三 「ゆうちゃんは……」
あの日以来、僕とゆうちゃんは本当に一言も口を聞かなかった。気を遣ってくれているのか、おばちゃんは何も言って来ないし、てっきり説教の一つでもしてくるかと思っていた姉さんもあまりこの話にはあまり触れない。肯定も否定も、誰もしなかった。
休み明けの月曜日、重い足取りで学校へ行き、教室で一日ぶりにゆうちゃんの姿を見た。この間の事件以来絡まれることもなくなったようだけど、ゆうちゃんはゆうちゃんで相変わらず友達が作れていないらしい。心なし表情も暗いような気がしたけど、今は心配してやるような気分にはなれなかった。
僕は悪くない。酷いのはどう考えてもゆうちゃんの方だ。焦げ付くような罪悪感から必死に目を背けるように僕は自分に言い聞かせる。実際、落ち着いて考えてみても僕が悪いとはあまり思えない。そりゃ声上げたり肩掴んだりしたのは僕が悪かったかもしれないけれど。
「あれ、向日葵さんは一緒じゃないの?」
その日の昼休憩、初めて食堂で一人飯をキメているとそんなことを言いながら委員長が僕の正面に座る。そこは本来なら、いつもゆうちゃんが座っている席だ。
「ふっ……向日葵って誰だよ。僕は孤高の狼……いつだって一人だぜ」
「そういうこと考えちゃう時期ってあるよね。私も中学生の頃は色々空想にふけることがあったよ」
「なんだよ、委員長も孤高の狼だったのか?」
「……魔界の王女の生まれ変わりだったかな……」
そう答えた瞬間、委員長の視線が泳ぐ。僕もなんだか気まずくなって委員長から目をそらしながらかゆくもない頭をかいてしまう。
これ以上この話は掘らない方が良さそうだな……。
「……こほん。それで、何かあったの? 珍しいね、お昼に一人なんて」
わざとらしく咳払いをして見せてから、委員長は話題を切り替える。
「別に、ちょっと喧嘩しただけだよ。珍しいことでも何でもないよ」
「そっか……。でも意外だね。灰神君は向日葵さんになら何されても怒らないかと思ってた」
「え、そう見えたか?」
「そう見えたよ。大好きじゃない? 向日葵さんのこと」
どうやら委員長には全てお見通しらしい。まあでも、こないだゆうちゃんがいなくなった時、あんなに必死で捜している姿を見ているんだからそれくらいの察しはつくのかも知れない。
「ま、今は何とも思ってないけどな! 僕は向日葵よりもおまわりが好きでね。将来の夢はおまわりさんなんだ」
「公務員試験受けるんだ? 私も受けるつもりだよ、頑張ろうね」
「……う、うん、がんばろー……」
駄目だ真面目過ぎる。つっこんでくれない。
「実際のところ、どうなの? 灰神君は向日葵さんのこと好きなの?」
不意に、委員長と視線が真っ直ぐに重なる。今までの軽い調子とは裏腹に、眼鏡の奥の瞳は真剣そのものだった。
「……わかんねえよ。好きだったけど、正直今はもうよくわからない」
話している内に、僕の脳裏に土曜の出来事がまざまざと蘇る。確かに僕はゆうちゃんのことが好きだった。それもずっと昔からだ。
だけどやっぱり、あんな扱いはあんまりだと思う。そう考えると怒りとも悲しみともつかない感情が沸々と湧き上がってくる。気がつけば目頭が熱くなっていて、慌てて僕は委員長から目をそらした。
そんな僕の様子をしばらく黙って見つめた後、僕が少しだけ落ち着いた頃合いを見計らってから委員長は口を開く。
「……私で良ければ話聞くよ。話したくないなら無理には聞かないけど」
「……何だよ、友達っぽいじゃん……」
「友達だからね……元気なさそうにしてたら心配だし、何か力になれるならなるべく力になってあげたいよ」
「……あ、ちょっと泣きそう……」
「じゃあ場所、変えた方が良い?」
ゆうちゃんの話をするなら、勝彦の話は避けられない。あまり他人に聞かせたい話でもないし、委員長の提案通りあまり人目につかない場所に移動することになった。
場所は変わって、先日上田瀧本事件の顛末を話した踊り場。ここなら相変わらず人目につかない。
何から話せば良いのやら、と言った感じだったけど、とりあえず勝彦という幼馴染がいたこと、ゆうちゃんが勝彦と付き合っていたこと――――勝彦はもう、死んでいること。そして今も、ゆうちゃんには居もしない勝彦が見えていること。委員長は相槌を打ちながら僕の話をしばらく黙って聞いて、土曜での一件を話し終えたところで小さく息を吐いた。
「じゃあ、あの時向日葵さんが叫んでた名前は、やっぱり灰神君のことじゃなかったんだね」
「あの時って、体育館でのことだよな。聞こえてたんだな……」
「みんな聞こえてたと思うよ、結構大きな声だったから。多分みんな、灰神君の下の名前のこと、勝彦君だと思ってるんじゃない?」
入学して日が浅い上に、クラスでも目立たない僕の名前だ。下の名前なんてあやふやな人の方が多いだろうし、あの状況でゆうちゃんが叫んだ名前なら僕の名前だと勘違いされるのも当然だ。
そうだ、あの時ゆうちゃんが叫ぶ名前は本当は僕であるハズなんだ。そう考えると色々こみ上げてくるものはあったけど、別にあの時のことを蒸し返したいわけじゃない。
「だから、この間灰神君の名前確認したでしょ? あの時ちょっと変だなって思って」
「鋭いな……」
「そっか……でもそういうことだったんだね」
納得したようにうんうんと頷いた後、委員長は悲しげに目を伏せて見せる。
「それは、向日葵さんが酷いよ。灰神君は悪くないんじゃないかな」
「え、あ……そう、か。そうかな……」
「そうだよ。向日葵さんのことを悪く言うようで気が引けるけど、それじゃ灰神君があんまりだよ」
