エピローグ
男児の歓声の後に、舞い上がる水しぶき。南国の強い日差しを乱反射させて、素晴らしいエメラルドグリーンの海面に舞い落ちる。イトバヤット島は、相変わらずゆっくりとした時間の流れの中にあった。ギリーネットを掛けて停泊させたまま、朽ちるに任せたずる賢いキツネ号は子どもたちの格好の遊び場になっており、歓声は甲板から飛び込んだ男児が上げたものだった。甲板から大勢の子どもたちが上げる歓声に包まれて、目を細めて海面を眺める馬頭もすっかり老いている。頭はすっかり禿げ上がっているが、偉丈夫さは相変わらずで丸太のような腕に六歳ぐらいの女児がキャッキャ言いながらぶら下がっている。足元に置いたクーラーボックスから、キンキンに冷えたサンミゲルを一瓶取り出すと、豪快に煽ってニヤリと笑った。
「おじいちゃーん!みてみてー!」
歓声の方向を馬頭が見ると、甲板の縁に立った先程の女児が手を上げている。海面まで数メートルある不安定な甲板に立つ女児は声こそはしゃいでいるが、顔は恐怖で引きつっている。女児なりに恐怖をごまかすため、馬頭に声を掛けたのだろう。馬頭はクラウディアと四人の子を儲け、既に三人の孫もできた。済州島四・三事件で、命を守るためとは言え、何十人もの人の命を奪ってきた男とは思えない、穏やかな笑顔で女児の声に手を振って応える。意を決しこわばった顔で飛び込んだ女児が、満面に笑みを浮かべて海面にぴょこりと出した顔を見て馬頭は少しホッとした表情を浮かべた。
「おーい!そろそろ昼だ!浜に戻るぞぉ!」
馬頭の叫び声に素直に従い浜に向かって泳ぎだす子どもたち。海面を元気に泳ぐ子どもたちの数を数えてから、馬頭もクーラーボックスを頭上に掲げて海に飛び込む。クーラーボックスを浮気代わりにして、子どもたちの後ろからパチャパチャと着いていく馬頭。水面に浮かぶ子どもたちの小さい頭を目を細めて見守りながら泳ぐ馬頭。まるでカルガモ親子の行進のようだ。
全員無事に浜に上がると、焚き火に向かって駆け出す子どもたち。あの事件から既に数十年が経っていた。死んでいく島民も多かった。島にも一度MP達が捜査に訪れたが、接岸前に気がついた朱と健太に促され、ジャングルに身を潜めるだけでドルンはやり過ごすことができた。その日の晩、思いつめた顔の健太と菊千代に、朱は相談を受けた。ノラとドルンを連れて、一度日本に帰ってきたいという話であった。健太はノラを両親達に引き合わせたいと言う。それとドルンがここにいても災いの種にしかならないから、日本に連れていき血契三家に匿ってもらうのはどうだろうか。という話であった。菊千代の話は、血を混ぜたいという話であった。不死の体になって、血契三家に身を寄せようと思うということだった。朱が血を混ぜることについてどう考えているか問うと、この島での生活をする朱と健太を見てきて、体が変わっても取り巻く人々で幸せや不幸はどうとでもなるのだと、思うようになった。と菊千代は話した。既に永劫の時間を過ごすことになってはいるのだし、周りの人間に降りかかる不幸を少しでも拭えればと考えるようになったという。朱は少し考えると、まぁそうだなと一言つぶやくと、菊千代に血を与えた。
健太、ノラ、菊千代、ドルンを乗せて出ていった鬼神丸は半年ほどで、イトバヤット島に戻ってきた。四人の来訪を、血契三家の人々はひどく喜び、三家の敷地の中心に祠を立てた。大層な祠で、内部には生活ができる設備もあった。菊千代とドルンは祠で暮らし、三家の人々を見守り暮らしていくということになった。命を永らえた健太であったが、母親はやはり子の幸せを思い悩む日々を過ごしていたのだという。そんな息子がいきなり戻ってきたら、褐色肌を持つの明るい娘を連れてきて、結婚すると言い出した。連れてきた娘から完璧な日本語で挨拶をされて、健太の両親は二度驚いた。行きの航海だけでノラは、日本語をすっかり習得していたのだ。ノラは素直で明るく、よく笑う娘であった。少なくとも、我が子は永劫の孤独を一人ぼっちで過ごすことにはならなくなった。ということを知り、母親は涙を流して喜んだ。当然、両親に健太は、もう少しもう少しと、強く引き止められた。せめて祠が完成するまでと言われ、祠での菊千代たちとしばらく過ごし生活を見届けた後で、健太とノラは日本を後にした。
そしてなんと、フランクまでもが島で結婚をした。村の学校の子どもたちの学習への意欲は旺盛で、将来大学へ進める子供も沢山出てきそうな程であったため、ある程度教育カリキュラムの同期も考えようと、英語を教えている教会に通ううち、英語教師としてマニラから来ていたアメリカ人女性と結ばれたのだ。今は二女を儲け妻と一緒に幸せに、教会で暮らしながら教師をしている。
浜ではノラとクラウディアが火をおこして、子どもたちを待っていた。浜焼きした魚介をおかずにして、塩むすびを子どもたちに食べさせている。木製のビーチチェアでくつろぎながら、子どもたちの旺盛な食欲を眺める朱。均整の取れた美しい四肢をチェアに預けて大きく伸びをする朱。時間の流れがゆっくりなイトバヤット島の、一層ゆっくりとした時間を楽しんでいるかのようであった。永劫の時間を憎んでいる気持ちは、今の朱からは微塵も感じられない。
「のう、健太よ。」
「ん?なんだい?」
子どもたちに食べさせる魚介を摂るため、潜ってきた健太は日に晒して乾かした肌に、浴衣を羽織りながら振り向いた。
「わしらも世界の平和だのと大層なことを並べて若狭の浜を出港して四十年。結局なにもせんかったし、何もできんかったのぉ。」
朱は自嘲気味の微笑みを浮かべてそう言った。
「まぁ。いいんじゃねえの?」
健太の答えを反芻するかのように、たっぷりとした時間を掛けてから朱は言った。
「そうじゃの。」
後半に入り、三日に一話!とか脳内で掲げていた目標はどんどんと長引き、一ヶ月ぶりに更新。みたいな状態にも陥りましたが、なんとか完結することができました。この四、五年、世界の情勢は目まぐるしく変わり、いつ戦争が起こってもおかしくない時代になりました。自治体どころか、国家がゆらぎかねないレベルで人間の営みは歪になっている気がします。幼い頃に、平井和正ウルフガイシリーズにはまり、自分が犬神明のちからがあったら、今すぐ世界の独裁者を殺しに行くのにな。なんて思っていたこともありました。しかし、年齢を重ね、今の時代を見ていると、朱の不死の力をもってしても、世界は変えられない。という結末になった事に、変わりつつある自分を鏡で写し見たような思いを感じています。今までお付き合い下りありがとうございました。




