水際の華
注意:溺死表現があります。
「人魚だ」
お昼ごはんの後に、海岸でシーグラスを探そうとしたら、うつ伏せに倒れた人魚を見つけた。
最初は魚の下半身が見えなくて、てっきり人間だと思ったけれど。
顔にかかる髪は銀糸のようで、海に浸かったままの鱗は桜貝の色をゆらめかせている。
力なく横たわっている姿は、美術館で見た絵画に似ていた。濡れた肌に砂が張り付いているのを見て、生き物なんだなと思う。
「ねえ、大丈夫……わっ」
近づいてもぴくりともしない彼女に不安になって肩に触れたら、じゅっと湯気を立てて肌が赤く焼け爛れた。
日の光も届かない海中で生きている生き物特有の真白い肌に、傷をつけてしまった。
これは罰だと思った。
断りもなく、ぶしつけに触れてしまったのだから。それも人魚に!
あっという間に赤々とした跡は、消えない傷なっていく。指の腹が触れただけの、小さい赤だ。
よくよく見ないと分からないほどなのに、1級の美術品を粉々に壊してしまった錯覚を覚える。
台無し。そう、この私という人間は、美しい人魚を汚して、台無しにしてしまったのだ。
為す術もなく、じっと見つめていると、人魚は眉間をきゅっと寄せて、静かに目を開けた。
「__?__,___」
「……声が出せないのかな」
はくはくと動く口は言葉を象っているのに、肝心の音が聞こえなかった。
吐息もなく、蠢く口元はあどけなさが残っている。
しかしこちらの言葉は伝わるようで、上半身を起こした人魚は緩く首を振ると、自分の鱗を1枚剥がしたと思うと、こちらに差し出してきた。
「__,_____。__」
小指の爪先ほどの小さな鱗。それでも、飲み込むには恐怖が先立った。
喉に引っかかったら痛そうだなとか、そんなことである。
それでも誘われるままに口に含むと、薄い鱗はパキンと割れたあと、なんの抵抗もなく喉を通っていく。
「どう。これで話せるかしら。それ以外の方法を知らないのよね、呆れるでしょう」
向かいから放たれたソプラノは、耳の奥でじわりと溶けた。
「すごい、通じた!」
「あら、驚かないのね。私を見たことがあって?」
「……本で、何度か」
童話だけど、という言葉を飲み込む。
人魚は気を良くしたように微笑んだが、ふと海の方を見ると、その表情はすぐに消えた。
『いやよ。野暮なことはしないで頂戴。気が済んだら帰るから』
互いに呼応するようにさざめくと、私のつま先まで来ていた波は静かに引いていき、荒立っていた海面は穏やかに空を映す。
「なに、今の」
「波の言葉よ。これが得意で助かったわ。あのままじゃ、私はすぐに戻されてしまうもの」
いくら耳をすましても、私にはざあ、ざあと響くばかりだった。
言葉がわかる鱗に、波の言葉。
魚みたいに、ただ泳いでいるだけじゃないのだろうか。
「貴方のほかにも、人魚はいるの?」
「にんぎょ……?ああ、私たちのことを指してるのね」
一瞬、瞳を揺らめかせた後、合点がいったように頷いた。
「それは観測者だからこその言葉ね。私たちは、わさわざ自分の種族に名前を付けないもの。他のものには付けるけどね、マンボウモドキとか」
「マンボウモドキ?」
「貴方たちのことよ。顔が平たくて、すぐに死ぬんだもの」
なんだか馬鹿にされた気がして、眉根が寄る。
「私たちにはちゃんと人間ていう名前があるんだけど」
「あら、そうなの。他のものを測るに飽き足らず、自分たちのことまで客観視するのね。ふふ、可笑しなこと」
くすくすとあどけなく笑う人魚はどこか妖艶で、首元が熱くなった。人魚ってみんなこんな感じなんだろうか。
「ええと、それで。これからどうするの?帰る?」
「まさか!私は海の外を見たくてここまで来たのよ。尾びれが裂けそうなくらい泳いでね。陸に上がってからは途方に暮れたけれど……貴方が見つけてくれて助かったわ」
なんだか猛烈に嫌な予感がする。
「……つまり?」
「私をしばらく住まわせて頂戴。貴方だって、家に水くらいは溜めてあるでしょう?」
「バスタブのこと?ほとんど私しか使わないし、いいよ」
言ってから口を抑えた。
今、自分はなんて言った?頷いて、歓迎した。
親にバレたらどうする?
もし休みが取れていたら?
