなら丁度良いね、良かった電話して」
「え?」
「さっき帰りに向日葵さんを見たの。一人で歩いてたし、声かけようかと迷ったんだけど、単にどこかに用事があるだけなら迷惑かなと思って、とりあえず灰神君に連絡しておこうかと…」
……すごいな、僕なら連絡しない、気まずいから……。
「どの辺で見たんだ?」
「えっと……お墓の近く、かな。私、家の近くにお墓あるんだけど……あの辺わかる?」
お墓……。ゆうちゃんがお墓に? ゆうちゃんが行くお墓となれば、もう一つしか思い当たらない。だけど、ゆうちゃんが本当にあのお墓に行ったのか……?
にわかには信じがたかったけど、委員長はつまらない嘘を吐くような奴じゃない。
「えっと、行ってみようか?」
「いや、良いよ僕が行く。本当にありがとう助かった」
「ふふ、惚れた? 考え直してみる?」
「……それで考え直すって即答するような僕のこと、委員長は好きか?」
「ちょっと迷うけど、あんまり好きじゃないかも。ごめんね、ふざけた」
「良いよ、ふざけるくらい。とにかくありがとな」
その後電話を切って、僕はまっすぐにお墓に向かう。
もし本当にそのお墓にゆうちゃんがいるのだとしたら、ゆうちゃんはもう気づいているのかも知れない。もしそうなら、ゆうちゃんが今どんな状態なのか全く想像がつかない。とりあえず居場所がわかったかも知れないことを携帯のメッセージでおばちゃんに伝えてから、僕は全速力でお墓を目指して駆け出した。
全力で走ること数分、僕はやっとの思いでゆうちゃんがいると思しきお墓に到着する。
そう、やっとの思いだ。僕がこの場所に足を踏み入れるまで、一年以上かかってしまっている。この場所は、賀上勝彦の眠る場所だ。
早くゆうちゃんを見つけないといけないのに、僕の足は恐る恐る進んでいく。目的の場所は明確なのに、出来れば見つかって欲しくないような気もしてくる。だけどそんな思いとは裏腹に、僕は薄暗闇の中で一人の華奢な人影を見つけてしまう。
彼女はその墓の前にうずくまっていて、よく耳をすませばすすり泣きが聞こえてくる。
「あ……」
賀上家之墓。
うずくまるゆうちゃんの背後から見た墓標には、確かにそう刻まれていた。
ゆうちゃんは気づかないのか、それとも気づいた上で無視しているのか、ずっとその場でうずくまったまますすり泣いている。どう声をかければ良いのかわからなかったし、何よりそれ以上に僕も、この場所に、この光景に呆気にとられていた。
墓参りにも行かないで、いないあいつを二人ででっち上げていた。そのせいで僕は、もう整理していたハズの感情に今更襲われることになる。
「勝彦は……死んだんだ……」
思わずそう呟いたところで、ゆうちゃんはやっと顔を上げて僕を見上げた。
涙でぐちゃぐちゃになった顔に、栗色の髪が貼り付いている。そのまま数秒僕を見つめた後、ゆうちゃんの目から涙が溢れ出す。
「正助……君……」
「…………ゆうちゃん、帰ろう。おばちゃんも心配してる」
「勝彦君っ……いなかったぁ……っ」
そうだ。
そうなんだよ。
あいつはもう、いないんだ。
多分僕も、今気づいたんだ。
「ずっと、ずっと一緒にいたハズなのにっ……この前も一緒に遊んでっ……学校でっ……正助君と三人で……ご飯食べてたのにぃ……!」
「……ごめん、僕が、嘘を吐いた」
身をかがめ、ゆうちゃんに視線を合わせてそう言うと、ゆうちゃんはガバリと僕の方へ飛びついてくる。肩を掴む手が、冷たい。
「どこにもっ……どこにもいないんだよぅ……勝彦君、ずっとどこにも……いなかったぁ……」
「うん、そうなんだ……いなかったんだよ、どこにも。ごめん……ごめん……」
「私……それなのに、いるんだって……正助君に酷いこと、言って……酷いこと、したぁ……っ」
「……僕も、ずっと嘘を吐いてた。それに、あの時は酷いこと言ってごめん」
賀上勝彦はもういない。アイツと三人で作った世界は、もうない。とっくの昔に壊れてしまっていた。
それを無理矢理修繕しようとして、ありもしない幻想を抱いて、ずっと互いに誤魔化し続けていた。何も変わってなんかいないって言い聞かせてた。慣れない手で補修を繰り返した僕らの手は、もうボロボロだった。