委員長のことだから、どっちにもつかずにとりあえず仲直り出来るような提案をしてくるんじゃないかと思ってたんだけど、意外にも委員長は全面的に僕の味方をしてくれるらしい。僕は悪くないと言い聞かせながらも、心のどこから僕が悪かったんじゃないかと思っていた。だから、こんな風に悪くないって誰かに言われると想像していた以上に気持ちが楽になる。
「私だったら嫌だよ。好きな人が一緒にいるのに、自分のこと見てくれないまま居もしない他人の名前を呼び続けるの。私からすれば、なんで灰神君がそんなにずっと耐えなきゃいけないのかわからない」
「……耐えてたわけじゃねえよ。ただ僕は、ゆうちゃんに……」
何だろう。その言葉の続きがうまく出て来ない。僕は今まで、ゆうちゃんにどうして欲しくて一緒にいたんだっけ。何したってゆうちゃんは僕の方なんて見ない、だったら別に、僕がゆうちゃんの傍にいる理由なんてそんなにないんじゃないか。
「なんだろうな、もうわかんねえや……」
自嘲気味に、乾いた笑いが僕の口から漏れた。
「僕さ、勝彦のこと、いつか負け彦にしてやろうって、そう思ってたんだ」
「……ごめん、ちょっとよくわからない」
「ああごめん。あいつすごい奴だったんだよ。イケメンで、勉強も運動も出来てさ、モテるし、友達も多くてさ。昔はいつか勝ちたいって思ってて、負け彦にしてやる! って息巻いてた」
賀上勝彦は、僕からすれば非の打ち所がない完璧超人だった。僕に出来ることは大体あいつにも出来て、その上で僕に出来ないことをあいつは何でも出来た。小さい頃は対抗意識もあって何度も何度も挑んだ。得意だったゲームも、勝彦には勝てなかった。
小学校高学年になるくらいから挑むのも馬鹿らしくなって、諦めて、その辺りからだろうか。ゆうちゃんと勝彦の仲が親密になったのは。
「僕は、死んだあいつにも勝てないんだよ。生きてるのに……ゆうちゃんの中では、まだ死んだ勝彦の方が強いんだよ」
もういない勝彦に囚われているのは、ゆうちゃんだけじゃない。きっと僕も、心の何処かでもういないあいつの幻影に囚われている。
「難しいかも知れないけど、気にしないようにした方が良いと思うな。勝彦君がどんな人かは知らないけど、灰神君にもいつか勝彦君にも負けない、誇れる何かが見つかるんじゃないかな」
「どうかな、僕は何も為せないまま終わりそうな気もするけど」
「……そんなことないよ。少なくとも私は、灰神君に助けられてる」
「小学生の時のことだろ? アレはたまたま僕だっただけで、タイミングが違えば他の誰かだったんじゃないか?」
「そのたまたまが大事なんだよ。私にとっては、あの時助けてくれたのは灰神君以外の誰でもないんだし。それに、今も助けられてるよ。私の友達、まだ灰神君だけだから」
「そっ……か……。まあそれは、お互い様な気もするけどな」
そんな風に考えたことは一度もなかった。言われてみれば、僕にとってもゆうちゃん以外の友達は委員長だけだし、もしかしたら一人で過ごしていたかも知れないこの昼休みを、こうして二人で過ごせるのは委員長のおかげだ。それは、委員長にとっても同じなわけで。
「まあ、どっちにしたってゆうちゃん争奪戦は僕の完敗で終わりだな。結局ゆうちゃんは勝彦のことしか見えてない。どうしても勝ちたかったんだけどなぁ」
結局最終的に僕が欲しかったのはゆうちゃんだ。言い方は悪いけど、それを勝彦に奪われて、あいつに負けた以上は他のどこで勝ったって仕方がないような気がする。
委員長の言う通り、これ以上は気にしない方が良いのだろう。
「……ごめんな委員長、変な話に付き合わせて……そろそろ教室戻ろうぜ」
話し込んでいる間にいつの間にか昼休憩は後五分もなくなっていた。話した内容が少し恥ずかしかったこともあって、委員長の返事も待たずに背を向けると、後ろから待って、と震えるような声が聞こえた。
「……委員長?」
振り返ると、いつもはハキハキしている委員長が顔をうつむかせて少しだけ震えている。それからどれくらい経っただろうか、長いような短いような間があった後、委員長は意を決したように顔を上げて、僕を真っ直ぐに見据えた。
「は、灰神君……!」
「なんだよ、改まって」
「わ、私は……どうかな……」
「……どうって?」
要領を得ない委員長の言葉に首を傾げたけど、やがて何となく雰囲気で委員長が何を言おうとしているのか察して目を丸くした。
多分今、すげえ変な顔してるぞ僕。
「向日葵さんじゃなくて、私と付き合ってみるっていうのは……どう、かな……なんて……」
珍しく歯切れの悪い言葉。委員長がこれを伝えるためにどれだけの勇気を振り絞ったのかがある程度伺い知れる。
僕は硬直したけど、時間は決して止まらない。容赦なく鳴り響くチャイムで、僕はどうにか我に返った。
「…………へ?」
でも一文字しか言えなかった。
「わっははははは! 姉さんもう一杯!」
その日の夜、僕はアホみたいにハイだった。ハイ神正助である。
「お、良い飲みっぷりだねぇ! 姉さんは少年が一緒に飲んでくれて嬉しいよ!」
「おうよ! どんどん飲もうぜ! 姉さんもほら、そろそろ次のがいるんじゃねえの!?」
「お、持ってきてくれるかい? ふふふ……今夜は寝かせないぜぇ?」
「望むところよぉ~~~!」
一応言っておくが僕はコーラである。ただなんというか姉さんの酒のテンションに付き合いながらコーラ飲んでたら段々ハイになってきてそのままハイ神正助になってしまった。
「いやあまさか僕に春が来るとはな!」
「まさかってことはないさ。姉さんは少年にも必ず春が来るって信じてたからねぇ」
「へへっ……」
委員長と違って姉さんには伝わったのか、お互い顔を見合わせて気恥ずかしそうに鼻をこする。やっぱ姉弟って最高だな!
