幽霊になった少女
使い古した懐中電灯で地面を照らして山道を登っていた。
周りには、自動販売機の一つすらもない。空へと伸びる真っ黒な街灯が、十メートル感覚で立っているのだけだ。右手のガードレールの先は高い崖になっていて、無造作に生えた木々が僕を飲み込むかのように散りばめられている。
「どうしてこんなことしなくちゃならないんだ」
襲いかかる恐怖や不安や気だるさなど知らぬ顔で、星々は輝いている。肌を刺す寒さも足に負担をかける緩やかな上り坂も、すべてが煩わしく感じた。
キッパリと考えを露わにできなかったことを後悔していた。もしあの時、上司の言葉に背いていたのならば星を見ることもこの山道を歩くこともなかっただろう。
地面に転がった石を蹴り飛ばして、腹に溜まった怒りを外へと放出した。
「そもそも交番にアイツが来たのが悪いんだ。アイツさえこなければ、こんな目に合う必要もなかった」
大きく舌打ちをして、一人の女を思い浮かべる。その顔が脳裏に過るだけでも腸が煮えくり返るような気持ちになった。
三時ごろ、勤務先の警察署に捜索願が届けられた。
失踪した親族を探して欲しいというもので、依頼を出したのは四十に満たない女だった。やつれきった表情や荒い呼吸から、相当焦っていることが見て取れた。
事が起きたのは三日前。親族が家を飛び出したきり帰ってこなくなったという。いつまで経っても家に帰って来ず、気がかりになって夜通し探し回ったが見つからなかった。他の親族や知り合いにも声かけをして探したが、一向に姿を現すことはなかったらしい。
髪の毛は短く、身長は高い方。左の膝に絆創膏が貼ってあり、口元に痣があるのが特徴だった。
「名前は……ひなた……だったかな」
女から名前を聞いた瞬間、友人の顔が脳裏に過った。持ち込まれた写真も、どことなく似ている部分があった。
写真に映っていた顔はとても整っていた。大きな瞳とはっきりとした鼻筋。あどけなさを感じさせる笑顔は、関わる人に幸せをもたらせることだろう。
「……もしかして、警察の人ですか?」
背後から降りかかった声に身体を震わせる。
一時を過ぎた頃に、山道で人と出会うとは思わなかった。一呼吸置き、早くなった心臓を落ち着けて振り返った。
「あぁ、やっぱり。警察の方ですか」
懐中電灯を向け、声の主に光を照らす。
伸びる影の先には、若い男が一人立っていた。ヘルメットを被り、ダブついたズボンに両手を突っ込んでとこちらを見つめている。
「急に声を掛けてすみません。驚かしてしまいました?」
「全然大丈夫ですよ。僕がぼーっとしていたのが悪いので気にしないでください」
眩しそうに目を細める男から懐中電灯の灯を遠ざける。月のように白い灯は、アスファルトの地面を走った後、右手にそびえるコンクリートに張り付いた。
「どうしたんですかこんな夜遅くに。もしかしてお仕事?」
男はそう言うと壁に寄りかかり、ポケットからライターとタバコを取り出して火をつけた。
白い煙が冷たい空気の中でくらげのように漂っている。
「はい。上司から仕事を任されまして」
男はタバコをもう一本差し出して、「いります?」と聞いた。
「仕事中なので」
左手を小さく振ってと断りを入れる。生まれつき肺が弱かったので、タバコを吸うことは避けていた。
「そちらこそ、工事でもされているんですか?」
「この道をずっとまっすぐに行った場所で、道路整備をしているんです」
「道路整備……ですか」
初めて耳にする話だった。ちょうど一年ほど前にも山の上で工事が行われていたが、また何か問題でも見つかったのだろうか。
「それにしても大変ですね。よりにもよってこんな寒い中でお仕事だなんて」
「ここら辺の冬は日本の中でも特別寒くなりますからね。それでも街の人たちのために頑張るのが僕たち警察の仕事ですから」
胸を張り、右手を額に当てて敬礼のポーズをする。少し胡散臭い動きだったが、男は笑って「ご苦労様です」と言ってくれた。
「……まあでも気をつけてくださいね? いくら噂とは言え、こんな時間ですから」
「噂ですか?」
奇妙なワードに疑問を覚え、首を傾げて聞き返す。男はタバコを口元から離すと、僕の近くに顔を寄せて耳打ちをした。
「……ほら、最近この辺で話題になっているでしょ? 例の幽霊」
意味ありげに話す男の表情を見て、ゴクリと唾を飲む。まさかこの歳になって幽霊など信じてはいなかったが、実際に話を聞くと未だに背筋が凍りつく感覚に襲われてしまう。
「幽霊……?」
動揺を見せないように、少し声を高くして聞き返す。
「これは私も聞いた話だから確かなことではないんですけどね。最近、出るらしいですよ」
「へぇ……」
平静を装いながら、興味なさげに二度頷く。平和を守る警察が、存在すらも定かではない幽霊に怯えている姿を見せるわけにはいかなかった。
「はい。それも本当にここ一週間前くらいからだそうです。見た目とか大きさとか詳しいことは僕もよくわからないんですけどね」
「…………幽霊ですか。それって襲ってきたりはしないんですか?」
「しないらしいです。ただ現れるだけ。話によると、自分が幽霊になったことすらわかっていないとか」