「本当!?ありがとう!」
人魚は瞳を輝かせ、左手の甲を差し出した。
「手を貸してくださる?」
指1本とっても美術品のようなたおやかな手に尻込みする。
自分のものとは似ても似つかない白い肌。あの赤がちらついて離れない。
「……手は無理だけど、タオル越しだったら。そっち側を持ってよ」
「なぜ?両手は空っぽでしょう」
「だって火傷するじゃん。……さっき、少し傷つけちゃったし」
「あらほんと」
おずおずと肩を指させば、人魚はそこを一瞥して何でもないように言い放った。
「仕方ないわね。乱暴にしないで頂戴よ」
タオルの端を持ったのを確認して、ぐっと引き上げる。
重い、と思ったのは一瞬で、すぐに軽くなった。人魚が宙に浮いたからだ。
「は……はぁぁぁ!?」
「貴方、そんな大声も出せるのね。まあいいわ、そのまま歩いて。布は離さないでよ、空を泳ぐのは苦手なんだから」
「……もし、離したら?」
「ずうっと上まで浮かんでしまうわ。夜だったら星を掴めるかも」
今の時点で尾びれが斜めに上がっているのだ。嘘ではないと背筋が粟立ち、タオルを握りしめる力が強くなる。
人魚は時折ひれを動かして進むため、私と隣り合わせで泳いでいた。
「そういえば、あなたには名前があるの?種族の名前じゃなくて」
「ルゥサールカよ。貴方は?」
「凪だよ、ルサールカ」
「ルゥサールカ」
「ルウ?ル、ルゥー……」
「まあ、ルースでいいわ。これなら発音できるでしょう?」
「ルース。うん、これだったら」
歌うように紡がれた名前は彼女によく似合っていて、それを正しく発音できないことが悔しかった。
「ナギ。貴方の住処はこの近くなの?」
「ここがそうだよ」
「随分と大きいのね……」
「陸では普通だと思うけど。ルースの家はどんなところなの?」
「大抵は岩の窪みよ。沈んだ船の中だったこともあるけれど」
玄関を開け、浴室まで案内する。道中誰かに見られたかなと思ったが、そのときはそのときだ。
ルースが近くにいるだけで不確定な不安は消えた気がする。
「水の温度とかって分かる?」
「まず塩を持ってきて。真水じゃ死んでしまうわ。ま、ただの言い伝えよ、気にしないで」
「誰から聞いたのかは知らないけど、本当のことだと思うよ」
理科の実験を思い出しながら言った。
ルースにシャワーノズルを握らせてからキッチンに行き、食塩を手に持つ。
海から取れたと謳っているパッケージに初めて感謝した。
「とりあえず小さじ1杯入れたけど、どう?」
「水をもう少し冷たくして。……ん、このくらいね」
ルースは音もなくバスタブに体を浸け、ノズルから手を離す。
ふーっと息を吐きながら両手を前に突き出した。
「海よりずっと狭いけれど、空よりはマシね。進めないったらありゃしないわ」
「人魚が空を飛ぶなんて初めて見た」
「同じ青だもの。泳げるわ」
「そういうものなの?」
「そういうものよ。あと、何か食べるものは無い?疲れちゃって」
「わかめだったら食べられる?ほら、岩とかに生えてる緑の」
「ああ、あれね!主食として食べてるわ。もっとも、貴方の肉でも構わないけれど。……そんな顔しないで、冗談よ」
「お昼はわかめに決定しましたー」
あえて間延びするような声を出して浴室から出る。
視界からルースの姿が消えてからようやく息を吐いた。
蜜を垂らしたような甘く涼やかな声に、こちらを蠱惑するまなざし。
それらを一身に受けて関心の向かない人間などいやしないだろう。
それでも、さきほど確かに感じたのは恐怖だった。
「増えるわかめ取ってこなきゃ……」
先ほどとは対照的にのろのろとキッチンへ向かう。
ボウルに水を張り、わかめを水に戻してゆらゆらと戯れる海藻を眺める。昆布と間違えたかもしれない。
「これで合ってる?」
「上出来よ。それにしても、陸に上げると柔らかくなるのね。初めて知ったわ」
昆布と間違えていた。
わざわざ言わなくてもいいか。美味しく食べているし。
「貴方たちのこと、なんて言ったかしら。マンボウ、じゃなくて……」
「人間」
「そうそれ。私たちのを指す言葉と似ているわね。どうして?在り方は全く違うのに」
「だって私にはひれも鱗もないけれど、手の形は同じでしょ。顔も髪も、そりゃあルースには及ばないでしょうけど、同じつくりだから」
「私、人間に見えるの?」
「お腹から上はね」
ルースは目を見開き、ふと力を緩め泣き笑いのような表情をした。
「ねえ、貴方の肉が食べたいって言ったでしょう。あれはね、迷信の一部よ。人間の肉を食べると、刹那の命を手に入れられる」
