逃亡
<ヤベェヤベェヤベェヤベェ!>パニックに陥った体は、脱力し思うように動けない。まるで溶いた片栗粉の中を動いているようだ。後頭部がチリチリと灼けるように痺れる。焦っては、かえって命を落とすと自分に言い聞かせるが、ままならない。なんとか操舵室に潜り込むと、八つ当たりするかのようにザッカーは伝声管に向かって叫んだ。
「まだか!ドルン!マジでやべえって!エンビーは死んだ!多分MPに射殺された!俺たちもやべえ!逃げないと全部が水の泡だ!」
・・・ザッカーは、船首に据えられた重機の防弾板に背を預け、左右の縁にそれぞれ両足を乗せたお気に入りの姿勢で、ラッキーストライクをくゆらせていた。止まれという高圧的な叫びが聞こえ、体を起こし港を見ると街から桟橋に入るT字路に丁度、男が入ってきたところだった。男はエンビーだった。ザッカーに雇われて、隠し倉庫の管理をさせていた、フィリピン人のチンピラだ。エンビーはザッカーを認めると、白い歯を出して笑った。途端にエビ反った姿勢で数十センチ前へ跳ぶ。照明によりオレンジ色に光るコンクリートに黒い穢れが数点散った。飛び散ったエンビーの血だ。着地したまま数歩惰性で駆けると、そのまま海に落ちた。ザッカーは、咄嗟に甲板に身を伏せる。いま、えんびー、うたれたよな?回らない頭で、状況を飲み込む努力をする。少し考えて、普通に振る舞い、操舵室に戻ることにした。暗い港だ、このずる賢いキツネ号を特定するのには時間がかかる。すっとぼけて防波堤を抜けちまえば、この船の船足は速い。暗闇に乗じてどこかの島へ身を隠してから、ゆっくり考えよう。そう決めたザッカーは船の点検をしているかのような演技を必死に行いながら、ぎくしゃくと操舵室に潜り込んだのだった。・・・
「そんな急かすな!焦れば命を縮めるぞ!なんだ何があった?」
やっとドルンからの答えが、伝声管を通して流れてきた。
「のんびりやってる場合じゃねぇ!MPがもうそこまで来てんだよ!」
「まじか!で。どうすんだ?」
「MPがこの船に当たりをつけてるかどうかは、まだ判らねぇ。すっとぼけて港を抜けて逃げるしかねぇ。機関が始動したら、上に上がってきて、周り見てくれ!」
「おぉ、判った!さてエンジン始動!っと。」
ザッカーのケツの下から、ディーゼル特有の振動が伝わってきた。ずる賢いキツネ号は、闇に紛れてそろそろと桟橋を離れていった。
開校から三週間が過ぎ、朱たちも、子供達もだいぶ馴染んできた。初級クラスの健太は、島の言葉で絵本を読み聞かせて、同じ意味の英文を教えながら、子供達から笑いを取れるまでに成長していた。そんな健太をうっとりと眺めるノラ。イトヤバットの人々は何百年もの間、自然に寄り添って行きてきた。だから、男はオスに近く、女はメスに近い感覚を持っていると言えるだろう。イトヤバットの女達にとって、魅力的な男とは、体が大きい、力が強い、深く潜れる、漁が上手い。などと言った生きながらえる。に直結する能力だった。だから、自分より幼そうで体の小さい健太はノラにとって、対象外。であった。ところが一月ほど一緒に過ごしていくうちに、健太が絶えず周りに気を配り、大人びた振る舞いで幼い子らの争いをまとめて、あっという間に島の言葉を覚え、そつなく効率的に幼い子らに英語を教えていっている。十日ほど前にやっと立って歩けるようになった小さい子が、危なっかしい足取りで、床に座ってアルファベットを教える健太の後ろを横切ったとき、よろけてしまった。しかし健太は、こともなげに、子供が机に頭をぶつける寸前に、ふわりと子供の胸に、後ろ手を差し出して子供を受け止めた。そしてゆっくりと振り返ると、子供に優しく笑いかけ、大丈夫?と聞いたのだ。その輝くような笑顔を見た瞬間、ノラはやられてしまった。稲妻に打たれたように健太に恋してしまったのだった。その日を境にノラは豹変した。木の陰に隠れ、ヤシの木に登り、壁に耳を当て、あらゆる角度から、様々な手法を使い、健太の動向を覗った。恋敵を危惧しての行動であった。三日を費やしてライバルがいないことに満足したノラは、島の人間に向かって根回しを始めた。まずは初級クラスの子供達に、私は健太と結婚すると宣言をした。英語が遅れていて初級に回されたノラだったので、初級の生徒はみな一桁歳。ぽかんとした反応にノラは強く不満を感じた。乙女心を癒やすために、同年代の女子たちに同じことを伝えた。男子に伝えなかったのは、彼らはまだ子供だからだ。つべこべ言われるとイラッとするし。彼女たちはキャーキャーと大騒ぎをしてくれて、ノラの乙女心を充分に満足させた。彼女たちの耳に入ったということは、島の大人たちに伝わるのも時間の問題だ。下手な誤解を買うとこじれてしまう。ノラは迅速に父親と、親戚づきあいをしているホセ叔父さんに、ノラの恋心を打ち明けた。サンタ・ルチアの村では神扱いの健太に対し、不遜な言動は発せられない。父もホセも、健太は神なのだから、決して失礼な振る舞いをしてはならないと、態度を硬くした。ノラは毅然と立ち上がると、空に向かって強い視線を放ちながら演説を始める。
「そうよ!そう!健太は神だわ!そしてそう!サンタ・ルチア学校の教師!私と一緒の初級クラスのね!初級クラスはまだしゃべれない子もいる。おむつが取れていない子もいるのよ!神である健太におむつ交換をさせられる?そんな罰当たりなことはできないわ!幼い子はしょっちゅう喧嘩もするのよ。そう!そしておむつ交換や喧嘩をまとめているのは私!私は初級クラスの有能な助手よ!そして健太も、そんな頼りになる私に愛を感じるのに時間は掛からなかったわ!自然な成り行きというのかしら。私の友達もみんな応援してくれているのよ。全く、問題ないわ!」
と、ノラに嘘八百を並べられ、村長もホセも反対する意思を失ってしまって、言葉を飲み込んだ。そしてその足でリビエラに報告に行く。リビエラはガハハと笑い、ノラの背中をパァンと叩いた。
万全の根回しを終えたノラは、翌日の授業開始から示威行動に移った。初級クラスのスペースは小さい子もいるので、集会場の奥の一番広いスペースを取っている。マニラで買ってきた道具を使って馬頭と菊千代が作った、地べたに座って使う三人用の長机を三つ並べてあって、横に畳三枚分ほどの空きスペースを作ってある。子供が積み木遊びをしたり、寝そべって絵を書いたり、おむつ替えにも使う、多目的スペースだ。朝一番で、三つの机に相対して座った健太が朝の挨拶をし、読み書きができる子は長机について、健太と挨拶を交わす。それから授業がスタートだ。挨拶のための声を出すタイミングで、健太は困惑した表情を横に向けた。健太に身を寄せるようにして、ノラが健太の真横にちょこんと座っていたからだった。