「私っ……ほんとはわかってたぁ……わかってたのに……」
やっぱりゆうちゃんも、一生懸命見ないフリをしていたんだと思う。大切な誰かがいなくなる、それは受け止めるにはあまりにも重い。あの時のゆうちゃんにはきっと、受け止めることが出来なかったんだと思う。
だけどもう、終わりにしないといけない。勝彦は死んで、あの時間は全部終わったんだって、受け止めないといけない。僕らはここから、歩き始めないといけない。
「ごめんなさい……正助君……ごめんなさい……っ」
泣きじゃくるゆうちゃんを、僕は責める気にはなれなかった。
ただ更けていく夜は、僕らを責めたりしない。ただ包み込んでいくだけだ。今はもう少しだけ、この中にいたい。
ゆうちゃんが泣き止むまでの間、勝彦が見守るこの場所で、僕らは同じ時間を過ごした。泣き止むと疲れてしまったのか、ゆうちゃんは静かに寝息を立て始める。
僕の手で抱きかかえるのは難しいし、とりあえずおばちゃんに連絡してから、僕は一息吐いて眠るゆうちゃんの寝顔を見つめる。
おやすみゆうちゃん。目が覚めてももうそこに勝彦はいないけれど。それでも、一緒に歩こうよ。残った僕達には、そうするしか出来ないんだから。
「……置いてくんじゃねーよ、ばーか」
一年越しにやっと僕が勝彦にかけた言葉は、悪態だった。
あの後、すぐにおばちゃんが車で駆けつけてくれて、眠っているゆうちゃんとわりと疲れ果てている僕を乗せて家まで戻ってくれた。夕方まで出かけてた挙げ句、夜には走り回ったせいで肉体的にはほんと疲れ果ててたし、精神的にも色々あり過ぎたせいで午後十時も待たずに熟睡。目が覚めると翌日の午後一時過ぎ、まさかの十五時間睡眠という快挙? を成し遂げた。本当に翌日が日曜で良かった。
そして月曜には普通に登校。高校に入ってから初めてゆうちゃんと一緒に登校することになったけど、特に気まずいということもなく、思ったよりも普通に話しながら登校することが出来た。
正直、ゆうちゃんと一緒に登校したことよりも大事件だったのが――
「灰神、お前こないだの土曜委員長と遊園地行ってなかったか?」
前の席の遠山君に土曜のデートを目撃されていたことである。
学校に着いて席に座るなり、振り向いてこんなことを言われたんだから思わず吹き出したことを遠山君は許すべきだ。別に気にしてなさそうだけど。
「……人違いじゃないか? 僕如きが委員長と一緒にいるわけないだろ?」
「なんだよ如きって。聞いた瞬間吹き出した奴がよくもまあぬけぬけと誤魔化すよな」
「悪いな、僕はいつも面白いことを考えているから不意に吹き出すんだよ自分の考えで」
「お前思ったよりやべー奴なのな……」
我ながらわけのわからない誤魔化し方をしたものである。
「後お前、向日葵さんとも仲良いよな」
「そんなわけないだろ、あのお方はカースト上位のお方だぜ。僕はいつだって孤高の狼さ」
「ぶっ……なんだそりゃ」
そろそろ怒られるかな、とも思ったけど意外にも遠山君は少し吹き出してから楽しそうに笑い始めた。
「まあいいや、今度ゆっくり向日葵さんとか委員長とのこと、聞かせてもらうからな」
「……ま、その内な」
「あ、それと言いにくいんだけど五限目の数学の課題見せてくれねえ……?」
「…………お前、元からそれが目的で声かけたんじゃないだろうな」
「半分、くらいは……」
半分もか……。
まあ、いいか。そう思って数学のノートを貸してやると、恩に着るぜとか、今度何かおごるとか言われて思った以上に感謝されてるっぽかった。
あれこれ、僕出来るんじゃない……? 男友達って奴がよ……。
「なるほど……。じゃあ、ひとまず色々丸く収まったわけだね」
「一応、な……」
三限目の授業を終えた後、委員長に呼び出された僕は廊下でこの間の顛末を話すはめになった。時間もあまりないからかいつまんで説明することにはなったけど、そこは既に事情を話した委員長、すんなりと飲み込んでくれた。
「そっかぁ、じゃあ向日葵さんには告白するんだ?」
「もうちょい声のトーン落としてもらって良い?」
ここは人気のない踊り場ではなく普通の廊下だ。告白だの向日葵さんだの平然と言われるとわりと色んな所に聞かれてしまいかねない。