「……私も聞いたことあるよ。人魚の肉を食べると、不老不死になれるんだって」
「なあにそれ。お互い無いものねだりじゃない。ああ、貴方が私と同じだったら良いのに。……いいえ。私が、人間だったら良かったのに」
「ルース……」
ルースは心底愛おしそうに私を見つめ、ひたりと頬に手を当てた。
ジュウ、と肉の焼けた音がする。
「っ、何してるの!」
「大丈夫よ。これっぽっちじゃあ、死にはしないもの。貴方って暖かいのね。私には熱すぎるわ」
ゆっくりと離れていった手のひらを見ると、真っ赤に腫れ上がっていた。
肩のものとは比べものにならないほどの痛ましさに、悲鳴をこらえるのが精いっぱいだった。
「タオルを貸して。海に戻らないと」
だから、ルースの言葉を理解するのに時間がかかった。
「今、なんて言ったの」
「海に帰してって言ったのよ。ずっとここに縛り付けるつもり?そりゃあ、陸の文化は楽しかったけどね。住むつもりは毛頭ないわ。私の故郷はあちらだもの」
「……いやだ」
「私、駄々こねが1番嫌いだわ」
先ほどとは打って変わった平坦な声に、怖気づきそうになる。
「ルースだって戻りたくないんでしょ。さっき初めて言ったのは、戻らないとっていう言葉だった。戻りたい、じゃなかった」
「それがなんだって言うの?言葉尻を取って私の感情を決めつけるのはやめて。お望みなら言ってあげるわ。私は海に戻りたい。故郷に帰して」
私を貫く双眸は燃えるように冷たく、その奥までは読み取れなかった。
「……わかった」
海岸まで引き連れると、ルースは呆気なく手を離して海に滑り出す。
「じゃあね。楽しかったけれど、二度と会わないことを祈るわ」
彼女は返事を待たずに顔を前に向けると、勢いよく泳いでいった。
嫌われた。あの美しい人魚に、声をかけるのも許されなかった。
水浸しになった家の廊下を見て、涙が零れた。
『ルゥサールカはご機嫌斜め』
『あらどうして?』
『だって人間がいないもの』
『ほんとだ。××××なのに』
『××××なのに』
くすくす。くすくす。
出来たての渦潮が、銀のあぶくが、私を見て笑っている。
泡の言葉で放たれた単語は、私の種族を表す学術的用語もしくは蔑称だろうが、上手く聞き取れずに終わった。
船乗りを惑わせる魅了を持っているのに。
獲物1人も連れ込めないなんて。
可哀想なルゥサールカ!
「……嫌だわ」
私は私が嫌い。体質のせいで、愛したくても愛せない。
手を引くことも、海水を作ることも、頼めばなんでもやってくれる。1番欲しいものはくれないくせに。
でもいい気味!帰りたいと言ったとき、凪は首を横に振った。
あの顔が見れるんだったら、ここに沈めなくて上々よ。陽の光も差し込まない海底じゃあ、あの子の瞳は閉じられたまま。
だから永遠なんていらないわ。ひとときの感情が欲しいだけ。
『帰らないでよ、ルース』
「つまんない」
ばしゃんと尾びれを強く叩きつけても、空しさは消えてなくならかった。
ルースが居なくなってから、ずっと考えていた。
1日に海を眺める時間が多くなった。
一歩間違えれば、ずるりと海に引きずり込まれる感覚を覚える。
それもいいかもしれない。泳いで、潜って、今度は自分が逢いに行くのだ。笑いかけてくれなくても、もう一度あなたの瞳に映ることができたら。
ぱしゃん、と靴底が浅瀬に浸かる。
「だめ」
透明な水の冷たさが、足元から駆け上がって脳に到達した。
夢うつつだった思考がクリアになり、足を岩場に引き上げる。
ざあ、ざあと響く海の音が、体内の血流と混じり合い、二重奏を奏で始めた。
「わたし、は、エラ呼吸もできないし、ルースより先に死ぬし、そもそも人間だし、人魚じゃないし、波の言葉とか意味わかんな、」
でも、人魚の言葉は話せる。
急に喉が干上がった気がした。
ひゅ、と乾いた空気を取り込む。
喉が閉まる。腹の底から何かが蠢く。
思わず片手で口を塞いだ。
「あ、Aa___!r____、__」
乾いた肌にぞっとする。胴を覆う布が気持ち悪い。
桜色の鱗をまとい、銀色を濡らすあの子が欲しい。
どうか、どうか。あの瞳で私を見て。
海に飛び込もうと泡にはならず、さりとて生きるには難く。
身体は本能に従い、陸に上がろうとする。それを心は許さない。
きりりと冷えた水に肌を刺されようと、激しい潮流に揉まれようと、病的なまでに焦がれた熱は落ち着くことを知らなかった。
揺蕩う黒髪に、弛緩した青白い肢体を見て、桜色の人魚は呟く。
「馬鹿ね。だから言ったのよ。二度と会いたくなかったわ」
ぽかり、と浮かんだ水泡は、波に飲まれて流れていった。