男が口からタバコを離して不敵に笑う。間抜けな怪談話に笑っているのか、意味もなく笑みを浮かべるのが癖なのかはわからない。声に出さずに口元を歪ませる姿は、奇妙だった。
「それじゃあその幽霊に出会っても、僕たちは気づかないかもしれませんね」
気を紛らわせるためふざけた様子でそう言うと、男は首の後ろを掻きながら「そうなんですよね」と言った。
「……でもこの幽霊の恐ろしい所はここからなんです」
男の声音に微妙な変化があった。僕の視界に紛れ込むように、男が顔を向ける。薄っすらとした笑みが崩れた表情は、親戚の不幸を伝える家族に似ている部分があった。
「というと?」
恐る恐る問い、先に続く言葉を連想する。呪いだとか、不幸だとか、死だとか、そう言った不気味な単語ばかりが浮かんだ。
「幽霊に見られた人も幽霊になっちゃうらしいです。病気みたいに伝染するって言えばわかります?」
「……はあ」
理解することはできたが、現実味は一切感じられなかった。死を迎える前に幽霊になったとして、そして当人になった自覚がないとして、その存在は本当に幽霊と言えるのだろうか。
「幽霊になった後は、彷徨ったまま永遠とこの辺りを歩き回るそうなんです。ロボットのように歩き回って、本能的に新しい仲間を探し求める。時たま人を見かけると、突然饒舌になって会話を繰り広げることもあるとか」
タバコを口元に当てて小さく息を吸った後、右手に持っていたコーヒーの空き缶を使って火を消した。
「まあ私も聞いただけなので、どこまで信ぴょう性のある話なのかわかりませんけど」
男は笑顔を取り戻すと、自身の右腕に巻きつけた腕時計に目をやった。
「……すみません、無駄な話で時間を取らせてしまって。お仕事中でしたよね」
「いえ全然。むしろ僕も一人で寂しかったので声を掛けて貰えて嬉しい限りです」
「それでは僕はあっちなので。暗いので怪我とかには気をつけてくださいね」
そう残すと、男は足を踏み出して僕の横を通り過ぎていった。ふらふらとした足取りを見るに、そうとうな量の疲労が溜まっているのだろう。
「……また明日ここに来よう」
男の背中を完全に見届け、踵を返す。ただでさえ気味が悪く静かな場所なのに、あんな話を聞かされた後だとなおさら帰りたくなった。
来た道を蟻のように正確になぞって歩き、山道を下る。一刻も早く山を出たかったので、足並みは徐々に早まっていった。
「…………あれ?」
半分ほど山を下った頃、目の前に一人の少女が蹲っている姿が見えた。少女は手で顔を覆ったまま、鼻をすすりながら「ママ……ママ……」と呟いていた。
「もしかして、君がひなた––––」
口から飛び出そうになった言葉を咄嗟に止め、ギュッと口を結ぶ。口内に溢れかえった唾液をゴクリと一気に飲み込んで、三歩後退さる。
男の言っていた幽霊の話が思い出された。
身体中の毛穴が開き、冷や汗が滝のように流れる。男の話が本当ならば、目を合わせてしまえばこちらも幽霊になってしまう。
「……きっとあの子はひなたちゃんじゃない」
自分に言い聞かせ、蹲る少女を横目に通り過ぎる。その間ずっと、少女は体を動かさないで泣きじゃくっていた。
「……お家、帰りたいよ」
完全にその姿が見えなくなった時、少女の一言が僕の耳に届いた。その一言は重い矢となり良心に突き刺さる。
交番に訪れた女の悔やむ顔が頭にチラつき、家へと向かう足取りを重くした。
もし仮に、あの少女が依頼主の探している親族だったら僕は今後何を思って生きていけばいいのだろうか。普段通りの生活を送りながら、警察としての責務をまっとうできるのだろうか。
「––––––––ねぇ、君がひなたちゃん?」
結局僕は、少女に声を掛けていた。警察としての誇りと、微かに残っていた善意が僕を突き動かしていた。
少女は一言も発することのないまま、真っ赤になった顔をこちらに向けた。写真に映っていた少女とそっくりの顔をしている。証言通り、口元に大きな痣があった。
「……よかった、君がひなたちゃんだね。お母さんが心配していたよ」
ホッとため息を吐きつつ、手を伸ばす。ひなたちゃんは左腕で涙を拭うと、冷え切った小さな手で掴んでゆっくりと立ち上がった。
噂話などに踊らされず、声を掛けてよかった。
そう思いながら肩を支え、小さな背中をさする。不安定だった呼吸が徐々に落ち着きを取り戻した。
「……お家、帰れる?」
僕の顔を覗き込みながらひなたちゃんが問う。
「帰れるよ、今すぐにね」
「本当に?」
「本当だよ。ひなたちゃんのママも心配してたから見つかってよかった」
「そうなんだね。ありがとう、お兄ちゃん」
ひなたちゃんが精一杯の力を込めて僕の左手を握る。僕はそのか弱い手のひらを包み込むように握り返して、ポケットから飴を一粒取り出した。
「ひなたちゃん、お腹空いてるでしょ?」
「……うん」
ひなたちゃんは細い声を発して頷くと、差し出した飴に手を伸した。包み紙を解くと、笑顔で「ありがとう」と言って口の中に放り込んだ。
「大丈夫? もう怖くない?」
「うん。お兄ちゃんのおかげで元気出たよ」
「……そっか。じゃあ、帰ろっか」
グシャグシャになった頭を撫でて、星が瞬く空を再び見上げる。
僕たち二人は街へと続く道に背中を向け、言葉も発さないまま真っ暗な山道を登っていった。
読んでくれてありがとうございまs