「……でも姉さんは本当に嬉しいよ。やっと自分の青春を謳歌してくれるんだねぇ」
「……ああ。なんか、ごめんな心配かけて」
「良いんだよ。とりあえず今は喜ぼうじゃないか……正助に彼女が出来たことを」
そう、我が世の春が来たのだ。
あの後、僕は委員長の告白にOKを出した。午後の授業二時間分、がっつり悩んだには悩んだんだけど、特に断る理由は僕にはない。それに、姉さんの言う通りだった。
ゆうちゃんのことばかり気にしていないで、僕は僕の青春を楽しめば良い。別に見返りが欲しくてやっていたわけじゃなかったけれど、あんなに報われないのにゆうちゃんと一緒にいる必要なんてない気もする。
それに僕はいい加減、ゆうちゃんと勝彦以外の世界を持つべきだ。
「それじゃあもう、遊菜ちゃんのことは良いのかい? もう諦めはついたのかね」
缶ビールを片手に、赤らんだ顔で姉さんは問う。アルコールのせいでただの酔っぱらいにしか見えないけど、声のトーンはわりと真剣だ。
諦めはついたのか、と言われると少し微妙な気はする。もうゆうちゃんが気にならないと言えば嘘になるし、今日もメッセージの一つでも来やしないかと携帯を何度も確認していた。だけど、だからこそ僕はもう断ち切るべきだと思う。ゆうちゃんのことは一度忘れて、もっと気持ちの整理がついてちゃんと他人だと思えるようになるまでは、ゆうちゃんとは離れた方が良い。それは多分、ゆうちゃんも同じだ。
付き合う動機としては少し不純な気がして委員長には申し訳ないけれど。
「微妙な顔してるけど、姉さんとしてはひとまず離れてくれるだけでも嬉しいよ」
「よくよく思い返せば昔からべったりだったもんな……ゆうちゃんと勝彦とは」
考えてみれば、勝彦やゆうちゃんには他の友達がいたけど、僕にはほとんどあの二人しかいなかったような気がする。ゆうちゃんと勝彦さえいればそれで良くて、それ以外は結構どうでも良かった。多分、その時点で姉さんには心配かけていたのかも知れない。
「インフルエンザで遊菜ちゃんがしばらく休んだ日は、ゆうちゃんいないなら学校行かない! とかごねたっけねぇ」
「……そ、そんなことあったっけ……」
「あったよ。お見舞いに行くんだー! ってランドセル背負ったまま向日葵さん家に直行してさぁ……。いやあ笑ったわ」
言われてみればそんなこともあったような気がするけど、思い出話としてはかなり恥ずかしい部類だ。
「まあでも、いつか進路とかの都合で離れ離れになる可能性は高いんだから、いつまでもべったりされるのは、姉さんとしては不安だったなぁ……。何が不安って、正助他に友達作んないんだもん」
「冗談抜きで一人もいなかったな……」
まあ教室で軽く話すかな、くらいの相手はそこそこいたと思うんだけど、休みの日に一緒に遊びに行くような相手はいなかった。勝彦が野球部に入ってからは、大体土日はゆうちゃんと会うか家でゲームしてるかだったように思う。
「少年、携帯携帯」
そうして昔のことをぼんやり思い出していると、不意に姉さんが僕のポケットの方を指さしながらそう言う。
「ん、ああ、気づかなかった、ちょっとごめん」
慌ててポケットから携帯を取り出して見ると、着信を受けてブルブルと震えていた。
「……姉さん」
「なんだね」
「着信、彼女から~~~~!」
「ヒューーーー! ほら早く出なって~~~~~!」
「へへへっ……」
……なんだこの姉弟。
「中々出なかったけど、何かの途中だった? 邪魔してたらごめんね」
「ああいや、そういうわけじゃないんだ。僕こそすぐ出られなくてごめんな」
一応部屋に戻ってから電話を取ると、開口一番に謝られてしまう。流石委員長気を遣ってくれる……。こういう時ゆうちゃんだとはやく出てよ~~とか言うからギャップがあってちょっと新鮮に感じる。
「それで、どうしたんだよ? はやくも僕が恋しくなっちゃったか?」
「うん、恋しかった」
えぇ……素直……やだこの子素直……。
「折角だし、次のお休み、デートにでも行かない?」
言われた瞬間、僕の心臓が跳ね上がる。状況が飲み込めずに表情が二転三転し、僕は震えるような声で聞き返した。
「い、今……何て言ったんだ……?」
「……だから、デートにでも行かない? って……。恥ずかしいから二回も言わせないでよ」
「じょ、女子にデートに誘われた! 僕まだ全然考えてなかったのに! うわあ!」
「……えっと、喜んでるって考えて良いのかな、そのリアクション……」
盆と正月が一緒に来たようなもんだ。まさかこの僕が女子に告白された挙げ句、女子の方からデートに誘われるだなんて事態になるなんてな……。
うわあ!
