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迷えるものに

作者: 南澤久佳

聖書をきちんと読んだことがない。修学旅行で泊まった沖縄のホテルの備え付けの机の引き出しに入っていたのを見たのが、最初で最後だったと思う。


スニーカーを脱いで、紙でできたぺらっぺらのスリッパに履き替え、着替えの入った荷物を二つ並べたベッドの上に放り投げて、同室である彼と、じゃあ、こっちが俺であっちがお前、と決め込んでどっさり横たわったあと、彼がすっと立ち上がり、それを取り出した。


「聖書?」

「そう」


どこのホテルにも置いてあるんだよ。

彼は、澄んだよく通る声でそう言った。ベッドに沈んでいた上半身を起こして、どうして?と僕は問うた。

長い指先でページを繰りながら、彼は聖書に目を落とす。真っ黒なハードカバーに金の文字。

白いワイシャツの襟元まできっちりとボタンをはめた彼に、よく似合っていた。

「迷える子羊のために」

なんだよそれ、吹き出して、僕はまたベッドに転がった。


次に、それについてちょっとした知識を手に入れたのは、青年漫画の謎本の解説だった。ひとりの青年が怪物のように恐ろしい殺人事件を次々と引き起こす、そんなストーリー。最終巻と、気づいていなかったのだけれど、カバー表紙にずっと書かれている英文が、聖書の一節だったらしい。

”怪物には七つの頭があり、王冠を頂き、その冠には、神を侮蔑する言葉が書かれている。”

なんのことはない、それは、結局のところ、その時に敵対していた国の王様のことを揶揄していたという、そういう話だった。

宗教なんか、くだらない。

迷える子羊をさらに惑わす悪魔がいるのだとしたら、それこそが宗教で、神様だ。

学生らしい青臭い正義感と、大人の言うことになんてだまされないぞ、という斜に構えた姿勢とがないまぜになった幼い思考で、そう結論づけていた。


次にそれにお目にかかったのは、とっくの昔に学生という職を失いさらに直近で食っていくための職を失い、自宅近くの公園でぼんやりしていた時だった。小奇麗なような、それでいてどこか古臭くてかび臭いような、不思議な出で立ちのおばちゃん二人組に声をかけられた。マウンテンバイクに乗って颯爽と俺の前に現れた。ごっついヘルメットをかぶっていたのを覚えている。

おばちゃんが差し出したのは、週刊誌くらいのサイズのパンフレットと、黒のハードカバーに金色の文字。

「神様のお話をしに来ました」

ああ、とうとう、俺も迷える子羊になっちまった。

自嘲しつつも、職もなく、貯金もなく、彼女もいなければ、仕送りを頼めるほど両親にもゆとりがない、そんな状態の自分に話を聞いてくれるなら、誰でもいい、それは神様だと、騙されてもいいと思えた。

神様のお話、をしばらく聞くと、近くにある集会所に行きましょう、と誘われた。ふらりと立ち上がった時、後頭部に鈍痛。

「いっ・・・」

痛い?

体に痛みが走ったことに気がつくまで、三秒くらいかかったと思う。

「なにやってんだ」

懐かしい声に驚いて振り返れば、そこにも、黒のハードカバーと金の文字。

「聖書は、そんな風に使うものではありませんよ」

小奇麗な格好にごっついメットの不思議なおばちゃんが眉をひそめて、俺の背後を伺う。

「これは、迷える子羊を正しい道へと導くために使うものです。あなた方のその、素敵な自転車やお化粧品や指輪を買うためのものではありませんよ」

俺の背後に立つ、きっちりと襟元までボタンをしめた、スーツの男に言われるまで、俺は、おばちゃんたちが身につけた宝飾品に気が付いてはいなかった。


懐かしい声、懐かしい出で立ちの男は、俺の頭を小突いた聖書を右手に、左手に俺の手首を掴んで、さっそうと公園から走り去っていった。

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