「ごめんごめん、ちょっとからかった」
「良くないぞ、からかうのは」
「ふざけるのは良いのに?」
「別問題だからな」
そんなことを言い合ってお互いに笑い合ってから、僕が席に戻ろうとすると待って、と呼び止められてしまう。
「どうしたの? まだ五分くらいあるけど」
「いや、うん、話一通り終わったし……」
遠山君教室の中からめっちゃこっち見てるし……。
「ふぅん……」
そのことに気づいたのか、委員長は少し意地の悪い笑みを浮かべて見せる。
「そうだよねー、灰神君如きが委員長と一緒にいるのは、知られるとまずいもんね」
「聞いてたのかよ!」
「委員長って、聞こえたからね」
耳の良い女め……。
「私は困らないけどな。みんなが変に誤解してくれた方が有利だし」
「有利って、お前な……。え、有利?」
聞き間違いかと思って聞き返したけど、委員長は全く訂正しない。それどころか、得意げに笑みまで作って見せていた。
「ごめん、やっぱりちょっと諦め切れない」
「お、おう……? おう? おっ? おぉ……?」
理解が追いつかなくてオットセイになる僕を誰か助けてくれ。
「だから、もしまた向日葵さんと喧嘩したり、フラれたりしたら声かけてね。私は隙間でも良いし、何なら休みに来るだけでも良いから」
「いや開き直り過ぎだろそれは!」
「最後に私の傍にいてくれれば良いからね。いつでも待ってるし、私からも行くから」
そんなことをカラッと言ってのけて、委員長は唖然とするオットセイ……もとい僕をほったらかして席へ戻って行く。気がつけば廊下はもぬけの殻になっており、それに気づくと同時にチャイムが鳴り響いた。
おまけに授業の後に遠山君に尋問されるしなんなんだよ今日は……。
楽しいな。
そんなこんなで、高校生活の中で初めて少し騒がしかった一日を終えて、僕はゆうちゃんと帰路に着く。正直今日は学校休むかも知れない、くらいに思ってたけど、思ったより普通だしある程度気持ちの整理はついていたのだろう。それともこれまでの一年が、長い長い整理時間だったのかも知れなかった。
「あ、えーっと……それで、ゆうちゃん、その、大丈夫か? 色々……」
それでも結局気になってそう聞いてみると、ゆうちゃんは少し恥ずかしそうに微笑む。
「あのね……多分、大丈夫。えへへ、ご迷惑おかけしました……」
「そっか……。それなら良かった。無理しなくても良いけど、とりあえず大丈夫そうで良かったよ」
「うん……その、ありがとね。色々」
「へ……?」
思いもよらない言葉が飛び出して、僕は間抜けな顔をして足を止める。すると、ゆうちゃんも同じように足を止めた。
「お母さんから、その……少し、聞いたから。ちゃんとお礼言いなさいって、私も言わなきゃって、思ったから……」
なんだかもう、全部全部報われてしまうような気がしてくる。
そんなことを言って欲しかったわけじゃなかった。
感謝されたくてやっていたわけじゃない。僕が、僕のためにやっていたことだったハズなんだ。それなのに、それなのにそんなこと言われたら……なんだか、救われてしまう。
「……良いんだよ。おばちゃんもゆうちゃんも気にし過ぎなんだって」
「そんなことないよぉ……。正助君が沢山助けてくれたから、私はやっと前を向けそうなんだよ」
それは僕だって同じだ。ゆうちゃんのおかげってわけじゃないけど、委員長や姉さんや、おばちゃん、色んな人に助けられて、僕も前を向ける。こうやってまた、ゆうちゃんと一緒にいられる。その助けてくれた誰かが、ゆうちゃんにとってはたまたま僕だった。
でも多分、そのたまたまが大事なんだよな。
「そっか、じゃあちょっとくらい誇ろうかな」
「誇って誇って! 増長し過ぎないくらいに!」
釘を刺すのがはやい。
「だから私、がんばって新しい恋を見つけるね!」
そう言って目を輝かすゆうちゃんを見て、僕は心底安心する。そうか、ゆうちゃんも前に進み始めるんだな、と実感出来る。新しい恋か、良い響きだ。正に青春って感じだし、これから沢山恋して、沢山誰かを好きになるんだ。もうゆうちゃんは、いない人間に執着しなくて良い。無限に広がっている未来に向かって歩いて、無数の可能性を選べるんだ。僕はそれが、嬉しい……。嬉しい?