「で、どう? 次のお休み……空いてなかったらまた今度でも良いんだけど」
「うわあ!」
「そろそろ落ち着いてもらって良いかな」
「ごめん、コーラで酔ってて」
人間意外とアルコールがなくてもノリと雰囲気で酔える。
「ああそれで次の休みだけど勿論空いてるよ。僕の予定はいつだってすっからかんだからな」
「そっか。私もすっからかんだからね、誰かと遊びに行くなんて久しぶりだよ」
そう言って、電話の向こうで委員長は笑みをこぼす。ああ、なんか良いなこういうの……。思えばゆうちゃんや勝彦と遊ぶ時はいつも誘うのは僕からで、二人から誘われたことはあまりなかった。それは多分、いつも僕が二人を誘うからってだけなんだろうけど。たまに僕が誘わなかったら二人は二人だけで遊んだりするんだろうかって、そんな風に考えることもあった。
僕がいなくても、あの二人だけで世界は成立する。あの二人がいないと、僕の世界は成立しなかったってのに。
だからこうして、誰かから誘ってもらえるのは本当に嬉しくて仕方がない。
「どうしたの? 黙り込んで」
「ああいや、ちょっとうれしくてな……。僕、誰かにこうやって誘われること、あんまりなかったから」
「向日葵さん達とはどうだったの?」
「いつも僕の方から声かけてた。でないと、二人が僕抜きで遊んじゃうような気がしてさ」
「そっか……でもなんか、そういうのわかる気がするなぁ」
そう答えてから小さく一息吐き、委員長は語を継ぐ。
「なんか不安になるんだよね。別に自分はいなくて良いんじゃないかって」
僕にとって僕達は三人だったけど、二人にとっては別に二人でも良かったのかも知れない。僕は別にいなくたって問題がない。その証拠に、ゆうちゃんは僕を無視して勝彦と話し続けたじゃないか。
だから僕は、勝彦が死んだ時――――
「話戻すけど、どこ行こうか?」
少し鬱屈とした思考に囚われかけていたけど、委員長の声でハッと我に帰る。
「うーんどうすっかな……。僕デートスポットとか全然わかんないし……」
知っていると言えば、精々この間の遊園地くらいか。確かにデートスポットとしては申し分ないんだけど、今はあんまり気乗りしない。
「委員長はどっか行きたいとこないのか?」
「あると言えばあるんだけど、あんまりデートって感じじゃないんだよね」
「気にしなくて良いよ。僕らデート初心者なわけだし、例えどんな場所だろうと二人で行けばデートだろ」
「灰神君……」
よし、今のは僕かっこよかったな。間違いなく。正直我ながら惚れそうだ。僕は僕になら掘られても良い。
……いや、よく考えると嫌だ。
「じゃあ次のお休み、午前九時に駅前に集合ね」
奇しくも、それはこの間ゆうちゃんと約束したのと同じ待ち合わせ時間だった。どうしてもあの日のことを思い出してしまうけど、僕はどうにかゆうちゃんのことを頭から振り払う。
「ああ、そうしよう。楽しみにしてる」
「……私も。それじゃあね」
委員長はどこか弾んだ声音でそう言い残してから電話を切る。それからしばらく、デートなんだなとか委員長楽しそうだったな、とか色々考えながら呆然としていると、不意に部屋のドアが開き、缶ビールを持った姉さんが顔を覗かせた。
「……正助」
「な、なんだよ……」
「はやくも僕が恋しくなっちゃったか?」
「おい」
「女子にデートに誘われた! うわあ!」
「やめろ」
「例えどんな場所だろうと二人で行けばデートだろ」
「おいほんとにやめろ何でそんな茶化すんだよ酔っぱらい!」
「うわあ!」
「うるせえ!」
それから三十分程似たようなノリで騒ぎ続けるアホな姉弟だった。
そんなこんなで、あっという間に土曜日は訪れた。あのままゆうちゃんとの会話は一度もなく、結局一度もまともに顔を合わせないまま一週間が過ぎた。遠目に見た感じ、思ったよりゆうちゃんは普通にやれているようで、少しでも心配していたのが馬鹿らしくなってくる。やっぱり僕がいなくても問題なかったのかと思うと少し寂しい気もするけど、多分これで良いんだと思う。
先週ゆうちゃんと待ち合わせた時は一時間も早く到着して三十分待つはめになったから、今日はあまり余裕をもたせ過ぎず、十五分前くらいに到着するように出発した。委員長はきっちりしてるだろうし、多分時間ぴったりに来るだろ。
と思っていたが、違った。
「あ、おはよう灰神君、思ったより早いね」
そこにいたのは、僕のよく知らない美人のお姉さん……に見える委員長だった。紺のブラウスに白いフレアスカート、いつもは三つ編みにしている長い黒髪を完全におろし、コンタクトにしているのか眼鏡も外している。三つ編み解いて眼鏡外すだけでこんなに印象が変わるとは思っても見なかった。僕は彼氏だからわかったけど、ただのクラスメイトならパッと見では委員長だってわからないかも知れない。僕は彼氏だからわかったけどな。僕は彼氏だから。
委員長はどれくらい待っていたんだろう。時計を見れば時刻は集合時間十五分前、手に持っているコーヒーの缶は既に飲み終わった後に見えるし、もしかすると結構待たせてしまったのかも知れない。
「え、あ、うん……委員長、だよな?」
「委員長じゃないよ、朝顔夜菜。折角付き合ってるんだから、そろそろ名前で呼んでほしいな、名字で良いから」
「あー、そうしたいのは山々なんだけどもう委員長で慣れちゃってな……。委員長って呼ぶのが一番しっくり来るっていうか……」
「……まあ、それならしばらくはそれで良いけど」
後単純に気恥ずかしかったりもする。でもよく考えるとゆうちゃんのことは平気でゆうちゃんゆうちゃん言ってるんだし、委員長の名前くらいもっとしれっと呼べても良い気はする。
「そういえば、今日はどこに行くんだっけ?」
「えーっとね……ゲームセンター」
「……ゲームセンター? 意外だな、本屋とか言うと思ってた」
「意外でしょ? でも駄目だよ印象だけで勝手に本好き扱いしちゃ」
「じゃあ本はそんなに好きじゃないのか?」
「うん……あんまり……長時間眺めてると気分が悪くなる」
思ったより嫌いだった。
「教科書は無理して読んでるし、ホームルーム前の五分間読書しろって言われてる時間、実は適当に開いて寝てる……」
「……筋金入りだな……」
正直三つ編みに眼鏡で委員長で本が好きじゃないって結構なギャップだ。とは言っても僕が勝手に持ってる印象だし、委員長の言う通り印象だけで決めつけるべきじゃないな。
にしたって苦手過ぎるような……。
「とりあえず午前中はゲームセンターで遊ぶか。その後は適当に昼食べて……ま、そん時考えりゃ良いか」
「そうだね。それに一日中ゲーセンかも知れないし」
その時僕は、委員長のその言葉の意味がよくわからなかった。いくらゲーセンが遊べると言っても一日中遊ぶのは僕からすれば少し難しい。何かやりたいアーケードゲームがあって、それを一日中やるってならわかるけど、それってデートでするようなことだろうか。まあ、委員長が楽しけりゃある程度合わせるつもりではあるんだけど。
光る筐体! 響く騒音! 近くに座るおじいちゃん!
「ほら灰神君座って座って! これ空いてるの珍しいんだからほら!」
「……あ、うん」
そこら中で聞こえるメダルの排出音を耳にしつつ、僕は戸惑いながら委員長の隣に座る。眼前の筐体では、どこかで見た覚えのあるアニメキャラクターが教室で友人と話し込んでいる姿が見える。
「良い? 灰神君。その台は通常時も目押しで下にバーをそろえないといけないから気をつけてね」
「すいません目押しってなんですか」
「要はバーを狙ってってこと、ほらメダル入れて」
「あ、うん……」
促されるままに筐体にメダルを入れてレバーを押すと、画面の下でリールが回転を始めた。バーを狙わないといけないらしいんだけどバーってどれだ。マジでどれだ。7のことか?
いや、ていうか……
「何でスロットなんだよ!」
「あ、すごい! まだ五十ゲームも回してないのにチャンスゾーンだ!」
「聞けや!」
一応言っておくとここはゲーセンで間違いない。例の十八歳未満お断りのお店ではなく、一応ゲームセンターの一角、所謂メダルゲームのコーナーである。
『ときめきチャ~ンス!』
うるせえぞ筐体。
「高校生のカップルが、初デートで意気揚々と町に出てゲーセンのスロットに直行して並んで座るのはなんか色々おかしいだろ!」
「もう、そんな大声でカップルだなんて、恥ずかしいよ灰神君」
「今そこは大した問題じゃない」
「でも、スロットは節度を持って遊ぶゲームだから、あんまりのめり込んじゃ駄目だよ」
「何で僕が注意されてるみたいになってるんだ。お前だからな! ここに誘ったのも連れて来たのも注意されてんのもお前だからな!」
「……チュウしてくれるの……?」
「その聞き間違いは古典的過ぎる!」
「でも、キスするならやっぱりもっとロマンティックな場所が良いかなぁ」
僕のロマンティックを止めたのはお前だ。
『キュインキュインキュイーーーーン! ボーナス確定! デデデデーーーーーッ!』
うっせえぞ筐体。
あの後しばらく委員長の台が当たり続け、大体メダルが五千枚くらい出たところで終了。ちなみに僕の方はと言うと待ってる間にわけもわからない内にメダルが半分以上飲み込まれ、後半は委員長を放置して近場のもっと簡単なメダルゲームで――――
「全部飲み込まれるとはな」
「灰神君の運の悪さ壊滅的だったね……」
全戦全敗という驚異的なスコアを叩き出していた。
場所は変わって近場のファーストフード店。とりあえず一通り当たって満足した委員長と一緒に、昼食がてらハンバーガーを食べていた。
ゆうちゃんだったらもっとおしゃれなお店が良い~とか言い出すだろうし、この辺委員長は合わせてくれてるのか本人が好きなのかハンバーガーで良いって言うから楽だ。
とは言ってもゆうちゃんだってハンバーガーは好きだし、今やってる超てりやきトリプルバーガーとか絶対好きだ……。ゆうちゃんはあんな顔して結構食べるし、ついでにポテトもぺろりとたいらげてしまいそうだ。
「灰神君、どうしたの? 何か考え事?」
「ああいや、違う違う。今キャンペーンやってるハンバーガー、ゆうちゃんが好きそうだなって」
適当にポテトをつまみながらそう言って、ハッとなる。折角委員長と遊びに来てるのに何でゆうちゃんの話してるんだ……。
「……いや、ごめん」
「気にしなくて良いよ。この間まで向日葵さんにべったりだったもんね」
ふふ、だなんて余裕たっぷりに笑って、委員長はバニラシェイクを飲む。委員長はハンバーガーよりもナゲットとかシェイクとか、サイドメニューの方が好きなのか、早々にハンバーガーを食べ終えてから幸せそうにナゲットを食べ始めていた。
「それにしても意外だったな……委員長がゲーセンにメダルゲームにスロットなんてな……」
「委員長はファッションだからね。内申上がるかなって」
「清々しいくらいの言い切りだ……」
「中学までは結構成績も悪かったし、放課後夜までゲーセンにいたら帰りに補導されたこともあったくらいだし」
「いや全然イメージ出来ねえよ誰だよ……」
学校での委員長は確かにきっちりしてるけど、今は随分と開放的だ。どうやらこっちの方が素みたいで、朝からずっと楽しそうにしている。
「このまま遊んでるだけじゃ駄目かなと思って。友達もいなかったから、せめて学業くらいは頑張らないとって思って」
「真面目だな」
「不真面目だよ。これから真面目にするの」
「そうじゃねえよ。今までが駄目だったから変わろう変えようって、行動に移せることが真面目ですごいって話だよ」
結局僕は、事が起きるまで変わらなかった。変わろうともしなかった。ゆうちゃんとの関係があのままじゃ駄目だったことくらい、最初からわかっていたことだったのに、痛みを恐れて何もしなかった。結果そのせいで、ゆうちゃんとの関係は壊れてしまった。委員長みたいにもっと早く変わろうとしていれば、何か違った結果が得られたかも知れないのに。
「……ありがとう。まさかそんな風に言われる日が来るとは思わなかったよ」
「そうか? 結構すごいことだと思うけど」
「あ、いや、正確にはそんなことを話せる友達が出来るとは思ってなかったって意味で」
「あ、うん、ごめん」
僕は僕でこんなことを言うような友達が出来るとは思ってなかった……。
「それで、この後どうしようか? もう一回ゲーセン行く?」
「いや流石にもうゲーセンはちょっと……」
メダルゲームで遊ぶの自体は良いんだけど、今日の流れ的にこれ以上やっても僕の財布がスカスカになっていくだけだ。
「うん、そうだねごめん。他に何か案はある?」
「まあ代案は代案でないんだけどなぁ……」
悲しいことに外で遊んだ経験があんまりないせいで、パッと遊び方を思いつくことが出来ない。もういっそのことでかいショッピングモールにでも行って、委員長が服でも選ぶのを話しながら待ってるくらいでも良いくらいにはもう思いつかない。
前にゆうちゃんや勝彦と行った時は、ゆうちゃんの服選びに何時間もつきあわされたっけな。
「……じゃあ、一つお願いがあるんだけど」
「どっか行きたいとこあるのか? ゲーセン以外なら何でも良いぜ」
「……遊園地、行ってみたい……」
「遊園地……か」