嬉しいか!?
今ゆうちゃん何て言った!? 新しい恋って言った!?
「ゆうちゃん、今新しい恋って言った!?」
「言ったよぉ……探すよぉ……新しい恋……新しい私……青春と言う名の自分探しを始めるよぉ」
「いやそれは大変素晴らしいんですけどもね」
やっぱり僕を無視して新しい恋を探しに行っちゃうのかよ!
僕は古い恋どころか恋ですらなかったのか!
嗚呼遊園地おじさん。
哀れなピエロは遊園地で踊るよ……。
「行こうかな……委員長のとこ」
未だにみっともなくて格好悪い、情けない僕だった。
「委員長? 仲良いよね?」
「うん、二人は仲良し……」
「えへへ、付き合っちゃいなよ~このこの~」
何だこの試練は。
「いや、ゆうちゃん、待ってくれ。僕の話を聞いてくれ」
そう、このままで終われば僕は今までと変わらない、格好悪い遊園地おじさんのままで終わってしまう。だけど僕は変わるし、決めたんだ。ていうかおばちゃんにまで言っちゃったんだからもう後には退けない。
上から見てろよ勝彦、僕は今までとは違うぜ。
「ゆうちゃん、新しい恋を探すって言ったよね!?」
「二回目だよ……?」
「大事なことだからな」
そう、大事なことだ。今から話すことは大事なことなんだ。だから聞いて欲しい。
「その新しい恋、僕じゃ駄目かな!?」
「……え?」
突然の告白にキョトンとするゆうちゃん。やばい言っちゃったと顔を真っ赤にしてしまう僕だったけど、もうこのままいくしかない。
だって、僕は――
「ゆうちゃんのことが好きだ。結構前からかなり好きだ。新しい自分、探すなら僕と一緒に探さないか……!?」
しばらくゆうちゃんは、そのまま硬直していた。だけどゆっくり僕の言葉を咀嚼したのか、やがて飲み込むと顔を真っ赤にしてその場でうつむいてみせる。
え、うそ、この反応……!?
「あ、あの……あの、ね……」
「う、うん……」
心臓の音がうるさい。
もう夏なんじゃないかってくらい全身が熱くて仕方がない。
はやく、はやく答えをくれ。僕はこのままじゃどうにかなってしまう。
「ま、まだ……わかん、ない……かも」
「そ、そっかぁ……」
「正助君のこと、全然、嫌いじゃないよ? だけどね、まだちょっとわかんない……兄妹みたいな感じで……年のすごく近い、お兄ちゃんみたいな……気持ち、だったから……」
なるほど恋愛対象外なわけだ。僕はどうやらゆうちゃんのお兄ちゃんだったらしい。それはそれで嬉しいんだけど、やっぱり僕としてはもう一歩関係を進めたい。
「だ、だから、もう少し……考えても良い? もしかしたらいっぱい、考えるかも知れないけど……」
考えてくれるってことは、脈がないわけじゃないんだ。多分今までは本当に兄妹感覚で、何の意識もしてなかったんだと思う。それがこれから、僕の告白によって変わっていくんだろう。これからは兄妹みたいな幼馴染じゃなくて、普通の男女として、互いを恋愛対象として見る男女として。
きっとこれだけでも、僕達にとっては大きな変化で、大事な一歩だ。
「……うん、良いよ。いっぱい考えてくれ。僕は待つから」
「えへへ、ごめんね……また、ご迷惑おかけします……」
良いよ、迷惑くらいかけてくれ。だって僕は、ゆうちゃんが好きなんだから。
とは言え、あんまり悠長にしてると遠山君みたいなのに奪われそうだから、そこはちょっと怖いかな。だって今ゆうちゃんは名実共に彼氏がいないわけだし。そう――ゆうちゃんは”まだ”彼氏がいない。