と、なるとやっぱりあの遊園地になるか。他の遊園地となると県外まで行くことになるだろうし。
「あ、別に良いんだよ? そんなどうしてもってわけじゃないんだけど、あんまり行ったことないから一度くらいは行ってみたくて……」
申し訳なさそうにそう言って、委員長はポテトやナゲットの容器をまとめ始める。もしかしたら、委員長は最初から遊園地に行ってみたかったのかも知れない。だけど僕はゆうちゃんと行ってきたばかりだし、おまけに嫌な思い出もある。行きたがらないだろうな、と察してとりあえず思いついた代案がゲーセンだったのかと思うと、気を遣われ過ぎていて申し訳なかった。
「もしかして委員長、最初から遊園地に行きたかったんじゃないか?」
「え、そぉんなことないよぉ!? 私最初からゲーセンのつもりだったし! ごめんね付き合わせちゃって!」
結構嘘が下手なのか、上ずった声で答える委員長に思わず笑みがこぼれてしまう。
「もう、何笑ってるの……」
「いや、結構嘘下手だなって。行こうぜ、遊園地」
「え、ほんと?」
よほど嬉しかったのか、勢い余ってシェイクの入っていた紙コップを握りつぶして委員長は表情を明るくする。
「先週はあんまり楽しめなかったからな。今度こそしっかり楽しませてもらうぜ遊園地」
「……そっか、そうだね。それなら灰神君も楽しめるよね」
うんうんと自分に言い聞かせるように頷いて、委員長は嬉しそうにはにかんだ。
「じゃあ、行こっか……?」
「だな。混むかも知れないし、さっさと行こうぜ」
そうだ。ゆうちゃんがいなくたって僕は楽しくやっていける。遊園地だってきっと、先週の何倍も楽しめるんだ。
「あばああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!」
「あひゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!」
僕と委員長のわけのわからない絶叫は、ジェットコースターが停止するまで続いた。長い黒髪をバッサバッサと揺らしながら喚く委員長と、最早目に涙すらにじみ始めた僕。非常にみっともないカップルが、覚束ない足取りでジェットコースターを降りた。
「僕行きしなに言ったよな! 絶叫系駄目だって! 委員長も苦手だって言ってたじゃん!」
「いやでも一回は乗っておかないとって思って……」
「義務感で乗らなくていいんだよあんなの! ジェットコースターがなくたって僕達は遊園地を満喫出来たハズだろ!」
まさか委員長が真っ先にジェットコースターに直行するとは思っても見なかった。
僕は僕で先週乗ったしもう大丈夫だろ、と高をくくって乗ったんだけど全然大丈夫じゃなくて非常に情けない。
そういえばゆうちゃんはジェットコースターで騒ぎはしたけど、僕や委員長みたいにマジモンの絶叫を上げることはなかった気がする。かわいい系の癖に変なところで図太いというか……。勝彦が乗りたがってるとは言ってたけど、多分アレは普通にゆうちゃんが乗りたかったんだと思う。
「……どうしたの? やっぱりジェットコースターはまずかった?」
ジェットコースターのコーナーを出て、遠目にアトラクションを眺めながら先週のことを思い出していると、不安そうに委員長が顔を覗き込んで来る。
「ごめん、ちょっとぼーっとしてただけだよ」
「思い出してた?」
急に図星をつかれて、僕は思わず動きを止める。いけない、またゆうちゃんのことを考えていた。
委員長の目は鋭く僕を射抜いていたけど、やがて諦めたようにそらされる。その気遣いが申し訳なかったけど、素直にゆうちゃんのことを考えていました、と言えるような度胸が僕にはない。
「それより次、どれ乗ろっか?」
「え、ああ。絶叫系以外にしようぜ。ちょっとゆっくりしたいな」
「そうだね……メリーゴーラウンドとかどう? アレも結構遊園地の定番って感じだし」
「そうだな、アレは義務感で乗っても良いやつだ」
結局、委員長の優しさに甘えてなあなあにしてしまった。何でもなかったみたいに隣で笑う姿を見ていると、どうしようもなく胸が騒ぐ。そんなざわつきを抑えるように無理矢理笑って見せながら、僕は委員長と一緒にメリーゴーラウンドへ向かった。
少し恥ずかしかったけど折角なので、ということで僕と委員長は同じ馬に乗ることになった。委員長を後ろに乗せて、僕らの馬はゆっくりと動き始める。
「……なんか、緊張するね……」
「う、うん……」
……なんか、良いにおいするね……。すごい柔らかいし……。
恐る恐る触れる委員長の手の感触が背中から伝わってくる。生まれてこの方まともに女子に触られたことのない僕なので、この緊張感に正直耐えきれるかどうかわからない。振り返ると、委員長も相当緊張しているのか僕と目が合った途端恥ずかしそうに目をそらしてしまっていた。僕も同時にそらしたけど。
「な、なんか良いな……こういうの、ほら、穏やかだし……あばああってならないし」
あばああってなんだ。
「そ、そうだね……おちっ、落ち着くねっ? あひゃああってならないし」
落ち着いてないしあひゃああってなんだ……。
心臓は異様にうるさいし、体温は上がる一方だったけど、不思議と時間は穏やかに過ぎていく。ゆったりした馬の動きと一緒に、時間の流れまでが穏やかになったかのようにも感じられる。
先週は絶叫系に乗るばっかりで、絶叫系を回り終わった頃にはすっかり冷めていたせいで何も楽しめなかったから、こうしてのんびり出来るのは素直に嬉しい。先週のメリーゴーラウンドはゆうちゃんも僕も別々の馬に乗ってたし、正直一人でぼーっと乗っても特に何も楽しめなかった。
「……こういうのも、悪くないね正助君!」
「――――えっ……?」
突然後ろから聞こえた声に驚いて、僕は思わず振り返る。後ろでは、委員長がキョトンとした表情で僕を見ていた。
「……どうしたの、灰神君」
「あ、ごめん……委員長、今何か言った?」
「……? こういうのも悪くないね灰神君って」
それを聞いた途端、僕は思わず唖然とした。僕は今、何を、誰の声を聞いていた……? 後ろにいるのは委員長で、話していたのも委員長だ。それなのに僕は今、誰の声を聞いていた?
「……そうだな、絶叫系よりはこういうのの方がよっぽど良いや」
僕はそれで動揺をうまく隠したつもりになったけど、委員長がわずかに視線をそらしたのがわかる。
嫌だよな。
デートしてるハズなのに、相手が別の奴のこと考えてるのは。
「……ごめん」
委員長の沈黙に耐え切れず、僕はついそんな言葉を吐き出してしまう。もう何の言い逃れも出来ない、自白したようなものだ。もっとも、言い逃れる気も誤魔化す気も、もう僕にはなかったけれど。
そのまましばらく、委員長は何も言わなかった。作り物の馬だけが、機械に操られて緩慢な動作を繰り返し続ける。厭に動きが遅く、時間が止まったみたいで息苦しい。胸糞の悪さだけが胸の中に残って重い。自己嫌悪で全身をかきむしりたいくらい気分が悪かった。
周囲の笑い声が煩わしい。今すぐこの場から逃げ出して一人になりたいくらいだ。だけど身体は馬に貼り付いたみたいに動かせない。ここから逃げたい一方で、決して逃げてはいけないと頭が理解していた。もうこれ以上、不必要に委員長を傷つけることは許されない。もう既に、許されるべきではないラインまできているようにも思えた。
「……いいよ、謝らないで」
「何でだよ……。僕は――」
「隙間に入り込もうとしたのは、私の方だから」
僕の言葉を遮るようにそう言って、委員長は無理にはにかんで見せる。どう答えて良いのかわからずに戸惑っていると、委員長は不意に上を見上げ始める。それに何の意図があったのか、わかった途端にどうしようもなく悲しくなった。
僕は、最低だ。
そう思ったのと同時に、メリーゴーラウンドは動きを止める。もう、降りる時間だ。
夢から、覚めたような気がした。
まだ日は落ちていなかったけど、僕らはメリーゴーラウンドを最後に遊園地を後にした。お互い会話は素っ気ないもので、僕も委員長も何を話したら良いのかよくわからなくなっていた。
あんなに弾んでいた会話が、今は鉛のように重い。帰りの電車から外を見ると、あの日よりも暗い夕焼けが町を包んでいるのが見える。雲に隠れた夕日の赤みが鈍い。
電車を降りて駅を出て、辺りが薄暗くなって、それでもやっぱり会話はほとんどない。それでも、携帯をつつくようなことだけはしなかった。この沈黙も、重みも、胸糞の悪さも申し訳無さも言いようのない居心地の悪さも、全部僕が飲み込まないといけないものだ。そんなものは何の罪滅ぼしにもならないとわかっていたけど、それでもそこから逃げることだけはしたくないと思う。
「ねえ」
駅を出て、なんとなく互いに帰路についていると委員長が不意に口を開いた。
「もう少し、話さない?」
……もう、彼女に話したいと思えることなんて今はなかったけど、隠せるものももう何一つない。
「……あ、でも門限とかもあるし、私は大丈夫だけど、灰神君の家族が心配するかも知れないから……」
「いや、いいよ。問題ない。もう少し話そう……多分、その方が良い」
僕がそう答えると、委員長はどこか諦めたようにはにかんで見せる。逃げてしまった方が楽なのは、委員長も同じなのかも知れない。
こんな気持ちにさせるくらいなら、最初からこうするべきではなかった。
僕の迂闊で軽率な決断が、意味もなく人を傷つけた。どう償えば良いのかわからないけど、せめてきちんと話はするべきだと思えた。
「そっ……か、そうだね。近くに公園があるし、そこで話そっか」
「……ああ」
委員長の提案にそう頷いて、僕は委員長を追い抜くようにして足早に公園へ向かう。
僕はもう、彼女の隣を歩いてはいけない。
程なくして公園について、僕らは二人並んでベンチに座る。既に公園に人気はなく、ここにいるのは僕と委員長の二人だけだ。
「なんか……難しいね、最初からわかってたことだけど」
何が? と聞き返す間もなく、委員長はそのまま言葉を続ける。
「人の気持ちは、変えられないね」
人の気持ちは変えられない。そんなに簡単には変わらない。どれだけ目をそむけても、見ないようにしても、変わるには沢山の時間が必要なのかも知れない。たかだか一週間かそこらで切り替えられる程、便利には出来ていない。
一年経っても、想い人が死んでも、簡単には変えられない。
「……ごめん、僕は……同じだった。ゆうちゃんと、何にも変わらなかった」
僕が今日、委員長にしてきたことは先週のゆうちゃんと何も変わらない。隣にいる、いてくれる誰かを見ないで、自分に都合の良いものを見つめる。後ろにいるのは委員長だってわかってたのに、僕はその認識を歪めてまでゆうちゃんの声を聞いた。それくらい僕はゆうちゃんを求めていて、ゆうちゃんじゃなきゃ駄目だった。
忘れてしまいたい、もう離れていたい、そう思っていたハズなのに、僕は変わらなかった、変えられなかった。
「言ったでしょ、隙間に入り込んだのは私だって。私がズルをしたんだよ」
「……そんなことないだろ。悪かったのはどう考えても僕だ。あれだけゆうちゃんに言っておきながら、僕は委員長に同じことをしたんだよ」
「うん、そうだね、そうだけど、そうなることくらい、私もわかってたハズなんだけどなぁ」
何かをこらえるような彼女の声音が、耳に痛い。
「私はズルいから、灰神君が向日葵さんと喧嘩したって聞いた時、少し嬉しかった。ずっと密着してた二人の間に隙間が出来たなって思って、そこに入り込めば、灰神君の隣にいられるなって」
「……そんな風に思ってたんだな……」
「思ってたよ。そして今なら、灰神君は向日葵さんから離れようとして、それで……今なら、こっちを見てくれるかなって」
そう、思っていた。僕もきっと、あの時そう思ったんだ。
勝彦が死んで、ゆうちゃんが一人になって。きっと今なら隣にいられる。勝彦がいないなら、僕の方を見てくれるかも知れないって、そう思った。
そうだ、僕は……勝彦が死んだ時、どこかでホッとしていた、喜んでいた。悲しいと思うのと同時に、同じくらいスッキリしていたんだ。
委員長の言葉を通して、僕自身が見えてくるような気がした。
「だけど駄目だね。私じゃ全然、向日葵さんにはかなわなかった」
誤魔化すように笑みをこぼしてから、委員長は小さくため息を吐く。
「付き合わせちゃってごめんね、それと、付き合ってくれてありがとう」
「……お礼を言われるようなことはしてねえよ……。もっと責められるべきなんだ……僕は、謝らなきゃ……」
「失敗しちゃったなぁ。これじゃ、お互い悲しいばっかりだね……ごめんね……」
やっぱり僕は、最低だ。委員長にこんなこと言わせて、こんな思いをさせて。諦められていないなら、忘れられていないなら、きちんと断るべきだったんだ。もう、取り返しはつかないけれど。
「どう謝れば良いのか、どう償えば良いのか、わからない……ごめん……これしか言えないんだ……」
「……いいよ、それだけで。きっとお互い様だから」
そんなことはない、そんなハズはない。そう言いたかったけど、これ以上何を言ったって委員長はお互い様だと言い続けるだろう。僕が今自分を責め続けているように、彼女もきっと、自分を責めている。
「でも、灰神君の口から聞かせてほしいな。私、きちんと踏ん切りをつけたいし」
「……ああ」
「私は多分まだ、諦められないと思うから。きっと、嘘でも言えない」
こんなに想ってくれている人を、僕は今から裏切らないといけない。
きっと委員長と一緒にいた方が楽しいと思う。ゆうちゃんはこの先も変わらないかも知れないし、勝彦を見なくなっても僕を見てくれるとは限らない。僕と一緒にいてくれて、想ってくれる、そんな委員長と一緒にいる方がきっと良い。
だけど、それでも僕はゆうちゃんを見ていた。もう理屈じゃ説明が出来ないくらい、僕はゆうちゃんだけを見ていた。それもいつかは諦められるかも知れない。だけど、そんな半端な気持ちで一緒にいれば委員長が余計に傷つくだけだ。だから、僕が言わなくちゃいけない。
「……ごめん、委員長。僕は委員長と付き合えない……僕は――――」
どうしようもないくらい。
理屈じゃ説明が出来ないくらい。
どこにいても考えてしまうくらい。
「ゆうちゃんのことが、好きだ……」
口にした途端、色んな想いが自覚を伴って脳内を駆け巡る。そうだ、僕は向日葵遊菜がどうしようもなく好きで、振り向いて欲しかった。他の誰かじゃ駄目で、ゆうちゃんじゃないといけなかった。わかっていた、本当はどうするべきだったのかも、わかっていたハズだった。
僕が弱くて、格好悪くて、みっともないから何もしなかった、出来なかった。傍にいられれば良いだなんて詭弁でずっと自分を騙していた。
「……うん、知ってた」
絞り出すような声音でそう言って、彼女はまた上を向く。鼻をすする音が聞こえて、僕は目をそらす。きっと、見て欲しくないと思うから。
「好きって、ミルフィーユみたいだね。少しずつ丁寧に、綺麗に積み重ねていくの」
「……そうかな」
「そうだよ。でも私が重ねたミルフィーユより、灰神君がずっとずっと積み重ねたミルフィーユの方が、大きくて綺麗だった」
「……違うよ。僕のミルフィーユはそんな綺麗なものじゃない。ミルフィーユだなんて言えない、ただのゴミの山だ」
格好悪くて、みっともない、どうしようもないような歪な気持ちだけが、ずっと重なり続けていた。どこにもいけずに澱んだ気持ちだけがずっとずっと沈んで、染み込んで、まるで不純物の塊だ。そんなものを、委員長の気持ちと一緒にしちゃいけない。
「そんなことない。ずっと大切に、積み重ねてきたものは、なんだって綺麗だよ」
「……まいったな、そんな風に考えたことなかったし、まさかそんな風に言われるとは想ってもみなかった」
「だって私嫌だよ、ゴミの山に負けちゃうの」
「それもそうだな」
そんな軽口を言い合って、少しだけ微笑み合った後、委員長はスッと立ち上がる。
「それじゃ、また明後日ね。私実はここのブランコが大好きだから、少し遊んでから帰ろうと思う」
「……そっか。それじゃ、またな」
それだけ告げて、僕は立ち上がると委員長に背を向ける。それから少しだけ歩くと、後ろで地面に膝をつく音が聞こえた。夜風と一緒にすすり泣きが聞こえ始めて、何度も振り向きそうになる。だけどもう、振り返ってはいけない気がする。こんな時に、半端な優しさは人を傷つけてしまうかも知れなかったから。僕にはもう、振り向く権利も、彼女に寄り添う権利もない。僕はそういう選択をしたのだから。
耳を塞がずに歩いている内に、いつの間にか僕の目頭も熱くなり始めていた。
ごめん、委員長。最後まで、名前も呼べなかった。